秘密の部屋が開かれた――
クィデッチシーズンを間近に控え、季節の風物詩である『宿題をほとんど出さないマグゴナガル』に皆が顔を綻ばせる時期。
にも関わらず、生徒の話題は『秘密の部屋』と『スリザリンの継承者』の二つだった。ハロウィーンの惨劇によって、誰もがホグワーツで最も忌まわしい伝説が現実となったと思っている。
伝説の概要は学校が創設された時代へ遡る。
四人の偉大な魔法使いと魔女、現在は寮にそれぞれ名を残す創設者たちが決別した逸話に付随するものだ。
あるとき、サラザール・スリザリンは入学の条件に確かな純血の生まれであることを求めた。
これにゴドリック・グリフィンドールが猛反発し、親友であった二人の関係は破綻する。ヘルガ・ハッフルパフとロウェナ・レイブンクローもこの条件には反対した。
勇気と騎士道を求めるグリフィンドール。
知性と探究心を求めるレイブンクロー。
あらゆる条件を付けないハッフルパフ。
そして厳格に純血を求めたスリザリン。
創設者たちの思想は寮の理想に反映されている。
結局、スリザリンは三人と再び手を取り合うことなくホグワーツを去った。
そのとき、学校内に自らの理想を受け継ぐ者のみが開くことのできる『秘密の部屋』を残し、中には真の継承者だけが操れる『恐怖』を閉じ込めたと言われている。
継承者が扉を開くときこの『恐怖』が学校に解き放たれ、スリザリンの理想と合致しない生徒は追放されるとも伝えられる。
継承者の候補に上がったのはやはり目撃者の六人だった。
しかしロンとハーマイオニーはすぐに除外された。
前者は純血の名門ながら反純血主義で有名なウィーズリー家の出身であり、後者は優秀だがマグル出身……スリザリンの継承者からすれば攻撃対象である。
カロー姉妹は純血生まれの純血主義だが、そもそも二人は一年生だ。いくらなんでも新入生がダンブルドアの手に負えないレベルの闇の魔法を使ったなんて、誰も信じない。
残ったのはハリーとスミレだった。
二人がどれだけスリザリンの思想と相反する人物か、それぞれの寮の生徒はよく理解していた。
かたや純血主義を真っ向から否定し、かたや趣味の大半がマグル界のもの。もしもどちらかが継承者なら今頃サラザール・スリザリンは草葉の陰で泣いていよう。
それを考慮せず面白い方に飛びつくのがホグワーツの生徒だ。
マグゴナガルは腹立たしいと事あるごとに注意したが、彼女は学生時代、それはもう堅物の優等生だった。生徒の噂を止めようがないと経験から分かっていた他の教授たちは「あまり気にしないこと」と助言するに留めた。
それでもハリーは日に日に苛立ちを募らせる。
スミレも真顔の仮面の下に恨み辛みを溜め込んでいく。
が、すぐに状況は一変する。
ハリーが対スリザリンとクィデッチの試合に臨んでいる最中。
ブラッジャーがハリーの腕をへし折った。しかもこの暴れ玉はハリーを付け狙い、マダム・フーチも試合中断を了承してゲームを再開するか確認したほどだった。
スミレはこのとき、ドラコの初試合だからと渋々観戦していた。
ザクロは寝室で留守番中である。そんな時にハリーが大怪我を負いながらスニッチを掴み、なおも暴れ狂うブラッジャーはハーマイオニーが破壊して事なきを得た。
「あちらは医務室でしょうね」
ぼんやりとハリーの方を眺め、軽い打ち身で大騒ぎするドラコはパンジーに任せている。粉々になったブラッジャーの破片を拾ってみるものの、素人なのでなにも分からない。
ドラコは迫真の演技でパンジーの気を引こうとしているだけだ。
わざわざ駆けつけたスミレは寒さに震えるばかりだった。
「ドラコ、あなたクィデッチ向いてないんじゃ……」
「言ってる場合!? 見てよ、ドラコがこんなに痛がってる!!」
「だからですよ」
恋は盲目……そんな呟きを胸にしまい込み、グリフィンドールの人だかりへ向き直った。ミリセントが連れてきたロックハートは杖を構え、「大丈夫、私に任せなさい! これまで何度使ったか知れないほどこの呪文は得意ですからね!」と喚きハリーの嘆願を無視した。
怪しい発音で呪文を叫ぶと、心配の声は悲鳴に変わった。
