ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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頸動脈からアイラヴユーが噴き出て

「いちいち大袈裟だと思わない?」

 

 封蝋の刻印を一瞥して薊が愚痴った。

 マルフォイ邸で催される新年会への招待状である。

 御丁寧に屋敷しもべ妖精が『漏れ鍋』まで届けた。

 菫は何度か目にした機会がある。

 肉の削げ落ちた身体から萎びた手脚が生え揃い、枯れ木の細枝のような首でもって不釣り合いに大きな頭を支えている。両目は人間の握り拳よりずっと大きい。尖った長い耳の付け根近くまである口を開くと錆びきった蝶番のような厭な声音が軋む。

 おまけに衣服はボロ雑巾同然の薄汚い布切れだ。

 しかも種族として卑屈なほど慇懃である。薊はこの妖精に対して少なからず苦手意識を持った。

 これならいくら傲慢だろうとエルフの方がマシだ。

 菫は屋敷しもべ妖精の生態に無関心だった。差出人がドラコではなくルシウスであるのも、そういう作法なのだろうと受け流していた。

 

「別にいいじゃん。間に合ってるんだし」

 

「招待状くらいさっさと書いて休み前に寄越して欲しい」

 

 二人の感覚はスリザリン寮の影響が皆無であった。

 貴族的でなく、魔法界と異なる、非魔法族の庶民そのものだ。

 英国の上流階級が催すニューイヤーパーティーを本質的に理解していない。菫の根っこにある無愛想と薊の身に染みついた庶民感覚が奇跡的に噛み合ってしまっていた。

 

「年賀状みたいなモノだよ。年賀状」

 

「一回もホグワーツの連中から貰ったコトない癖に」

 

「だって誰にも宛先教えてないもん」

 

「なんで教えてないの。あんだけ友達いて」

 

「聞かれないし。だいたいどうやって届けるの? フクロウだよフクロウ」

 

 バカみたい、その部分は同意できる。

 恥入りもせずごく自然に菫は答えた。

 薊は封筒から出したきりの招待状をテーブルへ放った。

 自分も年賀状やら暑中見舞いは数名にしか出さない。親戚を除けば担任と学生寮の同室者だけである。そんな分際で、従妹の人付き合いの悪さを指摘するのは憚られた。

 安楽椅子に腰掛けながら、

 

「パリで何食べて来たの」

 

 と尋ねた。サービス精神の欠如した父や空気を読まない祖父とは違う。フラー・デラクールが計画したデートならばさぞ上等なモノを振る舞われたのだろうと予想していたが、菫はベッドで俯きながら短く応じた。

 

「ソーセージとかステーキ」

 

 面白味のない回答である。

 腸詰肉はホグワーツで毎日必ず目にする。ステーキは流石に連日とは行かないが、月に数度は口にする機会がある。

 拍子抜けしながら薊は「けど美味しいんでしょ?」と重ねて尋ねた。

 フランスは美食のイメージが強い。

 具体的な知識はさておく。これは先入観の類だ。

 

 それ以前に、フラーが手抜かりなどするものか――

 

 そんな得体の知れない信頼感を根拠にしていたのだが、肝心の菫の反応は酷く鈍いモノだった。

 

「…………ウン」

 

 ほんの小さく頷いたきり黙ってしまう。

 楽しい記憶とは掛け離れた反応だ。

 

「どうしたワケ?」

 

 恋愛相談のつもりはなかった。

 そう返してやるのが自然に思えた。

 何か悩んでいる風に映ったからだ。

 菫は自分の枕を抱き抱えながらしばし考え込み、真っ先に吐き出す言葉について熟慮を重ね、訥々とした口調で、

 

「フラーと私、趣味が合わないのかも」

 

 悲観的に、パリでの二日間を総括した。

 

「まあ……そりゃあね。悪いけど驚きはしない」

 

 薊としては納得するほかない。

 フラーと菫は対極の性質を備える。

 陽性と陰性。社交的、内向的。

 ものの見事にバラバラの人間なのである。

 それでも交際は持続している。何故だか知らないし興味もないが、むしろ同族嫌悪が生じない点に秘訣があるのやもしれない。

 薊は推測するのが精々だった。物差しとなるべき恋愛経験が一度もないからだ。

 菫は暗い眼差しで「映画は好きじゃないのかも」と呟いた。

 数少ない、いまや()()()()とも言える趣味を受け入れて貰えなかった可能性を考え、そうでなくとも穏やかならざる心がさらに揺らいでいる。

 

