新学期がはじまる九月一日。
魔法省はいよいよ手詰まりに陥っていた。大臣の言う“総力を挙げての捜査体制”はまさにその極地だろう。
ヴォルデモート卿がもたらした恐怖の記憶はいまだ色濃い。
十二年前に闇の帝王は失墜した。帝王の“軍隊”もまた崩壊した。
種族の垣根を越えて結集した闇の住民たちはついに日の当たる場所へ辿り着くことなく、かつてのように日陰へ追いやられた。
にも関わらず、帝王こそ我が主君と仰いだ貴族たちは?
新たな“闇の王国”での地位を望んだ純血一族たちはどうか?
アズカバンへの収監を逃れたばかりかその権勢はまったく衰え知らず。マルフォイ家などはむしろ魔法省への影響力を強めさえした。闇の帝王に抗った勇気ある人々ばかりが血を流し、未来を絶たれた。そしてマグルキラーである
その事実がスミレとアザミの苦しい立場をよくしてくれる道理は皆無である。
二人の祖父は間接的とはいえ少なくないホグワーツ生徒にとって親族の仇なのである。
どれも“今さら”の事ではない。因縁ははじめから存在していた。ただこれまでは認識されてこなかった――あるいは認識しつつも意図的に無視してきた――だけで、シリウス・ブラックが“脱獄”という形できっかけをもたらしたのだ。だから、今さらどころか“ようやく”始まったのである。長く堰き止められてきた恨みはついに流れを得た。その勢いはこれまでに築かれてきたささやかな交流をたちまち呑み込んでいく。
ついにスミレもスリザリン生らしい環境に置かれることとなった。
これまでの寮をこえた交流がほとんど絶たれたのである。
グリフィンドールやハッフルパフの生徒は示し合わせたようにスミレを避けるようになった。中でもグリフィンドール生――ハリー・ポッターと親しい者たちは敵愾心を剥き出しにする。あるいは敵意こそ示さないが、あからさまに距離を取るなどの形で拒絶する生徒が多数派となった。少なくともドラコ・マルフォイとの関係がさらに心証を悪くさせた要因の一つだろう。
そうした因縁と怨恨に対してスミレはまったく無頓着だった。
あらためて純血主義の不支持を宣言するでもなく。反純血主義からの迫害を訴えてドラコに助けを求めるでもなく。寮内の結束が強いスリザリンにあってその輪に加わるでもなく。一貫して旗色は不鮮明なまま。ただフワフワと気まぐれに振る舞っている。事情に疎いアザミでさえ異様な空気を察しているにもかかわらず、である。
ホグワーツ特急のコンパートメントにアザミと二人きり。
せまい通路をはさんで反対側にドラコたちが陣取っている。
パンジー・パーキンソンとミリセント・ブルストロードがその左右をかためる。セオドール・ノットは細長い身体をビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルの間で窮屈そうにさせている。
そんな友人たちの様子にも我関せず。スミレはダイアゴン横丁で買い込んだ書籍を読み耽る。アザミはというと都立小笠原高等学校南硫黄島分校中等部三年七組――通称“マホウトコロ”のクラスメイトたちから届いた手紙をひとつ残らず破り捨てていた。
紙屑の山を丸めて窓の外のダストボックスへ放り投げる。
見事に可燃ゴミのポストへ入るとアザミは満足げに脚を組み直した。
気まぐれに顔をあげたスミレが「読まなくていいの?」と尋ねる。
余計な手荷物を処分し終えたアザミはフンと鼻を鳴らし、
「どうせ捨てるならいつ捨てたって同じでしょ」
と言い放った。スミレはただ「ふうん」とだけ返してそれきり深掘りしようとしなかった。アザミもそれ以上はなにも話さなかった。相手の交友関係にまったく興味がないことはお互いよく承知している。
発車時刻までしばらく時間がある。
