ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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アイリス アウト

 美しい少女が螺旋階段を下る。

 一段、また一段、次第に近づく。

 足音の反響すら耳に心地よい。

 白衣の裾をひらりと踊らせ、視線は真っ直ぐ菫を捉える。

 

 夜空色の瞳が心を鷲掴む。

 

 剥き出しの内面を無作法に触れられる。

 力の差は一目瞭然、自分が下位だと『目』だけで分かる。

 存在としての位階で遠く及ばぬという事実を突きつけられる。覆しようのない力を無慈悲に振るわれ、自己の無力さを再認識する。その工程に身震いが止まらなくなる。かつて味わったあの快感……征服されるが疼くのだった。

 

 支配者の思うままに支配される。

 

 上位者の望むままに愛玩される。

 

 日常の中にはけして存在し得ない。

 ならば、ホグワーツもまた日常の一部と言える。

 正真正銘の『非常識』ではある。何せ夢の中なのだから。

 非現実に微睡む菫を少女は――表面上は――慈しむ。

 

「とても綺麗な手なのに……清めてあげましょう」

 

 慈愛に満ち溢れた声が両の鼓膜から脳髄を震わせる。

 自分という存在が芯から溶け崩れる感覚。自己を喪失しそうになる恐怖を陶酔感が上書きしていく。

 無抵抗に酔い痴れるのはほんの束の間。

 少女の言葉によって夢が空間を造り変える。

 蠢く世界と対比する形で自己の輪郭が鮮明さを取り戻す。

 視界が溶け落ち、再構築が完了したとき。葵菫の肉体はあたたかな湯に浸かり、真白い泡が水面を覆っていた。

 両手の生温かくぬめる胃液は消えていた。

 まだ吐き出せるだけの量が残っていたらしい。

 感嘆はどこまでも冷めきって、熱に欠けた。

 

 カーテンの向こうに少女の微笑を感じる。

 

 あの子の眼差しはこの柔らかな泡程度、透かしているだろう。

 痩身とは言わずとも見栄えの悪い身体つきである。曲線的な美しさに欠ける肢体を、ひどく恥ずかしく思う。浴槽の中で前屈みになる。少しでも隠したい気持ちからとった精一杯の仕草だった。

 同性であっても……むしろ菫にとっては同性だからこそ、恥じらいが生じる。

 少女のクスクスと衣擦れに似た笑い声はその思惑を見透かしていた。

 手を清めるというのは口実に過ぎないらしい。剥き出しの身体を愛でる方便としてこの状況が現れたように思えてくる。

 か細い抵抗すらも堪能して少女はまた笑った。

 

「お人形みたいで素敵なのに。秘密にしてしまうの?」

 

 少なくとも――菫の美的感覚、あるいは性的嗜好に従うならば――この身体は女性としての魅力に欠く。周囲の()()()はおろか()()()()()()にも遠く及ばない。

 にも関わらず『人形みたい』と評されるのは意外に過ぎた。

 どころか、新たに小さくない恥じらいさえ芽生えた。

 けれど頬はちっとも火照らない。

 いっそ魔法でも構わない。顔から炎が出てくれれば良いのにと思う。感情の切り離されたちぐはぐな身体がまた意識を苛む。

 

「照れ屋ね。それも良いわ、秘密こそ私たちの愉しみだから」

 

 両腕で膝を抱え込む。うつむき表情を隠していた顔が上を向く。少女の小さな手が、菫のあごを優しく支えていた。

 恥ずかしい。見られているのが。この貧相な体つきが。こんな醜い身体が。

 殺されて、死んでいるはずなのだ。

 魂が外へ抜け出ているはずなのに。

 何故か心だけが残って動いている。

 おそらくきっと、この()()()は祓えないだろう。

 無音のまま『葵菫』は恐怖に侵食され輪郭を失っていく。

 心からも熱が失せていく一方、少女は知らぬ風に笑いながら言った。

 

「あなたもいずれ……いえ、識るのはそう遠くない。『器』は、満たされてこそだもの」

 

 氷の指先が凍てつく両の頬を撫でる。

 この感触が馴染むのはいつになるだろう。

 少女の意思が力として出力される。俯いた菫を上向かせ、薔薇色の瞳に映す。

 

 鮮やかで()()()()色の奥底に()()()()()()()

