ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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現実は何時も アタマの外に

 翌朝。アザミは草臥れた顔で談話室へ戻った。

 丁寧にセットした髪型も崩れてしまっている。

 ローブもネクタイも投げ捨て、裸足のままソファへ寝転ぶ。

 

「あ"あ"ッ" ハ"ラ"減"っ"た"ァ"」

 

「もう、やめてよ朝からはしたない」

 

「オレぁ平民育ちなんだよォ」

 

 やさぐれるアザミを嗜めつつ、パンジーは日刊予言者新聞を読む。

 ダフネとミリセントも覗き込んで一面記事の大見出しを眺める。

 ホグワーツ魔法魔術学校は上を下への大騒ぎ。たった一夜にして天地がひっくり返り、左右があべこべになったも同然だった。

 無理もない。シリウス・ブラックの冤罪だけでも衝撃的と評するに余りある。そこへ殉教者として祭り上げられたピーター・ペティグリューが実は生き延びており、その罪状からアズカバンへの収監なしに取り調べ終了後即時に『吸魂鬼(ディメンター)接吻(キス)』を執行されるのだから。歴史上類を見ない大事件であり大スキャンダルであった。

 表向きはバスシバ・バブリングの功績として処理される。

 彼女には魔法省大臣直々に勲一等マーリン勲章が授与された。

 押し掛けた記者たちに教授は開口一番「質問に質問で返すが、君たちはこのあとブラック氏に謝罪するのだろうね」と言い放って取材の場を凍りつかせた。

 その様子をラジオで生中継されていたから日刊予言者新聞も立つ瀬がない。

 

「あの先生やっぱり変よね」

 

「経歴からして変じゃないの」

 

 ダフネはコメントする気力が湧かなかった。

 差し入れのエッグ・サンドウィッチを囓り口を塞ぐ。

 世間は奇矯な美人教諭ばかりに関心を向ける。

 ホグワーツでは少しばかり状況が違う。大々的に敷かれた箝口令のため、アザミとスミレがシリウス・ブラック氏の無実を証明したことは周知の事実だった。

 おかげで大広間へ一歩踏み込むなり質問攻めにされた。

 あまりの執拗さに嫌気が差して逃げ帰ってきたのだ。

 

「なんでオレこんなコトに首突っ込んだんだろう……」

 

「いいじゃないですか。姉さんも楽しかったでしょう?」

 

「疲れたよこっちは。もう二度とやらねえ!!」

 

 またまたぁ、と精根尽き果てた従姉に微笑みかけながら、スミレはコーヒーを啜った。

 

「ズルいわよアンタたちだけ。なんで誘ってくれなかったの?」

 

 私服姿のミリセントは不満げに口を曲げた。

 お嬢様らしからぬジャケットにパンツスーツである。

 スミレの『大冒険』に巻き込まれた二人は首を左右に振った。

 

「やめときなさい。命が幾つあっても足りないから」

 

「そうでなきゃ冒険とは言えないでしょうが」

 

「私はもう一生分怖い思いをしたから……次があれば代わってあげる」

 

 女は度胸でしょうが、と鼻息を荒くするミリセント。

 

「ちょっと気になったんだけど、アザミって外出許可証なかったわよね」

 

「おう。面倒くせえから見せてすらないぜ」

 

「だったらどうやってポッターの無断外出を尾行できるの」

 

「簡単だよ。オレも持ってンの『透明マント』」

 

 持ち込み禁止品のリストに毎年記載されている。

 しかし粗悪品ですらなかなかに値が張る。

 子供のオモチャに買い与えるような品ではない。

 

「それってゾンコの安物? まさかダイアゴン横丁?」

 

「いいや。祖父ちゃんが入学祝いにくれたヤツ」

 

「大事にしなさいよ、とんでもない贅沢品なんだから」

 

「そうなの? 『なくしたらまたやる』っつってたけど」

 

 桁外れの金銭感覚に感嘆の念すら浮かんだ。

 否、パーキンソン家もブルストロード家もグリーングラス家も、魔法界の基準に照らし合わせるなら大富豪には違いないのだ。スミレの性格から察するところよほど孫に甘い祖父と考えた方がずっと妥当だ。羨ましいと思う反面、いったいどういう家庭環境なのかと少し不安にもなった。

 スミレの友人たちの和気藹々を横目に、アザミは煩悶を繰り返す。ハリーたちの前でルーピンが人狼であると暴露したこと、暴走するスミレを制止するどころか、一緒になって散々に無茶を繰り広げたこと。どんな顔をして、どんな言葉で、ハリーとロンとハーマイオニーに謝罪すればよいのか分からない。