アザミは通路を行き交う生徒を観察している。
窓ガラスの向こうを多様な人々が次々に過ぎ去っていく。
猫を抱えた少女と言い争う、長身と赤毛が印象的な男子。そのうしろをやぼったい丸眼鏡に無造作な黒髪の少年が追う。エキゾチックな東洋系の美女がいかにも凡庸そうな巻き髪の女学生と笑い合う。燃えるようなルビーレッドのスーツを着た女性は奇怪な眼鏡をかけたプラチナブランドの女の子に手を引かれている。
水族館のような趣を感じないでもない。これはこれで面白い。
ホグワーツ特急は――各寮の主席と監督生たちは例外として――すべて自由席である。おかげで例年きまって尋常でなく混雑する。座れないということはまずないものの、不幸にも相性の悪い者同士が近しいシートにおさまることもままある。ドラコのように親しい者でかたまっていればそんな不運もある程度は回避出来る一方。アオイ姉妹はといえば熾烈な座席争奪戦に敗れた生徒がいつ駆け込んでくるか、時間の問題であった。
――――――発車時刻が目前に迫っても勇者は現れなかった。
ついにホグワーツ特急がキングス・クロス駅を発つ。鮮やかな真紅の蒸気機関車がもうもうと白煙を吐きながら走り出す。家族や親しい人々に見送られながら、列車は一路ホグワーツを目指す。
生徒たちもそれぞれの客室でおしゃべりに花を咲かせている。
スミレとアザミは刺々しいほど会話をせず自分の時間を過ごす。従姉妹仲はむしろ良好で、ただ二人ともが気ままな性格をしているだけである。スミレは純血一族の家系に詳しい歴史書を読み漁る。アザミは闇の魔法生物の生態を記した専門書と戦っている。
二人の意識が書籍から離れたのは車内販売の声だった。
ゆるゆると顔をあげてスミレが先に尋ねた。答えは分かりきっていたが黙っているのも無愛想な気がしたのだ。
「姉ちゃんは何か食べる?」
「いらない。ノド渇きそうだし」
「そう。私もいらないや」
対するアザミも適当な理由をでっち上げておいた。一つ二つくらい買ってもよいのだが、スミレはああいう色鮮やかな駄菓子を好まないから見送ることにした。いくら親の目が届かない異国の地であっても、白昼堂々と買い食いをするなどというのは、なんとなく後ろ髪を引かれたのも理由の一つである。
「山吹さんは喜ぶんじゃない?」
「ガムとかグミ大好きだもんね」
「椿さんはどうだろ。チョコにビールって」
「前にスイカで日本酒飲んでたけど」
「分かんないわあの人。ホント綺麗なのにさ」
「私に似て?」
「似たのはスミレの方でしょ」
たしかにツバキは三十路に入っても二十代前半、身なりを整えれば十代後半でも通用するほど若々しく美しい。スミレも母の美貌をしっかり受け継いでいるから――性格はさておき――容姿だけなら人並み以上の素質を備えている。アザミはこの母娘がひどく羨ましかった。彼女は万人が認める父親似で、険しい眼光や薄い唇など可愛らしさとは真逆の顔立ちをしている。それでも端正な部類なのは祖母にあたるヤマブキからして抜きん出た美形であるからだろう。
それでもアザミはモテたためしがない。スミレも同様である。
やはり性格に問題があるらしい。自覚の有無だけが違っている。
己の人間性に難点があると認識したところでアザミも修正するつもりは一切ないのだが。
「スミレさ、学校に友達いないの?」
「いなかったらわざわざ来ないよ」
何を今更と呆れた表情で返された。
納得はいかないがだいたい察しはついた。
「あのマルフォイってのは違うんだ」
「うん。友達の友達ってだけ」
「アイツ面倒くさそう」
「やっぱり分かる?」
二人とも人間の好き嫌いが激しい。そして苦手な人種も近い。
ドラコ・マルフォイのような特権意識と自己顕示欲が強い手合いはつい“面倒くさい”と感じてしまう。そうなると派閥の中にいるのも億劫なので今のように距離をとりたくなるのだった。
