金曜日。とうとうこの日がやってきた。──スリザリンとの合同魔法薬学の時間だ。
兄貴から聞いたんだけど、スネイプって奴は贔屓をするんだ──そうげっそりした顔でぼやくロンと共に、ハグリッドからお茶の誘いの手紙を受け取って最近やっと子供らしい膨らみになってきたほっぺを赤くするハリーを微笑ましく眺める。手紙には『親愛なるハリー、マリア(お前さんのことだから勿論そこにいるな?)』とあったので、手紙はハリー宛だったが僕も遠慮なくお茶会についていくことにした。
「──ハリー・ポッター。我らが新しいスターだね」
放課後に控えるハグリッドとの約束のおかげでご機嫌だったハリーは、そしてスネイプ先生の一言により極寒へと冷え込んだ。その人の、ハグリッド作・糖蜜ヌガーよりもねっとりとした悪意の声に、小さな弟はすっかり震え上がっていた。ああ、まあ、うん……こればっかりはね……。
隣であんまりにも怯えたふうにハリーが硬直するので、ここ何度かと同じように机の下でその手を握っておく。かわいそうなハリーの様子に、教室の中央からきれいに分かれた緑と赤の、スリザリン側の席からクスクスと嫌な笑い声が聞こえてきたが、誰が主犯というわけではないらしかった。──前はマルフォイが筆頭だったのに。
そのドラコは我関せず顔でそっぽを向いていた。
なるほど。さてはあいつめ、これからはどっち付かずのスタイルでやっていくつもりか。
そんなドラコの作戦は効果覿面だったようで、ロンは元から親の影響によりマルフォイと敵対した態度を取っていたが、ハリーもショックを隠しきれず困惑の表情でドラコを見ていた。察するに──『どうして止めてくれないんだろう。友達なのに』辺りか。
これでもマシなんだよ、なにも知らない
スネイプ先生の聞きようによってはポエミーな演説を、虚無感に浸りながらぼんやり聞き流す。すると、ほんの一瞬──その人と目があったような気がした。
それは、咄嗟に気のせいだと思うくらいには一瞬で、既に完璧にそらされてしまったけれど、思えばマリアになってから初めてのことだった。
ああ、声だけで、仕草だけであんなにもムカついてしかたなかったのに──あなたの声を再び聞ける幸福が、痛い。苦しくて、笑ってしまいそうだ。
「ポッター!」
「「はい」」
先生からの突然の指名に、兄弟揃って声を上げる。
「……ミスターポッターの方だ」
「……はい」
この段階のハリーにその人への好印象なんてものが抱けるはずもなく、厄介なのに目をつけられたと実に苦々しそうな弟の声に隣で吹き出すのを堪える。
すごーくわかるよ、ハリー。僕も通ってきた道だもの。後でその鬱憤、スネイプ・いびられ熟練者の僕が聞いてやろうね。
さて、それにしても初っぱなからなんだろう。その顔が気に食わないからグリフィンドール減点! とか? 冗談じゃなく本当にやってくるからなあ、この根暗野郎。もしくは不快な声を聞かせたので減点! とか。……それは、ちょっと、かなり、面白いかも。
スネイプ先生がこちらを見ないことを逆手に、口元を頬杖で隠しつつ対峙する二人を見上げる。そして。
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか」
「あす……?」
こいつは今何語を話したんだ? そんな顔をしているハリーに、ああー! と、絞り出した記憶と共に項垂れた。
そうだった! スネイプってば、何も知らないってわかってるくせして『僕』に一年生じゃない範囲の問題を出してきて! ずるいったらない!
