極秘かつ無欠の計画がもうすぐ実を結ぶものとばかり思っていた。
けれど必要となる最後の鍵だけがどうやっても手に入らない。
何せ犬に化けているのだから。その鋭い嗅覚は二人の仕掛けた罠を一つ残らず見抜き、ついには
八方塞がり、打つ手なし。時間だけが徒に過ぎ去っていく。学年末試験が目前に迫って、いつもは悠々としているスミレだったが、今度ばかりは焦燥感に苛まれた。品格ある優等生とは言い難いなりに冷静沈着なアザミもすべてがご破算になると思うと冷や汗を禁じ得ず、上の空になりがちだった。
時期が時期である。追い込まれた様子の生徒は珍しくない。
事実、精神的に追い込まれているのはその通りなのである。
憔悴しきったスミレをアーニーは心から気遣った。善意からの行動だ。
「誰かに悩みを打ち明けてみてはどうかな、アオイさん」
ほんの少し。ほんの少しだけ、もしかすれば自分を相談相手に、という下心があった。
もちろんスミレがアーネスト・マクミランに打ち明けるハズがなく。ただ
徹底した秘密主義者のスミレにとっても、事の重大さを理解しているアザミにとっても、あまりに突拍子もない行動だった。
白羽の矢が立てられたバスシバ・バブリングもまた大いに当惑させられた。
晩餐会のあと「
「それは、マクゴナガル教授の課題か?」
「いいえ……どうしても捕まえないといけない人が……」
「ああ。仮定を元にした論述形式のレポートだな。教授はお好きだから」
「違うんです、私たち犬に化けたシリウス・ブラックを探してて」
何度聞き返しても要領を得ず、バブリングは一先ず紅茶を淹れた。
ホットミルクで茶葉をじっくり煮染め、そこへたっぷりの砂糖を加える。消灯時間は目前だったが、自分が寮まで送れば夜間の外出とはなるまい。温めたカップへ注いだカモミール・ラテを三人分用意する。二人がお茶を口にするまで待ってから改めて聞き直した。
「私に聞きたいことは理解した。
緊張させないよう、なるべく優しい声を意識した。普通に喋っているつもりでも「貴女の喋り方って氷の女王様みたい」らしいから。
消え入りそうな声で「はい」と答えたのを聞いて、次の問いへ移る。
「変身術の課題ではない、と。アザミとスミレの個人的な事情と考えていいかな」
肯定の反応が返ってくるまでに数分を要した。
「なるほど……ただ、今までの話だけではシリウス・ブラックと
それ以上は促すことなくじっと待った。重々しく開かれた口から語られたのは、二十年以上も過去から現在まで続く、気の遠くなるような物語であった。
すべての始まりはダンブルドアが入学を認めた一人の少年である。
その男の子は
満月とともに理性を喪失しヒトを襲う性質上から致し方ない。
あり得ないことだが、自分が子を持つ親であれば、校内に人狼がいる状況を許しはしなかっただろう……そして秘密とはいつか暴かれるものである。少年の抱える呪わしい秘密を知って、彼の親友たちがなおも寄り添おうとしたことが、さらなる悲劇の呼び水となった。
愉快な学生生活を謳歌できるのも限られた時間の中だけだ。
四人は揃って卒業し、間もなく『闇の帝王』との戦いに身を投じた。
その最中、とある夫婦が帝王の手で命を落とすことになる。ちょうど13年前の10月31日の夜だった。
その夜、帝王は斃れ、赤ん坊だけが生き残った。
ハリー・ポッターの名は『生き残った男の子』として伝説と化した。
そして罪を背負った哀れな男が逃げ延び、罪を着せられた不幸な男が監獄へ送られる。
犯した罪を償わせるべく不幸な男が現世に帰還したのと、人狼が再びホグワーツの城へ戻ってきたのが重なった。
「発明された人狼薬、あれに私の父も関わっていたんです」
