早朝、生徒はまだベッドに籠もっている。
昇った朝日がホグワーツの城を照らしはじめる。
吹き抜けてくる風が肌に心地いい。芝生と草原の緑。淡い色彩の空に浮かぶ雲は水彩画のようでもある。美術の教科書にこんな風な絵が載っていた気がする。けれど……思い出そうという気分になれない。この実物に比べればなんだというだろう。
とても素晴らしい景色だ。こんなに綺麗なものが目の前に、手の中にあるのに、スミレはいつも口を
アザミは頬を伝う汗をタオルで拭った。
小さい頃から走ったりして身体を動かすのが好きだ。
別に筋肉を意識して取り組んではいない。持って生まれた性分である。一日中じっとしているのはなんとなく嫌なのだ。だから、早朝や就寝前には決まってランニングをしたりストレッチをするのが
誰かと戦績を競ったり、限界のその先を目指して、拷問よりも辛く厳しい修練を自らに課すのはむしろ苦手なくらいだった。
そう言うとみんな目を丸くする。父親譲りの鋭利な目つきがいかにも野心家で闘争本能に溢れている風に錯覚させる。
むしろ黙々と自分のペースで物事に取り組むのが好きなのだ。
そんな性格だからスポーツ競技にはまるで適性がない。競争心というものが薄すぎる。
今朝のランニングもそう。ただ走りたかっただけだ。
どのくらいの時間を費やすかはいつもバラバラだ。
その時々の天気や季節、そして気分によって変わる。
悩み事やストレスがあると体感時間が狂ってバテるほどのめり込むか、あるいは集中力がすぐに切れてしまう。
今は少し汗ばむ程度。気持ちは安定しているらしい。
授業数が減ったうえ『体育』がなくなって、体力を持て余しているように思う。
好奇心の赴くままに図書館と教授たちの研究室を往復しているだけでは仕方ない。
鍛えすぎだ。プロボクサーを目指しているわけでもあるまいし。けれど利点もある。
たった今気がついたことだ。
「素手の下級生を闇討ちか。こんな朝っぱらに」
背中へ突き刺さる視線には気づいている。クイディッチの朝練かと無視していたが、どうやら先方の目的は自分であるようだ。物珍しくって当然。放っておくかと思ったものの見世物扱いされたことへの腹立たしさが勝った。これは父親から譲り受けた気性だ。可愛らしさからかけ離れた目つきの悪さといい、ちっともありがたくない。おまけに喧嘩っ早いのだから、これではフィクションの悪党を気取った不良である。
こんなとき勝慎太郎なら雰囲気があったろうに。
自分は薄っぺらなで半端者な青二歳である。
だから相手も堂々と姿を晒した。
「必要ない。そのつもりがあるなら、はじめから呪文を使っていた」
そう言って赤毛の青年は空っぽの両手を示した。
高い背丈に反して肉づきの薄い身体つき。噂に聞くウィーズリーの血筋だろう。
スリザリンにいると厭でも覚えてしまう。記憶力の浪費だ。
「ストーキングされるほどツラに自信はねェんだが」
「日本流のジョークだと思っておこう。独特で、僕には難しい」
「ユーモラスな人間に見えるなら医務室に行った方がいいぜ」
「蛇には受けるかもしれない。“いい友人”なんだろう?」
「オレの英語が下手でうまく伝わらないかもしれねェが一応、言っておく。スミレがこの学校で何をしたか知らないし興味もない。うちの祖父様がなにをしてたかなんてオレには関係ない。そのことでオマエが神経を尖らせようがどうでもいい。ただオレの邪魔をするならその喧嘩は言い値で買ってやる」
はっきりと宣言をした。こうして、頼んでもいない干渉を繰り返すなら実力行使してでも排除する。そちらの主張や思惑はまったく考慮しないし状況によっては手加減もしない。口が滑ったのは事実だが訂正するタイミングはどこにもなかった。
宣戦布告は完了してしまった。これ以上なく、完璧に。
グリフィンドールの監督生は予想外の反撃に唖然としていた。
やり過ぎたとは思う。しかしそれ以上に、この先どんなトラブルが待ち受けているかと思うと、両肩がたちまち重荷を背負ったように下がるのだった。
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ホグワーツのハロウィーンは呪われている。