「映画ァ? なに見たの? 『マスク』とか?」

 

「私ジム・キャリー好きじゃない。顔がうるさいもん。見たのは『ユージュアル・サスペクツ』とか『悪魔のいけにえ』とか」

 

「あのチェーンソーのじゃん! そりゃ誰でもイヤだわ!」

 

「なんで? 『2』と『3』よりはずっと良かったのに」

 

「クリスマスに映画館で見るようなのじゃないって。大人しく『マスク』見せときゃいいのに何であんな悪趣味な……」

 

「映画館じゃないとレザーフェイスのチェンソーが響かないでしょ。センスないなあ姉ちゃん。クリスマスに『サマーキャンプインフェルノ』見たわけじゃないんだよ?」

 

「それもどうせ血塗れ死体祭りなんだ! デートでんなもん見たいヤツいないんだって!」

 

「まあアレはちょっとね。最後が……うん……ショッキングだったな……」

 

 困ったように視線を逸らす。少々の恥じらいを感じさせる奇妙な態度は薊の関心ではなく、ぶらりと脚を放り出した。

 

「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか、なんか無かったの?」

 

「面白いけど、アレって子供向けじゃない?」

 

「分かりやすいのにしてやんなきゃ。生まれて初めて見るんなら尚更じゃない」

 

 そうかなあ、と菫は欠伸混じりに首を傾げた。

 

「眠いなら寝れば? 無理ばっかりして、身体壊すよ」

 

 完全な吸血鬼が白昼に活動し夜間に眠っていたのだ。

 学校生活を送る以上、昼夜逆転の生活を余儀なくされてきた。

 なまじっか頑丈であるから負担が露呈せずに済んだ。

 せめて冬休みくらい好きなリズムで過ごせばいい。薊に促されるがまま菫はゆっくりベッドの上で横になった。たちまち瞼が閉じられ、白い寝間着の両腕が白い枕を抱き抱えたまま眠ってしまった。

 心身共に無理を重ねていたのだろう。安らかな寝顔を眺める。

 呼吸がない。飛び跳ねた勢いで心臓が口から飛び出しそうになる。

 蒼白い寝顔は白木の棺桶を連想させる。

 葬式に参列した経験は何度かある。未だ遺体の肌色には慣れないでいる……その事を誰に相談すれば良いやら知れず、胸の内に抱え込んではふとした拍子に思い出す度、一人静かに悶々とする。この感覚を他者と分かち合えるとは思えないのだ。極めて個人的な精神作用だから。自己の内面で念入りに処理してやるほか対処方法はないと、そう思っている。

 深みに沈む意識を、掌に伝わる汗の湿り気が現実へ引き戻した。

 暴力的、殺人的な速度で急上昇した意識が激しく爆ぜる。曇天とはいえ白昼の明かりに目眩さえ覚えた。

 安楽椅子に腰掛けたまま眉間を揉みほぐす。

 スタートダッシュこそ失敗したが、課題の進捗率は予定より良好だ。

 薬草学のレポートは明日に回しても差し支えなく冬休みを終えられる。

 

 つまりは――昼寝に数時間を割くだけの余裕があるわけで。

 

 実家であればエレキギターでも弾くところだが、ここはロンドンである。

 悲しいかな気分転換の選択肢は大きく縛られている。

 ダイアゴン横丁へ繰り出すにも欲しいモノがない。商店街を冷やかすほど不毛な行為はないと薊は考えている。目的のない買い物や寄り道は大嫌いだ。そうなると必然的に残された選択肢はごく限られたものだけとなる。

 

 この果てしない苦悩から逃れ、かつ意識をシャットアウトするには、午睡するほかない。

 

 安楽椅子に腰掛けたままの姿勢で瞼を閉ざす。ゆらゆらと燃える暖炉の火が不思議と心地よく、付け焼き刃の英語能力をフル稼働させた疲労も手伝い、予想より容易く睡魔が訪れた。

 

 現実ばかり直視していると目も心も疲れてしまうらしい。

 