「なんかさ、ホグワーツってこう、大変そう」
「姉ちゃんいつもそんなこと気にしないじゃん」
「こっちが無視してもあっちから視界に入ってくるし」
「そうなんだけど。だからって蚊じゃないんだから……」
ため息にため息が重なる。伝え聞くホグワーツ魔法魔術学校の事情だけでも胃もたれを覚えるアザミである。ことにドラコはスリザリン寮における中心人物に位置付けられ、同学年や後輩への影響力も無視できないとあってはなにやら不安な気持ちが募らないでもない。自分がスリザリン寮に入ろうと入るまいと、彼との関係を断ち切ることは不可能に思われた。
人間関係に無頓着なスミレがつくづく羨ましい。
こういうとき自由気ままな性格は何かと都合がよい。
しがらみに耐えかね孤高の一匹狼を気取ってみたところで、我が身一つでできることなど高が知れている。得手不得手や人種といったきわめて微細な相違点こそあれ、おおよその性能はそれほど隔たってはいないのである。だったらあらゆるしがらみをはじめから“ないもの”として振る舞った方がずっと手っ取り早い。
ただ己の都合だけをもって他者を利用する。
相手が友達であるかは別にして。それが出来れば苦労はない。
けれどもアザミのたった一人の従
顔つきだけでなく不器用さも父から受け継いでしまっているらしい。
だからやはり、いい加減に友人の作り方を学ぶべきなのである。
そういう意味でもホグワーツ留学は絶好の機会であるのだが、如何せんに言葉だけでなく慣習から価値観からすべてが壁として立ちはだかるので、これからの数年間を思うと重々しいため息を禁じ得ないのだった。
物憂い明日を忘れようと缶コーヒーのプルタブを開ける。キングズ・クロス駅構内の売店で買い求めた品である。アザミは基本的にコーヒーを愛飲している。味に拘りはないし淹れ方や豆の
スミレは偏食のうえ舌が肥えているから安物には見向きもしない。
長旅には決まってペットボトルのミネラルウォーター。しかしながら、軽食に買ったのはアザミと同じタマゴサンドである。刻んだゆで卵をマヨネーズで和えたサラダスタイル。透明なビニルで包装されている。
昼食を手早く片付けてしまえばまた時間が余る。
蒸気機関車での列車旅も十五歳には退屈が勝った。
アザミもスミレもまだまだ成熟しきれていない。
ホグワーツ特急は東海道新幹線よりもよく揺れる。車窓からの景色に趣きを感じられる感性が備わってもおらず、勝手知ったる身内と二人きりなので自然と話題もセンシティブな内容に偏っていく。おそらく他のホグワーツ生がいればはじめから言及を避けたであろうテーマ……かつて人々を震撼させ、いま再び世間を震撼させる脱獄犯。十三名のマグルに対する大量殺人を犯したシリウス・ブラックと、その
「じーちゃんがヴォルデモートにカネ貸してたと思う?」
「貸してたっていうか、
自分から提供しておいてスミレは従姉のレスポンスに困惑した。
事の真偽を究明すべきとの考えがあったことは確かだ。
昨年の“大騒動”で魔法使いたちの浅慮は思い知っている。今回もつまらない風聞を真に受けて猜疑心に囚われているだけに過ぎない。学友たちへの根深い不信感を隠そうともせず、アザミに同意を求めたところ返ってきたのは予想だにしない意見であった。そしてそれは実に信憑性がある。ただ目の前の事象に一喜一憂するだけの自分には思いつきもしないだろう。その思慮深さにはただただ感服するほかになかった。
「やっぱり不老不死なのかなあ……」
「だと思うけど。ウチはもともとそっちが本業なんだし」
「ってことは成功しちゃってるじゃん。アイツまだ死んでないよ」
「失敗とは言えないけどさ。だったら成功なのかって言われると、それはそれでビミョーじゃない?」