「あー……まぁ、たまにはこういうことも起こり得ますね! でもホラ、もう痛くなくなったわけですから! 骨折は治りました!」
「痛くなくなった!? 骨がなくなったんじゃろが!!」
ゴム製品のようにだらしなく肩から垂れ下がった腕を掲げ、ロックハートは苦し紛れにスマイルを振り撒いた。それを怒鳴りつけるハグリッドの声で、シャッター音はかき消えた。
「怪我人ですよ、やめなさい」
無神経にシャッターを切るコリンを後ろから引っ張り、赤と黄色の輪からカメラ小僧を切り離した。キョトンとした顔のコリン・クリービーはスミレに向けてシャッターを切った。
「…………」
もし写真に自分が写っていなければ、大勢に自分が吸血鬼だとバレる。コリンの胸ぐらを掴む勢いで顔を近づけて、なるべく声のトーンを落としてゆっくり話しかける。
「私は写真を撮られるのが大嫌いです。分かりますね」
「えーっと、ちゃんと断らないとダメですか?」
「断らなくても、ダメです。そのフィルムを渡しなさい」
これは最後通牒です――そう迫ったところで、またもや取り残されたロックハートがスミレとコリンに目をつけた。相変わらずカメラ小僧は自分が怒られている状況を把握できていない。
しかもハリーを『骨抜き』にした教授はマイペースだった。
「おやおやクリービーくん、ミス・アオイが仰る通り、さっきのはいただけませんでしたね! ハリーは怪我人だったのですから、何も言わずにパシャリとやるのはちょっと失礼ですよ! まあ私はいつでもどこでもカメラは大歓迎ですがね!」
自分の失敗を撮られたことを気にしていた。
言っていることはもっともらしいのだが。
このあとマグゴナガル教授とマダム・フーチが生徒を解散させた。
その後、スミレは校舎に戻ってからずっとどうやってフィルムを奪うか悩みに悩む。
――顔を見られるわけにはいかない。
――まして杖もそうだ。サクラの杖は置いていこう。
――口封じも必要になる。
――服従の呪文はどうすれば使えるんだ。
今も窓や鏡には自分の顔が映っている。
しかし写真はどうかなんて聞いたことも見たこともない。
いっそフィルムを現像させ、自分の写真だけ持って来させるか?
そのためにも『服従の呪文』が必要になる……!
半年以上ぶりの眠れぬ夜を過ごして翌朝。
スミレの元に吉報が舞い込んだ。
二人目の犠牲者である。
コリン・クリービーが石となり、カメラも破壊されていた。
カメラが壊れたなら医務室を襲う手間も省けた。
だが同時に、前日クィデッチのピットでコリンを脅していた場面を皆が見ていたことも思い出す。
こうして六人でスタートした継承者の最有力レースからハリーが脱落し、スミレの単独一位が確定してしまったのである。
†
他の寮から継承者と後ろ指をさされたところで、スミレの生活にはなんの変化もなかった。スリザリン生で噂を間に受けるような者がいなければ十分すぎた。
マグル趣味にどっぷりの東洋人が偉大なるサラザール・スリザリンの後継者なはずがあるものかと、全員が確信を持っている。
大広間での食事もあまり落ち着かないが、そもそもホグワーツで心から落ち着くことが少ない。ドラコの嫌味にいつもより集中できる程度のものだった。
「また『穢れた血』が倒れた、継承者は本気だ。次は誰がやられるか見ものだな。愉快な上にホグワーツが綺麗になるんだから継承者さまさまじゃないか」
グリフィンドールからの恨みが込められた目線をドラコは痛快に笑い飛ばす。マグル出身者がどうなろうと知ったことか、という雰囲気はスリザリン全体に漂っていた。
スミレは純血の生徒が襲われようと興味はなかったが、ハロウィーンの夜に聞いたパーセルタングは気になっていた。
「……ところで去年から気になっていたんですが『嘆きのマートル』って誰ですか?」
コリンの一件で他の寮憑きゴーストからは話を聞けそうにない。
名前を知っているゴーストで、寮憑きでないのはマートルだけだった。しかし肝心のマートルのことを何も知らないでいた。
パンジーがドラコにソーセージを食べさせながら教えてくれた。
「三階の女子トイレにいる、ブスで泣き虫の陰気な幽霊。それ以上は誰も知らないわ。だってどうでもいいもの、あんなうるさいブス」
