十月三十一日はハロウィーンである。
ホグワーツでは屋敷しもべが朝から丹念にカボチャの下拵えをしている。
晩餐で振る舞われる大量のカボチャ料理を思うとスミレはもう胸焼けがした。
学校中どこにいてもカボチャの甘い香りがするので昼もほとんど食欲がない。
常備薬はキッチリ飲んでいるが、やはりあのカボチャラッシュは耐えがたいモノがある。
「トロールが来ないだけマシよ」
去年、女子トイレで繰り広げた大乱闘を思い出してパンジーは呟いた。
ちょうど一年前、スミレは吸血鬼化が進んで食事も睡眠もとれず心身が疲弊しきっていた。
それを思えばカボチャの匂いで胸焼けしている現在、薬のおかげとは言えホッとする。
クラッブとゴイルはさておき、大の甘党であるドラコもこの数日の不機嫌が収まったようだ。
ロックハート熱病を患っているミリセントは今日がハロウィーンでなくても浮かれているだろうけれど。
スミレには魔法界のあらゆる文化が馴染まなかった。
ダンブルドアがパーティの余興に『骸骨舞踏団』という人気音楽グループを呼んだと噂になっていたが、試しにパンジーが持っていたレコードを借りて一曲聴いてみると、Aメロが終わる前に蓄音機を止めた。
ヘヴィメタルは趣味ではない。
結局、今年のハロウィーンもデザートを待たずに大広間を後にした。
去年はパンジーが連れ添ってトロールの襲撃に巻き込まれたが、今年は頼れる後輩がいた。
カボチャ嫌いのカロー姉妹である。
今日のために実家からクッキーとチョコレート、それに瓶のトマトジュースを送って貰ってあるという。
二人ともソースのかかっていないプディングを少し食べて、生地までカボチャ味になっていることに失望し早々に退出したのだった。
「本当に助かりました……空腹で一晩過ごすのかとばっかり」
「スミレ姉様とご一緒できて嬉しいですわ」
「フローラと私だけかと思っていましたの」
三人仲良く「せめて食事は普段通りに」とか「ソースや生地までカボチャだなんて」と愚痴を言いながら地下の談話室を目指す。
人気のない廊下をロックハートの悪口で賑やかす。
なまじファンが多くおおっぴらに言えない現状も鬱陶しい。
『――――――ス……』
「?」
囁くような呻くような、低く湿った声。
ピーブスのおどけた調子ではないのでスミレも足を止めた。
遅れてカロー姉妹も立ち止まり振り返る。
「どうなさいましたスミレ姉様?」
「お加減が優れないでしょうか?」
「いえ、今誰かが壁の中で喋ったんです」
「申し訳ございません、私たちは何も……」
「お姉様とのお喋りに夢中でしたので……」
ヘスティアとフローラが申し訳なさそうにするのを気にしないよう宥め、もしかするとタチの悪いゴーストかもしれないと言って声を追うことにした。
襟の中にいるザクロが《壁の中に蛇がいる》と言うので、もしパーセルマウスのゴーストなら、ダフネにパーセルタングを教えてくれないか頼んでみるつもりだった。
自分が教わるのは絶対に嫌だがダフネは気にしないだろう。
あとを追うと徐々に掠れた声が明瞭になっていく。
すると聞き取りづらかった言葉もはっきりし始めた。
『八つ裂きにしてやる…………』
『殺す…………殺すときが来た…………』
気づいた時にはもう遅い。
廊下の向こうに生徒の姿が見えた。
男子二人に女子一人、三人はまさに現場の真っ只中にいた。
有名なグリフィンドールの『トリオ』はスミレとカロー姉妹を見た。
「うわあ……だから離れようって!」
相手がウィーズリー家とカロー家ということもあり、険悪な空気が漂う。
上級生相手に礼を失するフローラとヘスティアではないが目線は冷たい。
「今の声、君も聞こえた? 壁の中から声がしたんだ!」
「はあ。聞いたような気がしたんですが、どうも最近眠りが浅いので」
スミレはとぼけた。
それでなくてもグリフィンドール内で自分は都合がいい時以外、まともに見られていない。
そこへサラザール・スリザリンと同じパーセルマウスだと知られればもっと心証に響く。
出来うる限り日常生活のストレスは少なく。叶うなら魔法界に報復を。それがスミレの基本スタンスである。
なにより、友達でもなんでもない相手に明かす気になれなかった。
ロンは震える手で壁を指さした。恐怖で顔が青ざめている。
ヘスティアとフローラはその先に目を向け、薄い唇を動かした。
「秘密の部屋は開かれた」
「継承者の敵よ、心せよ」
壁の高いところに書き殴られた文字を読み上げ、黙り込んだ。
