月もすっかり昇りきった夜だった。
「こんばんは、ハリー」
バランスを崩せばたちまち奈落の底へと繋がる橋の上で、その人は月明かりを受けながら飄々と立っていた。くしゃくしゃの黒髪にハシバミ色の瞳──ジェームズ・ポッターだ。ドラコが梟から預かったと、僕に彼からの手紙を手渡したのがきっかけだった。中には場所の指定と簡素な呼び出し文。ドラコはしぶったが、透明マントをかぶる僕を止めはしなかった。
「ドラコ・マルフォイは連れてこなかったの?」
「……どうして」
ジェームズの指に挟まれて、折りたたまれた羊皮紙が揺れる。忍びの地図だ。なるほど、忍びの地図は透明マントも、ポリジュース薬の偽装をも見抜く。だが、しかし──それは地図に認知されているならばの話だ。
ハーマイオニーとタイムターナーで時間逆行をした際には、未来のマリアとハーマイオニーは地図に表れなかった。となると──やはり僕はここに『僕』として存在しているのだろうか。
「ふーん、やっぱりこれを知ってるのか。ポッターだとかマルフォイだとか、なんの冗談かと思ったけど──」
ジェームズが指だけで僕を誘う。ためらった。こわかった。父親に──僕は愛ではなく暴力を与えられたのだ。
僕は父さんを知らない。だけど──二度、死したあなたに会った。ヴォルデモートと対峙する時、あなたは僕のことを鼻が高いと──最期の最後まで側にいてくれると、そう微笑んだ。タイムターナーで息子を追った時、赤ん坊の僕を優しくあやしてくれていた。──『父』のあなたしか僕は知らなかった。
そして今、目の前にいるのは、スネイプ先生の記憶にある悪童ジェームズ・ポッターだ。僕の父さんではない。母であることを知らないリリー・エヴァンズが、ジェームズ・ポッターとリリー・エヴァンズの子をおぞましいと叩き付けたように──このジェームズ・ポッターにとって僕の存在は薄気味悪いナニカでしかないのだ。
「ハリー、おいで。大丈夫だから」
父さんが呼んでいる。
「ハリー」
ジェームズが呼んでいる。
「ハリー──お父さんのところにおいで」
僕は飛び出していた。ジェームズは僕を受け止めた。元々くしゃくしゃの、父さん譲りの髪をさらにくしゃくしゃに混ぜて、僕の背中にしっかりと腕を回して──首を撫でた。
「エピスキー」
咄嗟に体を固くした僕に、父さんは眉を下げて微笑んでいた。
「……なーんて。気持ちだけ、ね。怪我になるほど絞めてはいないつもりなんだけど。──心の方はそうもいかないか」
ポン、ポン。子供にするみたいに背を叩かれる。父の胸板は心地よかった。──心臓が動いている。生きている。
「──どうして?」
「さあ、どうしてだろう。状況とか、エヴァンズの反応とか……君のあの時の顔とか、そういう不粋な推理もあるけどね──そんな気がしちゃったんだ」
両腕で抱えられる。同じ年で、同じ背丈で、違うところなんて彼のほうが鼻がちょっと高いくらいで──それなのに、僕は囲う腕から脱け出せなかった。どうあってもこの人は──僕の父さんなんだ。
「君のお父さんの話を聞かせてくれる?」
抱かれたまま、少し背を反らせば共に谷へと行ける橋の欄干に腰掛ける。いっそう月が明るく見えた。
「……僕、知らないんです。父さんも、母さんも。誰かは知ってるけど──ちっとも、一緒にいられなかった」
「……なるほどね」
ジェームズは静かにうなずいた。
「でも、色んな人が教えてくれた。ハグリッド、マクゴナガル先生、名付け親、父さんの親友──母さんの姉。みんな、両親は勇敢な人だと言いました。ちょっと悪戯が過ぎることもあったけど──人気者で、誰からも愛されていたと」
「それはそれは」
「──だけど」
思い出す。先ほどの少年ではない。真っ黒のローブで、暗くて痛々しい瞳をしていて、死ぬべき時を見誤り育ちすぎてしまったコウモリのような──愛に生かされ愛に蝕まれたその人を。
「傲慢だと。彼は言いました。お前は外見もそっくりであれば中身も父そっくりだと。父親と同じく傲慢で英雄気取りだと。──あの人だけが、僕を否定してくれた」
お前は英雄なんかではない──ただの傲慢な子供なのだと。
「ジェームズ・ポッター。あなたの行いは──将来の子供に誇れますか? もしも我が子がそれを知ったとして──失望するとは思わないんですか。ずっとヒーローだった父が──心のよすがであった両親の残酷な姿を見て──」
「どう思った?」
「……軽蔑、した。最低だ。幻滅だ。父さんはずっとかっこいい人だと思ってた。みんなそう言ったから。でも──ちがった。あんな──あんな卑怯なことを平気でするんだ!」