若く優秀な魔法薬学者であり、薬草学の重鎮とされる一族ならば然もありなん。その娘は父の研究ノートを盗み見てトリカブトを用いた新薬の副作用を知る。そして放埒で愚かしい過去の遺物が巡り巡ってハリー・ポッターの手に渡った。血は争えず、短慮に及んだ結果、地図は四人の制作者の一人の手へ舞い戻った。そして彼は知る――親友の死が偽装であったことを。他でもない創造主であるが故、地図の正確さを信じざるを得なかった。
そして過去の因縁はまだもう一つ。
セブルス・スネイプの憎悪が牙を剥いた。
リーマス・ルーピンの秘密を仄めかす代理授業。
病気療養明けのルーピンは思うように手足が動かない。人狼薬の副作用との一致。療養に入る間隔と月の満ち欠けの重なり。
「決定打はペティグリューさんを捕まえられたことでした」
葵家の血を受け継ぐ二人は蛇を話す能力を持つ。先天的なパーセルマウスの力を駆使して潜伏中の殺人犯を捕らえさせ、尋問を重ね、真相を暴いた。魔法省が認可した公的
積み上げられた事実の羅列があまりに重い。
バブリングは深い嘆息とともに右手で髪を掻き上げた。
すべてを聞いてしまった以上は共犯だ。
どころか「そうなってくれと」求められている。
「本来なら、スネイプ教授にすべき告白だ」
しかし己は一匹狼の呪い破りではなくなった。
「だが、私はあの男を信用していない」
矜持を曲げるにも作法がある。何事にも口実が不可欠なのだ。
好都合なことに、今回は偉大な先達がすべて整えてくれている。
「教授職を拝命したとき、ルーピンの事は校長から聞いていた。私は『薬があるなら構いません』と言ったよ。どの先生方もそうだ。最後まで反対したのが奴だ」
納得の表情をするスミレと、失望の表情をするアザミ。
学生時代に伝えそびれた言葉もあることだし。
つまるところ、これは運命なのだろう。
「獲物はたかが犬一匹、今晩中に仕留めよう」
損な仕事だ。これで得られる
「私を信頼してくれたことは嬉しく思う。それに、
安堵と緊張で感情を急勾配させる様子に、つい微笑が浮かぶ。
自分はやはり教育者に向いていないなとの認識を強めるのだった。
▽
▽
▽
学年末考査最終日の夜。校長室へ呼び出されたハリーは、驚愕のあまり尻餅をついた。
ロンはアゴの関節が外れるほど口を開け、ハーマイオニーも悲鳴を上げた。
憂いを帯びた目で校長のデスクに腰掛けたダンブルドアが見つめる先。擦り切れ、汚れまみれの囚人服姿で待ち構えていたシリウス・ブラックを目の当たりにしては無理からぬことだろう。肉が削げ落ちた顔で両目だけが爛々と輝き殺意に満ちあふれている。やや遅れて現れたリーマス・ルーピンが杖を抜き、ハリーを庇うようにブラックの前へ立ち塞がるのを見て、脱獄犯は口の両端を吊り上げた。
「相も変わらずお優しい男だリーマス! 月夜に涙するのがよく似合うぞ!」
「口を慎めシリウス、名前の通り暗黒に包まれた獣こそ貴様にはお似合いだ」
それは半ば茶番であり、半ば郷愁であり。
知らぬ者にはただの挑発でしかなかった。
柱の影でバブリングは最後の役者を待つ。
間もなくセブルス・スネイプが扉を開け放った。
漆黒のローブを翻して杖をブラックへ突きつける。
「ようやく、お目にかかれましたなシリウス・ブラック。我が輩がどれほどこの時を待ちわびていたか君に理解出来るかね?」
「そう言って貰えるとは恐縮の極みだがなスネイプ、しかし時と場所を弁えられんとは! まったく変わり映えせん男だよ貴様と言うのは!」
「よせシリウス、いちいち挑発するんじゃない……セブルス、君も杖を降ろしてくれ。私がすべて悪いんだ。これを今から全て話す……」
「口を慎むがいいルーピン。やはり我が輩の懸念した通りとなったな、ん? 貴様はそうやって偽善者を演じ己に酔い痴れるしか出来ん……」
「見苦しいな
ピンヒール・ブーツの硬質な音を響かせながら姿を現す。