 無断外出の罪をルーピンに庇われたと聞き、不甲斐ないやつと思った。今の自分はどうだ。バブリングなどという極め付けの変人に泣きついた挙げ句、彼女の気紛れとダンブルドアの慈悲で命拾いしたようなものだ。ハリーが不甲斐ないヤツなら自分はそれ以下のカスではないか。

 誰も彼も、そんな葵薊をハリウッド・スターのように持て囃す。目の前にいるのは大言壮語ばかりで実力など欠片も備わっていないバカな小娘だ。いつも憧れの目で自分を見る菫の手前、つい見栄を張ってしまう。だがそんな菫はついにボーイフレンドを得て、ぎこちないなりに交際へ踏み出している。

 何者でもない。何者にもなれない。空っぽの中身……マントなどなくとも既に透明なのと同じだ。

 こうして悔やんでも先へ進みはしない。

 ずっと立ち止まっていじけてるばかり。

 強がっていないと、息が詰まりそうだ。

 強がっているうち、息が詰まるかもだ。

 つくづく疲れた。試験も終わり、しばらくは『逆転時計(タイムターナー)』のない生活を送れる。

 ともかく。無実の人間が自由を得て、罪を犯した人間が報いを受けるのなら、まずまず悪い結果ではないと思いたい……。

 様々な感情が噴出して残った巨大な穴へ疲労感が雪崩れ込んできた。アザミは睡魔に誘われるまま静かに寝息を立て始める。

 スミレは眠りに就いた従姉へ毛布を掛ける。

 アザミがいなければここまで上首尾に事は運ばなかったろう。

 感謝こそすれ不満などない。この心残りは単に自分の落ち度である。当然、ペティグリューを尋問したあと口封じはしてある。ロックハートから教わった忘却術で『秘密の部屋』に関する記憶は抹消したハズだが……魔法省も取り調べは徹底的にやる。もしあの尋問が露呈すれば間違いなくダンブルドアの耳に入る。いっそのこと始末してしまえば良かったかもしれない。バジリスクなら跡形もなく消してくれたろうに、手痛いミスだ。

 次はもっと油断なく取り組まなければ。

 遊びはあと片付けまでが大事なのだから。

 心に刺さった小さな棘が痛い。不安の芽がむくむくと育つ感覚。

 どうやって解消しようかと逡巡するスミレに、ドラコが声を掛けた。

 

「アオイ、今話せるな」

 

 暇を持てあましているのはその通り。

 

「ええ。退屈しています」

 

 包み隠さず本心を打ち明ける。

 ほっそりとしたアゴで談話室の外を示す。

 よほど秘密にしたいことらしい。

 

「すみません、少し席を外します」

 

「パーキンソン。しばらくアオイを借りて行くよ」

 

「構わないけど……どうしたの?」

 

「父上からの件さ。すぐ戻る」

 

 マルフォイ家の紋章が描かれた封蝋。ルシウス・マルフォイ氏からの手紙を見せる。

 大臣の私的な相談役も務める魔法界の重鎮とあって、流石は耳が早い。どのようなルートから情報を仕入れていても不思議ではなかった。パンジーは一抹の不安を抱えながら二人の背中を見送る。そんなドラコのガールフレンドを慰めるようにミリセントは不敵な笑みを浮かべた。ダフネも慌ててサーモンサンドを食べきった。

 

「まったく理解ってないわね……アレはきっとアーネストの件よ」

 

「え、でもルシウスおじさまからのお手紙だって……」

 

「そりゃマクミラン家とマルフォイ家は遠縁といっても親戚だもの。スミレもアレでいいとこのお嬢様には違いないのよ?」

 

「もし純血一門に加わるなら、早めに作法や色々教えておかないと。でしょう?」

 

「こういう話題のときだけしれっと入るんじゃないわよ図々しい」

 

「私が図々しい女だなんて、今更じゃない」

 

 姦しい三人をよそにドラコは天文台へ登った。

 スミレも黙ってあとに続く。お互い、浮ついた雰囲気は皆無である。

 そんな可能性は万に一つもないという確信があった。

 ドラコはスミレに封筒を手渡す。開封されている。

 

「父上からだ。今朝速達で僕宛に届いた。オマエに伝言を預かっている」

 

「拝聴しましょう」

 

「ピーター・ペティグリューが取り調べ前に死んだ。魔法省へ移送中、吸魂鬼が無断で『接吻(キス)』を執行した」

 

「それだけですか?」

 

「ああ。それだけだ」

 