すがる。今、言わなければ届かない。僕の父さんは──死んでるんだ。
「人を虐げて楽しむんだ! 僕のことを苛めて楽しんでたダドリーみたいに! ゲーム感覚で人を傷付ける! ほんとうに母さんが好きなの? それすらもわかんないよ。あんなの見たくなかった!」
胸を叩く。ジェームズはまるで場違いなほど優しく僕の背を撫でていた。
「──それで? 今のハリーはお父さんとお母さんのことをどう思ってるんだい?」
喉が震えて、呼吸の仕方を忘れてしまったような心地だった。
「──大好き、だよ。どんな人だったとしても──僕の両親なんだ。理想ばかりで偶像化してるだけだとしても──僕は僕を誇ってくれたあなたたちを、僕を命を懸けて守ってくれた人たちを誇りたい。だから」
「──はっきり言ってさ、」
手は絶え間なく背に添えながら、ジェームズは額を突き合わせて拗ねるように笑った。子供っぽい笑みだった。
「僕、今、十四歳なんだよね。友達とバカやってるのが楽しいし、大人の自分なんてまったく想像できない。子供とか論外。どんな仕事に就いてるかとかどんな生活を送ってるかとか、夢よりも不確かな空想でしかないわけだ」
「……はい」
「君も十四歳なんだろ? 将来の子のこと、今から考えられる?」
僕は知っている。ジェームズ。アルバス。リリー。愛する我が子たちのことを。──なぜなら、中身は十四歳でないからだ。
だが、真実子供であった頃は自分の面倒に精一杯で、そんなことは思い付く発想すらなかった。ジニーのお腹の中に赤ん坊がいると知らされて、はじめて自分が父親になることを自覚したのだ。
この人は──子供だ。
「……いいえ」
うつむく。子供の父を責めるのは筋違いだ。けれど。だけれど。それならば。──憎む男を重ねられ、あの人に散々つらく当たられた幼い僕の心はどうすればいい。元凶であり父であるあなた以外の誰に──この悔しさをぶつければいい。
「──だけど」
くしゃっと。前髪をかき上げられた。父の目に稲妻の傷がさらされた。
「それは知らなければ、の話だ。いざ、自分の子がいるかもしれない、なんて……ウン、こんなにはっきり突き付けられちゃうとね──そうだな、君のお父さんは、少しくらいは後悔してるかもね?」
思わず吹き出していた。茶化しやで、負けず嫌いで、お調子者で──僕の思っていた通りの人だ。
「もっと聞かせてくれる? ……恨み言はほどほどで」
「はい、僕の父さんの話──ジェームズに聞いてほしいんだ」
さやかな月明かりの下で──僕は子供の父と子供のように語り更けた。
「ジェームズ・シリウス・ポッターだって」
門外不出の家宝である透明マントに消えてしまった自分そっくりの客人を想う。
彼が歩んできた軌跡については一切わからずじまいであった。彼の両親がなぜ彼と共にあれなかったのか。彼はなぜ見た目と本来の年齢がそぐわないのか。そもそも、なぜこの時代にいるのか。それを彼は語らなかった。(もっとも、後半はハリー自身もわからないのである。)
だが──あの、額の呪い。そして不穏さを増していく世情。──おのずと答えは見えてくる。
ジェームズの胸にはかつてない愛しさが溢れていた。きっとこれから──彼女にだってこの気持ちを向けるようになるのだろう。
どうせついてきていると予測して、親友に向かって笑いながら呟く。
「ハリーには子供が三人いるんだって」
「……つまり、お前の?」
「そういうことになるかな。世の中、なにが起こるかわからないね」
やはり濡れるような黒髪の美貌の少年はジェームズ・ポッターともう一人のポッターの密会を監視していた。その杖は常にハリーに向けられていた。──再び、向けられる日が来るかはわからない。
「──シリウス。僕の言いたいこと、わかるね」
「ああ」
月光によって一本一本が絹のように輝く黒髪を流して、シリウス・ブラックは挑発的に笑った。誰が見ても野性的で美しく、ゾクゾクする顔だった。美形は得だな。ジェームズはこっそりひがんだ。
「それにしても……長男がジェームズ・シリウスってのは最高だが、次男はなんなんだ。なんだってそうなる」
「アルバス・セブルス──どちらも偉大な恩師から取ったそうだけど?」
「恩師ィ? 未来の俺はなにを……いや、ン。大体予想はつくけどよ」
せっかくの上品な顔も粗雑な仕草で台無し──となることはなく、上から下まで女の子が黄色い声をあげる色男は嘆息した。
ジェームズ・ポッターは愛嬌たっぷりにつり上がった目を細めた。月のように瞳はあやしい光を放っていた。
「──スニベルスを口止めしなくちゃね」
親が我が子を守るのは、当然の正義なのだから。