ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

23 / 115
 どこぞの首なし初代教区長は関係ありません。


血の警句

 季節は巡り五月の半ば。

 ホグワーツは春を過ぎ、温かな日差しに包まれている。

 新たな犠牲者が二人も出て学校の緊張はむしろ冬より高まっていた。

 さらに悪いことは続き、襲撃の直後、魔法省がなんとダンブルドアとハグリッドを連れて行ってしまう。

 マクゴナガル教授が副校長として先生たちをまとめているが、生徒の安心感は以前より格段に薄まっていた。

 アルバス・ダンブルドアへの信頼は、それほどに篤い。

 奇妙なことに、あの夜、その場に居合わせたロックハートも多くを語らなかった。

 目立ちたがりでお喋りで派手好きな彼が妙に静かなのは気色悪いが、元気なときよりずっと害がないので誰も気にしていない。

 きっと頭以外の具合も悪くなったんだとハリーは思っている。

 そして五月の始め。月曜日の朝食の前のこと。

 校長代理としてマクゴナガル教授がある通知を出した。

 六月一日に期末試験が始まるのだ。

 こんな状況で試験をするのかと不満が噴出した。

 だが決定事項は覆らない。

 期末試験の備えを始めると、みんな恐ろしい継承者と襲撃事件のことなど忘れていった。

 なにを勉強すればいいのか誰もわからない『闇の魔術に対する防衛術』を置いて、特に難しい『変身術』と『魔法薬学』、それに授業中ほとんど話を聞いていなかった『魔法史』に多くの時間を割く。

