翌朝、ドラコは不死鳥の如く復活を遂げた。
医務室でお見舞いされたスミレの口撃が余程堪えたと見える。
いったいどんな醜態を晒してくれるかと期待していたアザミである。肩透かしの感は否めなかった。予想外ではあったが、むしろ転んでも只では起きないバイタリティに感服さえしたほどだ。図星を突かれたことなど欠片も匂わせずドラコは誇らしげに武勇伝を披露する。大真面目に聞き入っているのはパンジーだけなのだが。
闇の魔術に対する防衛術が気掛かりな生徒が多数派である。
昨年の授業内容を思い返せばむしろ当然と言える。いや、アレを果たして授業と呼称するべきか否か、大いに議論の余地がある。三文芝居でなかったと知って驚く者も少なくないだろう。それほどに壊滅的な一年間であり、とりわけ卒業を控え、目前にN.E.W.T試験が迫った七年生などは惨憺たる状況であったことは疑いようがない。
リーマス・J・ルーピンに向けられる視線の大半は前任者よりマシであって欲しいという切実なる願望と、もしかすると前任者よりはマシ程度でしかないのではという微かな不安が混淆していた。前者はホグワーツ特急で吸魂鬼を追い払ったという実績に裏打ちされている。後者はあまりに窶れた顔色と見窄らしい継ぎ接ぎだらけのローブに起因する。同じく新任の古代ルーン文字学教授とは真逆なのだ。こちらはとにかく頼りなさげに映る。
幸い教室内の壁という壁に肖像画を飾り付ける奇癖はなかった。
あれほど自己顕示欲に囚われた異常者は人生で一度巡り逢えば十分すぎる。
それでなくとも貴重な一年間をふいにしたのは現三年生も同じである。
内装は至って普通である。ガラス瓶に収められた生物標本が窓辺に並ぶ。壁際には映写機と思しき謎めいた装置や、場違いに高級感溢れる豪奢な造りのキャビネット棚が置かれている。その中でも際立って異様な存在を挙げるなら、教室のちょうど真ん中に陣取って暴れ狂う古箪笥であろう。雄叫び一つないのが尚更に不気味である。机と椅子はすべて片隅に片付けられていた。
そして新しい不安が噴出する――自分たちはどんな怪物の相手をさせられるのだろう?
防衛術の授業で実技を学んだことは一度もない。何の対策もなしにピクシー小妖精を解き放って大混乱を巻き起こす愚行を、敢えて回数に加えるならば話は変わるが。扉を開け放ったら人狼が飛び出してくるなんてことはあるまい。
けれど過去の出来事が想像力の働きに大きく影響を与えた。
ネビルの生白い丸顔は恐怖に染まっている。現実的かどうかなど考慮するだけの余裕すら失っている。
授業開始のベルが鳴るまであと五分ほどある。
いつもならあっという間に過ぎ去ってしまう、ほんの短い時間だ。
それがまるで魔法史の授業よりも長く感じられる。なんとなくおしゃべりをする気分にもなれず、ただひたすら沈黙を保つ。
果てしない緊張を破るけたたましいベルの音。ゆるやかに研究室の扉が開く。二日前よりもルーピンの顔色はいくらか赤みを取り戻していた。ホグワーツに来てようやくまともな食事にありつけたらしい。鳶色の髪といい着古されたローブといい、外見からしてそれほど若くないだろうに。いったいこれまでどんな仕事に就いていたのか、想像さえ出来ない。
素性不明な“防衛術”の新任教授は落ち着いた様子で石造りの階段をおりてきた。そのまま古箪笥のすぐ隣までやって来て立ち止まる。
顔に残った大きな傷痕が歪んだ。
笑みは思いのほかに柔和で穏やかな印象である。
「おはようみんな」
凡庸な挨拶の声がまったく年齢を感じさせない。落ち着いてはいるが、若々しい。
バラバラに「おはようございます」と教室中から挨拶の言葉が返る。驚きのあまり呆気にとられた生徒も少なくない。ごく一部は意図的に口を閉ざしていた。気づいているのかいないのか、ルーピンはまたニコリと笑顔を作った。どこか嘘くさく感じるのは表情がわずかに引き攣っているせいだ。未成年とはいえ大勢を一人で相手にしている。彼の方も緊張しているようだった。