 血が凍りついて蒼白の肌。不自然に赤いルージュの唇。大きく伸びた牙。

 厭というほど見飽きた吸血鬼が目の前にいる。

 自分と同じ『怪物(モンストロ)』あるいは『死に損ない(ノスフェラトゥ)』……ここが夢だというのなら、やはり悪夢に違いない。

 これほど美しい女性(ヒト)が吸血鬼なんて。

 現実の理不尽に底はなく、夢は果てしなく不条理だ。

 どこへ逃げれば自由があるのか。このまま全てに絡め取られて、もっと底へ沈んでしまうような予感に、声が出ないまま嗚咽が漏れる。

 十本の指が冷たい唇の感触を堪能する。

 僅かな隙間へ親指を挿し込む。ぷっくりと柔らかく瑞々しい弾力が四方からやわらかく包み込んだ。二本指の先端に伝わる口内の温度。屍のそれは蕩けるほどの熱とは無縁の冷涼さでありながら、とろりとした唾液の粘性に助けられて舌と絡まる。そこに本来あるべきはずの温度が存在しなかろうとも二人が触れあうことで自然と温もりが生じる。

 新たな失意に震える舌は迸る分泌液に塗れた。

 粘液に濡れた指先はさらに熱を欲して舌をなぶる。

 無分別に体内の、それも神経系の鋭敏な部位を蹂躙される。

 その快感は菫の中でたったいま快楽と接続がなされた。

 

 小さな『熱』の灯る感覚に少女は「おめでとう」と囁く。

 

 久方ぶりの感覚……のぼせるほどの熱さを抱える。腹の奥底から溶けてしまいそうになり、反射的に菫は()()を庇うように手で腹を押さえた。

 透明な糸を引きながら少女の指が菫の舌を解放した。

 とろりとした唾液の雫を小さな舌で丁寧に舐めとる。

 淡く朧げなのに引力を秘めた微笑が、

 

「それじゃあ、また。次の贈り物も――」

 

 声のすべてを聞き届けられなかった。

 しばしの別れを惜しむ言葉は、夢の終りに遮られた。

 薄暗い二人きりの世界が端からほどけていく。

 何を問うことも許されず。なんの答えも得られないまま、菫の意識は深海の底から現実へと急上昇していった――

 

 

「折角なのだからアイスクリームでも……」

 

 ダフネは無表情を保ちつつ不満を口にした。

 彼女をよく知っていれば驚愕に値する。

 溜息交じりの愚痴でなく、明確な意思表示は珍しい。

 パブを兼ねた『漏れ鍋』の一階で薊は「なんでだよ」と口を歪めた。

 

「昼過ぎっつっても寒いぞ。ヤだよ冷たいモン食うの」

 

「有名なのに。ダイアゴン横丁で一番美味しいのよ」

 

「オレはこのコーヒーで十分なの。季節感どうなってんだ」

 

 マグカップに注がれたコーヒーはまだ湯気が立っている。

 薊はカフェイン摂取を口実にしているが、その実、苦みで無理矢理に覚醒しようとしている節がある。味音痴を疑いたくなる。だが彼女の食事風景を観察していると牡蠣やスモークサーモンは好物らしく得体が知れない。

 甘党でないのも大きい。口にするのはリンゴや白ブドウぐらいだ。

 伝え聞く『上目遣い』という()()を試してみることにした。

 

「歩いてすぐよ? テイクアウトもあるから、ね?」

 

「一人で行けるトシだろ。ガキの使いじゃねえんだから」

 

 歳下らしく甘えてみたが効き目は芳しくない。

 折り畳まれた日刊予言者新聞を指で小突き、不機嫌そうに唸った。

 

「夕方から雪だぞ。買いに行くのも一苦労だよ」

 

「スミレの長風呂を待つだけって大変だと思うけど」

 

「髪がなあ……」

 

 くるぶしに届くほどの長髪である。枝毛ひとつない完璧なストレートヘアを羨む気持ちもないではないが、あそこまで伸ばす理由についてダフネの想像力ではどれほど飛翔してもまだ不足していた。

 コーヒーを一口啜って薊はふうと息をつく。

 いくらかリラックスした声音で何気なく尋ねる。

 

「宿題、終わった?」

 

 不粋な問いに今度はダフネの表情が曇った。

 

「厭なコトを聞くのね」

 

「オレもまだだよ」

 