一昨年は校内にトロールが侵入し、女子トイレで破壊の限りを尽くした。去年は『秘密の部屋』が開かれ、ミセス・ノリスが石にされた。“11月5日”よりもずっと忘れがたい不吉な日である。そんなことを忘れさせるほど濃厚なカボチャの甘い香りに包まれて迎えた朝食の席で、アザミはニコリともせず自分のティーカップに黒々とした熱湯を注いだ。
「なんだよこれ、コーヒー豆のカスから搾ったのか」
「仕方ないよ姉ちゃん。あるだけマシだと思わなきゃ」
「ヤだよこんなマズいコーヒー。だいたいなんでカボチャまみれ? もう冬至ってワケ?」
「もー……コーヒーが美味しくないからって怒るのやめなよ。いつも自販機の缶コーヒーとか安いインスタントじゃん」
「アレはアレでちゃんと飲める味してるから。コレはさ、もうなんかそんな時限通り越してただの黒い白湯なんだって」
「だから屋敷しもべのひとたちに無理なお願いしたのが悪いんじゃないの?」
「はぁ? 朝にホットコーヒー飲まなきゃいつカフェイン補充するわけ?」
「紅茶にもカフェイン入ってるよちゃんと! 頑固だなあもう!」
意外というべきである。いつも曖昧な、微笑とも落胆とも受け取れる顔しか見せないスミレが呆れたり訝しんだり苦笑したり、感情豊かに表情をコロコロと変化させている。従姉妹であれ血縁は血縁。身内とのやりとりを通してようやく彼女の人間的な一面を垣間見ることができた。
年相応の女の子らしい雰囲気である。
物悲しげな顔色が嘘のようなあどけなさ。十五歳という年齢を考えればむしろ幼さが強いくらいだろう。
向かいの席に座ってパンジーは考える。
スミレは家でいったいどんな風に暮らしているんだろう?
あまり自分のことを話たがらないのもあるし、聞く機会もなく、まして遠く離れた海外の生活である。この日本人姉妹のプライベートは謎めいている。両親とか、ほかの家族とか、友達とか、恋人とか、色んなことを知ってみたい。
いつも自分とミリセントが会話の主導権を握っているのに慣れすぎていた。
なにせダフネは遠縁とはいえ親戚なのだから、知らないことの方が少ないのだ。まあ彼女の場合、口数が少ないのもあるけれど。
パンジーが寝ぼけた顔で頬杖をつく左隣ではダフネが黙々とポリッジを掬っている。ブルーベリーと少量のハチミツをかけた質素な朝食である。
朝から胃にありったけの肉と魚を詰め込めるほど丈夫な身体ではない。
もしそんな真似をすればもれなく胃痛と吐き気に苛まれるに決まっている。
そうでなくとも今日はハロウィーンなのだから油断禁物。なにせハリー・ポッターだけでなくスミレまでいるのだ。これで何事もない方がどうかしている。平和な一日などあり得ないと断言できるし、予言したっていい。トレローニー教授の千里眼を頼るまでもないくらい自信がある。男子たちはホグズミードの近くで脱獄犯が目撃されたとの記事に青ざめている。こういうとき頼りにならないのはむしろ安心感すらある。
下手に勇んで余計なマネをされるよりこずっといい。
どうせ事態を悪化させるだけだ。彼らでは。あるいは、きっと自分ですら。
だから、なにも考えず今日の腹八分目を見定めるのに集中する。
しかしながら。パンジーとダフネはさておき。ミリセント・ブルストロードは何一つとして事情を知らぬ。スミレの心身のことも、ハリーの過去のことも、世間一般ないし
ブラッドソーセージを頬張りながら「スミレとアザミもホグズミード、行くのよね?」と切り込んだ。
たちまちスミレの顔から無邪気な童女がいなくなる。
ただ、投げかけられた言葉の意味を理解しかねているようだ。仄暗いなりにもポカンとした雰囲気がある。
「悪いけどパス。色々とやりたいことがあるから、余計なコトしてるヒマがねえんだ」
アザミはサッパリと言い切った。可愛げもなにもない。
待ちに待った10月の末日である。まさかの「余計なコト」呼ばわりされたミリセントは拍子抜けし、なんと返せばよいか、表現の選定に時間を要している。パンジーなどは驚いたあまり口に含んだオレンジジュースを盛大に噴き出してしまった。ビタミンCたっぷりのフレッシュなシャワーを顔に浴びせられたセオドール・ノットは勢いあまって後ろ向きにひっくり返った。
「興味、なさそうだよね二人とも」
「そういうグリーングラスも同類じゃないか」
「私はホグズミード、行くけど」
「ふうん。好きにすりゃいいさ」