松明の灯で鈍く光る赤い文字がなにで書かれているのか嫌でも察してしまう。
さらに水びたしの床が天井の様子を反射する。
謎のメッセージが意味するところを論じる前に、六人はようやく恐怖を分かち合った。
逆さまになって揺れるミセス・ノリス、管理人の猫が凍りついていた。
松明の腕木に尻尾を引っかけ宙吊りになっている。ぎょろりとした黄色い瞳は見開かれ、表情はなにかに怯えているようだ。
僅かに揺れている以外には微動だにせず、どう言い訳しようにも死んでいた。
スミレは重々しく口開いた。
「早く逃げて、マクゴナガル教授にでも報告すればよかったのに……」
「ホント同感。これをフィルチに見られでもしたら腹ペコのまま退校だね」
「ロン、冗談言ってられる状況じゃなくなったわよ」
遠くから聞こえるざわめき。
スミレたちが来た方から押し寄せてくる人だかりは、ハロウィーンの宴を終えて寮に戻る学生たちだ。
しかも中にはドラコ・マルフォイもいる。
現実の方がよほど冗談じみていた。シニカルに口を歪めたロンは呆然とする。
何百という足音がみるみる近づいてくる。満腹になったご機嫌な声、男女を問わずお喋りに花を咲かせて惨劇の現場へ踏み込んだ。
廊下を埋め尽くすほどの大人数は壁の文字を見、水びたしの床を見、そしてミセス・ノリスを見、次々に生気を失っていく。先頭からどんどんと宴の余韻が消え去り、重く苦しい沈黙に支配される。
その中で目を輝かせている一人が声高に叫んだ。
「継承者の敵よ、心せよ! 次はおまえたちの番だ、この『穢れた血』め!」
血色の悪い白い顔を紅潮させ、覚めきった青い瞳をらんらんに輝かせながら最前列へ躍り出て、ドラコはグリフィンドールの三人へニヤニヤと笑いかけた。
何人かの上級生から睨まれてもお構いなしでさらに畳みかける。
少し後ろでクラッブとゴイルもゲラゲラ笑い声を上げている。
「ついにやったな。これでお前たちも退学処分だ……ああ、けど随分持ったじゃないか、豚小屋に戻されるのはそんなに嫌だったかウィーズリー!」
ここが大広間で、今が食事時であればフローラとヘスティアも笑えただろう。
流石に遠くから見覚えのある禿頭がチラチラ覗き始め、ついに面倒事の予感が勝った。
「なんだ! なんの騒ぎだ? どけ、邪魔だ! 通るぞ」
ドラコの大声を聞きつけてフィルチも現場に駆けつけた。
薄暗い廊下を照らす大きなランタンを掲げ、顔に濃い影を作りながら垂れ下がった頬肉をにんまりと歪め、ハリーとロンを見遣る。
彼の中で二人はもはや双子のウィーズリーに並ぶ要注意人物となっていた。
「ポッター、またお前なにか……」
そうして床と壁に目線を移し、老管理人もついに見てしまった。
哀れなミセス・ノリスの姿に震え、目に涙を浮かべて戦く。
フィルチは口を手で塞ぎ、後ずさりしながら悲鳴をあげる。
「私の! 私の猫だ! ミセス・ノリスに何が起こったんだ!」
金切声でフィルチが叫ぶ。
日頃生徒の大半から恨みを買っている男が、今だけは同情を集めていた。
いかに憎かろうと、彼は今、愛する者を失って取り乱している一人の老人だった。
その痛ましさたるやハリーに掴みかかるのを誰も止められないほどである。
「お前だ! お前が私の猫を殺したんだ! お前があの子を! 私がお前を殺してやる!」
「ぼ、僕じゃない! 本当です!」
嗚咽混じりの雄叫びを上げるフィルチは、今にもハリーの首を絞めようと手を伸ばした。
すんでのところで静止する声があり恐慌に陥った管理人を制する。
「アーガス!」
鋭い一声でダンブルドアが人混みの中からフィルチを止めた。
連れ従って駆けつけた教授たちも、目の前の光景に背筋が凍りつく。
六人の脇を通り抜け、ダンブルドアはミセス・ノリスを松明の腕木から外す。
その隙にスミレは後輩二人の様子を確かめる。驚いてはいるが冷静さを失っている様子はない。フローラとヘスティアをすぐに人混みの中に紛れ込ませた。教授の誰もが壁の文字とミセス・ノリスに目を取られ、暗がりの中へ隠れた双子の姿を探そうともしない。
集まった生徒たちに振り返ると、その方向の生徒たちが逃げるように道を開けた。
「アーガス、一緒に来なさい。ポッター、ウィーズリー、グレンジャー、アオイ。君たちもおいで」
四人は黙って従う。
もはや校長にすべてを委ねるしかない。
身の潔白を証明するのも、あのダンブルドアに任せれば大丈夫――そう信じたか、あるいは単に抵抗するだけ無駄だけ諦めたのか。
