「菫はいいとして。薊はドレス、持ってるの?」
ダフネは不意に生じた疑問を隠さずぶつけた。
朝食のあとで本邸を案内している最中である。
菫は意外にも晴れ着は複数持っているらしい。昨年のダンスパーティーでおそらくオートクチュールであろう二枚を披露していた。どちらも黒地で、名前通り一輪のヴァイオレットが咲いていたのは記憶している。だがあの一夜の思い出をいくら漁っても薊の姿が見当たらないのだ。私服は数多くそろえているから一着もないとは思えないが、しかし不安があるのは事実だった。
アストリアに手を引かれながら薊は一言「ない」と答えた。
「……和服もないという意味?」
「あるわけないだろ。浴衣だって去年の夏が初めてだ」
「あんなに私服は持っていて? おかしいわよそんなの」
「何がおかしいんだよ。いまどき和服着る女子高生いねえよ」
薊の言いようにダフネは驚いた様子だった。夏祭りの屋台広場でも女性はみな色とりどりの浴衣で着飾っていたからだ。
滞在中、屋敷の外に出たのはあの一度きりである。
菫と薊のみならず親戚たちも口を揃えて「遊ぶところがない」と言う。事実なにもなかった。
通行人すら少ないのでよほど寂れているように感じられた。
「夏祭りだけだよ浴衣着るのは。次の日には元通り半袖短パンさ」
「もったいない……本当に似合っていたのに。薊って着こなし上手だから」
「実家でくらい楽な格好させてくれ」
冗談だろ、という風に薊はダフネの言葉を一蹴した。
似合っていたのは半袖に短パンも同じである。引き締まったスタイルが強調されてそれはそれはハンサムに映ったものだ。
もちろん皮肉でもなんでもなく本心で世辞はなかった。
思う様に通じない心の裡をどう表せばいいか、悩ましい。
個人的な事柄はさておき。薊がパーティードレスないしそれに類する礼服を持っていないことは把握出来た。
都合がよいのか悪いのか。もちろん、英国の様式に則ったドレスがあるならそれが最善だ。しかし薊や菫の華奢な身体ではまったく似合わない。それはフローラとヘスティアの誕生日パーティーで十分に思い知った。
オートクチュールになってしまうが母は気にしないと思う。
薊も一着くらいあると予想していた。何もない休日、菫はお古らしきジャージやシャツを着るのに薊はいつだってロックファッションで厳めしい。
そうでないとなれば、最低でもまる二日を要する。
大仕事の予感にダフネの声は深く沈んだ。
「あとでお母様に衣装合わせをしていただかないと」
「何色がいいでしょう。赤っぽい方がカッコいいと思いますけれど」
「派手だなあ。もっと地味なのでいいよ、紺とか藍色とか……」
革ジャンやタータンスカートを地味とはいうまい。
「黒もスマートでよくお似合いだと思います!」
「黒もいいですね。ムダがなくって、印象的でもありますし」
「オレの意見は一つも採用されねえ」
愚痴っぽい薊にダフネは苦笑を贈った。
彼女のように胸の裡を打ち明けられたらどれほどいいだろう。寡黙であっても陰気さとは無縁の薊を羨んでいる自分に気づかされる。
菫の方がよほど謎めいて接するのが難しい。同性から見ても美人には違いないが「ああなりたい」とは思わない。
親しみを覚えるのは「晴れ着持って来たらよかったなあ」とボヤく着道楽なのやら省力主義なのやら分からない友人、もとい同級生である。
やはり葵薊はインパクト抜群なヴィヴィッド・デザインが相応しい。そこは二人の意見が正しいとダフネも内心で同意していた。
「いいじゃない。新年ぐらい派手な装いでも」
「山吹さんと同じコト言うじゃないか」
今朝からようやく薊も笑顔を浮かべた。
鋭さがやわらいで端正な顔立ちが引き立つ。
アストリアが夢中になるのも分かる。近寄りがたい棘のある雰囲気と、この柔らかな表情の
社交的とは言い難いが年齢以上に落ち着いていると思う。
少なくともスリザリンが求める理想像からは遠い。そんな薊と短期間に打ち解けるには、スリザリンの理想とまで言われた──その何割が皮肉なのか四年を経ても判断がつかない──菫の存在が必要不可欠というのは、悪い冗談そのものだ。
応接室の扉を開きながらダフネは思った。
菫も菫で、社交的とは言えない性格だった。
だが表面的には大人しい。関わりが少なければ少ないだけ、比例して菫との間に生じるトラブルリスクも小さくなる。
アストリアに手を引かれた薊が窓辺に近づく。
