「気にするなよハリー。相手はあの吸魂鬼なんだ、何が起きたっておかしかないんだぜ」
朝食の席でのことである。スリザリンの上級生たちがハリーを揶揄しては大声で笑いあっているところへ、たまたまフレッドとジョージが通りがかり追い払ってくれた。四年生になるカシウス・ワリントンが泣き叫びながら二人のいるコンパートメントへ駆け込んできたうえ「あんときゃ確かパンツにご立派なクソを漏らしてなかったかジョージ?」「おまけに小便もチビってたよ。ありゃあ吸魂鬼よりよほど最悪の出来事だったぜフレッド」と散々に恥をかかせて追い払ったのだった。
ようやくハリーの周囲が落ち着いたのを見てジョージが上のようなことを言った。
しかしホグワーツ特急で気絶したことはハリーにとって簡単に
「いつのことだったかな。親父が魔法省の仕事でアズカバンに行ってきた日、あったろ。覚えてるかジョージ」
「忘れるもんかよフレッド。あの楽天家な親父が憔悴しきって震えながら帰って来たんだ。顔面なんて真っ青通どころかもう真っ白。母さん箒もなしに飛び上がってたし、俺たちも言葉が出なかったよな」
「あんなに具合の悪そうな親父は見たことなかった。吸魂鬼ってヤツらは人間の幸福とか希望ってモンを根こそぎ奪っていくんだ。アズカバンの囚人たちはみんな気が狂っちまう」
「開幕戦のあとじゃ吸魂鬼だってスリザリンの連中には見向きもしなくなるぜハリー。今回ばかりは賭けたっていい」
「よせよ兄弟。賭けにならないんじゃイカサマよりタチが悪い、いくら胴元が一番儲かる仕組みだってそいつは阿漕がすぎるってもんだ」
フレッドとジョージは笑いあいながら言った。
ハリーもようやく明るい気持ちをいくらか取り戻した。
よく覚えている。ハリーは一年生でグリフィンドールのシーカーに選ばれ、スリザリンが相手なら二年間を通して負け知らずなのだ。去年も初陣に臨むドラコとの一騎討ちを制し、そのときの試合もグリフィンドールの勝利だった。二重にドラコの高慢ちきな鼻っ柱をへし折ってやったことを思い出すとずいぶん晴れ晴れした気分になる。
ようやくハリーはソーセージと焼きトマトを皿に盛り付けた。
その隣ではハーマイオニーが新しい時間割を見るなり目を輝かせた。
「最高だわ。今日から新学期が始まるなんて」
幸せそうな声だ。
水を差すようにロンがハーマイオニーの肩越しに覗き込む。たちまち顔を顰めた。テンポがよすぎて事前に打ち合わせしているとしか思えなかった。
「なんだいハーマイオニー、君の時間割ときたら酷すぎる。ご覧よ、ここなんて一日に十科目もあるじゃないか。流石の僕だって一日が二十四時間しかないことくらい知ってるんだぜ、どうして君ともあろう者がそんなことも忘れてるんだい」
「心配してくれてありがとうロン。けど大丈夫。
「先生の名前を出してまで僕を担ごうとするなんていよいよ
「予言しなくたってロンが変身術のレポートに手を付けてないことは誰だって分かります」
「あ、あれは仕方ないじゃないか! だって杖がポッキリ折れててほとんど練習もなんにも出
来なかったんだ。ハーマイオニーもよく知ってるだろ、僕がドブネズミをゴブレットに変えようとして散々にしくじってたのは!」
「一応言っておきますけど、古代ルーン文字学はあなたが想像しているようないかがわしいオカルト紛いのインチキじゃあなくて純粋な語学ですから。流石にまだ授業を受けてない段階じゃ言い切れないけど、教科書を読んだ限りだと古代ギリシャ語とかラテン語の読み書きを習うのとそんなに変わらないわ。あっ、ヒエログリフの親戚って言えば伝わるかも……ただちょっと歯ごたえがあるのは確かね。数占い学だって数秘術やゲマトリア的な性格があるのは確かだけど、本質的には数学がメインで……」
「ウーンもうお腹いっぱいだ。降参、降参するよ。ここらで許してください」
「許すもなにも私これっぽっちも怒ってないですから。後ろ指をさされてるような気になるのは日頃の学校生活について自覚があるからじゃないの?」
「十分怒ってるじゃないか!? 成績表を見たときのママと一字一句同じことを言ってて腹を立ててないなんて理屈が通るもんか!」
ハーマイオニーはただ客観的事実に基づいて正論を述べているだけのつもりなのだろう。問題があるのは完全に受け取り手であるロンの方なのだが、どうやらウィーズリー夫人は成績はじめ学校生活全般について説教するとこんな風になるらしい。普段の賑やかな様子からはあまり想像がつかない。