「ギリギリ
「なにか気になりでもした?」
いざ尋ねられると答えに窮する。胸のうちでざわめく違和感の正体がうまく言語化できない。
「ねえ、ヴォルデモートってなんで死んだと思われてたの?」
「なんでって……そりゃあ
「あんなに難しい呪文、
「言っちゃ悪いけどそんな程度で倒せるなら帝王なんてとっくに死んでんじゃない?」
「だよね……だけどヴォルデモートはまだ生きている」
死者の蘇生、あるいは不老不死――古くはバビロニアのギルガメス王や古代エジプトのミイラ文化にはじまり、新訳聖書はイエス・キリストの
歴史上、死を忌避し永遠の命を追い求めた者は数知れない。
聖女の死に正気を失い錬金術と悪魔崇拝に耽溺した“青髭”ジル・ド・レェ伯。
悪名高い“血の伯爵夫人”バートリ・エルジェーベトは美と若さに取り憑かれ、メアリー・シェリーの“フランケンシュタイン”は科学による生命の創造という新天地を描いた。あるいはラヴクラフトの“屍体蘇生者ハーバート・ウェスト”もまた然り。
その物語が真実であれ虚構であれ迎えた結末はすべて同じ。
みな失敗に終わり、悲劇的なかたちで幕を下ろしている。
ヴォルデモートは死を克服したというのか。
それとも、ただ死ぬこともままならず、哀れな残骸と成り果ててなお現世に縛りつけられているだけなのか……あるいは未知の外法を以て奇跡を成したのやもしれない。
どのような手段であったにせよ――あるいは如何なる偶然の産物か――闇の帝王は、その御業に触れた廷臣たちでさえ主の死を確信せざるを得ないほどの事態に見舞われたのである。その上で
だとすれば、ポッター夫妻の知られざる才能に可能性を見出すのはいささかナンセンスである。そんな実力があるのならば、はじめからそうしていればよかった、という問題に突き当たる。であるならば。帝王の死は必然でなく、帝王に従う死喰い人たちの敗北は突然であり、まったく予想だにしない展開であったからこそ、戦後処理は不完全なものとなったのだ。
「ワケ分かんなくなってんだけど。ヴォルデモートを破滅させたのがヴォルデモート本人ってナニそれ。バカみたいな話だと思わないの?」
「だってしょうがないじゃん! ダンブルドアと決闘して負けたとかじゃなくって、ハリーのご両親が相手だったんだから他にあり得ないって!」
「たしかに一応の理屈は通るけど。よく考えてみな、撃った呪文を弾き返されて瀕死なんて、そんな間抜けいると思う? スミレのそれも相当ヤバいから」
反論はいくらでも可能だが、より理論的な仮説の提示はできなかった。
闇の帝王に匹敵する魔法使いはアルバス・ダンブルドアのみ。そのダンブルドアが現場にいなかったのなら、闇の帝王を破滅に追いやれるのは闇の帝王その人しかありえない。アザミもその点は同意見である。
ただ、そもそも死の呪いを弾き返せるのかという問題があり、そんな手段があると仮定すると、闇の帝王は何らかの対策を講じているはずなのだ。だからこそスミレの仮説は破綻している。けれど他になにも思いつかないのもまた事実。
だから、二人はこの話題を棚上げすることにした。
もはやこれ以上続けても延々と同じやりとりを繰り返すだけだ。
「図書館で探せばきっとなにか見つかるよ。ダメなら取り寄せればいいんだし」
「探してダメなら先生に聞けばいいか。こっちにはいくらでも時間があるんだ」
そうだ、そうしよう――“ヴォルデモートの死”への探求はこうして先送りされた。
いくら声量が大きくなっても母国語であるから盗み聞きされる心配がない。ここはイギリスでありアオイ
車窓に広がる湖水地方の美しい景色はそっちのけである。
「まったく……これからの学校生活が楽しみだよ」
「楽しみって。さっきは大変そうって言ってたのに」
