発端は
一見して何の変哲もない、ただの切れ端である。
それが
だからやはり、ハリー・ポッターの振る舞いは思慮が足りなかったのだろう。
クリスマス・イヴに無断で城を抜け出すなんて正気を疑ってしまった。
吹雪になるくらい寒い日だったというのに。そんなにあの気色悪いカエルチョコが食べたいのなら、上級生にでも頼めばよいのだ。
確かに『ハニーデュークス』でどれほど並ばされたか熱心に話してくれるパンジーは可愛らしかったし、真っ白なふわふわのファーコートにすっぽり包まれた姿はいま思い出しても心臓の脈打つ音が激しくなるけれど。やはり「そうまでして食べる価値があるか」という疑問には否定的な感情が先んじてしまう。
少なくとも、パンジーは毎日欠かさず甘いものを口にしているのだから。
筋金入りの甘党なのはよく知っている。粉砂糖をたっぷり振りかけたチョコレート・プディングを頬張るときの、あの幸せそうな表情を見ているだけで心が癒やされる。
ただ、ふとした瞬間に深い後悔がこちらを覗くのだ。
彼女の身体を流れる血は……砂糖のように甘いのだろうか、と。
吸血鬼の本能を拒絶したのは誰でもない自分だ。悔やむこと自体が筋違いだと、頭では理解しているつもりだった。
いくら自分自身に言い聞かせてもあの白い肌が衝動を誘惑する。
脳裏にあの純白の首筋を思い描くだけで全身の血が熱く滾る。
頬が溶けてしまわないか不安になるほど顔が熱い。こうなるともう止まらない。あの水色の鎮静剤を服用すればたちまち収まるけれど、この
骨まで凍りつくような『秘密の部屋』の寒さが手を撫でて、ようやくスミレはここへ来た理由を思い出したのだった。
憤怒の形相を浮かべたサラザール・スリザリンの像の前で震え上がる男性。
ほとんど禿げ上がった頭頂部と丸々した顔の輪郭、恐怖に見開かれた小さすぎる目、悪ふざけかと疑いたくなるほど不揃いのうえ長い前歯。
しかし『ねずみ男』というには背丈が低すぎるし太りすぎだが、これ以上ないぐらいピーター・ペティグリューの容姿を表現していた。
水木しげるのマンガに出て来てもまったく違和感がない。
「美味しいですか、そのお菓子」
ピーター・ペティグリューは一心不乱に板チョコレートを貪る。
よほど飢えていたようだが、飼い主からちゃんと餌を貰っていなかったのかと不安に駆られる。おまけにハーマイオニーの猫から狙われているとなれば生きた心地がしなかったろう。
そう思えばほんの少しだけこの男を憐れむ気持ちも湧いてこないではない。
溶けて指先についたチョコレートまで丁寧に舐め取って、ようやくピーターは落ち着いた。特別授業の度に「気分がよくなるから」とルーピンはチョコレートを押しつけてきたが、あれもただの気休みではなかったらしい。じゃあ今後は受け取るかというとそれはまた別の問題である。
「おお……おお……ありがとう、本当にありがとう……」
「随分大変だったんですね」
「聞いてくれるのかい……? なんと心優しいお嬢さん……」
目に涙を浮かべて声を震わせるペティグリュー。あまりに嘘くさい。どこまでが本心でどこからが演技なのかまったく分からない。ともかくまずは話したいだけ話させる。そうして
それでも愛想笑いだけは意識して保った。
経験則上、この表情は下手な相槌よりずっと効果的だ。
ひとしきり語り終えたペティグリューへ「告発の機会を窺ってらしたんですね」と微笑みかけた。
ネズミ顔はギョッとする。端からそんなつもりがないことは予想していた。
「あ、ああ……だが私の見たところ、まだ適切なタイミングではないがね……」
「では、ブラックが逮捕されるまではこちらにいらっしゃっては? 幸いここは『忍びの地図』にも載っていませんし」
「い、いまなんと言った? 『忍びの地図』に載っていないって?」
「ええ。何度確かめても地図上に表示されないんですよ」
「そんなバカな……城の部屋という部屋はすべてジェームズとシリウスが何年も……いや、そうか……! ここがあの『必要の部屋』だったのかァ……!」
「『必要の部屋』?」
何か思い出した様子でペティグリューは手を叩いた。学生時代の記憶を懐かしみように周囲をキョロキョロと見渡して感慨深げに「そうかそうか」としきりに頷いている。スミレは『必要の部屋』という言葉に聞き覚えがなかった。どうもこの男は勘違いしているらしい。本当に都合のいい人物である。
「詳しく伺っても?」
「私も学生時代にジェームズから聞いたんだが、この城には『必要の部屋』とか『あったりなかったり部屋』と呼ばれる隠し部屋があるらしいんだよ。確か、そうだ、八階の廊下の『バカのバーバナス』のタペストリーが飾ってある辺りまでは突き止めたんだ……結局どうやっても扉を見つけられなかったけどね……」