ハリーには通知表を見せる相手さえいないので少しだけ羨ましい。
ダーズリーの誰かに手渡したところで突き返されればマシだろう。頭の中にトロールのクソが詰まっているダドリーなんて食べ物と勘違いしてそのまま丸めて口に放り込みかねない。
「ともかくさ。どうやって一度に三つの授業に出るんだい?」
「さっきからバカ言わないでロン。そんな人間いるわけないでしょ」
意外にもロンはあっさり脱線した話題を元の軌道に戻した。
しかしハーマイオニーも追求に応じるつもりはまったくない。露骨にこの話題を避けようといきなりハリーへバトンを放り投げてきた。
「ハリー、そこのママレード取ってくれない?」
「で、どんな手品を使おうって?」
どこまでも食いついてくる野次馬根性にハーマイオニーが折れた。
「あのねロン。私の時間割がちょっと愉快なことになってるからって、アナタがそこまで気にする必要はどこにもないの」
ママレードが欲しかったのは本当だった。ハリーから陶器の入れ物を受け取るとそのままトーストにたっぷり塗りつけて勢いよくかじりついた。
ほかには何も手をつけることなく、砂糖もミルクもなしの紅茶を啜りながら、ハーマイオニーはあまり深掘りしないでほしいと言いたげに呟いた。
「それにマクゴナガル教授と相談して決めたって、さっきも言ったじゃない」
ロンはまだ引き下がりたくない様子だったが、ハグリッドが大広間にやって来たのでこの話題は無理矢理に打ち切られてしまった。
いつもの年季が入った木綿のオーバーオール姿で、ゴツゴツとして大きな手の片方でフェレットの死骸の束をぶら下げている。きっと禁じられた森のどこかで飼っている世にも奇妙な生き物の餌に違いなかった。それも肉食の。アラゴグとその子供たちでないことを祈るばかりだ。
職員用のテーブルに向かう途中、妙に上ずった声でハグリッドは真顔で言った。
「おう、元気にしとるか?」
緊張しているのだ。森番の仕事に加え、今年から魔法生物飼育学の教授も兼任することになって張り切っている。あの血に飢えた教科書もウンウン唸って悩みに悩んだ末の結果だと思えば、多少は納得できてしまう。
「オメエさんたちが俺のイッチ番最初の授業だ! 昼休みのすぐあとだぞ!」
「みんな今か今かと楽しみにしてるよ。もちろん僕らもね」
「そいつァありがてェこった・・・・・・なんせ五時起きして、なんだかんだと準備してたんだ……まぁその、色々とな」
所在なさげに空っぽの手でお腹をポンと叩く。
楽しみにしているのは嘘偽りなく本当なのだが、ドラゴンのニューバートに始まりケルベロスのフラッフィー、人喰い蜘蛛のアラゴグ、そして怪物的な怪物の本……これは教科書なのだが、ともかくハグリッドにとって“面白い”生き物は普通の学生には命懸けで相手をしなければならない。
特にハリーたちはそのことをよく知っているから緊張せざるを得なかった。流石に授業でバジリスクを引っ張ってきたりはしないだろうが……。
今回の教授就任はハグリッドにとって長年思い描いてきた夢だ。彼の性格からして落ち着いて取り組めというのが無理な相談でもある。なにせ五〇年前のことがあって、さらに去年のことがある。ふとロンは分厚いベルトに刺さった“棒きれ”に気づいた。
ハグリッドの手に収まったならひどく粗末な枯れ枝にしか見えない。
しかし注意深く観察すれば、それはハリーたちと同じ魔法の杖なのだ。視線に気づいてハグリッドは声をひそめて言った。
「ホレ、例の秘密の部屋の件でな。魔法省の連中もいよいよ俺とアラゴグが
「仕事のときだけ? そんなの理不尽よ、そもそもハグリッドは一度だって咎められるようなことなんて……まして杖を没収されるようなこと、何もしてないわ」
「ありがとうよハーマイオニー。けどこれでエエんだ。ダンブルドアにこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかん……なぁに、森番の仕事でならしくじるこたぁねぇ」
もししくじったってカボチャがちっとばかし大きくなるくれェのモンだ――そう言って笑い飛ばしてみせた。ハリーとロンはアラゴグは今言及すべきではないと自分に言い聞かせた。
そのままハグリッドは自分の席に向かって行った。いよいよロンは不安げに「何を準備してるんだろう」と漏らした。
一限目の授業がはじまる時間が近づいてくにつれ大広間から生徒の数が減っていった。