「面白可笑しくなるに決まってる。なんせ皆がみーんな、帝王の仇は生き残った男の子だと思ってるんだぜ?」
「まさかブラックがホグワーツに? 今さらなにしに来るんだろ」
「バカ! ハリー・ポッターを殺すんだよ! ご主人様の仇討ちなんて美談じゃんか。世が世なら歌舞伎か浄瑠璃の演目にでもなってるね」
「それもそうか。流石にダンブルドア先生も黙って見過ごすはずないし、城の警備を強化するくらいしそうだけど。あの人、なんでかハリーに甘いし」
「そりゃ甘くもなるって……ああ、けど闇祓いに常駐されるのは邪魔だなあ」
「邪魔だねえ。どうせ何人来たって見つけられっこないくせに……」
数名の闇祓いを配置した程度で捕らえられるなら事態は夏休み中に解決している。
けれどそうはならず、魔法省は総動員を行なってなお進展が見られないまま。そして解決の糸口を掴めないまま迎えた新学期である。もしも闇祓いたちがホグワーツまで来たとして、それはもはや形式的かつ政治的なアピール以外の何ものでもない。しかもコーネリウス・オズワルド・ファッジの政治生命はとうに尽きているから、例え少なからず意義があったところでなんらの延命効果も見込めないのである。
であればただただ滑稽なだけの喜劇である。自分の生活空間で繰り広げられるのがアザミには心底迷惑で、スミレは自分の生活環境に干渉されるのが心底不愉快だった。
気に食わないことがあると不貞腐れるのが葵菫という人間だ。
対する葵薊は気に食わないなりに置かれた状況を楽しもうと考える。
今回とて例外ではない。魔法省が擁する精鋭中の精鋭でさえ捕まえられない脱獄犯を、名前も知らない赤の他人からさえも忌み嫌われている自分が捕まえるようなことになれば、いったいどれほど面白いだろうか? こんなにエキサイティングでスリリングなゲーム、不参加の選択肢は存在しない。
「スミレ、私たちでブラックを捕まえよう。そんでもってダンブルドア校長の前に引きずり出してやるんだ」
「ただ捕まえるだけじゃつまんないから
「それ最高。だったらまず脱獄に使ったトリックを突き止めないと。ま、こっちには都合のいいエサがあって、便利な道具だって揃ってる。チュートリアルにはちょうどいいや」
「隠し事をするのに便利な場所なら知ってるよ。ああ…………はじめてホグワーツに行くのが楽しみになってきた」
「そうそう。どうせ学校生活はなくならないんだし、それなら思いっきり楽しまなきゃでしょ。どいつもこいつも最高の一年にしてやろうじゃない」
「秘密の部屋やスリザリンの継承者より怖がってくれるといいね。何がなんだか分からないモノじゃなくって、今度は正真正銘の大量殺人犯だもん……」
憂いを帯びた白い顔に見たこともないような満面の笑みが浮かぶ。
本当ならスミレは表情豊かであり、笑顔の絶えない陽気な性格のだ。
これほど感情の変化に乏しいというのはよほど耐え難い環境なのだろう。
けして我慢強い部類ではないにせよ。これほど不満げにしているのも珍しい。
だから――というわけでもないが、アザミは
スミレ自身が「友達ではない」と切り捨てたあの
――男なら、武勇伝の一つくらいはないと示しがつかないしな
鼻高々に親の七光りを伝道する真っ最中のドラコと視線が重なる。
それはほんの一瞬の出来事で、意識しなければ気づけないほど僅かな、ほんのコンマ数秒という世界で生じた“間”だった。
だけれど二人はたしかに相手の表情を認識した。
スミレそっくりの底抜けに明るい笑顔と、不自然なほど瓜二つの顔が並んでいることへの困惑。
そのまま長い時間が経過していてもなんら不自然ではなかった。