 そして試験二日前。

 マンドレイク薬を間も無く作り始めると発表があった。

 スミレはパンジーとカロー姉妹の勉強を手伝うため、大広間で教科書やノートを広げていた。

 天井は青く澄み渡って、蝋燭がなくても日の光だけでとても明るい。

 どこで勉強しようと今のホグワーツ城は静まりかえっている。

 放課後になればみんな各寮に戻ってしまうからだ。

 生徒の多くはまだ談話室から出たがらない。

 放課後に寮の外で自習するのは怖いもの知らずか、あるいは間違いなく純血の家系のみ。

 大広間に集っている彼女たちは後者、正真正銘の純血である。

 スミレは魔法薬学と変身術を担当。ダフネは魔法史と天文学を受け持っている。

 カロー姉妹の呪文学は早々に切り上げていた。

 あの『決闘クラブ』での暴れようを見れば必要性は極めて薄い。

 代わりに変身術の論述対策をしている最中、ダフネが呟いた。

「スリザリンの怪物って、やっぱりバジリスクだったんだ」

 するとパンジーの羽ペンが止まった。スミレは注意するそぶりすら見せなかった。

 虚ろな目でスミレの説明を聞いていたのが嘘みたいに元気だ。

 フローラとヘスティアもペンは止めていないが耳を傾けている。

「それ本当? ダフネ、アンタなにか見つけたの?」

「うん。最近あちこちに蜘蛛がいるでしょ? 気になって捕まえたんだけど……ホラ、これ」

 ダフネは頷いて鞄から透明な瓶を取り出した。

 コルク栓で口を閉められた瓶の中には小さな蜘蛛がいる。

 それを見たパンジーの顔がブルドッグのようになった。

「アクロマンチュラっていう危ない種類。昔学校で誰か飼ってたんだと思うけど、これがみんな城から逃げ出してたの」

「よくそんなの捕まえたわね……で、ソイツらが逃げたからどうしたって言うのよ。怪物殺しが怖いのかもしれないじゃない」

「そんな化物までいるんですか?」

「スミレ、この鏡見てみなさい」

「?」

 スミレはパンジーから受け取った手鏡の意味が分かっていない。

 ダフネは構わず説明を続けた。首を傾げているのが面白いからだ。

「この蜘蛛の天敵がバジリスクだって本に書いてあったの。それにバジリスクの目は直視した者の命を奪い、間接的に見た者は石に変える力があるんだって」

「つまり、医務室にいる方々は運が良かったと?」

「まさか、学校に怪物バジリスクが棲んでいる?」

「そうだと思う。スミレも何度か声を聞いてるんじゃない?」

「聞いてますよ。ゆっくりお話ししたことはまだありませんけど」

 教授に伝えないのか、とは誰も聞かなかった。

 襲われたのはスクイブの猫にマグル出身者が一匹、おまけに裏切り者のウィーズリーと親しい半純血である。

 彼女たちの心を痛めるような事は何も起きていない。

 ハーマイオニーはいつもの出しゃばりで継承者の不興を買ったとスリザリン生は信じていた。

 胸の前で腕を組んで天井を眺め、パンジーは頭の中に廊下を這うバジリスクを描いた。

 その後ろを顔の見えない継承者が歩いている。

 ドラコならいいのにと思わなくもないが、あの様子だと望み薄だ。

「でもバジリスクって大きいわよね? 普通に廊下を移動してたらすぐに見つかりそうだけど」

「水道管の中を移動してたなら見つからないはず。だから今年は廊下が濡れてることが多かったんだよきっと」

「あー……全身ズブ濡れのバジリスクが廊下をね……」

 思い返せばハロウィーン以降のフィルチは廊下の床を拭いてばかりだった。

 誰もがマートルか双子のウィーズリーだと思っていたが……いや、マートルは実際に廊下を水びたしにすることがままある。

 ともかく、怪物バジリスクは水道管の中を通り学校を行き来していた。

 だからこそスミレは今、じっと足下の床を見つめているのだ。

 ダフネの表情が引きつった。

「……いるの? 真下に?」

「いますね。挨拶します?」

「アンタ以外に言葉通じないでしょ」

 襲われないと分かっていても、恐ろしいものは恐ろしい。

 バジリスクは仰々しい口調でスミレに語りかけた。

《血の僕、間もなくだ。万事を手筈通りに進めよ》

《承知しました。念のため手伝いを連れて行きます》

《……構わん》

 床下から囁いたバジリスクは伝言を済ませすぐに去って行った。

 パーセルタングを発したスミレに四人は言葉を失う。

 遠のいていく《血を畏れぬ者に死を》という声にザクロが笑いを圧し殺す。

 視線を床から上げたスミレが「これからどうしましょっか」と笑った。

 真っ白な顔と真っ黒な髪のコントラストに赤い逆さの三日月が加わる。

 思えばもうすぐまる二年が経つのに、四人ともスミレがこんなにハッキリと笑顔を浮かべているところを見た記憶がない。

 いつも無表情で、ふて腐れているような顔だった。

 するとパンジーが立ち上がって羽ペンを放り投げた。

「騙して催眠術かけて置いてったことはまだ忘れてないわよ!」

「催眠術? あなた、何したの?」

 ダンブルドアが昨年、寮対抗杯の結果発表のとき口にした『スリザリンの理想』という言葉もずっと引っかかっていた。

 いつも上の空で、利己的どころか面倒見がいいくらいだ。

 パーセルマウスの他にスリザリンらしいところなんてどこにもない。

 この機会に尋ねてみたが、スミレは「それはお楽しみです」とニッコリ笑っただけだった。

 そのままウキウキとしながら勉強道具をてきぱきと片付け始める。

「ここからレイブンクロー寮は少し遠いですが……まぁ大丈夫ですよね。じゃあみんなで『秘密の部屋』へ探検に行きましょう」

「え、でもバジリスクが……」

「目隠し呪文の練習ならクリスマスに散々やりました。おかげで目隠ししてても平気です」

「それはザクロがいれば元から平気だったと思う」

 さあ早く早くと急かされるダフネも渋々用意を始めた。

 最悪殴ってでも引き返すつもりで、一番重い教科書がどれか確かめながら。

 先輩三人が出発準備を整え始めたのでカロー姉妹も身支度に取りかかる。

 互いにネクタイを締め直し、制服や髪の乱れをチェックし合う。

 ピクニック気分の女子五人が大広間を出る直前、校内放送でマクゴナガル教授の声が学校中に響き渡った。

 いつになく張り詰めた様子に流石のスリザリン生も注意を引かれた。

 

