「おい、見ろよアレ」
「それってどっちの方?」
「ロングヘアーの隣にいる」
「あのハンサムな女の子?」
「いま目があったかも」
「話しかけてみようかな」
明くる朝、寮を出るなりアザミは囁き声につきまとわれた。朝食のために大広間への廊下を歩くだけでほとんどの生徒が足を止める。すれ違えば振り返り、ときには引き返してくることすらあった。適当な席で新聞を読んでいれば隣の席を巡って上級生たちが火花を散らす始末。
下級生も下級生で遠巻きにじっとアザミの様子を窺っている。
それで気分を害するほどアザミは繊細な神経を持ち合わせていなかった。はじめから眼中になければ心穏やかでいられる。
薄く切ったトーストにたっぷりバターを塗り、さらに宝石のようなイチゴのジャムをのせる。分厚いブラックプディングと目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコン、スクランブルエッグとベイクドマッシュルームも山盛りにしてオレンジジュースはコップになみなみ注いだ。紅茶には角砂糖を三つ入れ、たっぷりのミルクも忘れてはいない。
まだパンケーキもあるので適当にセーブする必要がある。
昨日の夕食も素晴らしい味わいには違いなかった。ただとにかく量が少ないし腹持ちも悪い。
おかげで今朝はいつも以上に食欲旺盛なのだ。
十五歳といえば育ち盛りである。
日によっては一日四食でも足りないくらい腹が減る。
とにかくアザミは好き嫌いなくよく食べる。
右隣に座ったスミレとは対称的だった。スミレも食事量こそ人並みより多いが、とにかくひどい偏食で、今も温かいポリッジに粉砂糖、シリアル、カットされたリンゴやイチゴ、バナナ、クランベリーをこれでもかと盛りつけている。肉類にはいっさい手をつけようとしない。けれどもアザミはスミレの食生活を監督してやるつもりなんてさらさらないし、スミレもアザミの食事に思うところは何もないので、二人とも相手の食事にはまるっきり言及せずに仲良く日刊予言者新聞の朝刊を読んでいるのだった。
相変わらず一面はシリウス・ブラックの記事である。
情報提供を広く呼びかけている。魔法省はもはや無策だ。
三枚目のトーストを胃袋に仕舞うとアザミはため息をついた。
口の片端だけ吊り上げて笑っている。
「いつ捕まるかな。あと何年かかると思う?」
「本懐を遂げるのとどっちが早いかじゃない?」
ニコリともせずスミレは物騒なことを言う。
さらに「吸魂鬼もアズカバンを離れっぱなしじゃ大変だよ」と続けた。
哀れむような口ぶりにアザミは朝から気分を害した。
「あんな連中は飢え死にしたらいいんだ」
「じゃあそのあと誰がアズカバンを見張るの」
「知らないって。それこそ魔法省でどうにかしてよ」
まったく正論だったのでスミレは反論できなかった。
実際問題、吸魂鬼と手を組むのはよくないと思う。どれだけ彼らの望むままに餌を与えてやったところで所詮は怪物なのだ。いつ何時に手を噛まれるか知れたものではない。手を噛みちぎられるぐらいならいっそマシだろう。下手をすれば命を落とすより残酷な結末だってあり得る。
義理や恩というものは人間の理屈であり都合だ。
ダンブルドアが言ったとおり
あるいは、だからこそかもしれない――――怪物は人の理から外れた、文字通り
同じ人間同士でさえ理解しあえないのに、種として異なる存在が相手になると心通わせることが出来るなんておかしな話ではないか。
だからスミレは動物全般が嫌いだった。力尽くで排除しなければ耐えられないではないが。やはり傍に寄られると不快感を覚える。
例外的に蛇だけは好ましかった。
人間と同じように言葉が通じるからだ。
もちろん、人間と同じように、何を言っても通じない気性の蛇もいる。
本当の意味での相互理解が成り立たないにせよ。形だけでもコミュニケーションが可能ならそれで十分だろう。
ふと吸魂鬼とはそんなに厄介な生物なのか気がかりでもある。
ホグワーツ特急でアザミは失神、パンジーもひどく消耗していたが、スミレは体感気温が下がったほかになんの影響もなかったのだ。
やはりここは専門家に尋ねるのが手っ取り早いだろう。
けれど間違っても魔法生物飼育学の教授には相談したくない。
安全管理という考えが欠落したあの森番を信用できないでいる。
どうせならまだ