 伝えられた言葉をゆっくりと反芻する。

 ピーター・ペティグリューが死んだ。

 取り調べを受けることなく。

 吸魂鬼の手に掛かって。餌食となって。

 ペティグリューが、秘密を抱えたまま死んだ……魔法省の手に落ちる前に……吸魂鬼に魂を吸いとられて……。

 ふつふつと込み上げてくる笑いが爆ぜるまでに時間は掛からなかった。

 スミレの笑い声を聞いたのはドラコにとって初めてに思えた。こんな風に彼女は笑うのか。いやそれ以前に、笑い声をあげられたのか。そんな感想ばかりが浮かぶ。

 ひとしきり笑ったあと、スミレは目元に滲んだ涙を指で拭った。

 

「ああ、久々に笑えた気がします……朗報をありがとうございますと、お父様に伝えていただけますか?」

 

「朗報? どこが朗報なんだ。死んだんだぞ」

 

「死んでくれてよかった。生きていられては迷惑でした」

 

「アオイ。オマエ、あの男に何をした」

 

「ほんの少し嘘をついて脅かしただけです。ただ、『秘密の部屋』でバジリスクをけしかけたことは隠し通した方が都合がいいでしょう?」

 

「僕がその事を父上に知らせるとは思わないんだな」

 

「ええ。そんな事をする勇気、貴方にありませんから」

 

 ――――私の恨みを買いたいんですか?

 

 正面から朝日の光を浴び、黒々とした目が微かに細まる。

 どこまでも太陽の似合わない女だ……ドラコは苦虫を噛み潰す。

 アオイ・スミレに怨まれるなど真っ平である。吸血鬼であろうとなかろうと、彼女の精神性を知れば知るほど近寄り難い存在へ変わっていく。いつ何時機嫌を損ね、死を望まれるか知れないような相手を、友人と思えるはずがない。最も邪悪に感じるのは自身の本性をドラコ・マルフォイ以外の前で巧妙に隠しているところだ。

 こうして言葉を交わしているだけでも()()の不安に駆られる。

 

「用はそれだけだ。僕はもう少しここにいる、帰りたければ勝手にしろ」

 

「そうですか。ではお言葉に甘えて」

 

 淡々とした口調に戻ったスミレはそのまま天文台の螺旋階段を降りていく。

 ただの一度も振り返ることなく、真っ直ぐに寮の談話室を目指す。何人かの生徒とすれ違ったものの、蒼白い顔に浮かんだ満面の笑みが恐ろしいあまり武勇伝について尋ねられなかった。いつもより軽やかな足取りで廊下を跳ねるように歩いているうち。真正面からグリフィンドールの三人組が向かってやって来るのが見えた。

 スミレは何の関心もなかった。しかし三人は三人とも、スミレを呼び止める理由がある。

 ハリーはどこかぎくしゃくして、ハーマイオニーは泳ぐ視線をしかと固定し、ロンは警戒心を露わに瞬きを繰り返す。対するスミレはすっかり機嫌を良くしていた。

 

「やあ、スミレ。おはよう」

 

「どうも。おはようございます」

 

 そして沈黙。ただ挨拶がしたかっただけか。そう判断してまた足を動かそうとしたスミレを、ハリーが「待って」と呼び止めた。

 

「昨日のこと、ちゃんとお礼を言いたいんだ」

 

「感謝されるようなことはしていません」

 

 貴方は命を狙われていなかった――強いて言えば、狙っていたのは吸魂鬼だけでしたね。

 まったくその通り。殺人鬼はただ現実から逃げ続け、脱獄犯の復讐は親友のためだった。だからハリーを脅かしていたのは虚妄そのもの。誰もが信じ、そうであると疑いもしなかった、架空のシリウス・ブラックであった。

 スミレの言うとおりには違いなかったが、世の中には言わなくていいこともある。

 目を丸くしてハリーとロンは真っ白な肌の少女を見つめた。

 

「これっぽっちも悪気はないのよ」

 

「それじゃあもっと悪いじゃないか」

 

 ロンに言われてハーマイオニーは今度こそ言葉を失った。

 

「とにかく……スミレのおかげでシリウスは無実が証明された。ありがとう」

 

「いいんです。私も好き好んでやったことですし」

 

「父さんと母さんを裏切ったペティグリューもそうだ。アイツの罪が裁かれるのも、スミレとアザミのおかげだ」

 

 好き好んで殺人鬼を城へ迎え入れようとしたことは、黙っておいた。

 当初の予定はハロウィンを境に跡形もなく崩れ去ったのだから。

 それに、もし迂闊に喋ってマクゴナガルに密告でもされたら後が面倒だ。

 折角アザミが英雄として持て囃されているところへ水を差したくない。

 