『生徒は全員、速やかに各寮の談話室に戻りなさい。教職員は全員、急ぎ職員室にお集まりください』

 

「また誰か襲われたりして?」

「他に何があるって言うの?」

「襲った帰りに寄ったんですね」

「この機会にどうでしょう姉様方」

「冒険を怪物退治に変えてみては」

「それアリね、今年はグリフィンドールに追い込みで加点なんてさせてやるもんですか!」

 まあこれだけの人数ならグリフィンドールに加点があっても大丈夫かな。

 ダフネはまだ撤退を諦めていない。

 ミリセントのようには行かずとも、ヘッドロックをしてでも足止めするつもりだった。

 幸いと言うべきか呪文学に関しては全員人並みより優秀だ。

 パンジーもクリスマス中に練習したのか上達していた。

 特にケンカやイタズラに使える呪文の習得度だけならハーマイオニーにも負けない。

 その熱意を他の科目や呪文にも向ければいいのに、と口にするほどダフネは迂闊ではなかった。

 そうして全員の準備が完了。さっそく移動を始める。

 先生たちに見つからずマートルのトイレへ駆け込む作戦はすぐに頓挫した。

 大広間を出て五分としないうちにロックハートと出くわしたのだ。

 全身ヴァイオレットのコーディネートにエメラルドグリーンの長いマントを羽織って、眠そうな顔をして曲がり角の向こうからやって来るのが見えた。

 やり過ごすにも隠れる場所がなくあっさり見つかってしまった。

 大あくびを見られていたなんて露知らずの顔で満面の笑みを浮かべている。

 白い歯がキラリと光った。

「おっとっと! 生徒だけで出歩くなんて、あまり感心しませんね! もしかして、お喋りに夢中で今の放送を聞き逃してしまいましたか? 生徒は全員、各々の寮の談話室に戻るようマクゴナガル先生が仰っていたでしょう? やれやれ、私も急がねばならないのですが、状況が状況のようですから……よろしい! 私が寮まで引率しましょう! で、スリザリンの談話室はどちらです?」

「『秘密の部屋』を開くにはパーセルマウスの力が必要です。失礼ながら、先生方全員で束になっても継承者に会うどころか扉をノックすることさえ出来ません」

 ダフネが単刀直入かつキッパリ言い切ると教授も「ええ! アナタの仰る通りですミス・ブルストロード」「グリーングラスです」「失敬、お二人とも目がくらむほどお美しいものですからつい、ウッカリ」と得意の笑顔で誤魔化した。

「職員室で待ちます。お話が終わってから引率をしていただければ結構です」

「ああ……まあ確かに、マクゴナガル先生は昔から時間に厳しい方でしたからね。私が学生の時も、多くの生徒が先生からお叱りを受けたものです――今もそうなのですか?」

 五人とも即座に頷いた。

 スネイプ教授と並んで特に厳しい。

 学生時代を思い出した顔でロックハートは額に手を当て、大きく息をついた。

 前髪をかき上げて「では急いで職員室へ行きましょう! 皆さん、お説教はお好きではないでしょうからね!」とあっさり折れた。

 

 

 マクゴナガル教授の放送で寮に戻らなければならない。

 だがあの震えた声に感じた違和感の正体を知るため、グリフィンドール塔に戻る事なく職員室に留まった。

 ハリーとロンは職員室の衣装タンスに身を隠す。

 間も無く先生方たちが駆けつけた。

 一様に恐怖や当惑を映し出した顔で、肌は蒼ざめ、葬式場の空気の中でみな副校長を待つ。

 フィルチを連れたマクゴナガルは職員室に入るや否や口を開いた。

 老管理人も怯えた様子でマダム・ポンフリーの横に並んだ。

「ついに起こりました……」

 声は震え、威厳に満ちた瞳から輝きが消えていた。

「現時点だけでも五人の生徒が石に……加えて、一人は怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものにです」