「そんな部屋があるとは初耳です」
「キミも知らず知らずのうち見つけたんだろう?」
「いいえ? ここ、そもそも校舎の八階じゃありませんよ」
キョトンとした顔はいよいよネズミそっくりだった。
思わず吹き出しそうになるのを我慢して、スミレは真相を明かした。
「ご存じありません? 『秘密の部屋』って」
「もちろんその伝説は知ってるさ、私も卒業生なんだ」
「ここがそう」
「だから『必要の部屋』が作り上げた架空の『秘密の部屋』ってコトだろう?」
「いいえ。ここは正真正銘、サラザール・スリザリンが『恐怖』を封印して遺した部屋そのものです……その証拠に、ホラ」
困惑に笑顔を歪ませてスミレが指差すままに振り返る。
そこには咆吼するスリザリンの巨像と、そこから這い出るバジリスクの姿が。
尻餅をついたペティグリューの後ろにそっと近寄り囁きかける。
恐怖のあまり悲鳴を挙げることすら忘れ、か細い嗚咽を絶え絶えに漏らすしか出来ない有り様だった。
「大丈夫、目が黒いときは見ても死にません。でも……もし逃げたら、お分かりですよね」
「いま『忍びの地図』は私が持っています。
「それでは伺いますが……どうして十三年間も姿を隠していたのです?」
髪や膝が濡れるのも構わず、首筋へ息が吹き掛かる距離まで近づく。
ワームテールの手足は不規則に痙攣を始めていた。それでも意識が途絶えることはなく、スミレの声はしっかりと聞き取れる。だが発せられた言葉のうちで判別できたのは「シリウス」や「ジェームズ」といった程度でしかなかった。
「シリウス・ブラックがハリーの御両親を裏切った、と」
肯定。脊椎が折れる勢いで頷くペティグリューへ、スミレは小ぶりな硝子瓶を見せた。
「そうですか……ところでこれ、私が煎じた毒薬なんですが、さっき召し上がられたチョコレートに数滴垂らしておいたんですよ」
中身は絵の具で赤く着色しただけの水道水である。
「本当のところどうなんです?」
もし抵抗されれば正面に陣取ったバジリスクが動く。
この城でスミレから逃げることなど誰にも出来ない。
徹底的に追い詰めるためスパートを掛ける。
「私はすべて知っています。貴方の親友が誰と誰と誰だったのか。貴方が周りからどう見られていたのか。どうして貴方がワームテールと名乗ったのか。どうしてパッドフットなのか。どうしてプロングズなのか。どうしてムーニーなのか。どうして、誰も貴方が
それがこの『秘密の部屋』でというのはなんとも皮肉だ。
スミレの蒼白い顔に浮かんだ微笑は、作り物でなく本心からのものだった。
▽
▽
▽
「前からずっと気になってたんだけどさ」
晩餐の席でミリセントがそんな前置きをした。
柔らかく煮込まれたテール肉のシチューをぺろりと完食し、三杯目を盛りつけながらのタイミングだった。
「スミレとアザミって普段ウチでなにしてるの?」
話題を振られたスミレは「うーん」と考え込んだ。ローストされた玉葱を切り分けながら、夏休みにしたことを一つ一つ思い出す。アザミの方は蒸し焼きにされた牡蠣を食べるのに夢中で「うん?」と聞き返す始末だった。
「……映画を見たり、あとは本を読んだり? 姉さんはどうです?」
「オレ? 大体は午前中に筋トレして、昼は家の仕事手伝ってる」
「言っちゃあなんだけど
「ほっとけよ。いいだろ別に、好きでやってんだから」
まったくアザミが正論である。スミレもミリセントが言わんとするところを汲めず、しかし食事は止めないというマイペースっぷりを発揮した。
「そりゃアザミはいいかもしれないわ。けれど
「おい、オレ英語分かんねえから訳してくれ」
「喋れてるから。理解できないのは私もだし」
関わるまいと息を殺していたダフネまで巻き込まれた。
心底厭そうな顔を隠そうともせずにため息をつく。
「要は『年相応に恋愛をしなさい』と言いたいのでしょ」
「ダフネの言うとおりよ。特にそこの二人は枯れすぎね」
「キッチリ理解してんじゃねえかよ」
「枯れて……そんなに私の肌って乾燥してます?」
「これがフツーに出てくるって感動するわ」
拍子抜けするミリセントを慰めるようにパンジーが笑った。
せっせとスミレの皿へレバーパテとスモークサーモンを移しながら「でもホント、スミレって男子と交流ないわよね」と続ける。
そうは言ってもスリザリンで三年生の男子となると選択肢が一気に狭くなる。
レイブンクローやハッフルパフとは合同授業ぐらいでしか接点がなく、グリフィンドールは言わずもがなだった。
「ま、ミリセントにスミレのことをとやかく言う資格なんてないんだけど」
慰めるフリをしてパンジーはミリセントへ追い討ちをかけた。