そこへロックハートが進み出て、何故か自慢げに切り出した。
「校長先生、私の部屋が一番近いです。すぐ上です、どうぞご自由に」
「ありがとう、ギルデロイ」
校長が先頭に立ち、その後をマクゴナガルが続く。
そして誇らしげに胸を張るロックハートが堂々たる足取りでフィルチの肩を叩く。
生徒四人を見張るようにスネイプが最後尾へ陣取り、両脇に退いた野次馬をただの一瞥だけでその場から移動させる。
監督生が下級生を寮ごとにまとめていくのを聞きながらスミレは考える。
壁の中の声はパーセルタングで呟いてた。
そして確かに移動していた。手段は不明だが、そんな芸当が出来るのはネズミかゴーストのどちらかしかいない。
この件は『血みどろ男爵』に報告し、今夜の来訪霊を調べて貰う必要がある。
次は誰が襲われるか分かったモノではない。
友人に犠牲が出る前に手を打たねば――
†
ロックハートの部屋は主同様に自己主張が激しい。
写真たちも同様で、校長の来訪に慌ただしく身なりを整え始めた。
スミレは空腹が辛く、衣服のポケットというポケットを漁りチョコか飴でもないかと必死になっている。
何もないと分かると窓の外をぼーっと眺めて飢えに耐える。
ダンブルドアはミセス・ノリスをよく磨かれた机の上へ置く。
早速間近で様子を観察し、マクゴナガルも同じように至近距離で毛並みや筋肉の状態を事細かに調べ始める。
スネイプは部屋の片隅で影の中に身を隠している。
なにが愉快なのか口元が小刻みに震えていた。
ダンブルドアは指先で優しく強張ったままの身体を撫でる。
ロックハートはせわしなく部屋を歩き回り、ろくに調べもせずあれこれ意見を述べた。
「猫を殺したのは呪いに違いありません! 恐らくは『異形変身拷問』の呪いでしょう! 私は何度もこれと同じものを目にしましたよ!」
ご自慢の武勇伝も今はただ虚しい。
フィルチのすすり泣く声の方がよほど胸を打つ。
両手で顔を覆い、ミセス・ノリスを直視することも出来ず泣きじゃくる姿はあまりにも痛々しいものがあった。
ハリーもロンもハーマイオニーもフィルチは心底嫌いだし、ミセス・ノリスも同じくらい忌々しい猫だと思っていた。
だがいざこうなってみると、可哀想でならない。
杖で一通りの呪文を試し終え、ダンブルドアは魔法がなんの効果もないと把握した。
「――そう、非常によく似た事件がウグドゥグという田舎町で起こったのですよ。次々と犠牲者が出る大事件でしたね。私の自伝に一部始終書いてありますが。私が町の住人にいろいろな魔よけを授けましたところ、あっという間に事態は収束したのです」
壁の写真たちが本人の話に合わせていっせいに領いていた。
一人はヘアネットをはずすのを忘れていた。スミレが黙って手で「忘れてますよ」と教えると、気恥ずかしそうにこっそり外してはにかんだ。
「――アーガス、猫は死んではおらんよ」
ダンブルドアは優しい声でフィルチに声を掛けた。
泣きはらして目が充血したフィルチはさっと顔を上げる。
似たような事件と、犠牲者の数とを延々列挙していたロックハートも「えっ」と声を挙げた。スネイプが爆笑するところを見たくてスミレはそちらに目を向けたが、睨み返されたので素直に校長の方を眺めた。
「けれどこんなに冷たくなって――固くなって、いったい何が!?」
「石になっておる。生半可な呪いではない……学生には到底出来ぬ、極めて高度な魔法じゃ」
マクゴナガルもダンブルドアに同意し頷いた。
この二人が認めた以上、二年生の四人が潔白なのは明らかだ。
だがフィルチの剣幕は収まらない。
ハリーがやったんだと金切り声で喚き、それをダンブルドアがまた優しく宥める。
ダンブルドアですら手も足も出ない石化など、ハーマイオニーですら知らなかった。
石化呪文は『フィニート・インカーターテム』で容易に解除出来る。
薬や、特定の動植物の鳴き声の類いに思われたが、それなら石化ではなく失神のはずだ。
「校長、我が輩からも一言よろしいですかな」
スネイプが助け船を出すなど、ハリーには信じられなかった。
自分をさらに不利な状況に追い込む気だと確信していた。
「ポッターとその仲間は、単に間が悪くその場に居合わせた可能性はありませんかな」
影の中から助け船を出されるなんて。
あまりに不吉な助言だったが、その通りだった。
「ミス・アオイは元より少食。昨年に比べ体調はすこぶる良好のようですが……今宵の晩餐も彼女の生まれから推察するに、舌に合わぬのではないかと」