 フリットウィックは堪らず悲鳴をあげ、スプラウトは口を手で覆った。

 スネイプは椅子の背を強く握り締め、声を絞り出した。

「何故、それほどの自信をもって断言できるのかね?」

「『継承者』を名乗る犯人から新たな警句がありました。石にされた生徒は、アーガスとゴーストたちが発見しています」

 フィルチは首の骨が折れそうな勢いで頷いた。

 意地悪で陰湿な目は涙を浮かべている。

「新たな警句は最初に残された文字のすぐ下に『彼女の白骨は永遠に『秘密の部屋』に横たわるであろう』と、血で書かれていました。ネズミの死体が周囲に散乱している状況です、恐らくあの場で生き血を絞ったのでしょう」

 フリットウィックはついに声を挙げて泣き出した。

 マダム・フーチすら腰が抜けたように椅子にへたり込む。

 マントの影に隠れているロンとハリーも心臓が止まりそうだった。

 継承者はこの期に及んで次々と生徒を襲っている。マグル殺しの総仕上げと言わんばかりに。

「一体……どの生徒ですか?」

「さらわれたのはジニー・ウィーズリー、石にされた者は……」

 そのとき太った修道士が壁から現れ、マクゴナガルに素早く耳打ちをしてまた壁の中へと去って行った。

 報告を聞いて、目に絶望の色がよぎった。

「…………犠牲者が出続けています。修道士によれば、学校中で石にされた生徒が相次いで発見されていると。ホグワーツは今まさに襲撃を受けています」

 ビンズ教授まで泣き崩れた。スネイプも俯き沈黙している。

「四つの寮すべて、マグルも半純血も見境いなくです。もはや事態は我々の想像を超えています」

 ハリーは隣でロンが崩れ落ちるのを感じた。

 実の妹が連れ去られ、さらに寮も生まれも無差別に襲撃が起きている。

 マクゴナガルの決定を聞くまでもなく状況は最終段階だった。

「全校生徒を今すぐにも家へ返さなければなりません。ホグワーツはお終いです。ダンブルドアがいつも仰っていた通り、この学校はもはや生徒にとって安全ではなくなりました」

 その言葉を発するのがどれほど苦しいか、心中を察すれば涙を流す教授がいるのも至極当然だった。

 そのとき――職員室の扉が勢いよく開いた。

 ダンブルドアだと期待したハリーは、ひどく落胆させられた。

 よりによってロックハートだ。白い歯を輝かせた笑顔ではないか。

「大変失礼しました。ついウトウトと——それで、何か聞き逃してしまいましたか?」

 放送で何も察していないのかご機嫌な様子で、しかも後ろには生徒を連れている。

 あらゆるアクションが悉く最悪の男だった。

「何故ここに生徒を連れてきたのですギルデロイ! 寮へ戻るよう伝えたのが聞こえなかったのですか!」

「あぁー……そ、それについては弁明しようもありませんなマクゴナガル教授! ですがその、彼女たちが是非とも先生方にお伝えしたいことがあるとかでしてはい」

 雷が落ちて瞬く間にすくみ上ったロックハートの後ろから、スミレが前に進み出た。

 マクゴナガルの説教を遮って勝手に話し始めた。

 襟元から顔を覗かせている蛇は衣装タンスを見つめている。

 ハリーにはあの蛇が笑っているような気がした。

「怪物の正体はバジリスクです。さっき大広間で真下を通った時――」

「大広間の真下? アオイくん馬鹿を言っちゃいかん! あの下にあるのは排水管の巨大なパイプだけだと、何十年も前に……ダンブル、ドアが……」

 遮ったフリットウィックも自分の言葉で気づいた。

 頭に昇った血がまた失せて、顔が青ざめていく。

 脳内では薄暗い排水管のパイプを廊下にして移動する、巨大な毒蛇の姿を思い浮かべていることだろう。

「『秘密の部屋』の怪物がバジリスクと、いつ気づいたのです」

「確信したのはさっきです。床下から呻くような声がして、パーセルタングが聞こえました」

 何度か頷き、マクゴナガルは冷静に五人へ真実を告げた。

「その事実を伝えてくださったことに感謝します。ですが……残念ながら、ホグワーツは間もなく閉鎖されます。バジリスクは純血の生徒もマグル出身者も無差別に襲い始めました」

