クリスマス休暇を目前にしてホグワーツは浮き足立っていた。
大雪に見舞われた翌朝には決まって校庭で雪合戦が始まった。
各寮の談話室や大広間は念入りに飾りつけが為され、クリスマス・シーズンの到来をこれでもかと言う程に演出する。
必要の部屋もまた例外ではない。暖炉の上に可愛らしいクリスマスツリーが置かれていた。
日曜日の午前中、防衛協会も今年度最後となる集会を迎えていた。
季節感の欠如した黒いロングワンピース姿でキザハシ教授が暖炉前に立つ。
背後で揺らめく暖炉の炎が細長いシルエットの影法師を床に投影している。
影法師と大差ない教授があの節張った杖を手にした。
「さ、順番に始めましょうか」
ハリーとハーマイオニーは驚いて顔を見合わせた。
まさか防衛術教授が直々に模擬戦の相手をするとは思っていなかったのだ。
「本気で言ってます?」
一番付き合いの長いらしい薊が口を挟んだ。
掴み所がない相手だけに内心、皆がホッとした。
「服従の呪文は使いませんよ」
何気ない調子でサラりと物騒な事を宣う。
肩の力を抜ききった自然体で言うものだから、理解が送れた。
相当の美人だがネジの飛び具合はマッド・アイの同類だ。
薊の口が大きく歪んだ。最早言うに及ばず。教え子さえ呆れ果てている。
「お好きな呪文をどうぞ。三発で仕留めてご覧なさい」
実技試験はごくシンプルなものだった。
三発以内に教授へ呪文を命中させる事。たったそれだけである。
真っ先にアンジェリーナ・ジョンソンが名乗りを挙げた。フレッドとジョージがすかさず応援の歓声を挙げる。
「合図はナシで良いんです?」
「もちろん。闇の魔法使いは警告などしてくれま――
言い終わるより先に放たれた『失神呪文』は杖で軽々と軌道を逸らされた。
続け様の二発も同じく正確無比な狙いだったが、やはり命中させられずだった。
呪文が壁に当たって弾けた火花の激しさからも相当の威力に違いない。教授はほっそりとした腕の一本で苦もなく対処してのける。
「消耗していますね。集中は結構ですが精神力頼りは避けるように」
僅かに滲んだ汗を指摘されてアンジェリーナは肩をすくめた。
「ですが不意打ちは素晴らしい。先制攻撃こそ基本です」
大広間での実演授業でも同様の事を言っていた。ネビルやアーニーは生真面目に頷き、教授の言葉を羊皮紙に書き留めている。コリンやデニスはあまりの鮮やかさに口を開け放って呆然とした。アンジェリーナは囃し立てる双子の兄弟へバトンを投げて観客へ戻った。
フレッドとジョージは示し合わせる事なく完璧に同じタイミングで『武装解除呪文』と『衝撃呪文』を次々と撃った。教授は合計六発の呪文に対して『盾の呪文』を使って対応する。半透明の防護壁が全ての攻撃を無力化してしまった。
「手厳しいなあ先生」
「本職相手にゃ甘かったか」
「『盾の呪文』を使えない相手であれば十分に効果的です。失敗の理由は敵の戦闘力を過小評価した点でしょう」
冗談めかして肩を落とす双子にも教授は笑わなかった。
几帳面と言うべきなのだろうか。複雑怪奇な人間性に幻惑しているのも束の間、模擬戦は次々と順番が巡る。そもそも狙いを外す場面も何度かあったが呪文自体を失敗した生徒は一人もいなかった。教授は課題点を必ず挙げたが同時に必ず一つ良い部分も言及し、おかげでネビルも過度に落ち込まずこの数ヶ月で培った自信を損なわず済んだ。
五年生から下の学年はむしろ呪文の精度で上級生に優っていた。
徹底的に魔法理論を叩き込む今年の防衛術の成果だ。
クリービー兄弟やカロー姉妹も講評を受け取り、全員の実技試験が無事に終わる。
程良く緊張した雰囲気が弛む瞬間を見計らい、教授は空の左手でハリーを示しながら「最後はより実戦を意識してやってみましょう」と言った。突然の提案である。
サプライズのつもりだと直感した。ユーモアが無いでは無いのだ。
ハーマイオニーとロンが応援の眼差しを送って来た。どんな歓声よりも心強いけれど、ハリーの目はしきりにダフネの姿を探していた。その視線に気づいて小さくガッツポーズを見せてくれたのが、何よりも闘争心を燃え上がらせたのだった。
