黒犬が少女を見つけた話
──一目だけでも。
肋も脚骨も浮き出た黒犬は、気力のみで立ち上がり歩いていた。時折マグル──人間たちにひどく汚いゴミでも見るように避けられながら、麻痺こそしようが、衰えはしていなかった頭脳と記憶を引っ張り出してその家を探す。
確か──プリベット通り、とリリーは言っていた筈だ。リリーの姉が嫁いだマグルの家があるのは。ジェームズの宝物たちはそこに預けられている。
きっと溢れんばかりに可愛がられていることだろう。ハリーもマリアも、赤ん坊の頃から光るように愛らしい子供だった。きっと──きっと──愛に身も心も肥やして────
黒犬は目の前の光景を信じられずにいた。なんだあの手首は。痩けた頬は。子供らしからぬ荒んだ瞳は。
リリー譲りの緑目は怒りに爛々としていた。ジェームズ譲りのハシバミの瞳は疲れきっていた。あんなものを──十三の子供がするのか。
愛されていたのではなかったのか。身も心も守るために魔法界から遠ざけたのではないのか。
愛されるべき子供たちであるのに。なにものからも守られるべき宝物であるのに。──それをもっとも与えてやれるジェームズとリリーは、もういないのに。
なぜだどうしてだと黒犬は立ちすくんだ。
なんのために、おれは。
「マリア?」
まったく似てない双子の男の子のほうがうかがうように片割れを呼んだことで、黒犬は少女が自身を見ていることに気が付いた。
黒犬は尻尾を丸めて、耳だってへたり込ませて情けなくしり込みしていた。少女の瞳がたまらなく懐かしい記憶を思い起こさせて、ディメンターに貪られ続けた心をかき混ぜた。
──なんだい、パッドフット。捨てられた犬みたいな目をしちゃってさ。ああ、君は犬になれるんだから間違ってはないのか。暇ならハリーの相手でもしてくれるかい? 君の名付け子だろう? 君だってあの日からこの子たちの父親なんだからね。
笑うのだ。声が。冗談を交えて。君は親になったのだと。そのくせ、ハリーが俺に特になついているとわかれば大人げなく実親の権限を振るってくる。そんな、ありふれた日常。──幸せの象徴だった。
少女の瞳は──なるほど、残酷だ。こんなにも心を生き返らせようする。これ以上凍ってしまわないようにと捨てたあたたかさを呼び起こしてしまう。
──許されるだろうか。少し、ほんの少しだけ、近付いても。
あと少し、側で子供たちを──息子を、娘を、見つめても。
君は、なにも守れなかった俺が君の宝物に触れることを許してくれるか────ジェームズ。
黒犬は恐々と姿を現した。緑の瞳は驚愕と恐れに開き、ハシバミの瞳は──懐かしく愛しいものでも見るように細められた。
そっくりだと、黒犬は思わずにはいられなかった。
「こんばんは。──あなたも迷子ですか?」
少女のままごとみたいな問いに、黒犬はふと、すべてが腑に落ちた心地になった。
そうか──俺はずっと、迷子だったのか。
ハリーがヘビと話せるなんてとんでもない情報に度肝を抜きつつ、頭上で軽快にされる双子の会話に体温が戻っていくのを感じる。久々に人間用の味付けがされたチキンにありつけたのも大きいだろう。
子供たちの会話から察するに、どうやら特にお転婆でジェームズ似なのは娘のマリアのほうらしく、途中マリアを叱りつけたハリーの迫力がジェームズを叱るリリーそのもので黒犬は思わず耳を立てて驚いてしまった。
なんてことだ。完全に性別を逆転させたミニチュアポッター夫妻じゃないか。娘は父に、息子は母に似ると聞くが、これほどとは。
遠慮のないマリアと思慮深そうなハリーに撫でられながら、黒犬はつかの間の幸福を噛み締めていた。チキンごと。
「君のご飯にするんだよ。僕らなら大丈夫。両親がびっくりするくらいお金を残してくれたんだ。二人でも使いきれるかわからないよ」
