人生二度目のイギリスも曇りだった。
鞄にはホグワーツ魔法魔術学校から届いた入学許可証と日本語の本が数冊。
学校へは特急列車で行くから退屈しのぎに持ってきた。
魔法界の本と違って表紙や挿絵は動かない。
動く方がおかしいと思うのは私が『マグル』の価値観に染まっているからだと、ドラコかパンジーあたりは言いそうだ。
入学にあたって教科書に制服、杖、ペット、その他羽ペンや細々としたものが必要になる。
特急に乗る前に買い揃えるため、ダイアゴン横町へやって来た。
魔法使いの道具はだいたいここで手に入るそうだ。
手に入らないのは『こすると魔神が出てくる魔法のランプ』や『空飛ぶ絨毯』だろうか。
まあ、そういうのはイギリスにはないだろうけど。
あるとすれば砂漠の洞窟だ。
ダイアゴン横町は色んなお店がずらりと並んでいる。
商店街のような場所で、きれいに整った石畳の上をたくさんの人が通っている。
とんがり帽子に長いローブ、髪はもじゃもじゃだったり三つ編みだったり、行き交う人のほとんどが魔法使いの恰好だ。
ショウブ叔父さんは白いシャツの上に黒いジャケットを羽織って、普通の黒い革の靴。
私はいつものTシャツにスニーカーを履いてきた。
なんだか魔法の世界に迷い込んだ一般人だ。
準備物のリストを見て、叔父さんは行き先を決めた。
「さて……まずは銀行に行くとするか。預けてるモンもあるしな」
「ここ銀行があるの?」
「ああ。お前が倒した吸血鬼いただろ、あいつの遺産をぜんぶそこに預けてる」
「私が? 倒した?」
私はその辺りのことをよく覚えていない。
今の今までずーっと叔父さんと魔法省の人が助けてくれたと思っていたのに、とんでもない新事実だ。
叔父さんは「その辺は、また今度にな」と私の手を引っ張って猛スピードで歩き始めた。
あれから背も伸びて、走ればなんとか追いつけるようになった。
けれど銀行に着いた頃には少し疲れてしまった。
そこはグリンゴッツという銀行で、大昔にグリンゴッツという小鬼が始めたからこの名前になっている。
日本の銀行とは比べものにならないほど大きくて広い。
大理石のホールでは何人ものゴブリンが帳簿を作ったり宝石を秤に載せたりしている。
背丈は私よりまだ小さいのに、頭は大きくて耳と鼻は尖っている。
ツメも鋭いし表情もちょっと怖い。
叔父さんは適当なカウンターへ進んでゴブリンに声を掛けた。
「おはようさん、スミレ・アオイの預けものを引き取りに来た」
眼鏡を掛けたゴブリンは分厚いレンズの向こうで小さな目をぎらりと光らせた。
ジャケットの内ポケットから取り出したカギを受け取ると、小さく頷く。
「確かにスミレ・アオイ様の金庫のカギです。他の者にご案内させましょう、グリップフックこちらのお客様もお願いしたい」
グリップフックさんもやっぱりゴブリンで、チューバッカみたいな毛だるまの大男と眼鏡の痩せた男の子を見送っていた。
ひょこひょことこちらへ来ると奥の扉へ案内してくれた。
途中、叔父さんがふとグリップフックさんに尋ねた。
「さっきアンタが案内してたのはハリー・ポッターか?」
「ええ。左様でございます」
「その人も叔父さんのお友達?」
「有名人だ。魔法使いで知らなきゃモグリってレベルで有名人」
「ポール・マッカートニーとかフレディ・マーキュリーみたいな?」
「うーん、かもしれない」
それにしてはとても普通の、私のクラスにいてもぜんぜん違和感が無さそうな雰囲気だった。
とてもポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーみたいに追っかけがいるとは思えない。
彼が武道館でライブをしても気絶する人はまずいないだろう。