腰のベルトに差した杖を引き抜いて教授と向かい合う。
乳白色の肌が黒ずくめのせいで不気味に浮き上がる。
キザハシ教授は愉快げに笑みながら杖を構えた。
「手加減は不要です。全力を尽くしてください」
「では、お言葉に甘えて」
ハリーは言い終えるより早く『武装解除呪文』を放ち、すぐに左へ走った。理論的な思考が導き出した行動ではない。ただ直感的に相手の意表を突く行動として思いついたに過ぎない。杖が赤い閃光を受け流すタイミングでさらに同じ呪文を仕掛けた。
これなら『盾の呪文』は間に合わない。二発目が命中すると誰もが確信を抱き、だが見事に裏切られた。
教授は防護壁を展開せず『引き寄せ呪文』でロンが愛用している四角いクッションを盾代わりにした。呪文の直撃でクッションは跡形なもなく弾け飛び、中に詰められていた真っ白な羽毛が部屋中に飛び散った。視界を遮る羽毛を無視して放った三発目は予定調和と言わんばかりに『呪いそらし』で払い除けられた。
引き裂かれてボロ布と化したクッションカバーを『修復呪文』で元通りにしつつ、教授は「お見事です」と第一声を放った。
「意識外からの攻撃を意識すべし。初撃の優位を敢えて捨てながら相手の意識を誘引し、異なる射線からの本命弾を撃ち込む。三本ある矢に甘える事なく二本で完全に仕留めるという計算も称賛に値します」
曰く、残弾があるという認識は油断を生むらしい。
ハリーは無意識に
「考えてやった訳じゃありません。もちろん防衛術の授業で教わった事は覚えてます、けどさっきのは全部直感に従っただけなんです」
「であれば、それは戦士の才覚でしょう。天賦の才こそ磨き上げたとき最も輝くものです」
淡々と言われては尚困る。教授がそうした心の機微に鋭敏であろうハズもなく、袖に杖を仕舞い込んで全員を見渡した。防衛協会のメンバーは向かい合うハリーとキザハシ教授を囲むように半円形に並んでいた。
「皆さん学生として非常に高水準であると感じます。差し当たり私の個人指導は必要ないでしょう。来学期からはより高難易度な呪文……例えば『守護霊呪文』や『盾の呪文』の習得を目指すのが良いかと思います。私からの講評は以上です」
キザハシ教授は最後まで笑わず仕舞いだった。
冷淡な無表情のまま挨拶を済ませるのかと思いきや、
「……今学期はお疲れ様でした」
それはそれは慈愛に満ちた、美しい笑顔を見せた。
動じずにいるのは薊だけである。慣れきっている。
またすぐに元の無感情を取り戻すと足早に必要の部屋を去って行った。
残されたみんなも互いに「メリークリスマス」と言い合いながら、各自で解散していく。
菫は暖炉前に一人佇んでじっと炎を見つめている。
背後から聞こえる話し声を遥か遠くからに感じた。
冬休みの過ごし方を自慢し合っているのだ。同性たちのやる事だが、菫には何が楽しいのか理解に苦しむ。別荘には別荘の、スキー場にはスキー場の
冬休みが待ち遠しい。この騒々しさから逃れたい。
孤独な背中――と言っても、長い黒髪に覆われていて実際には見えないのだが――へラベンダーが大声で呼び掛けた。
「スミレは冬休み予定があるの? 大したモノじゃなさそうだけど」
余計な一言を忘れず付け加え、何がおかしいのかクスクスと小刻みに肩を揺らして笑った。底意地の悪さから菫を敬遠している同級生たちも、普段であれば適当に聞き流しているラベンダーの厭味が愉快なあまり笑顔を見せた。
無反応なのが気に食わずラベンダーはさらに言い放った。
「フランスに行かなくたって良い棺桶があるわ。オーシャンビューらしいから貴女も気に入るんじゃない? アズカバンって言うのよ」
やはり菫は反応を示さなかった。ラベンダーも再び無視されたのが少々気に食わない。大股で近寄り後ろから菫の痩せた肩を掴んだ。
「聞こえてるんでしょう? 返事ぐらいしたらどうなの、吸血鬼だって言葉が通じる事ぐらい知ってるのよ。それとも吸血鬼になるとみいんな礼儀を忘れたりするワケ?」
骨太な体格のラベンダーに並ばれると華奢さが更に目立つ。