そんなに酷い顔なのかと困惑を禁じ得ない。
もしかして頭がぐちゃぐちゃになっているとか、伽倻子みたいな状態なのかと恐ろしくなってきた。
「けどなんで今さらマートルのコトなんて聞くのよ。なにか使い道でも見つけた?」
「ええ。霊探しを手伝ってもらうつもりです」
「モグモグ」
「スミレってゴースト苦手じゃなかった?」
「モグモグ」
「どうも城のどこかにパーセルマウスのゴーストがいるようなので、是非会ってみたいんです」
「モグモグ」
「パーセルマウスの? 男爵に聞けば一発でしょ」
「モグモグ」
「男爵のお知り合いにはいないとのことでした。ほかに頼れそうな霊もいませんし……」
「ねえパンジー、ドラコなにか喋りたいんじゃない?」
「ヤダほんと! ゴメンねドラコ! はいトマトジュース!」
パンジーは慌ててピッチャーからグラスにジュースを注ぐ。縦長のグラスを引ったくると、なみなみに注がれた鮮やかな赤色の液体を一息で飲み干した。
口の端についた赤いトマトの果汁が血液のようで、尖った顎と青白い肌も相まって吸血鬼に見える。ドラコは大きく息をついて、マートルのことを話し始めた。
「どの教師も『秘密の部屋』は存在しないと言っているが、父上は違う。五十年以上前に、一度部屋は開かれていると仰っていた」
「ダンブルドアだって見つけられなかったはずだろ?」
「奴はグリフィンドール出身だ、偉大なるスリザリン卿の遺産に触れられるはずない。ともかく……前に開かれた時は生徒が一人死んだだけだ、たかが『穢れた血』一匹で大騒ぎになったらしい」
「その生徒が『嘆きのマートル』かもしれない……」
全員声を潜め、なるべく話を聞かれないよう注意していた。
ドラコとダフネ、それにセオドールは何度かグリフィンドールを睨み返し、相手の集中を乱しながら会話に加わる。
「なかなか面白い話ですね。調べ甲斐がある」
ゴーストへの嫌悪感が初めて他の感情に塗りつぶされた。
いつもと同じくパンケーキを食べながら、スミレは色白な顔に笑みを浮かべて放課後を待ちわびた。継承者が誰であれ『秘密の部屋』は大いに興味がある。ホグワーツを閉鎖に追い込めるこれ以上ない機会、最大限に生かさねばなるまい。
†
「なによ。スリザリンの生徒がこんなところに。また私を笑いに来たんでしょ! ブスで泣き虫で卑屈なマートル! 『ホラ見て!あの馬鹿トイレで死んだわ』って!」
私服で来るべきだったとまず後悔した。
女子トイレのゴースト、マートルは緑色のネクタイとローブを見るなりヒステリックに泣き叫んで会話どころではない。
スミレはどうにか落ち着かせようとするが、どうしようもないくらい半透明の女子生徒は取り乱している。
「そんな、誤解です! 私はあなたとお話がしたくて来たんです!」
「嘘! 嘘! 嘘! スリザリンは大嘘つき!! 私を騙して笑い者にしようたってそうはいかないんだからこの卑怯者!!」
「私まだ挨拶しかしてませんよ! そこまで酷く言われるなんて心外です!」
「アンタたちが今までアタシにして来たことよりずっと優しいわよ! アンタ、頭に教科書ぶつけられたことある? マートルの頭に当てたら二〇点! 腹に当てたら五〇点! 相手が怪我しないからって、やっていいことと悪いことがあるわよ!!」
「ですから、私も立場がないんです! 私が『秘密の部屋』を開いて生徒を襲ってるとみんな噂してる!」
するとマートルはようやく窓辺から滑るように下りて、スミレの目の前に立った。前評判と比べ、大きな丸メガネと濃く太い眉こそ目を引く。それに少し老けて見えたがそれだけだ。
美人とは言い難いが、抜きん出て不細工でもない。中途半端な顔立ちである。
怒り狂ってマートルは銀色の唾を飛ばす。
唾までゴーストなので当然スミレの身体をすり抜けた。
「ならアンタがやったのよ! この人殺し!」
「無茶言わないでください! 私、ホグワーツに来るまで日本で暮らしてたんですよ!? それもマグルとして! なにが『継承者』ですか! 知りませんよサラザールだかサラダボウルだかいうとっくの昔に死んだようなハゲのことなんて!! 誰が好き好んでこんな陰気な学校になんか!! なんで私だけこんな怖い思いばっかりしなきゃいけないの!!」