チューバッカの方が私はよっぽど気になる。
「どうぞ後ろの席へ。足下にお気をつけください」
ロンドンの地下にダンジョンみたいな空間が広がっている。
化石ポケモンが出てきそうな洞窟を移動するのにトロッコを使うとは……。
叔父さんが先に乗って、私の手を引いてくれた。
おっかなびっくり周りを見渡しているとボロボロのトロッコが急発進した。
がくんと首が揺れて、車輪とレールがギシギシ音を立てている。
グリップフックさんはなにもしていないのに、トロッコは勝手にレールの上を爆走して何度も坂を登ったり下りたり、分岐点を数え切れないほど通り過ぎていく。
遠くには滝も見えた。
溶岩があればもっと雰囲気が出ただろう。
後ろから他のトロッコが追いかけてくれば『魔宮の伝説』だった。
つい興奮して声を挙げてしまう。
「ジェットコースターみたい!」
「…………」
叔父さんは顔を真っ青にして黙っている。
もしかしたらジェットコースターは苦手だったのかもしれない。
お父さんは苦手そうだけど、お母さんはこういうの好きだろうな。
遊園地に行ったら必ずジェットコースターとお化け屋敷に行くから。
「着きました。230番の金庫です」
風で髪型が崩れた叔父さんがフラフラと先に下りる。
私もトロッコから飛び降りて、大きな扉の前に立った。
姫路城の正門くらい分厚そうだ。
さっき叔父さんがカウンターで渡したカギを使い、グリップフックさんが扉を開ける。
重い音が響いて、だんだん中の様子が見えてきた。
「話しは聞いてたが……こりゃ、スゴイな……」
私の金庫の中は、金色のコインが山脈を作っていた。
さらに奥でまた金色の富士山が出来ている。
硬貨の漂わせるひんやりした空気に誘われて、一歩踏み込んだ。
これがぜんぶ私のモノ、その実感がちっとも湧いてこない。
誰かが遺してくれたでもなく、譲ってくれたでもなく、欠落した記憶の中で起きたことがもたらした大金……。
こんなのあってもうれしくない。
はやく処分してしまいたい。
「カネの方は腐らせとけ、今日はその杖を取りに来ただけだ」
後ろから呻くような叔父さんの声がした。
私がこのお金を嫌がっていると気づいている。
……卒業したら病院かどこかに寄付しよう。
杖は金貨の小山の上に鎮座していた。
全体は真っ黒で、持ち手のトコロには金で植物の彫刻が飾られている。
気味が悪いほど成金趣味なそれを手に取ると、生まれた頃から持っていたように馴染む。
30センチ以上はありそうなのに重さもなにも感じないほどしっくりくる。
不気味な魔法の杖が怖くて、叔父さんの方を振り返った。
「こ、これ、なに?」
「お前の杖だ。気に入らないなら鞄に入れておけばいい」
言われたとおり肩から提げた鞄に放り込む。
すぐに金庫を出て扉を閉めてもらった。
トロッコに乗る前、叔父さんの骨張った手が私の頭をそっと撫でた。
「銀行を出たら、ちゃんとした杖を買いに行こう」
「うん……」
帰りのトロッココースターは景色を見る気力も湧かなかった。
ただ、地上に戻ってくると叔父さんの顔色がもっと酷くなっていた。
銀行を出るときに「二度と来ねえぞ」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。
†
グリンゴッツ魔法銀行の次は『オリバンダー』というお店にやって来た。
由緒正しい杖作りの名店で、ここの店長さんは世界一の職人と評判だとか。
叔父さんの杖もここで買ったものだと教えてくれた。
お店の中は昼間なのに薄暗くて少し埃っぽい。
私と叔父さんが入ると奥から優しそうなお爺さんがやって来た。
「いらっしゃいませ」
「久しぶりだな、爺さん」