ダフネと菫は少し離れたところから見守った。
昨晩は暗闇に覆われていた景色が、いまは鮮明である。
白い人差し指が一面に広がる木々の海を示す。
「あの広い森はぜーんぶお屋敷の一部なんです。奥深くには美しい精霊が住んでいるとか……」
森の広さに薊は声をあげて驚いた。興味津々のようだ。
「そこの湖はどうなんだ。あの森の端っこにある大きいの」
「あそこは『神秘部』が管理しているそうです。どんな経緯でそうなったのか、誰も知らなくって……」
「『神秘部』? 魔法省の?」
聞き覚えのあるフレーズだった。全面ガラス張りのエレベーターで誰かが言っていた記憶がある。
あのときは何をする部署か尋ねられる空気でなかった。
なにか怪しげな研究をしているのは記憶していた。
けれど。薊は『神秘』という観念に対し知識が乏しい。
もちろんアストリアに尋ねるような事柄でもない。彼女が知る世界のほとんどは書籍を通したものである。だから、この問いを受けるのはダフネ以外にあり得ないのだ。
「誰も知らないわ。『神秘部』の職員を世間では『沈黙者』と呼ぶくらい、あそこは秘密が多い」
「ですがダフネお姉様、ギャレス伯父様ならもしかすると……」
「おそらくだけれど。『破れぬ誓い』によって沈黙を義務づけられている」
「なるほど。なら、このハナシは忘れることにする」
そう言って薊はあっけらかんとしている。
清々しいほど潔い性格には嫉妬すら覚える。
ここまで何もかも割り切れるのは、ある種の才能だ。
それは間違いなく大人の振る舞いである。菫のような無関心とは違う。
饗した話題が予想以上のものだったアストリアは言葉を失う。
そんな彼女に薊は「温室を見せてくれないか?」と尋ねた。真っすぐに瞳を覗き込み、つとめて柔和な表情を浮かべている。口調こそ相変わらずのぶっきらぼうだが声音は優しい。ホグワーツでの薊しか知らない人間がこの場にいたら別人と勘違いしかねない。
「温室、ですか?」
軽く見上げる形でアストリアは薊の視線に答えた。
「ああ。どんな花が咲いているかな」
中性的な美形にこの低く掠れた声は、やはり刺激が強すぎる。
見つめ返した先から微笑みを贈られたアストリアは顔を赤らめた。
従姉妹で女性の趣味が似ることはあるまい。けれど一抹の不安がある。
もしや、もしや薊は、年下のあどけない女子が好みなのではなかろうか──?
いや。薊個人に何か不安があるわけではない。
欠点など誰しも抱えているものだ。それを踏まえて葵薊は学業でも私生活でも尊敬に値する。事実、言語の壁を感じさせないどころか試験の成績ではハーマイオニー・グレンジャーに譲らぬ秀才なのだから、見習って然るべきである。悪だくみの才能に限れば五年生で抜きんでている。問題はいま隣でアストリアと薊の様子を見守っている菫の方だ。
このどうしようもなく浮気性で、年上も年下も見境のない、そのくせ外見だけは並外れた輩がもしかすると親戚になるのだ。最悪である。
あの屋敷を訪ねるのはそう悪くはない。悪くはないのだが、もう一つ問題がある。
ダフネ・グリーングラスはやはりフラー・デラクールを好きになれないのだ。
アストリアと薊が交際関係に発展したと仮定して。
菫ともども交際が順調に進展したと仮定して。
二組四名が結婚することになったと仮定して。
フラーと義理の姉妹になるのは、不本意極まるものがある。
あの強烈な自己顕示欲と自己陶酔を年に数回も目の当たりにするなど、天変地異そのもの。耐え難い苦痛などという生ぬるい表現では不足している。
だから。アストリアには心苦しいけれど。
きっと。薊にそんな意図はないのだろうけれど。
もう少し。ほんの少しでいいから自重してくれまいかと。
ダフネは複雑な思いを無表情で覆い隠す。そんな胸中など素知らぬ顔で菫は「もしかしたら二人も交際したりして」と冗談とも本気ともつかないことを言う。いったいどちらなのやら判断し難い。表情の変化に乏しいせいだ。
何よりタチが悪いのは、菫の発言を否定してしまうと妹がようやく手に入れた自由を束縛することになる。
「……まるでスペイン宗教裁判ね」
自覚などないのだろう。たった一言「冗談でしょう」と返すだけで際限ない自己嫌悪に陥ると気づき、どう応じるのが良いか分からず適当に誤魔化す形になった。それすらアストリアと薊に対し不誠実に感じていい気分はしない。