「そうではなくって……」

 

 普通魔法レベル試験が課題量を膨大にした。

 試験結果がそのまま六年次、七年次のみならずその後の生涯を決定する。教授たちが――とりわけマクゴナガル教授が熱心に訴えるのはけして発破のための脅しではなく、それが魔法界における事実であるためだ。就職の必要性に乏しい純血氏族の令嬢でさえ『相応の成績』がなければ婚姻に差し障る。『魔法の才能』という価値を保証できなければ純血という貴種の存在意義は完全に損なわれる。

 その意味でダフネは試験に対するモチベーションが燻っていた。

 

 結婚――その儀式にどれほどの価値があるというのだろう?

 

 誰が勝ったとしても自分はハリー・ポッターと結ばれない。

 仮定するまでもなく、必然そうならざるを得ないのだ。

 ただ『グリーングラス』という家名の存続が成るか否か。結末はその一点に尽きるのであって、個人の幸福は元より計算外なのだから。

 カップの紅茶は少しぬるくなっていた。

 デーツか胡桃があれば良かったのだが。贅沢は言えない。

 なかなか身支度を終えない菫であった。待ちくたびれるあまり、ダフネはつい他愛もない話題を挙げた。

 薊と二人きりという状況への不慣れも大きい。

 彼女のパーソナリティをより深く知る絶好の機会でもあった。

 

「薊は……恋人いないの?」

 

 あまりにも凡庸なうえ面白味に欠ける。

 初対面でもあるまいし、今更の感もある。

 そこで大真面目に「欲しいとも思わない」と答えるのは、良し悪しはさておき万事に几帳面な薊らしい。

 同時にダフネにとっては反感を覚える答えでもあった。

 薊はまたコーヒーを啜った。お茶請けはなし。いつものことだ。

 

「気分転換の手段は十分に揃ってる」

 

「恋愛と息抜きはまったく違うわ」

 

「プライベートには変わりない。同じだよ」

 

 この感情を『無益』だと否定された思いがした。

 かけがえのない宝物を、ありふれたガラス玉と断じられたような。

 知っていて言うのだから酷い。非難と悲しみの籠もった目で見つめられ、薊は困った。自分の放った言葉の意味を誤解されているとは理解出来た。だが()()()()()()()()()()()()までは察しきれず、弁明を試みるには情報不足が不足していた。

 言葉が詰まりダフネと薊の間に沈黙が訪れる。

 大きくすれ違った本音を修正するタイミングは、間もなく失われた。

 

「姉さんの言うことを真に受けてはダメですよ」

 

 まだ眠気の抜けきらない菫の声だった。

 ゆっくりと階段を降りながら呆れている。

 

「偏屈の変わり者じゃないですか。忘れたんですか?」

 

 薊はすぐさま眉間にシワを寄せた。

 言い返そうとしないのは助け船に安堵したからだ。

 ダフネは菫の苦言にさえ反応しなかった。自分の中で感情を消化しきれていない。

 この二人にも()()()()()()()のカタチを探している。

 気まずさに耐えかねた薊が真っ先に動いた。否、逃げ出した。

 マグカップに残ったコーヒーをひといきに飲み干して片づける。

 

「ちょっと髪の手入れするのに待たせるなよ」

 

「姉さんが短く切りすぎてるだけでしょう」

 

「手入れが楽なんだよ。いいだろ別に」

 

 好き勝手に言い合うおかげで更に時間が過ぎる。

 待ちくたびれるダフネなどお構いなしの二人である。

 いつまで続くのだろうと様子を窺う。無口そうに見えてお喋りだ。放っておくと際限なく話し続けるのではないかと不安に思いつつ、いま軽々しく口を開くような気分でなかった。

 取っ組み合いの喧嘩にならないのが不思議だ。

 お互いマイペースで周囲の顔色に無頓着だが、何故なのか従姉妹同士では仲が良いしウマがあっている。

 少しだけ羨ましい。ダフネにとって実の姉妹という関係性は菫と薊のような和気藹々としたものではなかった。他人行儀とは違うが妙な遠慮がいつもつきまとう。

 そのせいなのか「笑い事じゃありませんよ」と菫が不貞腐れた。

 

「ホレ見ろ笑われた。長風呂なんだよスミレは」

 

「そんな話なんですかコレ。歳下扱いされてる気がする……」

 