暗い目は次にハリーたちへ向けられた。
今度こそ徹底的に追及し、尻尾を掴んでやるぞと無言の内に宣言している表情だった。
「しかし、未だ疑わしい状況にある生徒が残っている……彼らは何故、大広間にいなかったのか。これは無視し難い疑念ですぞ校長」
「ほとんど首なしニックの『絶命日パーティ』に参加してました。寮憑きのゴーストたちが証明してくれる筈です」
「ではその後大広間に来なかった理由は? 何故あの廊下に行ったのかね?」
「それは……僕たち疲れていて、すぐにでもベッドに行きたかったんです」
「食事も摂らずにかね? ゴーストの晩餐で人間に食せるものがあったとはとても思えんが?」
「出された食べ物がみんな腐ってたんです……おかげで食欲がなくって」
見計らったようにロンのお腹が鳴った。
確かに、空腹であれ腐った料理など目にしては食欲も失せる。
ハーマイオニーもどの料理がどんな風に腐っていたかを正確に説明した。
蠅のたかるローストビーフ、ウジ虫に覆われたチーズ類、茶色く濁りどろどろになったコンソメスープ、形崩れしたプディングやソーセージは皿に青緑色の汁を垂らしていた。
それはもうひどい有様である。スネイプはあまりに気色が悪い光景を想像させられて吐き気を催した。
袖で口元を押さえながら、それでも攻撃の手は緩めない。
ロックハートもある意味でプロ並に図太いが、スネイプの執念深さも本物だった。その気配を察して、ダンブルドアはさらに追い討ちを掛けようとするスネイプを制した。
この状況を利用して、ハリーを今年のクィデッチシーズンから排除しようとしてもおかしくない。そのくらいスリザリンの寮監は勝利に対して貪欲だった。
「疑わしきは罰せず、じゃよセブルス」
「罰せず!? 私の猫が石にされたんだ! 罰を与えなけりゃ収まらん!」
今度は落ち着いたかと思ったフィルチが激昂した。
またもや金切り声をあげ、生徒四人を飛び出した目で何度も何度も睨みつける。
「落ち着くのじゃアーガス、君の猫は治せる。スプラウト先生が温室でマンドレイクを育てておってのう。それが成長すれば、石にされた者を治す薬を作ることができる」
「マンドレイク薬でしたら是非この私にお任せください! これまでに何度も調合してきました! 今なら眠りながらでも、簡単に作れてしまいますよ!」
またもやロックハートが会話に飛び込んだ。
マンドレイクと言えばまだ記憶に新しい単語だ。
九月のはじめ薬草学の授業でまだ若い木の鉢の植え替え作業をした。そのときにヘマをして気を失ったネビルを思い出す。スミレもあまりの醜さに卒倒して赤っ恥をかいた。
教授が許可すれば、ピクシーと同じく温室もろとも焼き払ってしまいたいほど不愉快な植物である。
「魔法薬学の担当は君ではなく我が輩だったはずだが?」
「おっと、これは失敬! スネイプ教授の貴重な出番を横取りしてしまうところでした! いやぁ、ですが『秘密の部屋』だなんて、また随分と手の込んだイタズラじゃありませんか!」
「……ダンブルドア校長、これ以上四人を留める必要はないでしょう。寮に戻らせてもよろしいのではありませんか?」
生徒を案じたマグゴナガルの言葉にダンブルドアも頷いた。
フィルチとスネイプは不満げだったが、校長の判断に逆らえる者などホグワーツにはいない。
「四人とも、もう戻ってよろしい。じゃが、確かに出来る限り廊下では二人以上であった方が良い。明日の朝にも、改めてわしから皆に伝えるとしよう」
「寮監に連絡して、監督生には先に報せるようお願いしておきましょう。念には念を入れた方が良いでしょうから」
「そうしてくれるかのうミネルバ。セブルス、ミス・アオイを寮まで送り届けてくれんか。スリザリンの寮監は君じゃ、監督生に伝える件もあるしのう」
フィルチに一つ頷いた後、ダンブルドアは解散を言い渡した。
ロックハートは部屋に取り残されたが、めげることなくフィルチを相手に輝かしい武勇伝を語り聞かせていた。
スネイプに「来い」と言われ、スミレはようやく解放されたと一息ついた。
寮に戻る途中、色々質問したかったがとても聞いてもらえる雰囲気ではなかった。
ネビルが鍋の中身を爆発させ、頭から失敗作を被ってもこれほど張り詰めた顔はしていない。
もしかして予想以上の大事なのかと気づいた時には、もうとっくに寮の談話室に着いていた。
ついに第二章が本格的に始まります。
シリーズでも『アズカバンの囚人』と並びホラー色が強い私のお気に入りです。