「ねえホグズミードってなに?」
「…………本当に興味がないんだ」
セオドールよろしく床に身体を投げ出したい衝動に駆られる。
新学期前に学校から届いた手紙の中で、ホグズミード行きについてひと通りの説明がなされていたはずである。目を通してすぐに忘れたのだ。アザミの方は海外留学ということもあるし、本人の勉学熱心さからして、優先事項から除外されたに違いなかった。
行く予定のない人間にあれこれ説明するのも筋違いだろう。
ダフネは否定される前提で「お土産、いる?」と尋ねた。
「どうしても欲しけりゃ自分の財布で買うさ」
「お気遣いなく。存分に楽しんできてください」
ものは言いよう。異なる言葉遣いでキッパリと土産物を断った。
気難しい同性への贈り物ほど難しいものもない。ダフネは肩の荷が降りた気がする。
目を白黒させるので忙しいパンジーへ「だって」と短く告げる。
理解力のキャパシティを超えてしまって狼狽えるしか出来ない。これはもしや異文化交流なのかな、と微妙かつ下らない判断は先送りにしつつ、ダフネは会話のバトンを押しつける相手を探して視線を彷徨わせる。
そんな都合のいい輩が見つかるとも思えないが。賭けるのは個人の自由である。
予想外なのは投げた釣り針に極上の餌が仕掛けられていたこと。
よほど自らを律していなければ日曜日の早朝には起きられない。まだまだ食堂は空席が目立つ。となると、普段と比較して、他寮の生徒へ声を掛けるハードルは格段に低い。それは自由に歩けるだけの空間的余裕がもたらす恩恵だ。加えて『周囲の目』という心理的障壁が薄まることで、アクションを起こすのが容易くなるのも事実。
なにか含みのある――ダフネ・グリーングラスという女子生徒の本来を知らない人間にはそう映りがちな――琥珀色の瞳に見据えられた――少なくとも当事者の解釈はこの形になった――アーニー・マクミランは、蹶起を促す視線に意を決して立ち上がる。
一緒に朝食を摂っていたハンナ・アボットが目を丸くする。
もちろんスリザリンの方も仰天してお互いに肘で小突きあう。
なにをトチ狂ってこんな早朝にクイディッチ・トーナメントの宣戦布告を――
「アオイさん! もしよろしければ、僕とホグズミードに……!」
誘いを受けた「アオイさん」は振り返る。突然の申し出に首をかしげ、顔を見合わせる。
「コレ、スミレの友達?」
「姉さんの知り合いでは」
「カオと名前は知ってるけどなあ。喋ったことあったっけ」
「じゃあ姉さんの方でしょう。私、この人の名前知らないし」
「ポケベル並みの記憶力でよく言うよ。すぐクラスメイトのこと忘れるくせに」
「夏休みが長すぎるんですってば。1ヶ月半も空けば飛んじゃいますよ」
「忘れるかァ! 同学年ならフツー覚えてるもんだわ!」
「無理ですよ何十人も。じゃあ、そういうことですので……」
「もうちょっとちゃんと断ってやれ」
ボンヤリした表情でおざなりに応じるスミレを、アザミは咎めた。咎めたのだが、その真意はまったく伝わっていない。理解するのに必要な大前提が抜け落ちている。
「申し訳ありません、外出許可証? というのがないので行けません」
だから、誘われたことそれ自体にはなんの言及もない。形式的な謝罪を添えただけである。アーニーは言葉を失って立ち尽くす。
後頭部をハンマーで執拗に殴打された気分だった。
肉体的にはまったく無傷だけれど。精神面は重傷だ。瞳はみるみる熱を失って、ガラス玉のように虚な光だけが残る。直視するのが痛々しいほどである。ここからどのようにしてアーニーを持ち直させるのか、正直なところマダム・ポンフリーでも匙を投げそうな予感さえしてくる。パンジーはショックのあまり両手で顔を覆い、ダフネは目のやり場に困り果てて虚空を凝視し、ミリセントは足下の床へ視線を固定する。アザミはこの鈍感な従妹の振る舞いに呆然としてなっていた。
スミレだけが重苦しい沈黙に困惑する。
当事者の中の当事者であるハズなのに……。
「どうしたんですか皆さん。シリウス・ブラックのほかにも脱獄者が出たんですか?」
苦しまぎれの冗談、おそらく状況に関わりなく酷いものだった。
機転を利かせたつもりでいつもより声を張ったのもよくなかった。
まだまだ人のまばらな大講堂によく聞こえてしまったのだから。言い逃れの余地はない。