眩い真紅でもって異彩を放つ女性の言葉が三人の視線を引き寄せる。
バスシバ・バブリングは武装解除呪文を放つ。リーマスとスネイプの杖を吹き飛ばし、自身も腰のベルトへ差し込んだ。
「何の真似だ、殺人犯を前にして正気か!?」
「セブルス。君の前にいるのはただの不運な男だよ」
醒めたアイスブルーの瞳を凍てつかせてバブリングは嘯く。
丸腰の状態にされたスネイプが憎しみで煮え滾った目を向けても氷の表情は崩れない。
意識の外に置かれたハリーが立ち上がり、杖を引き抜いたのを見逃さなかった。
しかし何の介入もせず放置した。当然、両親の仇へと呪文を放つ。ごく単純な武装解除呪文でも威力次第で人間を後ろへ吹き飛ばすくらいは出来る。だが杖から放たれた光弾はブラックの身体へ命中することなく空中で霧消したのだった。
「無駄だポッター。金剛石に『
「どうして!? ソイツは僕の父さんと母さんを殺したんだ、両親を裏切って……!」
「シリウス・ブラックは罪を犯していないと言った。聞こえなかったか?」
「フン。賢しらだった生意気盛りの小娘も時の流れで智慧を身に着けたらしい」
「黙れ愚か者。貴様がすべて告白していれば事は丸く収まった」
いつまでも収拾の付かない状況にダンブルドアが待ったを掛ける。
ゆっくりと手を挙げ、穏やかな声音で「みな落ち着くのじゃ」と呼び掛ける。
ただそれだけで校長室に充満した殺気と憎悪が希釈される。
三日月型の眼鏡の向こうで、彼の瞳はやはりキラキラと輝いていた。
「みなを集めるようバブリング教授に頼まれてのう。教授にはどうしても儂を含め諸君に伝えねばならぬ事柄があるそうじゃ。ここは一つお話しを拝聴しようと思うが、どうかの」
否はなかった。「アルバス・ダンブルドアが承知の上ならば」という全幅の信頼がこの場を支配する。沈黙の肯定を受け取って白い大魔法使いは真紅の魔女へ主導権を譲った。
「正確に申し上げると語り手は私ではない。セブルス、君の教え子だ」
闘牛士を彷彿とさせる芝居掛かった仕草でローブを踊らせる。それまで誰もいなかった空間に、ロックミュージシャンさながらのパンク・ファッションで固めたアザミと、膝丈まであるライトブラウンのロングコートを羽織ったスミレが立っていた。
「私は彼女たちから聞いたことを校長へ報告しただけだ。然るに、語り手の務めはこのアオイ・アザミとアオイ・スミレに委ねる」
眉間に青筋を浮かべるスネイプへ侮蔑の冷笑を贈るバブリング。
誰の目にも因縁深い間柄のように思えたが、純然たる挑発以上の意味はなかった。
古代ルーン文字学教授と入れ替わりアオイ従姉妹が前へ出る。二人の後ろ盾となるような構図で、バブリングは後ろに陣取った。
「名探偵、一同集めて『さて』と言い――」
「俳句読んでないで始めてください姉さん」
「ウルセえよ。茶々を入れるな恥ずかしい」
そうしてアザミは『真相』を語った。
ルーピンの秘密、ペティグリューの罪、ブラックの不運、そして空転し続けたスネイプの憎悪……包み隠さず一切合切を。
スミレが続けて『種明かし』をした。
「そして、こちらがワームテールことピーター・ペティグリューさん」
「段取りが滅茶苦茶じゃねえかさっきから。途中で出せ途中で」
「こっちの方がいいかなって」
「アドリブすんなやオレが考えたのに!」
「まあまあ、いいじゃないですか……そーれっと」
飼育カゴの中で逃げ惑うネズミを掴み取り、宙へ放り投げる。
あの数メートルはあるアルビノの大蛇がその下で待ち構える。
「さあ。変身を解かないとザクロがパクッと食べちゃいますよ」
コロコロと残酷に笑いかけられたネズミはまん丸に太ったシルエットへ。
たちまち人間の姿へ変身を遂げる。そのまま勢いよく大理石の床へ叩きつけられ、脚の骨が折れる甲高い音とペティグリューの悲鳴が響き渡った。ザクロはするりと贅肉まみれの首筋へ絡みつき、鼻柱へ噛みつく。