一方の菫は驚いた様子で目を大きく開いた。
「モンティ・パイソン、ご存知なんですね」
「何それ」
「有名なコメディ番組ですよ。録画したのを見たことがあって……」
「私、これでも純血の出身なの。テレビを見たのはあなたの家にお邪魔させてもらったときがはじめてよ」
「次に来るときはちゃんと鑑賞会をしないと。バカ殿様もちゃんと大好きですけどね」
「それ、あなたお気に入りのキョーゴク氏のミステリみたいに残酷なことないでしょうね?」
「まさか。ひたすら笑いっぱなしですよ」
ニコニコと機嫌のよい菫はクスクスと笑い始めた。
よほど好きなコメディのようで「
「……そんなに面白いの?」
「本当にバカバカしくって……」
アストリアの手前、忍び笑いにとどめている。
我慢に我慢を重ねているのは一目で分かる。
滅多に刺激されない好奇心に嗜虐心が勝った。
「そう。それなら、楽しみにとっておくわ」
「えっ。今の流れで聞かないんですか?」
「ネタバレされたら面白さが半減するもの」
堪えきれない笑いと喋らせてもらえないショックが菫の声を途切れ途切れにした。
「ひ、非道いじゃないです、か、お預け……」
「慣れてるでしょう。遠距離恋愛なんだから」
ホグワーツとグリンゴッツを遠距離と言ってよいのかは知らない。休日のホグズミード散策で合流出来る程度の距離ではある。
フラーの心を射止めたのだから、愛想を尽かされないよう誠心誠意に向き合っていれば彼女は求めなくとも尽くしてくれる。
不愉快な人種ではあるが確かに美点はあるのだ。気に食わないのは個人の感性に過ぎないと考えれば無視する余裕を生む。
愛情にせよ依存にせよダフネ・グリーングラスが口を挟む隙はない。
ある意味で二人とも放っておける手合いと言える。
悩ましいのは誰よりもまずアストリアだ。その次に心配なのは、幼馴染の懸念もお構いなしにクリスマスの自慢をしてくるだろうパンジーで……しかし以前のように聞き手の役を担ってばかりとも行かない。
自分だって今度は意中の相手とパーティーに参加するのだ。
来るべきニューイヤーを考えて悶々とする。薊とアストリアはそんな姉妹を横目に、顔を見合わせた。
「私もダフネお姉様やスミレお姉様のように素敵なお相手と巡り会えるでしょうか……」
「スミレでさえ相手がいるんだ、アストリアなら引く手数多さ。独り身のオレが言っても信憑性ないけど」
「だからです。アザミお姉様ほど素晴らしい方が、どなたとも交際していないのが私には不安なのです」
「オレはこの顔で勉強しかしてないからな。スポーツ……クィディッチはまるっきり経験ないし」
アストリアは「日本も強豪国、ですのに?」と首を傾げた。
「台風が直撃しても練習やるんだから命がいくつあっても足りねえ。引っ張り込まれちゃ一貫の終わりだよあんな部活……」
思い返すだけで背筋がゾッとする。暴風雨になると練習を中止するホグワーツの理性に自分の正しさを再認識出来たくらいである。
「トヨハシテングの強さの一端を垣間見た気がします……『クィディッチ今昔』でも紹介されていましたけれど、やはり技術だけでなく精神面の鍛錬も必要なのですね」
薊はクィディッチに良い思い出がなく、選手経験どころか関心すら皆無だった。『豊橋天狗』なるチームが存在することも、間抜けな響きに反して世界的な強豪チームらしきことも、たったいま知ったくらいである。サッカーワールドカップすら無関心なのだからクィディッチは尚更にどうでも良かった。
アストリアの純真さを目の当たりにして自分の偏屈さ、頑固さを突きつけられた気がして、薊は今すぐ菫にバトンを託したくてたまらない。けれど従妹はと言えばダフネと何やら盛り上がってクスクス笑っている。
また貧乏籤か――半ば八つ当たりで、薊は菫を睨んだ。
「心技体はすべての基本だ」
と、当たり障りない答えにも大喜びしてアストリアは満面の笑みを浮かる。太陽よりも眩しい。輝きから逃れるように目を細めるなんて、自分も吸血鬼になってしまったのだろうか……自嘲と自己批判に薊の浮かべた笑みはみるみる作り物へ変わっていく。
ニューイヤーパーティーを前に心労で倒れる予感すらある。
世間の言う穏やかな正月とやらが羨ましくてたまらない。
薊の冬休みはまだまだ長く、謹賀新年を迎えるまでの道のりは果てしない。けれど精神的にはもう息切れどころか限界数歩手前、そんな具合であった。