「教科書はカバンに入れたままでいいよ。今日は実技形式の授業をしよう」
思い出したくもないちょうど一年前。
クラッブとゴイルでさえ、火炙り刑で締めくくられたあの惨劇を忘れてはいない。
いよいよネビルは泡を吹いて倒れそうになる。冷笑を浮かべていたブレーズ・ザビニでさえ表情が強張った。不安のあまり隣同士で顔を見合わせる者さえいる。とにかくこの授業が無事で終わりさえすれば、もう脱獄犯のことなどどうでもよくなってしまうが、おそらくロクなことにはなるまい――そんな予感を抱きながら、生徒たちは各々のカバンを空いている戸棚へ片付けた。状況は絶望的である。
再び集ってもやはりグリフィンドールとスリザリンは別たれていた。
二つの集団はけして混ざりあうことなく、一つの空間の中で隔絶し続ける。
ルーピンはゆったりした足取りで教室を歩き始めた。段々と生徒の視界から外れていき、未だに興奮冷めやらぬ古箪笥だけが取り残された。
「面白いだろう? 今朝たまたま職員室で見つけてね。この授業にちょうどいいと思って捕まえたんだ……さて、それじゃあ質問。この中に何がいるのか、分かる人はいるかな?」
改めて古箪笥と向き合う。人狼や吸血鬼が飛び出してくるなんて冷静に考えればあり得ない……ましてや吸魂鬼など、可能性として馬鹿げているような次元だ。まあミイラくらいは、とも思えたが、職員室で包帯に巻かれた古代エジプト人が見つかる可能性は限りなく低い。常識の範疇で答えるなら“真似妖怪ボガート”だろう。
ディーン・トーマスは思ったことをそのまま口にした。
熟慮に熟慮を重ねる必要などない。
そもそも
だから、正解はもちろん
謎に包まれた古箪笥の怪物はボガートである。
スリザリンの継承者がスミレでなかったように。
それもいまや過ぎ去った話だ。記憶はいつか忘れられ、跡形もなくなる。あとは羊皮紙に染み込んだ黒インクだけがすべてを伝える。
再び古箪笥の前へと戻ってきたルーピンはにこやかだった。
「ではボガートはどんな姿をしているかな?」
今度は教室が静まりかえった。その瞬間を待ち構えていたようにハーマイオニーが答えた。
彼女の博識さは珍しくもなくなった。なのでまったく感銘を呼ばない。
けれど
「誰も知りません。ボガートは
「“とても怖い”……そう、その通りだね」
点数こそなかったが教授は大きく頷いて見せた。
照れくさそうにするハーマイオニーには呆れる気も失せる。
「幸い、ボガートを退散させる簡単な呪文がある。一緒に言ってみようか」
唱えたのは「
「いいね。今度はもっと大きな声で――
なるほどこれはとても簡単である。どんなに迂闊な人間でも間違えようがない。トロールが相手ならこの芸を仕込むのに一週間を要するだろうけれど。
だが、この呪文だけでは十分ではないとルーピンは言った。
「ボガートを退散させるのに最も大事なのは
名指しされたネビルは震え上がった。己の不器用さはよくよく自覚している。二年間の学校生活を通して散々に思い知らされた。だから授業中はなるべく気配を消しているつもりだったが、どうもルーピンには通用しないらしい。グリフィンドールからは心配する視線が、スリザリンからは冷え切った侮蔑の視線が、それぞれ背中に送られてくる。いっそ笑ってバカにしてくれたらこちらも笑って誤魔化せるだけ気が楽なのに……。
悪意はまだ我慢してしまえばどうってことはないけれど、親切心が真綿のように優しくゆるやかに首を締め上げてくる。背を向けて逃げるわけにいかない。ひたすら追い詰められていくその背中は処刑台へ上る囚人のようだった。答えの決まり切った質問にただ「分かりません」と述べるよりずっと辛いのだ。たとえ過程がどうであれ、赤っ恥をかくのはどのみち同じなのである。
スミレの関心は教室内に存在していなかった。
ネビルの恐怖心を察知してボガートが激しく箪笥を揺さぶっても、古びた木材がどれほど強く軋んでも、意識は窓の向こうで曇り空に浮かぶ吸魂鬼へと注がれていた。
彼らはいったい何を糧にしているのだろうか……?