自分の時間割を見て、
「僕たちもそろそろ行った方がいい。この占い学ってのは北塔のてっぺんでやるんだ。ここからじゃ着くのに十分はかかる・・・・・・」
ハリーとハーマイオニーは城の隅々まで知り尽くしてはいない。その点、ロンは両親どころか親戚みんなホグワーツの卒業生である。誰かに聞けばどの教室がどこにあるかくらいは把握できる。そのロンが遠いと言うのなら疑う方が合理的でない。
皿に残った朝食を慌てて片付けるや三人はフレッドとジョージに挨拶して、来たと同じように長い長いテーブルの間を横切った。
スリザリンのテーブルからクラッブとゴイルの馬鹿そうな笑い声が聞こえてきた。ドラコが何故かクスリともせず黙り込んでいるのはむしろ気味が悪いくらいで、ハリーは思わず立ち止まりそうになるのを我慢するのに苦労させられた。
大広間から北塔までは延々と登り階段である。
二年間をホグワーツで過ごしたが、これほど移動が大変だったことは一度もなかった気がする。ひどく遠い道のりである。
ロンは七つ目の大階段を登りきる頃にはすっかり肩で息をしていた。
頼みの綱のハーマイオニーも教科書を山ほどバッグに詰め込んでいるから、今にも疲労困憊のあまり卒倒しそうな顔色であった。おかげで二人ともが道順を忘れてしまいてんでバラバラな方向へ進もうとしていた。
「北塔はこっちよ。そっちは大広間に戻る下り階段しかないハズでしょう」
「そっちは南の方角だ。ホラ、そこの窓のトコロからほんの少しだけ湖が見える」
ハリーは壁に飾られた絵を観察していた。
灰色に白い斑がある太ったポニーがのんびりと草地に現れ、無頓着に草を食みはじめた。
ホグワーツの絵は中身が動く。ときには額を飛び出してお互いに尋ねあうこともある。三年生にもなると流石に驚くようなことはなくなったが、やはりハリーはこうして絵を見るのが好きだった。
背後では調子を取り戻した二人が道順を巡って言い争っている。
「この辺りに近道があるハズなんだ。フレッドとジョージがフィルチから逃げるときに何度か使ってたって聞いたことが――」
「それだったらあの二人に直接聞かなきゃいけないじゃない。変な隠し通路に入り込んで一週間も行方不明になるのはイヤなの」
「冗談じゃないよ。そんな危なっかしい廊下があったらとっくにダンブルドアが封鎖してるに決まってる。ただ見つけづらいってだけに決まってるさ」
「見つけづらいかどうかはちゃあんと見つけてから言ってくださる? ただ単にあなたが思い出せないだけで誰でも気づけるような隠し方かもしれないもの」
腕時計によればまだまだ余裕がある。ハリーはもうしばらくポニーの食事を眺めていることにした。これまでは触れる機会そのものがなかったとはいえ、芸術鑑賞を趣味にするほど大人びて見られたいとも思ったことはなかったが、ホグワーツに飾られている絵を見るのはやはり面白い。この世界では写真だってテレビや映画のように動くのだ。これが面白くなくってなんだと言うんだ。
ポニーはいつまでも食事を続けている。額縁の向こうからずんぐりとした甲冑姿の騎士が現れた。歩くだけでガチャガチャと甲冑が騒々しく鳴るのでポニーもようやく食事を止めて振り返り、これまたのんびりと騎士から離れるように歩き始めた。
甲冑のそこかしこに青々とした草がついているところからして、つい今し方に落馬した様子だった。騎士はハリーたちに気づくや雄々しい鬨の声を上げて威嚇をはじめた。
「我が領地に侵入せし、不届きなる輩は何者ぞ! もしや、我が落馬を嘲るか? いざ下郎どもめ、汝が剣を抜けい!」
身の丈ほどある剣を鞘から抜き放った騎士は、怒りに任せながら跳びはねるようにして、半ば振り回されるかたちで鋭い刃を乱舞させた。ハリーもロンもハーマイオニーも驚きのあまりそろって言葉を失ってしまう。呆気にとられているうちに長すぎる剣をひときわ激しく振り回した騎士はバランスを崩し、そのまま顔から草地へとつんのめった。
不幸なことに刃は深々と地面に突き刺さってしまっている。騎士がいくら引き抜こうとしても微動だにしなかった。結局、再び鞘に戻ることはなかった。
疲弊しきった騎士は草地にどっかり座り込んだ。兜の前面を開けると汗まみれの顔を拭った。
「あの、大丈夫ですか――」
ハリーが絵に一歩近づく。老騎士が息も絶え絶えなのは好都合だった。
「僕たち、北塔を探してるんです。道をご存知ありませんか?」