真っ先に異変を察知したセオドール・ノットが細長い首をさらに伸ばす。その様子を見てドラコも腰をあげる。いよいよ鈍感な他の面々も事態に気づいた様子で――クラッブとゴイルはただあたふたと目の前のお菓子を胃袋へ詰め込んでいくだけだが――パンジー・パーキンソンはいの一番で自分の席を飛び出した。
ノックも忘れて隣のコンパートメントの扉を開け放つ。
瞬発力よりも判断力よりも、意中の相手であろうマルフォイ家の貴公子を置いても、まずスミレを優先したその事実にアザミは目を見開いた。
「スミレ、そっちは大丈夫? 何も変なことは起きてない?」
「どうしたんですかパンジー。その、変なことって?」
「気づかないのかよ。列車、止まってんぞ」
「えっ」
呆れた口調のアザミに指摘されてスミレもようやく気づいた。
石造りの陸橋の上でホグワーツ特急は停車している。
空を覆い尽くす黒雲と降りしきる大雨。さっきまで聞こえていた列車の走行音がすっかり止んで、雨風ばかりが轟々と響いてくる。突然の嵐の真っ只中のせいかしきりにガタガタと客車全体が激しく揺れる。
あり得ないタイミングであり得ないことが起きている。
外の様子を確かめようとパンジーは窓に近寄った。
逆にアザミは通路の様子を窺った。他のコンパートメントからも不思議そうな顔が覗いている。誰もこの状況を説明できそうにはない。ただ耳元に囁きかけてくる声を信じてドラコたちに「客室の鍵を閉めろ」とだけ伝え、元いたコンパートメントへ大慌てで引き返した。
振り返ることなく後ろ手にこちら側も鍵を閉める。
ガチャンという派手な音にパンジーが飛び上がった。
抱きつかれたスミレは驚いたあまり両手を上に挙げた。
「なになになにナニ!? 今の音はナニ!?」
「む、胸が……パンジー、胸が苦しいです……」
「こんなときに遊んでんなよ。ったく、
「東洋のコトワザなんか言ってないでなんとかしなさいよ!」
「に、日本じゃなくて、ア、ア、アメリカです……」
「そんなの今どうでも――――――」
なんの前触れもなく車内の灯りが消えた。いきなり暗闇に包み込まれ、いよいよパンジーは恐怖のあまり悲鳴すら出せなくなる。吐息が白くなるほど冷え切っていく車内。なのにスミレだけはみるみる全身が火照っていった。
頼りにならない従妹をよそにアザミは杖を抜いた。
もはや状況は非常事態に突入している。自衛策が必要となる。
急激な気温の低下だけでなく、異変が次々と押し寄せてくる。
窓ガラスの水滴が真っ白に凍りつく。どころかペットボトルのミネラルウォーターまであっという間に凍ってしまう。さらに激しく揺れる客車。まさか――考えたくもないが、最悪の展開を覚悟せざるを得なくなる。
「
荒れ狂う吹雪のような低い風音が聞こえる。
冬の夜の冷たさを思い起こさせる、あの厭な地響き。
雪国に生まれ育ったスミレとアザミのよく知る『死』のかたち。
恐怖そのものを象った悪魔が、細長い指をゆっくりと伸ばす。
襤褸をローブのように纏った姿は幽鬼のよう。宙を漂う様は揺蕩う水死体を彷彿とさせる。骨だけとなった上肢に貼りつく肌は腐乱死体さながらの灰色。まったく生命の気配を欠きながら、明確な意思を持って車内の通路に存在している。
緩慢な挙動によってコンパートメントの鍵はたちまち開かれた。
わずかな隙間へ差し込まれた右手。襤褸で覆い隠された顔はその表情を窺い知ることが出来ず、ただ口元に空いた真っ黒な空洞からあの
ひとたび対峙しただけでアザミの闘志は尽き果てた。
いまや身動きをする気力すら失い、もはや滾る活力もなく、ただの惰性で杖を突き出しているだけ。
魂まで凍てつきそうな冷気に蝕まれる。
眩暈がするほどに精気が消えてしまっていた。
指先に走る痛みさえ感じられなくなって、ついにアザミの意識は途絶える――――――
スミレも性格悪いけどアザミも大概だよというオチ