アルミニウム材の粘つく光沢が如何にも安っぽい。
楕円形の皿へ、焼き飯が粗雑に盛りつけられている。
微塵切りの白葱と玉葱と細切れの焼豚に炒り卵。淡い黄金色の米をスプーンで掬い、大きく頬張った。黒胡椒の刺激と塩の刺々しさが胡麻油に和らげられている。素朴な味だ。薊が一口、二口と大盛り焼き飯を喰らっているのを、椿は眠たげな眼差しで見詰める。使い古されて傷まみれのグラスへ黒っぽいビールを注ぎながら、唐辛子の効いた漬け物を鳴らす。その前へ無遠慮によそわれた茶碗いっぱいの白米と、トマトと卵の炒りつけが運ばれてきた。従業員は無言で奥の厨房へ引っ込んでいった。
薊はそれを見て怪訝そうな顔をした。
生のトマトは平気なのに加熱したトマトは大嫌いなのだ。
「美味いんですかソレ」
「さあ? どうだろうな」
椿は投げやりに応じた。熱に草臥れたトマトを割り箸で口へ運ぶ。
独特の酸味とほのかな甘さを醤油っぽいまろやかさが包む。
少なくとも酒のアテにはなる。そういう味つけだった。
「トマト料理嫌いなんだっけ」
「そうです。変でしょう?」
「オレもトウモロコシ食えねえし」
「何でも食べるんじゃないんですね」
「愛ぐらいだよウチじゃ。でもバカじゃんアイツ」
東京でローカルの――つまるところ全国デビューを最初から無視した、地域密着型という意味だ――アイドルをしている分家の従姉を思い出す。確かに彼女はバカだ。開かない瓶を開けようとするあまり、握力で瓶を割ってしまうようなバカである。自分も菫も神経質で物事に頓着しないという意味ではバカではない。あるいはそのくらい脳天気に生きられれば何かと楽かもしれない。
半分ほど焼き飯を食べたところで水餃子が届いた。
スープを吸ってもっちりとした皮から熱い出汁が溢れる。
火傷しそうな舌を冷水で落ち着かせる。
「普通の中華ってカンジ」
「よそにフィッシュ&チップスとかありますけど」
「フライドポテトだけで飽きるって」
「美味いですよ。マスタードとケチャップ欲しくなります」
「ソレさあ、居酒屋で出るようなヤツだろ」
「揚げ物は多いですよ。フライドチキンとか。朝飯に揚げ焼きしたトーストが出るコトもあったし……なんて言うか、脂っこい」
だから、菫の口には合わない。よく食べる割りに繊細な舌だし、すぐに胃もたれする。薊は学生食堂ですっかり慣れてしまった。唐揚げもソース焼きそばもすっかりお馴染みの味である。特別のご馳走とは違うけれど「美味い」の範疇にはあると思う。
眼を細めた椿の顔は猫じみている。気分屋で好奇心旺盛、精神が若々しい。
「よく太らないよな。若いっていいなあ」
「筋トレやってますからね。週六日。あとお菓子は食べてないです」
「マジで? ガッコでもやってんのアレ。楽しい?」
「日課なんで。ちゃんとやんないと調子狂うんですよ」
瓶ビールを最後の一滴まで飲み干しながら椿が笑った。
「あるある。分かる」
適当な相槌だった。アルコールが回っているようには見えない。
椿はおもむろに最初の数口から放置されていた炒りつけを白飯へかけた。その上に漬け物を載せ、大雑把な丼と化したそれを勢いよく喰らった。味も何もない。茶碗も平皿も小皿も空にしたあと冷や水を流し込んだ。
「美味いんですかソレ」
「知らねえ。腹に入れば一緒だよ」
「まあ、そうですけど」
伯母はけろりと笑い飛ばした。
こうしていると、年齢差を忘れる。
女学生であった時代が椿にも存在するのは承知している。それはほぼ確実に十数年、もしかすると二十年は昔の事であるはずだ。にも関わらず現役である自分などよりもずっと精神的な弾性と軽妙さに富んでいる。同世代より鬱屈とした性分という自覚はしていたが……年上よりも老いているとは思わなかった。
堅苦しい、ユーモア精神欠乏症も父親譲りなのだろうか。
あの険悪な面相の片鱗まで受け継いでいるというのに。
偏屈のうえ激しい気性だろうと、母親似の美人な菫が羨ましい。
水餃子と焼き飯を
喫煙者だろうにずっと煙草を控えている。ぼんやりと、冷めきった目でソーホーの街並みを眺めている。ここがウェストミンスターだろうとピカデリーだろうと、あるいはベルリンでもパリでも薊はきっと区別しようとさえしないだろう。観察すれば無数に相違点を挙げられるとは思うが心底どうでもよかった。どうであれヨーロッパなのである。主食はパンで、料理のレシピに高確率でバターが登場する。あるいはやたら芋を食わせ、時に豚肉や鶏肉と同じ程度にありふれた食材として羊肉が市民権を得ている。美味い不味いとは別に
それこそフライドチキンの方が気楽でいいと思う。
よく分からない羊肉と臓物の煮込みよりは親しみがある。