袋に詰められた食料らしきものを置いて、男の子のハリーよりも男らしいマリアの哀れな野良犬への慈悲に再びじわりと目頭が熱くなる。
そうだろう、そうだろうとも。ジェームズもリリーも、君たちに残せるものはすべて残してきたのだ。君たちの幸福だけを祈って。……だというのに。ああ。
黒犬へと別れのキスを済ませた少女がナイトバスを呼び出す。子供二人で乗り込む様を黒犬は見守っていた。
ほんの少しだったはずの欲は心地よい愛に際限なく膨らみ、今や成長した──十三歳にしては男の子のハリーですら小柄すぎるが。まったく、信じられない!──子供たちへの愛しさに、再びの別れが身を切られるようにつらかった。
復讐を果たすため、死を覚悟してホグワーツへ忍び込む計画はあるけれど──その時、己は二度とこの子たちの前には現れないだろう。
黒犬の決意はどこまでも独り善がりで痛々しかった。まさかそれを当のマリアに「そんなことより側にいろ」と泣いて乞われてしまうなどと、この時の黒犬は思いもしなかった。
日持ちのよい缶詰や干物、青春の証であったハニーデュークスのお菓子を貪りながら、黒犬は少しだけ泣いた。
ああ、我が友、兄弟、プロングズ────君が目標にしていた娘からのキスは俺がもらってしまったが、どうか恨んでくれるなよ。
***
親愛なる協力者──もとい、協力猫と共に現れた少女に黒犬は愕然とした。
「こんにちは、迷子の黒犬さん。チキン、持ってきたんだけど食べるよね?」
少女はまるで警戒を知らず、大広間からくすねてきたらしい皿と料理を黒犬の側へと置いた。興味深そうに潰れた鼻をひくつかせる猫を優しく抱き上げて、君は食べちゃダメだよ。なんて諭していた。
黒犬はわけがわからなかった。この猫が連れてきてしまったのだろうか。己の存在は内密にと聞かせていたはずなのに。
「大丈夫だよ、君のことは誰も知らない」
黒犬の混乱に答えるように、少女はサンドウィッチを頬張りながら告げた。
「僕とクルックシャンクス以外はね。あ、クルックシャンクスってこの子のことだよ。かしこくてすばらしい猫でしょう?」
自慢げにクルックシャンクスを撫でながら、黒犬へと食べないのかと促す少女に、黒犬は戸惑いつつも皿へと鼻を押し付けた。……玉ねぎがあるじゃないか。犬猫に玉ねぎは危険だとこの子は知らないらしい。
少女は返事などなくとも楽しげに話を続けた。まるで黒犬が言葉を理解していることを知っているようだった。クルックシャンクスから聞き出したと笑う様が悪戯盛りだったジェームズにそっくりで、黒犬は心が浮き立つと共にジェームズの遺伝子に頭を抱えたくなった。その心境は完全に悪戯小僧を持つ親のものだった。
瞳だけならまだしも、なんてものを娘に譲ってしまったんだ、プロングズ。この様子じゃあ、夜中に城を抜け出して徘徊なんて、すでにたんまりやらかしてる顔だぞ。ホグズミードに許可なくお忍びで行ったり、こそこそ怪しい親友の後をつけて秘密を暴いてしまったり──
黒犬は緩む口をマッシュポテトに突っ込むことによって抑えた。親友の名残を少女の中に見つけるたび、飛び上がって喜んでしまいそうだった。ハリーがシーカーを勝ち取った話では、とうとう髭がそわついた。
「だから、ええと、なんだったかな。……ああ、そう。話し相手がいなくてさびしいんだ。ロンはハリーに付き添ってるし、ハーマイオニーは勉強に忙しいし、セドリックは他寮で狙ったようには会えないし、ドラコは──」
少女の口から飛び出す男の名前の多さに、ここはモテにモテていた(そしてジェームズが牽制しまくっていた)リリーに似たのだなと安堵と共に複雑になった黒犬は、犬らしく鼻を少女の手へと擦り付けた。
お前を寂しがらせる男なんぞお前から捨ててしまえ。リリーの容姿をもってすれば選り取りみどりだろう。黒犬の心境は、娘に手を出す不埒な輩を選定したがる父親そのものだった。