 眠りに落ちる間際、薊はそんな気づきを得たのだった。

 

 

 浮遊感が全身を柔らかく包んでいる。

 

 見えない重力に引かれ落ちていく意識。

 

 冷たく、暗く、けれど穏やかな海の底へ。

 

 一度は途絶えた光が蘇り、覚醒を促す。

 薄い瞼越しに照明の光が射し込んで来る。

 緩みきった意識と身体の接続が始まる。指先が僅かに動き、声帯からまったく意思の伴わない空気の振動を生じさせる。果てしない倦怠感の鎖に縛られている感覚がある……とにかく身体が重い。側頭部の鈍痛に苛まれつつ手を使いながら身体を起こす。

 境界を取り戻していく世界の正体はホグワーツだった。

 それも、スリザリンの女子寮である。五人分のベッドとスツールが金属製の暖房器を囲む形で配置されている。薄暗い、陽光の健やかさとは無縁の内装はいつだって陰鬱さばかり振り撒く。毒々しい緑色もさることながら自分の肌を思い出させる白い大理石の壁もまた不快だった。

 せめて夢の中くらい自宅であって欲しい。

 不条理な夢に理不尽な怒りが湧く。葵菫の無感情な顔から暖かさが消え失せる。触れるものみな壊死させる氷の冷たさだけが残された。

 切れ長に細まった瞳の一睨みで相手を斬り捨てられそうだった。

 

「つまらない……苦痛ばっかり」

 

 所詮は夢の中の出来事に過ぎない。望もうと望むまいとすべてはただの結果に過ぎず、意思の介在について論じるなど虚しい。菫の意識は結果的に寮の外へ移った。

 談話室の様子はちっとも認識出来ない。

 途中、誰かの姿を目にすることもない。

 頼らない蝋燭が等間隔で並ぶ地下牢へ出る。すぐ近くには魔法薬学の教室がある。スリザリンの生徒でなければ滅多に近寄らない区画だ。そうでなくとも魔法薬学教授でスリザリンの寮監を務める男は『人徳』や『声望』といったものから縁遠い。叶うことなら会いたくないと願う生徒も少なくないため、ここはいつも閑散としている。

 菫もあの黒ずくめの魔法使いは苦手意識がある。

 だが、いまは『地下牢』に対する好奇心が勝った。

 

 地下牢(ダンジョン)という言葉には少しばかりの魅力を感じる。

 

 入り組んだ迷宮を探索するイメージだ。残念ながら東京ではなく、悪魔を召喚するためのパソコンすら見当たらないではあるが……。

 

「サバイバルショップでもないのかな。来るべき世紀末なんだけど」

 

 ノストラダムスの予言も流行っている。

 アンゴルモアという名の()()()()()とやらがやって来て、人類は滅亡するらしい。

 ならば()()()()()()が目覚めるようなものだろうか。

 この思い出は悪夢そのもの、現実に残してくれずとも構わない。

 一歩、また一歩と前へ進みながら益体のない考えが脳裏を巡る。

 足裏に伝わる床の硬質な感触は記憶通りだった。石に囲まれた空間は違和感がつきまとう。

 異物だ。葵菫の世界にとってホグワーツは異物そのもの。

 むしろホグワーツにおいては菫こそ異物であり異端なのだが、世界とは認識する者こそが常に中心として機能する。そこから脱せられない限り菫の世界に本質的な変革は訪れない。五年間の学校生活を経てもついぞ馴染めずにいながら慣れ親しんだゲームソフトの世界観で上書きすれば散策も心躍るものになる。

 動く屍体(リビングデッド)だろうと()()()()()()()は不安と期待がない混ぜになって不思議と心踊る響きを感じる。

 選択科目の占い学がノストラダムスはおろかエドガー・ケイシーもアレイスター・クロウリーも扱わないと知って興味を失ったものだ。それなら冬休みに親戚へ披露する土産話になったのだが……水晶や星見図と睨めっこするだけなら誰にでも出来る。上手く躾ければ犬や猿でもそのくらいの芸は覚える。