「探求であったか!」
老騎士の中で怒りは消し飛んだようだった。
鎧をガチャつかせて立ち上がると、威勢よく叫んだ。
「我が朋輩よ、我に続け。求めよされば見つからん。さもなくば突撃し、勇猛果敢に果てるのみ!」
もう一度剣を引き抜こうと悪足掻きをしてみたが、やはり徒労に終わった。太った仔馬に跨ろうとも試みてこれも失敗。苦し紛れに老騎士はまた叫んだ。
「されば徒歩あるのみ! 紳士淑女諸君、進め! 進め!」
▽
▽
▽
老騎士――カドガン卿の破天荒さには辟易させられたが、道案内の仕事は間違いなくこなしてくれた。
ハリーたちは授業開始のベルが鳴る前に占い学の教室に辿り着き、空席を見つけることが出来た。
占い学の担当はシビル・トレローニー教授である。ハーマイオニーによればカッサンドラ・トレローニーという祖母だか曽祖母だかな当たる人物は高名な予言者だったが、この教授についてはよく分からないらしい。
教室は屋根裏部屋と古い紅茶専門店を組み合わせた雰囲気で、小さな丸テーブルとスツールのセットが二〇近く並べられている。窓という窓はカーテンで閉め切られている。ランプのほとんどが深紅のスカーフで覆われ、元から弱々しげな照明がぼんやり灯るばかり。古びた暖炉の上に吊るされた銅製のヤカンからは吐き気がするほど濃いお香の匂いが漂ってくる。
調度品も一つ一つがいちいち大仰である。埃を被った羽根であるとか、何かの動物の骨や燃えさしの蝋燭、色褪せたタロットカード、それに数えきれないほどの水晶玉と紅茶のカップ……あまりにも如何わしい雰囲気の中、ハーマイオニーは隣に座った女子生徒の顔を見て飛び上がりそうになった。
「ちょっと、どうしてあなたがいるのよ」
「オレがいちゃ何か都合が悪いのか」
ぶっきらぼうな口調で言い返してきたのは例の留学生である。スミレの従姉――アザミは切れ長の瞳をさらに細くして、冷酷な表情をしながらフンと鼻を鳴らした。生徒は綺麗に寮ごとでグループを作っているのにも関わらず、わざわざハーマイオニーの隣を選んだせいで非常に目立っている。誰からも揶揄われるようなことはなかった。ただ視線だけはじっとハーマイオニーとアザミのペアに注がれている。
「他に空いてる席がないんだ。悪かったな」
そう言われてしまってはむしろ反発した方が悪者である。
落ち着いて考えればどの授業も席は指定されてはいないのだ。
勝手に寮で固まっているだけだ。みんな友達同士で一緒にいる事が多いから自然にそうなりやすい部分もあるが、グリフィンドールとスリザリンに限ってはむしろ寮同士の歴史的な対立関係がそのまま人間関係に影響している。
アザミは留学生だ。ホグワーツ創設者たちの歴史も、純血主義と反純血主義の対立も、ほとんど無関係のところにいる。
この席を選んだのも消去法にならざるを得なかったからに過ぎない。
本当にたまたまハーマイオニーの隣しか空いていなかったからそこに座っただけなのだろう。
いよいよ気まずい。しかし授業開始のベルが鳴ってしまった。
教室が静まり返るのを待ってそれまで微動だにしなかったトレローニー教授がゆっくりと立ち上がった。全体に肉の削げ落ちた身体を怪しげな貴金属の装飾品やスパンコールでローブを覆っている。分厚いレンズの眼鏡を掛けて、絵本に登場するトンボのような印象がある。
教授は霧の彼方から聞こえてくるようなか細い声を発した。
「ご機嫌よう子供たち……この現世で皆様のお目にかかれたのも運命のお導きでございますわ……」
嫌な緊張感が走る。何やら危なっかしい雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「占い学へようこそ。
ああ、この教授はかなり“大丈夫ではない”人だな――
ハーマイオニーは薄々ながらこの授業を希望したことを後悔しはじめていた。
「皆様には予めお断りしておきますが、占い学は数ある学問の中で最も難解かつ深淵なるモノ――『内なる目』の備わっていない方に私がお伝え出来ることはそう多くありませんの。この学問では、書物はある段階までしか教えてくれませんのよ」
教授の言い様にロンとハリーはニヤっとして同時にハーマイオニーを見た。ハーマイオニーの方は二人がどんな顔をしているか分かりきっていたので端から無視を決め込んだ。書物の内容が役に立たないなんて信じられないことではある。
アザミはまったく無表情なのでむしろその方が意外だった。