去年からずっと溜め込んできた本音をぶちまけると、女子トイレは静まり返った。
マートルが鼻をすする音が響き、壊れた便座から溢れ出る水の音にかき消された。
泣き腫らした目の色が少し濃くなっている。
ゴーストが充血するとこうなるようだ。
「そう……そうなの……なんていうか、アンタも大変なのね。ごめんなさい。アタシって死ぬ前もあとも、スリザリンの制服にろくな思い出がなくって……いい思い出がないのはこの学校もそうなんだけど……」
「いえ、いいんです。まぁグリフィンドールも似たようなところがあるとだけ訂正させてください」
「分かる! 本っっっ当によく分かるわ! スリザリンは陰湿だから大っ嫌いだけどグリフィンドールも乱暴で品がないから大っ嫌い!! あ、アンタは別よ。スリザリンだけど。ちっこくて可愛らしいし」
背丈のことは言われたくなかったが我慢した。
イギリス人から見て己がチビなのは、スミレも事実として認めている。
「で。なにが聞きたいの? トイレで考える哲学なら幾らでもあるけど。ざっとウン十年分くらい。あ、もしかしていい身体してる監督生のこととか?」
(なんで知ってるんだろう。もしかして覗き?)
仲間意識を持たれていた。
いじめに近い扱いをしてくるのはスリザリン以外の生徒で、スミレにしてみれば態度が気にくわないだけなのだが。それもマートルにしてみれば我慢ならないだろうと確信していた。
急に親身になったマートル女史のゴーストに、スミレは顔のあらゆる筋肉を総動員して温和そうな微笑みを贈った。
「ええ、パーセルマウス……蛇の言葉を話せるゴーストがいらっしゃらないかと思いまして。前に壁の中から蛇語が聞こえたので、もしかしてと思ったんです」
「蛇と話せる……? ううん、いないと思う。ホグワーツにいるゴーストってすごく多いけど、みんな普通の卒業生だし。サー・ニコラスの知り合いにもいないんじゃないかしら。ホラ、あの人っていい意味でグリフィンドールっぽいじゃない?」
――純血主義拗らせたようなヤツとは付き合わないと思う
言われてみれば確かに。
スリザリンの血筋が特に強いゴーント家と同時代の人間がいたとして、礼儀正しいあのサー・ニコラスが親しくするとも思えない。それはゴーストでも同じだと思われた。
しかしこれは問題だった。
あの夜、壁の中にいたのは『本物の蛇』ということになる。
今ならマートルは機嫌がいい。
彼女がどうやって死んだのか確かめたいところだが、このヒステリックで情緒不安定な先輩にどう接したらよいか分からない。なにが地雷なのかさっぱりである。
まずは、手始めに名前を呼ぶところから始めた。
「えっと、マートルさん。でいいですか?」
「マートル・エリザベス・ウォーレンっていうの。みーんな『嘆きのマートル』って馬鹿にして呼ぶから、フルネームなんて誰も知らないんでしょうね……」
マートルは自分で言って自分でダメージを負い、また涙ぐんだ。
「二年生のスミレ・アオイです。呼び方はマートルさん……でいいでしょうか。私より先輩ですし」
「スミレ……綺麗な名前ね。ちょっと不思議な響きも似合ってるじゃない。あと、さん付けなんてしなくていいから。スミレとアタシの仲じゃない!」
女子トイレで数分ほど口論しただけである。
「じゃあマートル……その、とても聞きづらいことなのですが」
「なに? 遠慮しないでどんどん聞いて?」
「この前、猫と生徒が石になったんです。その生徒と少し揉めていたので私が疑われてしまって……前に『秘密の部屋』が開かれたときと同じ状況かどうか、ご存知なら教えてくれませんか?」
「あ……ごめんね、私もよく知らないの。同級生にいじめられて、悲しいからそこのトイレで死について考えてて、犯人の顔とかはなにも……扉も閉めてたし」
「……そう、ですか。なんと言えばいいのか……嫌なことを思い出させてしまってすみません」
参考にはならないが、思い出していい気分になる話題ではない。