今ならわかる。机に出していた通信紙──一番近くにあったのだから仕方ない──に答えを書いて、ハリーのローブの袖を引く。
「……い、いけるしかばねの、みずぐすり? です。……あ、眠り薬です!」
つたなすぎてカンニングしたことが丸わかりのお間抜けな解答だったが、まあ、答えられただけよしとしよう。次はなんだったっけ……確か、ええと……。
「では、ベゾアール石を見つけてこいと言われたら、どこを探すかね」
「…………山羊の、胃の中です」
「モンクスフードとウルフスベーンのちがいは」
「ありません。どちらもトリカブトです」
「…………よろしい。ミスポッターはよく予習をしてきたようだ。諸君、なにをしている、さっさとノートに取らんか!」
次にスネイプ先生の不機嫌の矛先にされてはかなわないと慌てて周りがペンを握るのを感じ取りつつ、ハリーとバレバレだったねと小さく笑い合う。ハリーが前を向いたところで、通信紙には『説明が雑だ。ちゃんと覚えておけ』なんて神経質なお叱りが浮かんでいた。それに、ほら見ろ、こういうところが君はママなんだと隠れて笑って──
黒々としたトンネルのような瞳が、僕を見ている気がした。
授業はとっても簡単な──例にもれずマリアとドラコと、ひょっとしたらハーマイオニーにとっても──おできを治す薬の調合だった。
相変わらず細かい作業を得意としていない僕だけれど、まぁこのくらいはとハリーとペアを組んで無難に仕上げたところで、突然、隣の席から幼い絶叫と共に強烈な緑の煙が上がった。みなまで見ずともわかる。こたびもネビルが何事かやらかしたらしい。
ああ、懐かしいな、このかんじ。あの丸顔のおっちょこちょいがそのうち先生と呼ばれるようになるんだから。ネビルは決してスクイブじゃないんだ。
「マリア! ほけほけしてちゃダメだよ!」
大惨事の現場だというのに和んでいる片割れに、じれったそうにハリーがその手を取る。しかしハリーの過保護を他所に、こぼれたネビル失敗作の毒薬は僕の元へとたどり着く前にスネイプ先生の杖の一振りによって消え失せた。
「おおかた、大鍋を火から降ろさぬうちに山嵐の針を入れたのでしょうな? ウィーズリー、ロングボトムを癒務室へ。──さて、ポッター?」
「「はい」」
「……兄の方だ」
「私が姉です」
「……弟の方」
「僕が兄です!」
「やかましい! ポッター姉、ポッター兄! これでいいかね!?」
「「はい」」
眠っていてもそこにありそうな怒りジワを深く深く刻んで、スネイプ先生はハリーを睨んだ。──ハリーだけを睨んでいた。
「何故、ロングボトムを止めなかった? 彼が失敗すれば自分がよく見えると思ったのかね? え?」
「ハリーに他を見ている余裕はありませんでした。もちろん、私にも。初心者ですもの。おわかりでしょう?」
「……君は、はじめてにしては迷いなく調合していたようにお見受けしたがね」
「見てたんですか?」
「…………」
ほんとうに? だって、今だって僕の方なんかチラリともしないで、熱心にハリーを見てるのに? ハリーの手元ばかり確認していたのに?
──本当は、僕のことも見ていてくれた?
「……ポッター、君たちの無礼な態度からグリフィンドール二点減点」
それだけを吐き捨てて、スネイプ先生は呆気なく壇上へと戻ってしまった。僕はその背中を、ただ目で追うしかできなかった。
スネイプ先生は振り返らなかった。──決して
真っ暗になっていく僕の目の前を繋いだのは、片手に込められた片割れの体温だけだった。
***
お茶会の為ハグリッドの元へ向かおうとするハリーとロンに、用を思い出したからと途中で別れ、道を引き返す。
「──スネイプ先生。よろしいでしょうか」
案の定ノックに返答がなかったので問答無用で魔法薬学準備室を開いてみれば、スネイプ先生は扉に背を向けた状態でなにやら机上の鍋をいじっていた。
「質問かね。ミスポッター」
「人と話す時は相手を見るのがマナーではありませんか」
「……なるほど、まだ減点され足りないと見える」
「先生」
嫌味は健在だというのにそれでも振り返らないスネイプ先生に、ならばとこちらも無礼に切り出す。
「ハリーが嫌いですか」
「授業内容以外の質問は控えていただきたいものだね、ミスポッター。この時間がいかに貴重で、」
「では、私のことは?」
「ミスポッター……我輩は、君は頭に何もつまってない弟とは、ほんの少しくらいは違うと評価していたのだが?」