イギリス土産を買いに来たつもりだったが、そもそも日持ちする焼き菓子とパック入りの茶葉ぐらいしか候補がない。その程度なら東京の百貨店でも買える気がした。
このまま『漏れ鍋』へ引き上げたい気持ちが芽生えていた。
自分自身はまったく興味のない品を、さして親しくもない親戚へ贈るためだけに出掛けるなんて随分な徒労である。
それに正直、寒い。雪国生まれだろうと寒いものは寒い。
ただ都会育ちと比べたら暑さに弱いだけなのだ。
中華料理店の外に出ると冷たい風が通りを吹き抜けた。
ぶるりと全身が震え上がる。
冬のロンドンは日中も寒すぎる。
「どうする? 土産。どこで売ってんだろ、デパ地下とか?」
「缶のクッキーと普通の紅茶くらいどこでもあるでしょう」
専門店について一切下調べしていなかった。
「それもそうか。ちょっとブラブラして、ケーキでも買う?」
「ケーキ? 十二月は誕生日じゃないですけど……」
「クリスマスだよクリスマス。ケーキくらい食うだろ。オレいっつも次の日の朝だったけど」
「ああ、忘れてました」
クリスマス――正確にはクリスマス・イヴなど、薊にとって忘れる程度の祝日である。何を祝っているのやらよく分からない。ある年にはパエリアが出た。スペインの米料理で、サフランの為に真っ黄色の米の上に夥しい量の甲殻類と貝類が載っていた記憶がある。別の年には出前寿司で済ませたし、蟹の身を掻き出すのに悪戦苦闘した年もあった。デザートにケーキが出るのは毎年共通だった。一年が過ぎてすっかり忘れていた。
ロングコートのポケットに手を突っ込み、椿は「忘れるなよお」と笑った。
二人揃ってロンドンは不案内である。唯一、土地勘があると思われる菖蒲はクリスマス休暇で職員の出払っている銀行の執務室へ籠もり、黙々と仕事に勤しんでいる。仕方なくタクシーを拾って適当なデパートへと走らせるほか選択肢がなかった。運転手の無愛想な男は中年太りの丸いフォルムだったが、陰気な目つきは父親と自分を見ているようだった。
クリスマスのうえ日曜日に働くのが余程気に食わないらしい。
それを言うなら好き好んで休日出勤した自分の父親はどうなるのだろう。不信心は当然として、家庭を顧みない薄情者になるのだろうか。
だったとしても一人娘はそれで満足している。
不平不満をわざわざ態度に出しても虚しい。
後部座席に椿と薊を乗せてタクシーが走る。ロンドン市内をのろのろと進み、聖誕祭前夜の街並みをゆっくり眺める時間を設けた。雪がふれば如何にも様になるのだろうか。しかし雪化粧というものに良い印象が全くない。早朝から雪かきに汗を流し、少し出掛けるにも積雪の下に隠れた黒っぽい氷で転ばないかと神経を尖らせる羽目になる。ただただ鬱陶しくて、しかし毎年季節が巡るとやって来る。
準備しておけばいいのに……その呟きを胸の内に仕舞い込む。
タクシーが停車するまで誰も沈黙したままだった。
時折、運転手の忌々しげな溜め息が聞こえる。
何をそう苛立ってしきりに不快感を吐き出すのだろう。
代金を払う段階になってもやはり鬱屈としている。露骨な態度をぶつけられて平然としながら、椿はにこやかに応じた。
実年齢から大きく乖離したあどけない笑顔を振りまいて運転手に抱きついた。
「お勤めご苦労様。一日早いですが、良いクリスマスを」
それで胸中で澱む不快感が少なからず中和されたらしい。
運転手はたじろぎながらも「ああ」と不器用に笑った。
薊も無愛想な会釈だけ送る。伯母の豹変に驚いて言葉が出ない。
乗客二人が降りたのは重厚な、あるいは威圧的な、威厳溢れる構えの老舗百貨店だった。
大盛況の中を椿は軽やかな足取りで地下一階を目指し進んで行く。油断すれば押し潰されてしまう気がする。買い物客は複雑な
ベーカリーの前からはパンの焼ける香りが漂う。
繊細なデザインのチョコレートがあり、あるいは冷蔵ケースに収められた牛肉のブロックがあり、片隅には新鮮な牡蠣を食べられるオイスターバーがあった。ガラスケースのショーウィドウの向こうで鎮座するケーキと向き合うまでに数時間を要した気がした。そこだけは特に列の動きが鈍い。誰もが色とりどりの、クリームとスポンジ――あるいはタルト生地と、チョコレートや果物で飾り付けた宝飾品のような生菓子に目を奪われている。
椿は薔薇の花束を思わせる、イチゴのタルトを指差していた。
「見ろよ、スゴいなコレ。機械でも使って作ってるんじゃないか?」
「職人の手作りに価値があるんじゃないですか? よく知りませんけど」
「コレを人力でかあ。スゲえよ、機械だか人間だか分かんねえや」
照明に煌めくケーキよりも目を輝かせる椿はいくつ買おうかと薊に聞いた。