 コツ、コツ、と革靴の底が石で出来た床を規則的に叩く。

 この音自体はけして嫌いではないのだが……どうにもホラー映画の音響なのが気になる。

 しばらく廊下を彷徨っているうち行き止まりにぶつかった。

 長年かけて沈澱した冷気がひやりとアキレス腱を舐める。

 丁寧に彫刻の装飾が施された壁が目の前に立ちはだかる。視線を上へ向ければ天井があるだけで、凝視しているうち複雑な紋様が目眩をもたらしてくる。

 背後を振り返っても遠くは暗がりに呑まれていた。

 吸血鬼の視力とは無関係に廊下は途中で影に消えている。

 すべては夢の中の出来事だ。過程や理論はすべて消し飛び、ただ結果だけが取り残される。

 珍しく発露した好奇心が萎びていく。

 これからどうするか、悩むのも煩わしい。

 再び正面の壁へ向き直った菫を夢が嘲笑う。

 

 行き止まりのはずが、道がある――

 

 ホグワーツの校舎とは異なる()の廊下。

 蒼白い、正方形のタイルが敷き詰められている。

 石畳はところどころ浮き上がり凹凸がある。左右の壁に等間隔で設けられた燭台も異なるデザインで、こちらの炎はより白く明るい。

 未知の領域へと真っ直ぐに伸びる一本道へ躊躇なく踏み出した。

 それはホグワーツから逃げ出したい本心の起こした結果、と分析するほかになかったが、このとき菫の意識はほとんど吸い寄せられる形で、明確な思考は存在しなかった。当人の中では本能的かつ衝動的、発作的なアクションであったのだ。

 

 カチリ

 

 やはり異なる足音が聞こえるや否や。意識が、夢の中における肉体そのものが凄まじく強烈に()()()()()へと引き寄せられる。

 

 転移(ワープ)――そうとしか言い表せない現象。

 魔法であれ超常現象であれ、菫の驚愕はむしろ自分のいる空間そのものに対する反応として表出した。

 

 視界に捉えられない遥か彼方の天井を支える円柱。

 そこから四方八方へと伸びる触手状の螺旋階段。

 人間を模した像の頭は萎びたアーモンドに似て、そこへ蝋燭もなしに光が灯っている。

 監獄さながらの無機質さで何層もの回廊が折り重なる。

 異様と言えば異様な構造物の内部だが、空間の異常性を端的に示すのは、巨大な円柱の基盤。ちょうど菫が正面を向いたとき自然と目に入る位置にある、浅く作られた貯水槽のような区域。ほんの数段下ればすぐに水面が広がるそこは……照明とは無関係に光を浴びるアメーバ状の形質……水銀とは似て否なる金属状の液体で満たされていた。

 

 言葉を失う。感情でも理性でも受け止めきれず意識が硬直する。

 現実であるのかすら判断し難い未知の悪夢の只中で、菫はただ、呆けたままに立ち尽くした。

 

 理性の状況に関わらず五感はなおも稼働する。

 

 微かな薬品の刺激、仄かな腐臭の悪寒、肺に凍みる冷気――不可解な歌声の旋律と粘り湿った慟哭が混線し、ここが如何なる目的のもと存在していようと正気の埒外にあると力強く物語る。

 

 現実のもたらす情報の受容を拒む肉体は混乱に陥る。

 消化し得ない異物を排出しようと機能し、けれど空っぽの胃袋のためにただ酸性の消化液が喉粘膜を傷つけるだけに終わった。

 黄金色に澄んだ体液が口を覆う手の隙間から溢れる。

 苦く酸い、嫌悪の味が舌のみならず口いっぱいに広がる。

 打ちのめされた精神が肉体を恐怖に屈服させ、心が剥き出しのままとなった。

 

 人間の心というものは極めて脆弱である。

 

 いともたやすく傷つき、歪み、折れ、砕ける。

 

 あるべき形から逸した心はますます脆くなる。

 

 だからこそ、光り輝いて映るものへと縋ってしまう。

 

 

「懐かしい香りと思ったのだけれど……あなたとは『はじめまして』ね。後輩さん」

 

 

 その少女の淡いブロンドは異形の彫像によって光輝を放ち。

 乳白色の肌と朧気な微笑が、激しく揺らぐ菫の心をそっと癒やしたのだった。

 囀るような口調とともに笑う声が恐慌状態を消し去っていく。

 

 白衣の天使――そう形容するに相応しい少女が、上層の踊り場に立っていた。

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