教授の職を得たところで元から遵法意識がないのだ。学生時代からしてアクロマンチュラの飼育に手を染めていたような男だ。つけ加えるなら、ほんの二年前にはドラゴンを学校の敷地内で孵化させ、それに飽き足らず密かに育てようとさえしていた。あのケルベロスだって好き好んで飼っていたのだから、この調子ではいずれ人狼の多頭飼いくらいのことはしでかしかねない。その程度にはスミレの中でハグリッドに対する不信感は大きくなっていた。
「……本当に魔法生物飼育学を受けるの?」
本音を言えばやめてほしい。怪我をしてからでは手遅れなのだ。
「勉強するためにホグワーツへ来たの。受けられる授業は全部受ける」
至極真っ当な理屈だった。海外留学に要する諸費用を思えば勉学に勝る優先事項など存在し得ないのだ。時間割が重複していないのなら受講するのみであって、無為に放課後を遊んで過ごすことなど許されない。そしてアザミ自身、勉強を苦痛と感じない人種であった。
どころか奇特にもこれがアザミにとって数少ない趣味なのだ。
成績通知書と格闘ゲームのスコアがまったく同じものなのである。
スミレにはなかなかに理解し難い世界である。
遊び呆けて学生の本分を蔑ろにするよりはマシだろうけれど。
アザミは皿に載った料理をペロリたいらげた。クランペットへハチミツからメイプルシロップ、生クリーム、バター、色とりどりのソースにフルーツまで片っ端からトッピングしていく。もはや違法建築の域だった。
見ているだけでも胃もたれしそうな有り様だ。
白湯のようなブラックコーヒーを啜る。味も香りもなく極めつけに不味い。目を閉じて全神経を味覚に集中させてみればわずかに酸いような気もする。モカだろうか。スミレはさし当たって豆に拘るほど珈琲愛好家を自負するようなこともなかったが、何年か前にお歳暮で届いたモカはあまり好みでなかった記憶がある。輪切りのオレンジを一口齧った。酸いながらも瑞々しく甘い果汁がコーヒーの出涸らしを洗い流してくれた。
もっと言うなら朝食は必ずお茶漬けか粥である。
新学期がはじまって間もないのにお茶漬けがたまらなく恋しい。
あと一ヶ月。いや一週間。せめて一日だけでも新学期を遅らせてくれたのならどれほどよかったか。スミレにとって我が家は一つだけなのだ。ホグワーツはただの学校であって、多大な苦痛と計り知れない心労が襲いかかり、とにかく耐えがたい生活を強いられる。
みるみる塞ぎ込んでいくスミレのせいでみなアザミに近寄れずにいる。
昨年に決闘クラブで不用意な発言をしたザカリアス・スミスとマリエッタ・エッジコムが――前者については誰もが自業自得ないし
身内のスリザリン……とりわけ上級生からも冷淡さを理由にやや遠ざけられつつある。スミレの方が頑なに心を閉ざし、冷たくあしらっているのだから、どれほど巧妙に取り繕ったところでいずれは露呈する。結局のところ鍍金が剥がれ始めただけなのだ。
アザミはようやく腹八分目に達したようだった。
恐るべき胃袋の持ち主である。
こんな食生活を一ヶ月も続けていれば糖尿病と肥満に陥るだろう。
授業の準備があるから、とだけ告げてアザミはさっさと大広間を去っていった。何人かの生徒が後ろ姿を目で追った。ただ早足で歩いているだけでも様になるのは得がたい才能と言えるかもしれない。留学生という肩書きの物珍しさも少なからず評判に影響を及ぼしているのは確かだ。
アザミが去るとみんなスミレから遠のいた。
顔立ちの可愛いらしさならアザミよりずっと勝る。それでもこの陰気さは如何ともしがたい。
多少強面でもユーモアを感じさせるだけスミレより好印象なのだ。
中には蓼食う虫も好き好きで、敢えてアザミの姿が見えなくなってからスミレに話しかける変わり者もいるにはいるのだった。
緊張と気恥ずかしさからアーネスト・“アーニー”・マクミランの声はやや裏返っていた。
ドン・キホーテを気取るにはやや蛮勇に欠ける。
「おっ、オハヨウ、アオイさん」
スミレは自分が話しかけられているのだと気づいて、やや躊躇した。
わざわざ対応するのが心の底から煩わしい。シリウス・ブラックの学生時代について詳しいニュース記事の方がよっぽど重要だった。
しかし妙な律儀さと自己保身のために渋々振り返った。
「おはようございます」
たったその一言を発するのに多大な心理的ストレスが生じる。
等価交換の法則は人間の精神までカバーしていないらしい。だとすれば大変な不手際である。残念でならない。
