「翻訳課題の提出期限は来週の月曜日まで。以上だ」
バブリング教授は冷ややかに授業を締めくくった。
古代ルーン文字学はどの科目よりも過酷である。
毎週欠かさず宿題が出るのは言うに及ばず。翻訳の課題はやたらめったら難しく、そのうえバカにならない量だから大変だ。睡眠時間か週末を犠牲にしてようやく――翻訳した文章の出来映えはさておき――提出期限に辛うじて間に合う程度には厳しい。それに抜き打ち試験で合格点に達しなければ追加で課題を出されるから、みんな死に物狂いで宿題に取り組む。
けれど今週末はクィディッチの試合が控えている。
レイブンクロー対スリザリン、重要な一戦だ。負けたチームは優勝争いから脱落する。
マクゴナガル教授の慈悲深さを噛みしめながら教室を出て行く生徒の列。
足取り重く冴えない表情の集団の中、スミレとアザミはポツンと席に残っていた。
鮮やかなルビーレッドのローブを翻して教授は二人の方へ歩み寄る。
「呼び止めてすまなかった」
開口一番に謝罪され、気まずい思いがした。
まだほかに生徒が教室にいる状況である。周囲への関心があまりに低すぎる。教授もホグワーツの卒業生のはずだが、在学当時は噂好きな校風でなかったのだろうか。
しかし目に見えて心を躍らせている教授には不満も引っ込む。
「いえ、とんでもありません」
「そんな、お気になさらず」
「……ありがとう。スミレもアザミも、今週の金曜日に予定は?」
二人とも放課後は空白だった。「ありません」と答えると、教授は安堵の息をついた。
「それはよかった。今月の晩餐会はそこにしようと思う」
月末の金曜日に開かれる晩餐会への誘い。声の掛かった生徒がバブリング教授から手料理を振る舞われる、それだけの催しだ。あとは他愛もないお喋りをするくらいである。招待客のほとんどはレイブンクロー寮生で、スリザリン所属はスミレとアザミだけの閉鎖的な集まりだ。いかにも教授らしいと言える。
「分かりました。フィルチさんに捕まらないよう気をつけます」
「警備のトロールとぶつからないようにもしないと」
「ああ、是非そうして欲しい。当日を楽しみにしている」
授業ではけして見せない微笑だった。こうすると凍りついた美貌も柔和なものになるのだが、冗談抜きに彼女は緊張しているだけなのだ。
アザミは魔法生物飼育学の授業に出席するため教室を辞した。
スミレも急ぐ用事はないが従姉を追いかけてバブリング教授と別れた。
並んで廊下を歩いていると後ろから息を切らしたハーマイオニーが来た。
教科書で膨れあがったカバンを抱え、ひどく汗をかいている。
「大丈夫ですか? 酷い顔色ですよ」
目の下に浮かんだ黒い隈だけでも体調が察せられた。
さほど親しい間柄でなくとも体調が心配になるほどだった。
スタミナが払底していてもハーマイオニーは気丈に振る舞う。
「ご心配なく……このくらい、どうってこと……!」
「死にそうですけど。医務室に行っては?」
自分が連れて行くんじゃないのかとアザミは呆れた。
まあ、スミレの性格からしてそんなものだろうけれど。
心配するだけなら手間は掛からないのだ。自分も助けるつもりがないから同類だが。
「授業を休むなんてお断り。あと、ちょっぴりバテそうなだけよ」
精神力で振り絞るハーマイオニー。スミレは「そうですか」と淡泊だった。
せめて何とかしてやりたいと思ったアザミだったが、残念ながら大広間と森番小屋までの経路はどれも所要時間に大差がなかった。なので荷物持ちを請け負うことにした。
「その鞄、貸せよ。次の授業は同じだろ」
「結構です。スリザリンの手を借りるなんて」
「面倒クセえないちいち」
ネクタイとローブ、ブレザーを自分の鞄へ押し込む。思い出したように靴下を脱いでスカートのポケットへ突っ込んだ。
「これで満足かよ」
「それじゃまるっきり不良よ。校則にだって」