「歳下みたいなもんだよオレたち。大人じゃねえもん」

 

 あっけらかんと薊が言い放った。

 菫も従姉の放言に腹を立てることなく「確かに……」と頷く。

 

「ダフネは落ち着いてますからね」

 

「それは褒め言葉と受け取って大丈夫?」

 

「どうして皮肉なんて言わなきゃいけないんですか」

 

 毒気のない菫に肩の力が抜ける。何もなければこうして無邪気な――擦れたところのない、という意味だ――性格をしている。おそらくホグワーツで目の当たりにする機会はごく僅かで、物静かで抑制的な()()()()()()()()()()()()()()()()こそ不自然なのだろう。それを思うとぁり意固地になるのも馬鹿らしい。

 早くいきましょう、と言うより早く薊はレザージャケットを羽織り支度を済ませていた。何事も手早い。

 一方の菫はまだ夢見心地なのかもたもたと覚束ない。末っ子らしいというか、上の従兄たちとはやはり雰囲気が違う。

 

「なにボーッとしてんだよ。目覚ましついでじゃなかったのか」

 

「……ちょっと、のぼせて……」

 

 吸血鬼が熱いシャワーを浴びすぎてのぼせるなど初耳だった。けれど防衛術の授業でまともに吸血鬼を扱ったのは一年生の一回きりで、四年前ともなるとダフネの記憶も曖昧だった。蕩けた目をした菫がどうにかコートを着終えるてようやく出発の準備が整う。

 

「お祖父様に診てもらった方がいいかしら」

 

「そんな器用なのかあの爺様。杖を持ってるとこ見た覚えがねえぞ」

 

「ダンブルドアだって生徒の前で杖を見せることは少ないわ」

 

「同じ校長ったって比べられても困る。そっちのは大天才様だろ」

 

 身内に対しては平等にシビアな薊である。

 アルバス・ダンブルドアに比肩する魔法使いかと言われるとダフネも判断に困るが、それは詳細な素性を知らないだけのことだ。

 薬草学と魔法薬学に深く精通している以上は何一つとして把握していない。

 謎多き老翁は一足先に四人掛けの馬車で寛いでいた。老人にしては若々しいが、肌の質感や髪艶に反して身体は痩せているから奇妙な印象がつきまとう。ひとりでに開いた扉の向こうから樒はにこやかに笑いかけた。この表情も愛想なのか自然体なのか判断に難い。ただ孫娘と学友の和気藹々を面白がっているにしては含みがあるように感じてしまうのだ。

 

「お待たせして申し訳ございません。窮屈なところで」

 

「オーストリア魔法省の手配したモノより上等だ。それに女子(オナゴ)の支度を座して待つのは男子の甲斐性というものでな。なあ菖蒲よ」

 

 手前の席に腰掛けた葵菖蒲は無愛想に「ああ」とだけ唸った。

 あるいは呻いたのかも知れないが、表情からは窺い知れない。

 感情が顔に出ないのは薊と正反対だ。娘の方はかなり表情豊かなのだが、両親を筆頭に()()()()()()の多い家庭に影響されたのだろうか。同じ寡黙な気質でも父親のそれとは違った性格をダフネは感じ取っていた。

 薊と菫がそれぞれ乗り込むのを待つ。

 来賓が全員揃ったところで、ダフネは樒に問い掛けた。

 この場にいない菫の母親についてである。

 

「ツバキ様はよろしいのですか。両親は是非、招待したいと……」

 

「構わん。アレは生来魔法が使えぬ、あとはこの菖蒲がおれば良い」

 

 あくまでにこやかな声音と雰囲気のまま冷酷に突き放す。

 ただ親睦を深めるだけの目的ではないが、しかし政治的、個人的な思惑だけで行なわれる会見でもない。長女の友人、その母親と会って言葉を交わしてみたいという純粋な気持ちも確かに存在した。だが樒はあくまでニューイヤーパーティー前の親善を二の次と見做し「不要」と断じた。

 なるほど薊の気性は確かに受け継がれている。

 時折見せる菫の冷酷さとも似通っていると感じた。

 ただの好々爺とは違うのだな、とダフネの中で樒に対する心証が変化した。

 

 それを自覚したとき「この展開まで想像していたのでは?」と疑問を抱いたのは、影になった奥の席からこちらを見つめる視線が未だ笑っていたからだ。

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