身長差も大きく開いた菫だったが、背を向けたまま僅かに首だけで振り返った。
暖炉による色濃い影の中で鮮血を思わせる赤い瞳が光った。人間離れした――当然、吸血鬼は人間でないのだから当然だが、燃え滾る怒りの密度が桁外れだった。
「お前の血からは腐乱臭がする」
ネクタイを掴み耳元を顔の高さまで引き寄せる。力任せにされたラベンダーの小さな悲鳴は口と鼻を覆う冷たい手に掻き消された。寒さばかりを感じさせる吐息とともに囁きかけて菫は口元に薄く笑みを浮かべた。
「耐え難い悪臭だ。よくそれで人間を名乗れる」
覆い被せた右手に力を籠める。エラの張った骨格と奥歯の硬質な感触が指先へ伝わる。
顎関節が軋む寸前の絶妙な握力に留めつつ笑みを引っ込めた。
「吼え癖を改めろ。次は
最後通牒を叩きつけてラベンダーを解放する。
時間を割くだけ浪費でしかない。構うだけ損だ。
溜息交じりの女子グループを無視し、菫は無言のまま必要の部屋を出た。
入口の側ではマイダスが直立不動で廊下を見張っている。
椿の香油が漂わせるアロマですぐさま深々と頭を垂れた。手入れされていない総髪がばさりと揺れた。
「管理人の警邏は及んでおりません我が師よ。ピーブスめの気配もなく」
「そうですか。それは結構……ですが、面白くありませんね」
「と、仰いますと。情報の秘匿は最優先事項かと存じますが」
「そちらではなくて、生徒の愚かさがですよ」
自分への挑発によって会話の主導権を掌握しようとしたラベンダーも、マクラーゲンやザカリアスやセオドールのように傍若無人なラベンダーが痛めつけられるのを期待した他の女子たちも、全てが不愉快だった。親しい仲間内で冗談を言い合うのとは訳が違う。気に食わないなら直接伝えれば済むのだ。
敢えて通りすがりの野良犬のような扱いをされた。
そうでなくとも度し難い連中だが、いよいよ我慢の限界だった。
心中を察してかマイダスは沈痛な面持ちを浮かべた。
「無秩序が蒙昧を生み出しているのです。絶対的な規律を敷く者がおらねば」
一切の反論なく賛成出来た。混沌の坩堝であるホグワーツだからこそ奔放さが許容される。これを是正し、秩序という『檻』をもたらす事でいくらか状況を改善出来るだろう。
だが生徒の大半は魔法省と高等尋問官の名による束縛に強く反発している。
監督生でさえ教育令違反者の通報義務を放棄し、教育改革に逆らっている。
そして高等尋問官自身もまた保身を図り、コーネリウス・ファッジの失脚に備え敢えて不服従を黙認する事でダンブルドアとハリー・ポッターへの圧力形成を遅滞させている。
つまるところ、この状況に憤激しているのはファッジと菫だけなのだ。
アンブリッジすら職務を遂行すれば失点になると気づき、サボタージュに走った。
そうなるよう唆したのだが。予想以上に思い切りが良かった。良すぎるくらいだ。
「その絶対的な規律と言うのも誰かが看板役をしないといけないのでしょう?」
「無論、私としては師こそ相応しいと愚考します。貴女様こそ来るべき新秩序の領導者でなくては」
「泥をかぶる役目は他の誰かに任せたいところです。どうせファッジが失脚すればアンブリッジも城を追われるのですし」
「名声と人望、そして権力を欲する者となりますと……やはりスリザリンの中から選別するのが良いでしょう。候補は幾人かおります」
「もうすぐ冬休みです。とりあえずは人選だけ進めましょう。姉さんたちには私から今夜にも伝えておきます……防衛協会のモチベーション向上にもなりますしね」
新秩序などと言われても菫にはピンと来ない。
好き放題で自制心のない連中を躾けたいだけなのだ。
この見るからに不健康な上級生が何を望んでいようと、構わなかった。アンブリッジを懐柔したいまやコーネリウス・ファッジへ干渉する事すら可能となった。
魔法省の権威を回復不能なまでに損なう絶好の機会でもある。
みすみす逃すなどあり得ないし、利用できる手札は全て利用する。
菫の本心など露程にも知らずマイダスはまた恭しく一礼をした。
得体の知れない手駒へ向けられる菫の目は冷え切っていた。