「オレがいつ優等生サマのフリしたって?」
言われてみればその通りだった。
観念したハーマイオニーは今にもはち切れる寸前の鞄を手渡し、ようやく生きた心地がした。両腕にのし掛かる重さはアザミにとってそれほど苦痛ではなかった。
改めて歩き始める三人。アザミは微妙な沈黙に耐えきれなくなった。
「あの地図、残念だったな」
「……アレで良かったのよ。ハリーには分かって貰えないでしょうけど」
口止め料に貸し出された『忍びの地図』を返却されたあとも、ハリーはホグズミード行きの日になると『透明マント』を使って城を抜け出していた。ハーマイオニーはアザミが報告するとばかり思っていたし、アザミはハーマイオニーが報告するか、さもなければ自分が預かっているうちにハリーも頭を冷やすと思っていた。
結果は二人の予想を裏切った。
ドラコに無断外出がバレたのだ。
報告を受けたスネイプは嬉々としてハリーに厳罰を科そうとしたものの、最終的にルーピン教授が丸く収めてくれた。おかげでマクゴナガル教授へ報されることはなかった。
もちろんそれは地図の没収と引き替えに、という条件付きだが。
一連の経緯を知って、後味の悪いオチにアザミは落胆した。自分のことを密告しなかったのには感心したが。
「両親を裏切った殺人犯がウロついてるってのにな」
「やっぱり私がマクゴナガル教授に伝えた方が良かったかも」
「穏便に済んだならいいだろ。またぞろウィーズリーがキレるぞ」
「ロンが怒るのは私じゃなくってハリーの方よ。あんなの筋違いだわ」
「そう言ってやるなよ。友達と遊びたいのはオマエもだろ?」
どうして自分が仲裁役なんて面倒な真似をしなければ?
また厄介事を背負い込んだと気付いたものの、手遅れだった。
「それはそうだけど、状況が状況でしょ。こんなに大騒ぎしてるんだから当然じゃない」
「正論をぶつけられると参るな。でもなんだ、夏休みに集るとか、あるんじゃないか?」
「悪くないアイデアだとは思うわ。でもブラックが捕まらないとダメ。ハリーが危険だもの」
その生真面目さと親友への情の深さが眩しかった。
斜に構えて粋がっているだけの偏屈者という自覚が、尚更胸を締め付ける。
いっそ開き直ってしまえば楽になれるのに、何をしても中途半端だから振り切れない。
「……それがいい。ま、何とかなるさ。そのうちな」
「だといいけど。正直、望み薄と言わざるを得ないというか」
「最悪、オレが何とかしてやる。これでも優等生サマだぞ」
「それって成績だけのハナシでしょう?」
「当然! こっちに来てからケンカしてないのは奇跡だぜ」
今度はハーマイオニーが呆れる番だった。わざとらしく八重歯を見せて笑うアザミがおかしくてつい苦笑が漏れた。神出鬼没のうえ得体の知れない相手だけれど、何故か心から憎めないのはスミレの血縁とは思えない人物だった。
遠くに石造りの森番小屋が見え始めたときスミレが立ち止まった。
「すみません。私、人と会う約束があるのでここで失礼します」
「ああ。また昼の授業でな」
「ええ。姉さんも無理なさらず」
「私には言わないの?」
「ハーマイオニーは自業自得でしょう?」
とんでもない暴言を叩きつけてスミレは校舎へ引き返す。
唐突に一撃食らわされてハーマイオニーは呆然とした。
「アレで悪気はないんだよ」
精一杯フォローしたつもりだが、効果は未知数だった。
今更庇ってどうなるという気もする。ただせめて、悪意があって嫌味を言うようなタイプでないことは伝えておきたかった。
色々と手の掛かる従妹である。
見た目には育ちがいいようで蓋を開ければあんな性格だから、ホグワーツでも苦労させられた相手は少なくないだろう。
ハーマイオニーの顔には「もうなにも言う気がしない」と書かれていた。
「行こう。授業に遅れる」
「ええ、そうしましょう」
二人並んで禁じられた森を見下ろす。