眼鏡をかけたその人がオリバンダーさんだった。
にっこりとして「懐かしい顔だ、杖を買って以来になるか」と言った。
叔父さんはもう30歳を過ぎている。
杖を買いに来たのは20年以上も前になるのに、このお爺さんはそのことを覚えているようだった。
それはお世辞でもなんでもなく、スラスラと杖の材質や長さを言い当ててみせた。
「ヒイラギとユニコーンの尾、32センチ。頑固でしならない……ふむ、あの頃に比べてずいぶん落ち着いたようじゃな」
「そうかもしれん」
病院で私の悪口を言ったお医者さんを蹴飛ばしたけど。
お母さんも怒るととても怖いらしいから、私はきっとそういう家系なんだと思っている。
「今日は姪っ子の杖を買いに来た」
「ほほう、ではこの子もマホウトコロに行くのかね?」
「ホグワーツだ、色々あってな」
色々。本当に、色々あった。
オリバンダーさんもその言葉にただ頷いて、なにも聞こうとしなかった。
「さて、それでは早速拝見しましょう」
それからは利き腕やら身長を細かく計測されて、私と相性が良さそうな杖を探し始めた。
魔法の巻き尺が鼻の穴まで計ろうとしたところで奥から「もうよい」と声がした。
言われて巻き尺は地面に落ちてクシャクシャに丸まった。
しばらくしてオリバンダーさんは長方形の細長い箱を持って戻ってきた。
「では、こちらをお試しください。りんごの木にユニコーンの毛。22センチ、手触りがよいい。手に持って、軽く振ってご覧なさい」
その通りにしてみると魔法の巻き尺が天井まで跳ね上がった。
オリバンダーさんは杖をもぎ取ると別の一本を持ってきた。
今度は少し長くて赤っぽい。
「ナシの木に不死鳥の尾、34センチ。ずしりと重い。どうぞ」
これはドアを切り裂いた。
「こりゃいかん――別の杖にせねば」
叔父さんが驚いて飛び上がり、杖は別のものと取り替えられた。
今度のはさっきのものに比べて半分ほどの長さしかない。
「これはどうじゃ。クルミにドラゴンの心臓の琴線、14センチ。思いの外に軽い。ささ、振ってご覧なされ」
軽く手首を動かすとついに椅子の一つが砕け散った。
それから色々な杖を試し、お店の中を破壊しながら合わなかった杖の山が出来上がっていく。
オリバンダーさんの考えていることが分からず困ってしまい叔父さんを見たが、叔父さんは黙って見つめ返してきただけだった。
お店で扱っている木材はもうほとんど試した気がしてきた。
けれどお爺さんはとても楽しそうで、ウキウキしているのが一目で分かる。
なにもかも不思議な世界で、今のところこの人が一番不思議だ。
棚の一番上の一番奥から取り出した箱を開けて、すごく愉快そうに目を輝かせている。
「さあて難儀なお客様じゃ。ん? そう心配なさるな、必ずばっちりの杖を探してさしあげますでな……次はどの杖がよいかな……おお、これは滅多に無い組み合わせじゃな。桜の木にドラゴンの心臓の琴線、32センチ、良質でしなりがある」
全体が真っ白でところどころにほんのりとピンク色が見える。
いかにも桜の木らしい色合いの杖を振ると、お店の中なのに桜の花びらが舞った。
どこにも木は生えていないし花も咲いていないのに、カウンターや椅子の上にほんのりピンク色の小さな花びらが載っている。
ショウブ叔父さんは拍手喝采、オリバンダーさんも「ブラボー!」と叫んでいる。
私だけが状況を分かっていない。
「よろしいかなアオイのお嬢さん、桜というのは実に神秘的な木でしてな。西洋では軽んじられておりますが、それは偏見です。この木を元に作られた杖はどのような魔法でも強大な力を発揮します、それだけに持ち主はきわめて少ない。とても気位の高い杖なのですよ」