「それで。あの地図はどうなるんです?」

 

「考えてもなかった。まだルーピン先生が持ってるんだ」

 

「私はもう必要ありませんよ。姉さんが暗記してるので」

 

「なんで自分が貰えるって発想になるんだよ。どうかしちゃってるぜ」

 

「誰のおかげで毎晩中年男をベッド脇に並べて寝ずに済んだと?」

 

「そ、それは言わないで欲しかった……ううッ、思い出しただけで吐き気が」

 

「おや。ザビニにナメクジ呪いでも食らったんですか?」

 

「ロン、スミレに口論で勝てると思うなんて傲慢もいいところよ」

 

 あのピーター・ペティグリューを大事に大事に飼っていたなんて災難だ。

 一番大きな被害を受けたのはロンなのかもしれない。もちろん、吸魂鬼に襲われて箒から落ちただけでもハリーの方がずっと大事件なのだが。しかし心の傷の深さでどちらがより深刻かは火を見るよりも明らかだろう。

 もうしばらくはこのネタで揶揄えそうだ。

 新しいオモチャの候補も現れてくれた。

 ハリーはもう少し話したいことがあったものの、スミレは他に聞きたいこともなく、「寮に帰ってもう一眠りします」とその場を去った。大蛇のようにゆらゆら揺れる黒髪がみるみる小さくなっていく。

 

「結局、みんな振り回されっぱなしの一年だったよな」

 

「それって何時の話だいロン? 一年目? 二年目?」

 

「ホント、どうして毎年毎年で事件が起きるのかしらね」

 

「その問題でレポートを書けたら魔法大臣になれるよ」

 

「やだわロンったら。ノーベル賞じゃないんだから」

 

 晴々とした青空の下。吸魂鬼の姿はなく、白い雲が呑気に漂っている。

 六月の生気溢れる青々とした木々をはるか遠くに見遣れば、ホグワーツに束の間の平和がやって来たのだと安堵する。

 大広間の方へ向かうと朝食の時間を過ぎて生徒が集っていた。

 輪の中心にいるのは少し顔に赤みを取り戻したルーピンと、彫刻めいた無表情を微かに歪めたバブリングの二人だった。冗談みたいに真っ赤なスーツの胸元には燦然と勲一等マーリン勲章が輝きを放っている。魔法省での威勢のいい売り文句も手伝ってみんなすっかりバブリングを気に入ったらしかった。

 

「ハリー! ハリーじゃないか! こっちに来いよ!」

 

「君がいなきゃ始まらないよ! さあみんな道を開けた!」

 

 飛び出してきたフレッドとジョージに手を引かれ、背を押され、三人まとめて野次馬の真っ只中へ連れ込まれた。バブリングはしきりにルーピンへ「これはやりすぎだ」と不満を訴えているが、ルーピンは「役者ならカーテンコールにも付き合うものだ」とにこやかだった。

 

「コリン・クリービー! バシッとキメちゃってくれ!」

 

「とびっきりの一枚を頼むぜ。歴史に残る一枚なんだ」

 

 カメラ小僧のコリンが連れて来られる。二年生になってもあまり背丈は伸びず、大きなカメラを両手に構えた男の子が、前歯の一本欠けた笑顔を見せる。

 

「聞いていないぞ。勲章だけでいいだろう」

 

「みなを盛り上げて楽しませるのもヒーローの仕事だよ」

 

「冗談じゃない。私は女だ、ヒロインだろう」

 

「あの先生。気にするところがそこでいいんですか?」

 

 やっぱりちょっと変な人だと気付いたハーマイオニーだが、今そんなことはどうでもよかった。歴史に残る一枚と言いつつコリンは何度も何度もシャッターを切る。その度に激しいフラッシュが焚かれ、五人はどんどん眩しくって顰め面になっていく。ついにはフレッドとジョージも乱入するし、双子に呼ばれたリー・ジョーダンやセドリック・ディゴリーが加わるともう全員集合の記念撮影が始まった。

 

「すまんアンジェリーナ。右手を下げてくれないと俺の顔が写らん」

 

「無理言わないでオリバー。私もいま腰がギリッギリの姿勢なの」

 

「大丈夫かいチョウ。ここより真ん中の方がよく写るよ」

 

「私はいいの。そういうセドリックも端っこでしょう?」

 

「待ちたまえ君たち! これは何の騒ぎだ、校則違反のオンパレードじゃないか!」

 

「来たぞパーシーだ。よし、アイツも連れ込んじまえ!」

 

「堅苦しいこと言うな兄貴! 今日は祭りだよ!」

 