ドラコと交際しているというアドバンテージに加え、色恋沙汰と縁がないという立場が二重にミリセントへダメージを与える。
事情を知らないダフネは琥珀色の目を細めた。
「どういう意味、それ」
「あのときダフネはいなかったものね。ハロウィン当時の朝なんだけど、スミレったらアーネスト・マクミランを思い切り振ったのよ。それもとびきり強烈なのお見舞いして!」
「本当に振ったの?」
「振ってませんよ」
「え、なに、じゃああの後ちゃっかり付き合ってたの!?」
「付き合ってませんってば」
「ちょっっっと待ちなさいな。言ってることが矛盾してるじゃない」
「いや、矛盾してねえと思うぞオレは……」
牡蠣にレモンを搾りながらアザミは肩をすくめる。
ダフネの目は糸のように細くなっていった。
「告白されたって気付いてないの?」
「え、私あのとき告白されてたんですか」
「それ前提で、前振りのデートだろうけどな」
「ええっ!?」
「だと思った。驚かなくてよかった」
「あれだけ恋愛小説読んでてそれ……?」
予想外の真相にげんなり肩を落とすミリセント。
案の定の結果に呆れて言葉を失うパンジー。
そんな二人を哀れむでもなく、アザミはまた牡蠣を食べ始めた。ダフネも予想通りのオチがついたことに安堵してチーズたっぷりのスティルトン・スープを舐める。スミレだけは周りの反応に納得いかない様子だった。
「私、普段サスペンスかミステリしか読みませんから」
「腹立てるところが違うだろ」
「だいたいデートに誘うならそう言えばいいんです」
「直球も直球だったでしょうが!」
「アレで勘違いするのはスミレが悪いわ」
「おかしい……どうして私が悪者に……」
「『一緒にホグズミードへ行きませんか』へ『許可証ないので』って相当よね」
「その前に『誰ですかこの人』つってたからなあ」
「え、そこまで言ったの……?」
「仕方ないじゃないですか知らないんだから」
「口利いたことないオレでも知ってたんだぞ」
従姉妹同士で始まった言い合いをよそに、ミリセントは腕組みをして考え込む。
パンジーとダフネは「またどうせロクでもないことを言い出すぞ」と身構え、熟考が終わる前に退散するかアイコンタクトで話し合った。自分たちに飛び火するのはまっぴらだが、トラブルメーカーのスミレに加えてアザミまで巻き込んでは収集がつかなくなる可能性も大いにある。危機意識と責任感の板挟みで揺れるうちに、タイムリミットが訪れた。
「よし。スミレ、アンタお詫びにマクミランとデートしてやんなさい」
「だからホグズミードへ行く許可証がないんですよ」
「だったら家に招待するとかあるでしょ」
「来年度の約束はどう? 流石に日本は遠いし」
「ナイスアイデアよダフネ、採用」
「ミリセントの案が突拍子もないだけ……」
苦虫を噛み潰した顔で呻くダフネはさておき、スミレもスミレでまったく乗り気でないのが一目で分かる仏頂面だった。
「一回くらい別にいいじゃない。案内役だと思いなさいな」
「純血の家なんてどこも親戚みたいなもんだから言うけど、アーネストは
「うーん……良い悪いと言われても、そもそもよく知らないですし……」
「ならそれこそウチに呼んでやれよ。兄貴たちもよくクラスメート集めてたろ」
「なるほど。じゃあみんなでウチに来ましょう」
「待って待って、なんでそうなるのよ」
「親戚みたいなものなんでしょう?」
「そうなんだけど、違うのよ色々と。付き合いがあるだけの他人っていうか」
「まず、この人数で押し掛けても迷惑じゃない?」
「なんでちょっと乗り気なのダフネ! おバカ!」
「私たちの家、部屋数だけはたくさんあるから大丈夫ですよ」
「そうなの? じゃあ私はお邪魔しようかな」
華麗な逆転劇を披露されてパンジーとミリセントは窮地に陥った。
夏期休暇の間にもパーティーや晩餐会などでスケジュールが詰まっている。自分で自由にできる時間というのはかなり少なく、スミレやアザミのように
「けど一ヶ月二ヶ月ってのは流石にムリだろ」
「え、いくらなんでもそんなに長居するのは……」
「そうそう。流石に迷惑だから……」
「大丈夫大丈夫、五年くらい居候してるヒトいるけど誰も気にしてないし」
「薬草学と魔法薬学の勉強会ってコトにします?」
「……パンジーもミリセントも苦手科目だしいいんじゃない」
せめて来年に、と言い出すより先に外堀が埋められていく。
如何にもな口実まででっち上げられては白旗をあげるしかない。
ただ即答はできず「一応、両親に相談させて……」と苦しい台詞を口にした。
ものの見事にスミレに翻弄された二人を眺めながら、やはり形式的でも祖母の名前で招待状を用意して貰うべきなのだろうかと思案しつつ、アザミは口直しに濃厚なキドニーパイを頬張ったのだった。