「世の多くの魔法使いや魔女たちは、珍妙な音を立てたり、奇天烈な光を放ったり、馬鹿馬鹿しい薬品を煎じたり、滑稽な姿に化けることばかり得意にしていらっしゃいますわ。ですが神秘のヴェールに覆われた未来を見通すことは、皆様揃ってお出来になりません」
眼鏡の向こうから瞬き一つせず生徒の顔を観察している。
みんなの不安げな顔を無感情に見比べながら、さらに続けた。
「『心眼』は限られた者にだけ与えられる天分とも言えましょう……嗚呼、そこのアナタ。そうそこの男の子」
教授に突然話しかけられてネビルは椅子から転げ落ちそうになった。
「アナタ、お婆様はお元気?」
「げ……元気だと思います」
「私がアナタの立場でしたら、それほど自信ありげにお答えできませんわ」
暖炉の炎がゆらめくと教授の細長い顔に濃い影が生じた。
見開かれた両目が分厚いレンズでさらに大きく見え、異様な眼力と底知れない不安感を無差別に撒き散らしながら、トレローニー教授はさらに声を震わせながら言った。
「一年間は基礎的な占いの術を学んで参りましょう。今学期は最も初歩的なお茶の葉を読むことに専念いたします。来学期は手相学に進み……ハッ! そちらの三つ編みのアナタ!」
ダフネは既に疲れた顔をしていた。まさか自分のことだと思えず、後ろを振り返る。クラッブとゴイルは不機嫌そうに口を曲げて「俺たちが三つ編みなワケないだろう」「オマエのことだぞグリーングラス」と無理矢理かつ無気力なバトンパスを拒否した。
「十月十六日にご注意なさって。ほんの一瞬でしたが私には『兆し』が『視え』ましたわ」
大真面目に心配するパンジーの方こそむしろ心配だった。ダフネは適当に驚いた顔を作ってリアクションを済ませた。教授はまだ満足し足りないのか神懸かり的な予言を続けていった。
「学年末には水晶占いを扱いますわ――ただし、炎の試練を乗り越えられたらですけれど・・・・・・つまるところ、望ましからざる未来でございますわ・・・・・・この学年は邪悪の流感により中断されることを意味しますの。私自身も言葉を発することが難しくなります。イースターが近づく頃に皆様の中のどなたかと永久にお別れしなければなりませんでしょうね」
いよいよ予言に感化された生徒は全身を強張らせた。ハーマイオニーとダフネはもはや呆れて反応を示すのも億劫なくらいである。教授に指名されて銀のティーポットを暖炉のそばのテーブルまで運んだラベンダー・ブラウンなどは特に気に入られた様子だった。あるいは悪目立ちする大きなリボンのせいでパフォーマンスの標的にしやすかったのかもしれない。
引き攣った笑顔で「どうもありがとう、ミス・ブラウン」と礼を伝えた口で「ところでお気に障ったならごめんあそばせ。アナタ・・・・・・赤毛の男の子に注意なさってね」
凍りついた顔で凝視されたロンは咳をして誤魔化した。
少なくとも理性があるなら馬鹿げた冗談だと思って欲しい。
残念ながらラベンダーは理性を神秘のヴェールの向こうに投げ捨ててしまっていた。
トレローニー教授は素知らぬ顔でそのまま授業を始めた。
「それでは皆様、二人一組になっていらっしゃいますわね。そちらの棚からお好きなカップを選んで、私のところへいらっしゃいまし。お茶を注いで差し上げます。そうしたら元の席ですべてお飲みになって・・・・・・」
各々立ち上がって思い思いのティーカップを手に取り、言われたとおり教授の前へ並んだ。紅茶は一気に飲み干せるくらいまでぬるくなっていた。全員がカップを空にするのを待って教授は立派な背もたれの安楽椅子に腰掛けた。
たおやかにケープを掛け直すと最初の落ち着いた口調に戻った。
「それでは左手でカップを持ち、このように内側に沿って三回だけ回してくださいまし」
奇妙な儀式だったがみんな教授の手本通りに動作を行なった。さらにカップをソーサーに伏せて最後の一滴が落ちきるのを待つ。その間に教科書『未来を晴す霧』の五ページと六ページを開き葉の模様の種類を確かめた。あとは互いのカップを交換し、それぞれの茶葉の模様がどのような未来を示しているのか読み取るのだ。
ハーマイオニーは鈍い頭痛を堪えてアザミに尋ねた。
「私のカップ・・・・・・何か見える?」
「アールグレイ葉の滓」
「誰が銘柄なんて聞いたのよ」
冗談のつもりかと思ったが、表情は冷たいままだった。
もしかしてスミレ以上にとぼけた性格なのだろうか・・・・・・?