 ついにスリザリンの生徒にも戦慄が走る。

 今まで安全だと思って他人事と思っていた怪物が、自分たちにも牙を剥いたと知ってようやく他の寮の生徒がハロウィーン以来ずっと抱いてきたモノの凄まじさを理解した。

 それに驚かないのはダフネとスミレだった。

 ロックハートは愕然としてマクゴナガルを見ていた。

 事ここに至ってようやく深刻さを理解した様子だった。

 とことん見下げ果てたと一瞥して、ダフネもマクゴナガルに知っている事を報告した。

「それに、ロックハート教授は部屋の開け方をご存知です」

 憎しみの込められた教授たちの目線に、わずかばかり喜びが混じったように見えた。

 何がそんなに面白いのか、スミレはよく分からず黙っている。

 マクゴナガルはこれ幸いとスネイプへ目配せ。

 スネイプもマクゴナガルの意を汲み、副校長以下、全教授を代表するかのように皆が自身に望んでいる役目を果たす。

「なんと、ここに適任者が」

「てっ――適任者?」

「聞こえなかったのかね。まさに君が適任だ。ロックハート、女子学生が怪物に泣致された。『秘密の部屋』そのものに連れ去られた。いよいよ君の出番が来ましたぞ」

 ロックハートは笑顔が強張った。

 後ろにいるパンジーとカロー姉妹は指先の震えに気づいた。

「その通りだわ、ギルデロイ。昨夜でしたね、『秘密の部屋』への入口がどこにあるか、とっくに知っていると仰っていたのは?」

「私は――私は、その……」

「そうですとも。『部屋』の中に何がいるか知っていると、自信たっぷりに私に話しませんでしたか?」

 スプラウトとフリットウィックも意気揚々としたロックハートを思い出しながら頷く。

「い、言いましたか? 覚えていませんが……」

「我輩はしかと覚えておりますぞ。ハグリッドが捕まる以前、怪物と対決するチャンスが訪れず心から残念だと、そう仰いましたな。逮捕後は口を閉ざしておられたがなんとあの時点で部屋の在り処を突き止められていたとは……」

 やはりあれだけの偉業を果たすお方は違いますな――感服した、という口ぶりで追い討ちをかけるスネイプの愉快げな声。

 もし彼が満面の笑みならバジリスクも石になりかねなかった。

 狼狽しきったロックハートへマクゴナガルがトドメを刺す。

 生徒の前で堂々と、校長代理として明確に決定を下す。

「私は……何もそんな……皆さんの誤解では……」

「それではギルデロイ、『秘密の部屋』についてはすべてあなたにお任せしましょう。今夜こそ絶好のチャンスでしょう。誰も邪魔などいたしません。お一人で怪物と取り組むことができますよ。お望み通り、お好きなように」

 校長代理の最終決定は覆らない。

 ロックハートはもはや別人と化していた。

 歯を輝かせて笑うハンサムは消え去り、残されたのは震える唇と蒼白の顔……まるで瀕死の病人である。

「よ、よろしい。へ、部屋に戻って、し——支度します」

 生徒五人などまるでいないかのように、ロックハートは逃げた。

 職員室の扉がバタンと閉まると、パンジーの「何の支度よ? 夜逃げ?」という呟きがよく響いた。

 スネイプは「それで一向に構わん」と返す。

 他の教授たちも大きく頷いた。

「寮監の先生方は各寮に向かい、生徒たちに現状をすべて説明してください。ポモーナ、貴女はその後、屋敷しもべたちに事情の説明を。可能な限り生徒の荷造りを手伝わせなければなりません。明日の朝一番で全員をホグワーツ特急に乗せるのです。他の先生方は寮の外に生徒がいないかゴーストたちと確認を。アーガス、貴方は担架の準備です。石にされた生徒たちを医務室に運ぶ用意を進めなさい、私は生徒に説明後、ダンブルドアと魔法省に事態の報告を行います」