存命の生徒に謝罪されたことがないのか、大声でマートルは嬉し泣きしながら「いいの、友達だもの」とどうにか言葉を発した。幽霊から友達と呼ばれる日が来ると昨年の自分に言えば、二度とホグワーツに戻らない気がした。
「ありがとうございます」
「けど、そこの蛇口の前で男子がうるさくしてたのは確かよ」
「女子トイレに男子が? 不審者じゃないですか」
「でしょう? だからアタシもついカッとなって『出てってよ!』って叫んだの。そしたら声は止んだわ」
「なにを喋っていたとかは覚えていませんか?」
性別が分かるなら声を聞いたはずだ。
呪文か、あるいはなにかを使役したのか。
ヒントだけでも手に入ればと聞いてみた。マートルはしばらく考え込んで、口をすぼめ「シューシュー」と妙な音を出した。それ自体にはなんの意味もない。だが、発音の近い言葉はある。
スミレは雷に撃たれたようだった。
まさか、かつて学校にパーセルマウスの生徒がいたなんて。
ともすればゴーント家の誰か、そうとしか考えられない。
「こんな感じよ。気持ち悪いでしょ?」
「ええ……気味が悪いですね」
「それで声が止んだと思ったら、上からなにかの気配がしたの。で、見上げたら……」
黄色い大きな目が二つ。
それがマートルが生前、最期に見た光景。
スミレの頭の中でパズルは出来上がりつつあった。
謎はまだ残っているが、それを考えるのはまた後だ。
マートルに勧められて適当な便座に腰掛ける。鼻が触れ合いそうな距離ほど近くに――相手はゴーストなので触れずにすり抜けるが――マートルも座った。空気椅子ならぬ幽霊椅子で、恥ずかしそうにモジモジとしている。
どうしたのかと聞く前に、相手はおずおずと身の上を話し始めた。
「アタシね、一人っ子だったの。兄弟も姉妹もいないし、親戚もみんなお爺ちゃんお婆ちゃん。学生なのはアタシだけ」
相槌に困ってやんわり微笑むしか出来なかった。
「死ぬ前に一度でいいから『姉さん』って呼ばれたかったけど、叶うまえに死んじゃった。だから……その……スミレが嫌じゃなかったら、アタシのこと姉さんって呼んでくれない?」
毎回じゃなくていいから、たまに、トイレから離れるときだけでも。
よく分からないお願いだなぁと反応に困るスミレ。
つくづくイギリス人の考えることは分からないが、相手を『姉さん』と呼ぶのは末っ子なので慣れている。同い年の相手すら姉呼びである。従姉だけで五人もいれば自分が妹になるのもどうってことはない。
「分かりました、マートル姉さん」
こうですか? と聞く前に、マートルは絶叫して隣の便器へダイブした。水飛沫が床を濡らし、スミレはもうわけが分からず辺りを見渡してしまった。
泣き声はしないから怒らせたようではないと判断し、そっと個室を出る。
「あ、ちょっと……あぁ」
誰も使わないと聞いていたトイレに、誰かが来ていた。
叫び声に驚いて逃げ出したが女子に違いない。間違っても男子が来ることはないだろう。そんな生徒が今年もいるなんて信じたくなはい。
しかも驚いた拍子に落としたのだろう。
足元に古い日記帳が転がっていた。杖で浮かしてみると中は羊皮紙だった。フィルチに届けるべきか迷うスミレの背後から息の荒いマートルが顔を並べた。
「あー死ぬかと思った……あら、まァた誰か捨てて行ったのね。今度の子はいったいどんな夢を見たのかしら」
「何度も捨てられているんですか?」
もう死んでるでしょ、と危うく突っ込みかけた。
「ええもちろん。気になるなら中を開けてごらんなさいな、もンのすッごいから!」
水の滴る日記帳に手を伸ばし、指でつまみ表紙を開けるとか
異様に興奮したマートルが囃し立てながら現れた一日目は――
「チッ!」もンのすッごい舌打ちだった。
「空白のままですね」
――T・M・リドル――
滲んだインクで人名が書かれているだけ。
名前の部分はイニシャルなので性別も分からない。
ハッキリしているのは、先ほどの女子生徒は未使用の日記帳を捨てたことだけ。マートルがもっと見せてとせがむのでさらに何ページかめくってみるが、やはりどこも綺麗なままだ。インクのシミひとつない。
スミレはただの落し物だと確認できて安心した。
が、マートルは頭を抱え天に向かって叫んだ。
「あー!! 年代物だからさぞエゲツないと思ったのに!!」