教授の悪趣味な
パンジーの手前もあって堂々とお礼を言う気にはなれなかったが。
アザミは『未来を晴す霧』を辿りどうにかそれらしい項目を見つけた。
「輪っか・・・・・・円形は恋愛・結婚の成就や異性からの情熱的アプローチを示す。で、こっちの五芒星は計画の成功、将来の安泰か。カンペキすぎて面白くないなコレ」
ニコリともせずに言われると愉快ではなかったが、トレローニー教授の解釈はさらに不愉快だった。音もなくアザミの背後に立った教授は「ごめんあそばせ」の一言でスッとカップを取り上げ、反時計回りに回しながら大きな目を限界まで細めた。
「あらあら・・・・・・まぁ、まぁ・・・・・・さぁ、よおくご覧になって。この五芒星は流れ星ですから、むしろ計画の破綻と不透明な将来を暗示しておりますの。それが円環の完全性を損なっていマスでしょう? コレではむしろアナタの見立てのまったく逆のように思えませんこと?」
「つまり結婚や恋愛は先行き不透明でむしろ破局傾向?」
再解釈を受け取った教授は悲壮感たっぷりに指環だらけの手を胸に当てて大きく頷いた。
何となく不吉な未来を喜んでいるような気配を感じる。ハーマイオニーはますますこの授業への不信感を募らせていく。
アザミはむしろ対称的にはじめて教室内で顔をほころばせた。けれどにこやかに笑ってもどこか陰湿さが見え隠れする。この状況ではまったく隠し通せていないが。
「だってさ。オレのはどうなんだよ」
膨れあがった反発心を刺激するような催促だった。
とにかく面白味のない解釈をぶつけてやろうと目を皿にして教科書とカップを見比べる。
ユーモアをかなぐり捨てた如何にもなシンボルの組み合わせを思いついた。
「正位置の三角形の中に収まった円環・・・・・・じゃなくって硬貨だから、遺産相続の予兆じゃないかしら」
「遺産ってなんだよ。ンなもんウチにあるわけねえだろ」
「知らないわそんなこと。あなたの茶葉にそう出てるんだもの」
「おや・・・・・・なるほど、確かにこのような迂遠な形による“死”のお告げもありますわ。けれどコレは硬貨かしら・・・・・・むしろ十字架でなくって・・・・・・?」
「歪んだ十字架は苦難と試練の暗示よ。つまり遺産というのは単純な金銭や土地じゃあなくって、むしろ望ましくない厄介事を意味しているんじゃない?」
「厄介事を背負わされるってンなら・・・・・・今がまさにそのときだろうさ。爺さんが余計なコトしてくれたおかげで孫のオレはまったくいい迷惑だよ」
普通なら眉間にシワを寄せるなり怒りの反応を見せるところである。
ハーマイオニーもその可能性を承知で酷い解釈をしてやったのだった。
にも関わらずアザミの表情は愉快そのもので腹を立てているようにはまるで見えない。
周囲はまったく笑えないでいた。端から見ればアザミとハーマイオニーの二人がトレローニー教授を間にはさみながら激しく火花を散らしている状況である。いつ炎が上がってこっちに燃え広がりやしないかと不安でたまらず、ティーカップの中でふやけている茶色いカスなどどうでもよくなっていた。
肝心のトレローニー教授だけは惨憺たるお告げに心底ご満悦な様子で「心からお二人の幸運を祈っておりますわ」とぎこちなく微笑んだ。