 マクゴナガルは明確かつ適切に指示を出す。

 一人また一人と教授たちは職員室を出て行った。

 スネイプが女子たち五人を連れスリザリンの寮へ向かう。

 ハリーの人生で最悪の一日となった。

 これほどグリフィンドール塔が静かな事は二度とないだろう。

 明日になれば、この城から永遠に生徒がいなくなるのだから。

 談話室は生徒でごった返していたが、片隅に座り込んだフレッドとジョージが痛ましく誰も何も言えなかった。

 パーシーは両親にフクロウ便を送ってから、寝室にこもったきり出てこない。

 ときおりサー・ニコラスが顔を見せたが、こんなに悲しげな表情をしているグリフィンドールのゴーストは誰も見たことがなかった。

 もはや別れの挨拶をする元気も湧かず、フレッドとジョージもこの場所にいるのが辛くなり、他の生徒と同じように寝室へ引き上げていく。

 談話室に残った二人は、屋敷しもべたちの持ってきた軽食に手をつけることもなく黙って暖炉の火を見つめていた。

「ハリー、ジニーは何か知ってたんだ……」

 職員室の衣装タンスに隠れてから、ようやくロンは喋る余裕を取り戻した。

 目をこすりながら、ロンは俯いたまま声を出した。

「だからスリザリンの奴らまで襲って誤魔化そうとした。だってジニーだって純血だ、継承者のことを知ってたから口を封じたかったんだ。他に理由なんてない……」

 談話室のどこを見ても赤色。

 暖炉の火も、壁も、足元の絨毯も、窓の外の夕日まで血色だ。

 目を開けている限り最悪の結果を暗示させてくる。

 自分に出来ること、スミレたちも知らない何か――考えても、考えて、その前にまず行動、と思い至ったとき、ロンが叫んだ。

「ロックハートのところに行こう! アイツが『秘密の部屋』の入り口を掴んでいても、入り方を知らなかったら意味ないよ。もしパーセルマウスが必要だったらドアをノックすることしか出来ない!」

 それ以上の名案もなく、ハリーはロンに賛成した。

 昨年と同じく透明マントと杖を持って談話室を飛び出す。

 今年はハーマイオニーがいない、けれどあの談話室でジニーが死ぬかもしれないのにじっとしていられなかった。

 

 

「『聖なる血』……ですか」

 トムの演説を聴き終えた最初の感想は、それだけだった。

 彼は随分とお喋りで気障ったい。ジョークの一つも言えない優等生の典型だ。

 かれこれ三〇分ほど聞き手を務めている間に身体が冷えてしまった。

 この部屋はあまりにも寒い。

 バジリスク以外が棲むことを想定されていないのだろう。

 爬虫類の住処にしてはあまりにも低温のような気もするけれど。

 トム・マールヴォロ・リドルは反応の薄さに不満そうだ。

 不満だからと言って私を絞め殺すどころか殴ることも、呪うことさえ彼には出来ない。

「君、もう少し何か言ってみたらどうだい。喋れないわけでもないだろうに」

 床の上に横たわっているジニー・ウィーズリーを眺めながら頭を捻る。

 彼女は果たして助かるのだろうか。

 もし死んだら、ハーマイオニーは悲しむのだろうか。

「この小娘が気になるのか? 純血でありながらマグルに組みする裏切り者が」

「友達の、そのまた友達の妹なので。悲しむのかなあと」

「あの小賢しい『穢れた血』か……仕留め損ねたのは実に残念だったよ。バジリスクにああも早く気づくとは想定外だった」

「ハリーが狙いだって言ってませんでした?」

 そのハリー・ポッターはまだ来ない。

 先回りして待っているものの、足音一つ聞こえやしない。

 厄介なことにジニーはあと三〇分もすれば息絶えてしまう。

 記憶のトムは薄笑いを浮かべて私を見下ろす。

「その通りだ。なんら特別な力を持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いをどう破った? ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方はたった一つの傷痕だけで逃れたのはなぜか……」