「エゲツない、ああ。恨みつらみとかですね」
マートルが好きそうな物だと納得した。
「ウフフ、そうよね。たしかに愚痴とかも悪くないわよ? でもね、一番読み応えがあるのは……」
二人きりの女子トイレで、何故かマートルはスミレの耳元に囁きかけた。十秒、二十秒と時間が経つにつれ、月より透き通った白い肌がみるみる赤くなる。
「えっ、え、それって。ど、いや、?」
「キャー! いいわその反応、サイッコー! いつもは読み終えたら水に流してあげてたけど、今度からはスミレにも読ませてあげてからにしなきゃだわ!」
「べ、別に、わた、私は、そんな」
「遠慮しなくていーのよスミレ。先輩に任せときなさい、死んだのは何十年も前だけど……たかが何十年で乙女の楽しみが変わってないことはアタシがバッチリ確認してあるから」
個室の扉に手をついて目が泳ぐ。
額に汗をにじませて慌てふためく後輩をじっくり堪能しながら、マートルは粘着質な笑みを浮かべてもう一度囁く。今度はとびきり甘ったるい声で。
「ここの使い方も教えてあげる……」
「つっ 使い、方」
「怖くなんてないわ、アタシそっちもよーく観察してたから……」
この後、たまたまこの女子トイレの前を通りかかった女子生徒は悲鳴をあげて逃げる羽目になった。
あの『嘆きのマートル』の高笑いが廊下中に響きわたり、ついにあの泣き虫ゴーストが発狂したのだと恐れをなしたのだ。
それから数週間というもの。
マートルに呼び出されたスミレのほかには、誰もこの廊下に近寄ろうとはしなかった。
が、日記帳の名前について尋ねようとマートルを訪ねたあるときのこと。
女子トイレに先客がいた。
話し声からして男女が数人、金属の音もする。
不思議に思って中を覗いてみると、大きな蛇口の前でハリー、ロン、ハーマイオニーが鍋で薬を煎じていた。
「なにやってるんですか?」
魔法薬学の自習という雰囲気ではない。
面子だけならその可能性も十分あり得た。
三人は驚いた顔で飛び上がった。ロンとハリーが鍋を隠すように横に並ぶ。
「ま、魔法薬学の自習だよ。僕もロンも苦手だから」
「そうそう! たまにはハーマイオニーに勉強を見てもらおうかなって」
「そうですか」
興味はなかったが、床に置きっ放しの本が見えてしまった。
苦しい言い訳だったがスミレは反応が薄かった。
鍋の中から漂う臭いを軽く嗅いで頷いた。
「ニワヤナギにクサカゲロウ……ポリジュース薬……?」
二人は顔を見合わせた。
相手はハーマイオニーと同じくらい魔法薬学が得意で、親戚には研究家がいるのだ。
隠し通せないで当然だった。
「そうよ。私たち、何十もの校則を破ってポリジュース薬を作ってるの」
「ハーマイオニー気は確か? 継承者かもしれないヤツに喋るなんて!」
「何度も言ったけど、むしろ彼女は狙われる側よ。マグル育ちで純血主義に興味がない。スリザリンの継承者になれるはずがないわ」
噂を真に受けず常識的に考えている。ハーマイオニーはとても冷静だ。
スミレも三人に話すことはないので、この場から退散することにした。
「私はなにも見ていませんし、聞いていません。ただ、あまり無茶はしないでくださいね」
どのみち毒ツルヘビの皮の千切りなど稀少な素材を必要とする魔法薬だ。
校則で禁止されていようが、まず完成させる手段がない。
誰に化けるつもりかを聞かずスミレはそれだけ伝えて女子トイレを去った。
ロンはふと、トイレを出て行った優等生に疑問を抱いた。
「こんなところに何しに来たんだろう?」
「確かに、ここってレイブンクローの近くだ。スリザリンなのにどうしてかな」
ハリーも言われて疑問に思ったが、ハーマイオニーが咳払いをした。
「そんなことより! 調合に戻りましょう、焦げ付いたらそれでお終いなんだから!」
あの恐がりな性格でマートルと友達と言うこともない。
道に迷ったか、あるいは本気で『秘密の部屋』を探しているのか。
どちらにせよ時間があるときに聞けばいいと、ハーマイオニーも意識をポリジュース薬に戻した。
五十年前の享年十四歳にいじられる現役の十四歳。
お年の割に詳しいマートルとよく知らないスミレでしたとさ。