名前を呼ばなかったのは意図してである。思い出す時間と労力を惜しんだからだ。単純に忘れていたのではなく、端から思い出そうともしなかったのだからなお悪い。
「アオイさんも……その、今から朝食かい?」
「もう済みました。お気遣いなく」
突き放す口調でも意に介する様子はなし。
新聞記事にかかりっきりのスミレを無視して、アーニーは大胆不敵にも隣に座ってもいいか尋ねた。
「もし……差し支えなければ、隣に失礼しても構わないかな」
「どうぞご自由に」
自らの意思を以て拒絶する苦労さえ惜しい。
相手に最終決定権を、責任を押しつける方がずっと楽で済む。
アーニーはスミレの無表情の下の本音など気づきもしない。まったく幸せ者だった。
ぎこちない動作でついさっきアザミが座っていた席へ腰を下ろした。
空の食器はすでに引き下げられている。真新しい取り皿をはじめ食器一式が目の前に現れて、アーニーはスミレが読んでいる記事を覗いた。ほんの好奇心である。
「知られざる、若き貴公子の黒い真実……?」
そんな見出しから始まる虚実ないまぜのスクープ、否、極めて悪質なゴシップである。ボリューム自体はたかが知れている。
記者の名はリータ・スキーターという。
大変に厄介な人物だ。
にも関わらず彼女の記事はよく売れている。
おそらくエンターテイメント性が高いのだ。フィクションと割り切ってしまえば、低俗さは依然としてあるものの、退屈凌ぎ程度にはなかなか面白い読み物だ。
だから週刊誌でも少なからず受けがいい。冒険家にして伝記作家のロックハートが文字通り彗星の如く消え去った今、スキーターはクィディッチに次ぐ大衆娯楽の担い手といっても差し支えないくらい大きな存在となっている。
スミレが読書家なのはアーニーもよく知っていた。
ほとんど活字中毒といってもいい。
放課後はいつも文庫本を持ち歩いているのだ。内容どころかタイトルさえ誰も知らないように思えた。スリザリンの友人に貸している様子もない。だとすれば日本語で書かれているのかも知れない。東洋のマグル文化なのか、ブックカバーで表紙を隠しているから、却って印象的だった。だいたい繰り返し読んでいれば、あるいは時間の経過とともに、安価な文庫本はすぐ劣化する。たかだか表紙カバーをそれほど大切に保護する理由を聞いてみたいが、なかなかその一歩を踏み出せずにいる。
話しかけるのだってどれほどの勇気を要するか。
プラスチック製の安いボールペンでこちらも安っぽいメモ帳に何か書き込み、それが済むと左手首に巻いた腕時計をチラと見、スミレは新聞を畳むとおもむろに立ち上がった。
さらりと長い黒髪がゆれる。その隙間から覗く赤い視線は、あの白い大蛇のものか。
人工的なほど整った横顔。底の見えない黒い瞳。生気に乏しいほど白い肌。無彩色の中に佇む、鮮血よりもずっと鮮やかな、赤い唇。
磁器人形も恥じらう美貌――これは魔性だ。
機敏さをまるで感じさせないゆっくりとした動作ながら、スミレの行動はいつも数秒ほど予想よりも素早い。
生者とは異なる時間の流れを歩んでいるような。
「授業がありますので。それじゃ」
スミレは得意の愛想笑いどころかアーニーの顔を見もせずに言った。
あからさまに不機嫌な態度を隠そうともしない。けれど二人はほんの一分と話していないのだから、スミレの示した態度はまったく不当である。反感を抱いてもなんら不自然ではない。しかしアーニー・マクミランはそんな意図をまるで持ち得なかった。慌てふためいて半ば腰を上げて発したのは、
「古代ルーン文字学ならボクも――」
と、完全に裏返った情けない声だった。
返ってきたのはまたもや「どうぞご自由に」の一言だけ。
凍りつく無感情にもめげず、アーニーは遠のいていく後ろ姿を追った。
▽
▽
▽
大広間から古代ルーン文字学の教室は目と鼻の先である。
長い長い螺旋階段をぐるぐるとのぼって一番上である。
おそらくバブリングは尖塔の最上階を教室に希望したのだ。たしかに気位の高そうな女史であった。ルーピンが――顔色の悪さや衣服のみすぼらしさを差し引いても――親近感を抱かせる人物であったのとは対称的だった。スネイプのような陰性の孤独主義よりもむしろルーピンの対比となるのはバブリングの孤高主義であるように思われた。ホグワーツに入学して間もない頃の自分を思い出させられて、ハーマイオニーは古代ルーン文字学の新教授へのささやかな苦手意識を抱きつつある。