『もし変身したら首を折っていいよ』
『しかと仰せのままに。つまらん玩具だ』
「コイツが全ての元凶。ポッターの御両親をヴォルデモートに売り、十二人の一般人を殺し、その濡れ衣をブラック氏に着せたんです」
無機質な目でアザミはペティグリューの折れた脚を踏みつける。
「……なあ、ええ? いい度胸じゃねェかコラ、テメエが売った奴の子供と同じ屋根の下なんて。テメエの身代わりにされた人間はな、死に物狂いでテメエをブチ殺すためだけに、十三年ずっとあの吸魂鬼どもに囲まれてたんだぞオイ!!」
溜まりに溜まった怒りが――新年度早々に吸魂鬼のせいで昏倒したことといい、脱獄騒ぎであらぬ疑いを掛けられたことといい、シリウス・ブラックが味わった地獄といい、この一年間で積もり積もった感情が大爆発した。全身を散々に蹴りつけながら激情を叩きつけるアザミを制止したのは、誰あろうシリウス・ブラックその人だった。目に宿った異様な光は消え去っていた。そこにいるのは十三年の時を経てようやく無実を証明された、ただの一人の男だった。
「もうよすんだ。最初の傷だけでワームテール……いいやペティグリューに逃げるだけの気力は残っていない。その男がどれほど弱い人間か、私はよく知っている」
「いいんですかブラックさん。彼、私が少し脅かしただけでハリーの御両親のことも貴方のことも『許してくれ』と泣き叫んでいましたけれど」
目線は確りブラックを見据えながら、言葉の矛先はハリーへ向けられていた。
ただ何となく、ちょっとした気紛れで、彼の憎悪を煽ってみただけだ。
無邪気な遊び心を見透かすようにブラックが憎しみの火へ水を掛けた。
「君もだお嬢さん。いくら蛇と話せるからといって、心まで蛇のようになってどうする……確りするんだ。君はただの人間じゃあないか」
スミレの秘密を知らずに放った言葉が、スミレ自身の心に突き刺さる。
愛おしげにペットの蛇を首へ巻きつけたまま凍りつく。まったく自業自得である。アザミは言葉を投げ掛けず、ただそっと柱の陰へ誘った。語り手達が舞台裾へ退くと再びバブリングがバトンを引き継いだ。
「以上です校長。それで、この後はどのように?」
「儂はコーネリアスを呼ぼう。大至急この事を報せねばばならぬ。セブルス、済まんがマクゴナガル先生を連れて来てくれんか」
「生徒たちは? 寮へ返しますか?」
「そう慌てずともよかろう。魔法省からホグワーツまではちと遠いでな」
バブリングはそれきり沈黙した。
急拵えの役者であるという認識からだった。
スネイプは体良く追い払われた形だった。だが現状で彼以上に相応しい人選はなかった。
黒ずくめの教授が腹立たしげな足音を鳴らして校長室を去ると、シリウス・ブラックはダンブルドアの前で跪いた。
「お許し下さいダンブルドア……すべて、すべて私の愚かさが招いた結果なのです。貴方の指示通り、私が『秘密の番人』の役を背負うべきだった! そのせいでジェームズとリリーは……私がハリーの両親を殺したも同然だ……!」
「許しを請わねばならぬのは儂の方じゃシリウス。報せを聞いたあの夜、儂は君を信じようとせなんだ。裏切り者はこの老いぼれじゃ……なんと浅はかで思慮なき男よ……コレの何が大賢者か……恥ずべきはこの儂じゃシリウス……」
咽び泣き大粒の涙を流すシリウスの肩を、ダンブルドアが優しく抱擁する。
その目から零れ堕ちた涙の雫が蝋燭の灯りにキラリと輝いて床へ滴った。
ルーピンは誰を視界に入れることも出来ず、打ちひしがれて己の両手を見つめるばかり。ハリーにもハーマイオニーにもロンにも投げ掛けるべき言葉が幾つもあるのに、そうするだけの勇気を振り絞れなかった。もはや立ち尽くすことしか出来ないでいた。