「先生、こっちを見てください」
「黙れと言っているのがわからんかね、ミス──」
「僕はマリアです!」
「──貴様の名など知らんッ!!」
埃臭いべっとりとした髪が大きく振れ、鉤鼻と共に強烈な感情のこもった瞳がマリアに向いた。ようやく正面から見られた色は──真っ黒だ。
「────」
そしてそれは呆気なく逸らされる。ああ、知っている。僕はこの顔を知っている。──どいつもこいつも、後悔に痛む人たちの顔。
「僕は、マリアです。マリア・ポッター。誰がなんと言おうと、誰に似ていようと、ジェームズとリリーの子のマリアだ。…………失礼します」
失望感を胸に抱いたまま男に背を向けると、今度は彼のほうから視線を感じた。──ここで振り返ったところで、あなたはまた、目をそらすくせに。
「あなたと同じように僕を見た人を知っています」
錆びた重苦しい扉に手をかける。開いた途端、地下の冷たさが足元から這い上がってくる。
「──ペチュニア・エヴァンズ」
閉める間際のそれが貴方に届いたかどうかなんて、もう、どうだってよかった。
***
「玉砕したみたいだな」
「そう見えるならそうなんだろうね」
地下を上がったそこで、城壁に背をつけキザったらしく僕を待っていた待ち人へと投げやりに返す。
月が明るい。肺まで届く空気がやわらかい。うそみたいに、地上の夜はやさしく僕を迎え入れてくれた。
───いまだ地下にしがみつくあの人の温度とは、大違いだ。
「今ならまだ夕食に間に合うが?」
「気分じゃない」
「だろうな」
慰めるでもなくただ隣を歩く彼の距離感が心地よかった。
「僕、なんでマリアなんだろうって、考えたことがある。マリア・ポッター……答えは簡単だ。すぐにわかった。考え込む必要すらなかった。──母親がリリーで、娘がマリア。ほら、よくある話だ」
「…………」
「母から連想された名前だ」
なんて安直なのだろう。リリーだけを見つめて付けられた名前──とっても、『らしい』じゃないか。
「君の杖を貸してくれる?」
「……それが君のためになるのか?」
「うん」
頷くと、ドラコは躊躇うことなく僕の手に自身の杖を乗せた。
「────ディフィンド」
「なっ──!?」
背中の中ほどまで伸びていた赤毛が床へと散らばる。首元に爽やかな風が通る。シルフの祝福のようだ。
「君、なにを────」
「決めたんだ」
杖を振って、地面に咲いていた赤い花を消しさる。
「セブルス・スネイプを──救う」
何も守れなかったと、いつまでも声もなく嘆くあの人の目を────変えてみせる。
悪夢だった。
少女は、セブルス・スネイプにとって罪を突きつける悪夢そのものだった。
マクゴナガルがその名を呼んだ瞬間、体に流れる血のすべてが凍った心地になった。
子供の後ろ姿はおそろしいくらいに彼女そのもので。憎い男の生き写しの兄弟の世話を見ている姿も苦々しいほどにそっくりで。
──マリアと。ハリー・ポッターが呼ぶたびに耳を塞ぎたくなった。
マリア。
ああ、君は、どうしてその名をつけたのだ。──リリー。
残酷で甘い声が脳裏に刻まれる。罪の人、セブルス・スネイプを切り刻む。
──セブ! 聞いて! ご近所さんにね、赤ちゃんが生まれたの! とってもかわいくて……こんなに小さいのに、わたしの指を掴んでね、ちっとも放さないの!
──わたしもいつか誰かと結婚して、その人とのこどもを生むのかしら。ママって呼ばれるの。チュニーはおばさんよ! あっ……おばさんはチュニー、嫌がるかしら……。
ねえ、セブ。──あなたなら、どんな名前をつける?
間抜けで夢見がちで愚かな少年は、答えた。
いやだ、わたしのこどもの話じゃないわよ。あなたが我が子に名付けるなら、てこと。
……でも、それって素敵ね。わたし、ママがわたしたちにつけたみたいにお花の名前にしようと思ってたんだけど──素敵。
マリア──素敵な名前だわ────
リリー・エヴァンズとセブルス・スネイプの友情は、最期のその時までついぞ回復することはなかった。すべて、愚かな男の自業自得だ。──それなのに、何故。
ふと、額の傷をおさえた兄弟を介抱していた少女の目がスネイプへと向けられた。
「────」
ハシバミ色の瞳は、すべての憎しみを込めて男を睨んでいた。
最愛の妻を奪われた男の目が──奪った男を見ていた。
たえられなかった。咄嗟にクィレルへ顔を向けて、ハシバミの瞳から逃れた。
セブルス・スネイプはこの日──彼女に殺される自分を、願った。