いずれにせよ授業に出席する苦労は計り知れないものがある。
どうにか教室へ滑り込んだとき生徒のほとんどは肩で息をしていた。
もちろん学年最優秀の地位を不動のものとするハーマイオニーとて例外ではない。どころか成績と反比例して体力面は同学年と比べてかなり不安がある。もともと運動全般に関してはあまりセンスに恵まれていない自覚がある。サッカー観戦への熱狂具合とセリエ
可哀想にマイケル・コーナーは額に脂汗を浮かべ吐き気と戦っている。
パーバティとパドマのパチル姉妹もようやく具合が落ち着いた様子だ。
ほかも似たり寄ったりの死屍累々の状況である。大量の教科書を抱えてきたハーマイオニーほど悲惨ではないが。マクゴナガルの助言に従い朝食を控え目にしていなければ今ごろは目も当てられない有り様に陥っていただろう。
授業開始のベルが鳴り終わるのをまってバブリングは声を発した。
張りのある、しかし熱量の乏しい機械的な声質だった。
「教科書は必要ない。羊皮紙と羽ペン、それに頭脳があれば結構」
ザカリアス・スミスがハンナ・アボットに「それじゃあこの身体も必要ないのかな」と囁いた。
バブリングは早速、恐るべき地獄耳を披露しながらニコリともせず応じた。
「その通りだスミス。キミがシリウス・ブラックの犠牲者リストに加えられたとしても、ゴーストになって出席したなら無条件に学期末考査の受験資格は認められ、かつご実家に成績表を送付させて貰う」
センシティブすぎてまったく笑えない冗談だったが、スミレだけはクスクスと声を殺して笑っていた。恥をかかされたと思ったザカリアスは顔を耳まで赤くしていたが、あの白銀の大蛇に凝視されるとイヤな記憶が蘇ったと見え、すぐに目を逸らした。意外だったのはブレーズ・ザビニとセオドール・ノットまで怯んでいることだった。筋金入りに純血主義者である二人がブラックの標的になる可能性など万に一つもないはずだが、ハーマイオニーはすぐに意識を授業に集中させた。
「心配せずとも飢えた吸魂鬼が城を取り囲んでいる。迂闊に近寄れば連中の餌になるだけだ」
事実はそうだろうが表現の一つ一つが厭でならない。それではブラックより自分たちの方がずっと悪い状況に置かれているように聞こえてくる。なんならホグワーツが第二のアズカバンになってしまったようにも解釈できてしまう。最悪も最悪すぎる言い表し方ではないか。
「挨拶代わりの冗談はこのくらいにしておこう」
とんでもない挨拶があったものである。既に教室の空気は冷え切っている。
猛吹雪の真っ只中で野外授業を敢行しているかのような気分にさせられる。
ちょうどホグワーツ特急の客室に吸魂鬼が乗り込んできたときの感覚と同じだ。
バブリングはニコリともせずに演説を続けた。教室中の誰の顔も見ず、あらかじめ決められた文句をあらかじめ決められたタイミングで発しているだけに思えた。
「諸君らが自覚しているかはさておき。二年後には
普通魔法レベル試験・・・・・・頭文字から“
ハーマイオニーなどは血が凍る思いだった。
OWL試験の合否は三段階ずつあわせて六段階の評価で通知される。
不合格を示す“
合格を示す
バブリングは“最優”以外の評価をすべて不合格と見なすと宣言したのだ。
ほんの十数名しかいない生徒をさらに選抜しようなんてスパルタもいいところだ。
ザビニやノットはどこ吹く風だが、むしろ動揺している方が多数派だった。
ただ一昔前の言葉や文法を習うだけで済まないことくらい、教科書を流し読みすればいやでも理解させられる。
新学期を早々にとてつもない不安が募る。
頭痛を覚えるほど先が思いやられるのだった。
表情の冴えない生徒に気づいたのかバブリングはようやく表情を笑顔に変化させ――つまりは下手な愛想笑いを浮かべただけなのである――慰めるように言った。
「そう難しく考える必要はない。OWL試験の出題範囲は本年度ですべて終わる」
余命どころか死刑を宣告されたような気分がした。
この調子ではOWL試験どころか学年末さえ自信を失ってしまう。
ハーマイオニーにはここが葬儀場か古代ルーン文字学の教室か、判断できない。
それはみんな同じ気持ちであった。ただスミレとアザミだけは「そりゃそうだ」と言わんばかりに従姉妹同士で顔を見合わせ、キョトンとしている。