吹き抜けてくる風はまだまだ冷たかった。
▽
▽
▽
「ね……ねぇ、いま何て言ったの?」
声を震わせてハンナ・アボットはそう聞き返した。
スプーンに載せられたシェパーズパイがボトリと皿に落ちる。
一緒にはやめの昼食を摂っていたジャスティン・フィンチ=フレッチリーも一口大に切り分けたフィッシュフライを口へ運ぼうとして、その姿勢のまま固まった。
「貴方に話しかけたつもりはありませんが」
ハンナの中でアオイ・スミレといえば物静かで無表情な女の子というイメージしかなかった。その程度の薄い印象をたった一言でひっくり返され、ますます困惑させられる。ここまで明確に拒絶されるとは思いもしなかった。同時に、彼女がこれほど自分の意志を主張するなどと考えたこともなかった。『決闘クラブ』での一件は例外だとばかり思っていたのだ。
怖くなるくらい真っ白な肌と真っ黒な両目。
人形のように整った顔へ不機嫌の色を浮かべる。
隣で茫然自失中のアーネスト・マクミランを小突く。
事の発端は彼の一目惚れなのだから。収拾を付けるのも彼の役目だ。
「アーニー、しっかりして。スミレが困ってるよ」
「もしかして『継承者』に石にされたんじゃないのかい」
「黙れ」
ザカリアス・スミスの挑発にスミレは一言だけ返した。
風が吹くはずのない大広間で、長い長い黒髪が大きく揺れる。
怒りが充満して血走った目に睨みつけられザカリアスは震え上がる。
生臭い粘液に塗れて蠢くナメクジの感触が喉の奥底に蘇ってくる。錯覚と分かっていても強烈な吐き気がこみ上げ、堪らずその場から逃げ出した。
激しく肩を揺さぶられてようやくアーニーは意識を取り戻した。
「え、ええと……失礼、どうしてアオイさんが僕に?」
「ハロウィンの件のお詫びです」
そう言いつつスミレはにこりともしない。
「折角お誘いいただいたのに断る形になって、申し訳ありません。あのときはただ許可証がなかっただけで……だから、もし差し支えなければですが、来年度にホグズミードを案内していただけないかと思いまして」
最後まで愛想笑い一つないままだった。
このタイミングで微笑めばカンペキだったのに。歯痒い思いでことの推移を見守るアンナは、スミレを応援しているのかアーニーを応援しているのか、自分でも分からなくなっていた。握りこぶしを作っている姿は完全な野次馬である。
「ただ、私は貴方のことをよく知りません。貴方も私のことをそれほどご存じないでしょう?」
「その通りだね。僕たち、入学は同じ日でも三年生になるまでほとんど話したこともなかったのだし」
「ですので、ホグズミード村でデートする前にお互いを知る機会を設けられないでしょうか」
「それは、僕はとても嬉しいけれど、アオイさんはいいのかい?」
「ええ。夏期休暇の数ヶ月ばかり実家に滞在するだけなら祖母も否とは……」
「ちょっと待って欲しい。アオイさんの御実家に? 僕が? 滞在?」
「流石に唐突でしたでしょうか」
頷くまでもなく自明の理論である。
だがハンナはアーニーの背を押した。
その先に待ち構えているのが底なしの毒沼か、はたまた蛇の巣穴かなど、これっぽちも考えては射なかった。
ともかく「当たって砕けろ」というのだ。
「行ってらっしゃい、アーネスト」
「待ちたまえハンナ。どういうことだね」
「素敵じゃない、初めての海外旅行で
「飛躍しているよキミ。それは飛びすぎだよ、
「バカね、飛ぶのはアナタよアーネスト」
「日本へかい!?」
スミレは空腹感と倦怠感に苛まれていた。
いつ終わるとも知れないハンナと
その足でスリザリンのテーブルを覗き、昼食がフィッシュ&チップスとシェパーズパイなのを確かめて大広間をあとにした。
昼間からあんなに重たいものを胃に沈めて、よく一日平気な顔をしていられる。
ハンナ・アボットはあれで自分と同じ女性なのか疑わざるを得なかった。