──まさか、『寂しがらせる男』筆頭が自分だとは露にも思わず、黒犬は不器用に少女を慰めた。
「君に、会いたいんだ」
洗浄魔法によって清められた毛をゆるりと撫でられる。
「……ねえ、抱きしめていい?」
黒犬は自ら少女の腕の下へと潜り込んだ。膝に顎を乗せて、その先で丸くなっていた共犯の猫を見る。
首元を抱かれたり、耳をかかれたりしながら、黒犬はぬるい日射しと少女の体温に触れて思った。
この瞳が泣くところは──この子が悲しむのは、見たくないな。
少女は翌日もその翌日も食事を持ってやって来た。ほとんど毎日であった。天候の悪化や用事なんかで来られない日には、クルックシャンクスがおつかいよろしく食料の入った袋を咥えて、瓶ブラシの尻尾を振って黒犬を構いに来た。おかげさまで、黒犬は地獄を抜けて以来の快適さを覚えていた。──人間に戻れないことを除いて。人間に戻ったが最後、徘徊する『奴ら』に黒犬の自我は喰われてしまうだろう。
今日も少女は朗らかにランチタイムを黒犬と共にする。少女の話題はもっぱら双子の兄弟のことで、いかに少女が弟──彼女いわく、どちらが上でも構わないのだが面白いので姉と主張している、とのこと。まったく、つくづくジェームズの子だ──を愛しているのかがわかった。たった二人残された家族だ。互いがもっとも大切な存在となるのは必然的だった。
しかし。
黒犬──実質、子供たちの親となるべきだった男は危惧していた。
この子たちは危うい。
初めは、少女の弟への愛情に依存傾向を見ていた。だがしかし、認識はやがて改められた。──ハリーだ。ハリーのほうが、きっとギリギリのバランスにいる。
ほんの少し、なにかのきっかけがあれば脆く崩れてしまうもので彼らは成り立っている。おそろしく──いびつで完璧だ。
皮肉にもそれは、教師として在籍するかつての親友リーマスが少女に覚えたものと同じだった。
彼女は、彼は、似すぎている。両親に。──大切なもののためなら命だって差し出してしまえる、ジェームズとリリーに。
この子たちは────互いのために死ねてしまう。
黒犬として見守ることを知った男は──今になって後悔した。あの日、子供たちを無理にでも連れ出さなかった自分に。
俺は今までなにをしていたんだ。十二年──十二年の時間で愛する子供たちはこんなにも歪んでしまった。十二年もあれば──与えてやれるものは山ほどあったのに。
黒犬は明日だって向けてくれるだろう少女の無邪気な笑みが切なくてならなかった。
***
黒犬は激しく興奮していた。心地のよい高揚感であった。この歓声! この声援! 雨風なんて興奮しきりの野性の前にはまったく関係なかった。
まさか因縁の相手がホグワーツで教鞭を取っているだとか、同僚にかつての親友の一人までいるだとか、先ほど少女より与えられた情報は今だけはまるきり頭から消え失せていた。ついでに、少女の隣を当たり前の顔で陣取るいけすかない男そっくりの子供のことも意図的に忘れた。
なんたって自慢の名付け子の晴れ舞台だ。実際の天気は稀に見る大嵐だが。
名付け子の飛行センスに心の中だけでとびきりの賛辞を送り、妨害するスリザリン選手には心からのブーイングを送り、黒犬は一言も声に出さず大忙しだった。ほんとうなら雷にだって負けない遠吠えがしたいところだ。その瞬間に、遠慮なんて存在しない少女の手が飛んでくることは請け合いだが。
そして、試合が泥仕合へと差し掛かった時────黒犬は、シリウスは、親友を見た。
プロングズ。
我が子に寄り添って銀の牡鹿が闇を払う。気絶してしまった我が子を気遣わしげに見ている。
すべてが慈愛に包まれていた。絵画のように美しい光景だった。
あれはプロングズだ────
シリウスは銀の輝きから目をそらせなかった。喪った親友がそこにいた。──彼の娘が、彼を喚び戻したのだ。
ジェームズはマリアの中に生きていた。