「人数分でいいでしょう。私、そんなに甘いもの食べ慣れてないですよ」
「こっから三つだけってムズいぜ。全部買おう全部、余ったら明日にしてさあ」
「冷蔵庫どうするんです。ウチじゃないんですって。傷みますってケーキが」
「真面目ぇ。気にすんなよ後の事なんて。今日って特別なんだから」
「特別。特別ですか。いやに寒いだけですよ」
そう言いながら、薊は一番安いショートケーキを選んだ。
これなら味の想像がつく。イチゴとスポンジと生クリームである。
チョコレートケーキは香りづけにラム酒が入っているかもしれないし、オレンジピールとかいう柑橘の皮の削り節もあまり好きではなかった。まして無花果と白葡萄と白桃が一緒になったタルトやピスタチオなんて未知の材料が主軸に置かれたムースは論外だった。モンブランはあったもののかなり高額で、自腹でないからつい気後れした。
椿はレアチーズケーキとチョコレートバナナのタルトを選んだ。
菖蒲の分はガラスのカップに収ったカスタードプリンだった。最早ケーキですらない。
「不味いかな。シュークリームのが良い?」
「あるだけで十分です」
「アイツ何食っても『美味い』って言わねえもんな」
レモンとオレンジのケーキを眺めながら椿が言った。
季節外れな柑橘のデザートが面白いらしかった。
欠けているのは料理への感想に留まらない。愛嬌そのものが不足している。
そういう意味で自分も父親も
可愛らしい第一印象と物静かな雰囲気を備えた菫は逆に
綺麗な薔薇には棘……程度では済まない。あれは可憐な夾竹桃だ。全身に致死性の猛毒を隠し持つ。
万人から好かれる性格とは程遠い。グリフィンドールやハッフルパフの同級生が示す態度も当然と言える。景観と花の香りを楽しむのが精々で、間違っても
毒も巧妙に煎じれば何かしらの薬となる。
だが、大抵の場合は毒薬にしかならない。
自分も菫も毒薬の類だろうと薊は確信していた。
自己批判と自己嫌悪と自罰意識からなる内省のスパイラルへ陥る。冷め切ったままの薊に椿は「菫はチーズケーキかなあ」と尋ねた。ほとんど独り言であったが、僅かに視線をこちらへ寄越している。何か意図があると勘繰り薊は敢えて沈黙を選んだ。
「チョコレートなんか食べないし。どうすっかな」
腕を組んでみても華奢なので様にならない。
周囲の女性客と比べるとさらに目立つ。
着古された薄っぺらいコートさえ不自然だ。どうやら肉の薄い身体つきは洋装との相性が悪いらしい。
敢えて菫のケーキまで買おうとする意図を尋ねるか、悩む。
今日は十二月二十四日。世間はクリスマス・イヴ。
明日は十二月二十五日。神の子たる救世主の聖誕を祝する日。
敬虔な信仰者でない、典型的な日本人である菫にとっては単なる年末最後の祝日に過ぎない。魔法界の信仰については薊も疎く断言はしかねるがフラーも
混雑の真っ只中にありながら、薊は言葉を失う。
真実と呼ばれるモノはは常に意外性を求められる。
しかし大抵の場合は呆れるほど単純で、だからこそ誰もが思いもよらず、なのに単純だからこそつまらなさの為に消化不良を味わう。ミステリ愛好家たちは謎のもたらす高揚感に真実が冷や水を浴びせ掛けられる瞬間をこそ楽しむが、薊に言わせればホラーと比べればいくらかマシと思うだけでミステリもかなり不謹慎なジャンルだと感じる。必ず登場人物が死ぬのだから道徳的とは言い難い。
それに何より、人間関係の複雑なのは嫌いだ。
だからスリザリンは妙に居心地が悪い。
おそらくどの寮でも同じ
「何で言えるんですか。そんな事……根拠もなく」
「あるさ。この十七年、誰より長い付き合いなんだぜ」
――それを言うなら自分だって
舌先まで迫った一言を再び胃袋の底へと仕舞い込む。
この三年間を除けば、共に過ごした時間はごく短い。
学生寮での暮らしが長すぎた。菫の人生をよく知る者を挙げるならば、感情の読めない曖昧な笑みを湛えた女性……母親の他にはあり得ない。
いつ終わるとも知らぬ人生で関わりが生じるか。
これまで意識しようとさえ考えず生きてきた。
それが何故。どうしてこのタイミングなのだろう。
生まれ育った環境、所謂「境遇」という言葉を呪いたくなる。
どこへ逃げても人間関係からは逃れられない。
耐え難い事実だ。苦痛に満ちた真実ばかりに囲まれ、窒息する。
もしもあの……超然として揺るぎない、担任のようになれたら。
過去の全てを置き去りにし、未来だけを見、突き進む。
堅牢な『自己』の外に無関心で無頓着。傍若無人なままに望む結末を手繰り寄せるあの才能を、自分も獲得出来たならどれだけ幸福だろうか。
実現不可能な夢を想像するのをこう呼ぶ。
――現実逃避