この組み合わせはオリバンダーさんがお店を継いでから5本と売れていない。
それだけ珍しくて強い杖だと教えてもらった。
お店で使うのは私の地元の桜だけで、色々試してみたけれど他の木ではここまでの杖にならなかったらしい。
「今日はなんと素晴らしい日じゃ……これほど運命的な出会いを二度も目にしようとは」
軽く涙ぐむオリバンダーさんへ叔父さんが杖のお代を払って店をあとにした。
あの人は昔からああいう調子で杖を作ることと持ち主を選ぶことに楽しみを見出していると、叔父さんが呆れた顔で言っていた。
そのあとは鍋や手袋を探して横丁を行ったり来たり。
必要なものはあと教科書と制服だけになった。
ペットはもう連れてきているので見なかった。
家の裏に棲んでいる大きな蛇だ。
人に噛みついたりしないし、私があげた餌しか食べないから大丈夫。
小腹が空いたけれど電車の時間もあるから我慢する。
最後に来たのは『マダム・マルキンの洋装店』……服屋さんだ。
ただし、Tシャツもデニムもない。
周りの人たちが着ている長いローブやマントが並んでいる。
「教科書を見てくるから先に終わったら店の前で待ってな。こっちはすぐ終わる」
服屋さんはちょうど二人の採寸が終わったところだった。
一人はドラコ、もう一人は眼鏡を掛けたくしゃくしゃ頭の男の子。
銀行で入れ違いになったハリー・ポッターだ。
ドラコはこっちに気づいて肩で風を切りながら近づいてきた。
「久しぶりだなアオイ、さっきのは君の叔父さんだね」
「お久しぶりですドラコ。ええ、本屋さんへ教科書を見に行ってくれました」
「ならいい機会だ、僕も挨拶しておこう。父上も本屋にいらっしゃるんだ。じゃあ、あとで会おう」
私の右肩をポンと叩いてドラコは店を出て行った。
あとからやって来たハリー・ポッターは少し訝しむような感じだった。
「去年彼の家にホームステイしてたんです。一ヶ月だけ」
そう言うと本気で驚いたような顔をした。
「本当に!? 大変じゃなかった?」
「大変でした。テレビもなんにもない生活なんて初めてです」
「いや、そっちじゃなくて……テレビ?」
「あなたもご存じないんですか? 四角い箱に画面がついていてですね……」
「それは知ってる。見たことはないけど。僕が言ったのは――」
あなたがなにを言っているのか私も分かりませんよ。
テレビを知ってるなら見たことくらいあるでしょう、イギリスでドラえもんをやってるかどうかは知りませんけど。
噛み合わないのに話が弾む。
なんてトンチンカンなやり取りなんだ……。
お互い頭の上にハテナマークを浮かべながらアレはどうだソレも知らないと言い合っているうち、藤紫色ずくめのふくよかな女の人に奥へ案内された。
あの様子だとハリー・ポッターはアメリカのスターウォーズどころか、同じイギリス生まれのビートルズも知っているのか怪しい。
階段下の物置で暮らしていれば当然かもしれないが、そもそも階段下の物置は聞き間違いだろう。
物置は物置であって人が生活する場所じゃない。
この国の魔法使いは本当に不思議だ。
私の常識がまったく通用しないのだから。
長々と続く採寸の間も、台の上で棒立ちのまま通りを行き交う人々を眺めていた。
彼らはきっと魔法がない生活を不便で退屈に思っているんだ。
魔法がある方が便利かもしれないけれど、楽しいことに魔法はまったく関係ないと知っている人はほとんどいないように思えてしまう。
そういう考え方をしているのは、ドラコのような貴族の家だけだといいのだけれど……。
杖:ドロップアイテム
金:撃破報酬
杖は日本人だしここは桜でしょというチョイス。
ちなみに桜×ドラゴンの心臓の琴線はロックハート先生と同じ組み合わせなので縁起が悪い。