アズカバンという監獄がどのような環境にせよ、野鳥や野ネズミを捕まえていればそれで済むだなんて可愛らしい生態系であるとはとても思えなかった。
殺人鬼の脱獄を許したのは失態だが。もしもホグワーツの警護に就いているかぎり食糧にありつけないのなら、それは懲罰の域を逸脱してあまりある。きっと魔法省は飢える苦しさを知らないのだ。猛烈な空腹感に襲われる程度を『飢え』とは言わない。全身の血という血が失われ、骨肉どころか魂すら砂になるほどの感覚を味わえば、他人の食事を邪魔しようなんて発想は考えつけないはずである。
考えれば考えるほど吸魂鬼たちが不憫でならない。こんな鬼畜の所業を平然とやってのける魔法省もダンブルドアも度し難い。限りなく善から遠い存在など、そう珍しくもないはずだろうに、彼らは不思議と悪を忌避しているように思える。自分たちが悪でないという絶対的な保証があると信じきっているなら馬鹿げた考えである。少なくともホグワーツ魔法魔術学校の必修授業に【道徳】や【倫理】はなかったはずだ。
鬱々とするスミレを現実に引き戻したのは陽気なジャズ音楽だった。
授業中とは思えないほど軽快な、あるいは軽薄な、ひび割れたトランペットの音色と浮かれきった少年少女の声。狼狽えるしかできないスミレをよそに誰も彼もが列へ駆け込んでいく。すっかりテンポがズレて自分の置かれている状況が分からなくなっている。
とりあえず最後尾を目指してみる。
しかし気づけば行列の中程に巻き込まれていた。
もたもたと脱出を試みるも思うようにいかない。一歩でも先へ割り込もうとする後ろからの流れと、微動だにしない先頭のために押し返される前からの流れが、ちょうどぶつかるポイントだった。困り果ててもぐるりとグリフィンドールに囲まれていては望み薄である。
押しつぶされるような形である。
とにかく息をするのも精一杯だった。
賑やかな空気だけがスミレのもとへ届かない。
聞こえてくるのは笑い声ばかり。みんな楽しそうにボガート退治の練習に励んでいる。
スミレは自分の『恐怖』を人目に晒したくなかった。
考えるまでもない。
脈打つことをやめた心臓。
乾ききった血液。
途絶えた呼吸。
凍りついた身体。
死んでいるのに生きている。生きているようで死んでいる。
人間からかけ離れた自分……けして知られたくはない。
心許した相手でさえ、打ち明ける勇気がないのに、たかが妖怪に暴き立てられるなんて!
「
呪文を唱えてヒョイと杖を振れば笑いが起きる。
退屈な授業である。バカバカしくって欠伸が出る。
スミレの表情はみるみる暗くなっていく。元よりホグワーツで彼女の明るい顔を目にする機会など、片手で数えても指が余るのだが。
苦しみから逃れたいのは人間だけではない。ボガートもまた退治されかかっている中で、なんとしても逃げようと足掻いた。あるいはせめて一矢報いようとしたのか。そんなことは誰にも分からなかった。
けれどボガートが目まぐるしく姿形を変えながら、スミレに標的を定めたのは確かだった。
本当に偶然だった。スミレの小さな背を誰かの手が押したのと、キャビネットの前からボガートが逃げ出したのは、まったく同じタイミングだった。結果的に集団から弾き出されてポツンと孤立する形になる。ボガートにとって理想的な獲物である。
果たしてどんな恐怖をスミレの中に見い出すだろう。
ルーピンは予想し得る最悪の事態を防ごうと杖を抜く。
しかし幸い――吸血鬼と化した葵菫は、現れなかった。
立っていたのは酷く荒削りの木像。そうとしか言い現せない風体の男である。
厳しい顔を埋め尽くす無数の傷痕。中でも目を引くのは、抉り取られて形の歪んだ鼻と、魔法仕掛けの青い義眼である。さらに片脚は金属製の義足になっている。草臥れたコートや手入れされていない総髪が強烈に奇異の気配を放つ。
異貌を異貌たらしめる義眼がスミレを睨みつけた。
その姿は誰一人としてまったく予想だにしていなかった。
ルーピンはもちろん、親族であるアザミさえ呆然とする。
そして誰よりも衝撃を受けたのはスミレ自身である。
杖を振るなんて考える余裕さえ失って、本能的に逃げ出した。
もはや悲鳴をあげることさえ忘れている。どころか呼吸すら途切れ途切れで、長い髪を振り乱す。
仄暗い目をして感情の起伏が鈍い普段からは想像もつかない。
這うように手脚をもつれさせながら逃げるスミレ。
激烈な拒絶反応は見る者に恐怖を植えつける。曲がりくねった生徒の列が散り散りに崩れていく。
不運なのはようやく順番が回ってきたハリーも同じだ。
ようやく列の先頭に来たかと思えば、肝心のボガートが目の前から逃げ出してしまった。肩透かしを食らって脱力したところへ、いくらかやる気を取り戻した真似妖怪が舞い戻ってくる。不意打ちになる形で心の奥底を覗き込まれる。無意識のために剥き出しのままの弱点を、ボガートは容赦なく暴き立てる。
真っ黒な襤褸を頭からかぶった人型。その身体には足がなく、枯れ葉のように宙を舞う
「こっちだ!」
声を張り上げてハリーの前へ飛び出す。たちまちボガートは変身をはじめる。何度か輪郭を捻じ曲げて現れたのは、銀白色の小さな球体だった。気だるそうに「
ボガートは授業が始まる前の状態に戻された。
静まり返った教室。誰も口を開かない中で、ルーピンはどうにか『最悪』だけは回避し得たことに安堵を隠せなかった。
「――授業はこれでおしまい、みんな教科書を忘れないように。名残惜しいが続きはまた今度にしよう」
出来るかぎりにこやかな表情を作ってはみたが、効果は薄い。
教室の空気だけは、数十分前とは比べようもなくなっていた。