「失礼ですが、もしかしてご本人?」

「なんだ、気づいていると思っていたが……」

「何でもお見通しってわけじゃないので」

「では教えてあげよう。僕の祖父はマールヴォロ・ゴーント、メローピー・ゴーントはその娘であり僕の生みの親だ。かのサラザール・スリザリンの末裔であるゴーント家の聖なる血がこの身体には流れている。分かるかい? この僕は、生まれながらにスリザリン卿の崇高な使命を引き継ぐ使命を帯び、そのための名こそが――」

 ヴォルデモート……なるほど。

 じゃあみんなが恐れている闇の魔法使いは、もう七〇近い?

 言ったら怒りそうなので黙っておこう。高齢者は気が短いから。

「『聖なる血』ってスリザリンの血筋ってことですね」

「道理で話が噛み合わないわけだ」

 日記の中身はうすぼんやりとした輪郭で、肩をすくめた。

「先に言っておくが、バジリスクを乗っ取るつもりなら諦めたまえ。あれはパーセルマウスでもスリザリンの末裔だけが操れる……仮に血を吸っても、濃さは圧倒的に僕が勝る」

 会話しているうちにトムはどんどん陶酔していく。

 ご先祖の、それも父方ではなく母方の……スリザリン家とゴーント家、家名としては既に途絶えた血筋を、まるで先祖伝来の家宝みたいにありがたがっている。

 貴族制の名残なのかもしれない。

 私の興味はもうトムにはない。だから、返しも雑になる。

「あの大きな蛇はエサ代がかかりそうなので遠慮しておきます。それに貴方の血はまだインク臭そうですしね」

 私をここで殺してやりたい、そう目が物語っている。

 黒く涼やかな瞳が赤く光った。

 自分は本体ではなく、ヴォルデモートの残骸に過ぎないことを気にしているようだ。

 ついでに気になっていたことも確かめる。

「何故ジニーを連れてくるついでに襲わせたのですか?」

 トムはさも当然のように微笑んで答えた。

「この城が閉ざされると知れば、ハリー・ポッターは必ずここへ来る……来ざるを得なくなる。そのためにも、より多くの犠牲者を出す必要があってね」

「そうでしたか。バジリスクが狂ったのかと思いましたが、安心しました。私まで狙われてはたまりませんから」

 こちらの意図などお見通しだと、トム・マールヴォロ・リドルはほくそ笑む。

 ここに来ればどうあれ彼は勝つだろう。

 それを見届けるのが私の役目だ。

 ただ、もう少しバジリスクのご機嫌伺いをしてくれないだろうか。

 ああいうずっと機嫌の悪いタイプはとことん苦手だ。

 すらりと背の高い長身から私を見下ろし、軽蔑の目線を投げかけた。

 こういう性格もあまり好きじゃない。

「ダンブルドアも魔法省も、吸血鬼(怪物)のなり損ないを城に入れるなんてどうかしているよ。純血の生徒が襲われたらどうするつもりなんだか……」

「教えたのは失敗でしたね。黙っていればよかった」

 私も包み隠さず本心を打ち明ける。

 お互いに言いたいことを言い終えて、そのまま沈黙に入った。

 この寒い部屋であと何分待てば良いのだろうか。

 みんな遅いなと思いながら、今夜の分の『常備薬』を飲む。

 これもまた身体が冷える。

 魔法瓶を持ってくればよかった。




 恐れたまえよハリー・ポッター……。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。