「ミス・クリアウォーターはもう並んでるぜミスター・ヘッドストーン!」

 

「言ったなジョーダン! 弟たちでさえ言わなかったんだぞ!」

 

 記念撮影は次から次へと参加者が増えていく。

 通りがかった生徒が捕まり。あるいは教授を呼びに行き。

 賑やかな声に引き寄せられたゴーストたちも加わって、賑やかすぎるくらいのお祭り騒ぎはほとんど一日中続いた。

 朝が昼に、昼が夜に。晩餐の席でもハリーは大勢に囲まれてお祝いの言葉を贈られた。ロンも兄たちから慰められて心の傷を抉られる思いがしたし、ハーマイオニーはこの一年間を散々に振り回しながらバックビークを助ける機会をくれた『逆転時計(タイムターナー)』を撫でて労った。

 宴の料理もなくなり。興奮がようやく醒めはじめ。

 大広間に残った生徒もまばらになった中。ハリーたちはマクゴナガル教授と話し込んでいるルーピンの元へ駆け寄った。グリフィンドールの寮監はなにやら説教をしているようだった。

 

「ああ、皆さんよいところへ。あなた方からもルーピン教授を説得なさい」

 

「いいんですマクゴナガル先生。どのみち、私のような者は不相応だった」

 

「何を消極的になることがありますか。愚かしい考えですよそれは」

 

「マクゴナガル先生、いったい何があったんですか?」

 

「よくお聞きなさいミス・グレンジャー。ミスター・ポッターにミスター・ウィーズリーも……ルーピン教授はダンブルドア校長へ辞表を出すと仰るのです。明日の朝一番で城を去るおつもりだ、と」

 

 これほど深刻なことがあろうか。ハリーは雷に撃たれたように動けなかった。

 あんなに素晴らしい授業をしてくれたルーピンが、どうしてたった一年でホグワーツを去ることになるんだ。彼はまったく、まったく非の打ち所がない先生だったのに。

 

「おかしいじゃないですか。先生は()()()の手下でも、ペテン師でもなかった」

 

「忘れたのかいハリー。私は人狼なんだ。満月になると人間でいられなくなる」

 

「でも、今は薬があるんですよね? アザミだってそう言っていたじゃないですか」

 

「人狼だからなんだって言うんです。生徒にだって吸血鬼がいるのに」

 

「……スミレは変身することもなければ、無差別に周囲を襲ったりしないだろう?」

 

 ちょっと反論に困るものがあった。怒り狂ったら何をするか分からないのでは、それは薬で抑制できる人狼よりずっとタチが悪い。

 

「セブルス・スネイプが何です。苦情がどうしたというのです。私は全面的にあなたを支持しますよ、もちろん他の先生方もです。ダンブルドア校長も……」

 

「人狼に我が子を預けようと思う親はいません。これもすべて私が撒いた種だ、私がすべて引き受けなくては。先生方の手を煩わせるわけにはいかない」

 

「弱気になってどうしますリーマス。あなたは変わったのです、セブルスの煎じた薬が不安だと言うのでしたら、それこそ――」

 

「あの魔法薬は酷く複雑で、高度な技術が必要でして。セブルス・スネイプでなければ十分な効果を引き出せない。お気持ちはうれしいですが、もう決めたことです」

 

 ルーピン教授はそう言って弱々しく微笑んだきり、大広間を去ってしまった。

 マクゴナガル教授のこぶしは多くの感情を握りしめて震えていた。

 

 

 

 

 眠れぬ夜が明け、防衛術の教室へ走る。

 研究室の頑丈な扉は完全に開け放たれていた。

 中では荷造りを追えたルーピン教授が、バブリング教授と談笑していた。

 ハリーに気付いたルーピンが「やあ、来たね」と手を挙げた。

 デスクには一枚の羊皮紙が広がっている。あの地図だとすぐに分かった。

 

「本当にお辞めになるんですか?」

 

「済まないね。特別授業をこんな形で打ち切ってしまって」

 

 弱々しい微笑みは寂しげな風に見えた。

 守護霊呪文は「あと一歩」の段階まで到達し、ついに先へ進まなかった。けれど吸魂鬼が引き揚げたいま、もう両親の声が脳裏に木霊することはない。

 

「先生のおかげで吸魂鬼に怯えず飛ぶことが出来たんです」

 

「そう言ってくれると救われた気持ちだ」

 

「……私は邪魔だな。失礼する」

 

 純白のワイシャツに真紅のベストを来た教授は、踵を返そうとする。

 

「何を言うんだ。バスシバ、君がいなければ私は殺人者になっていた」

 

「現役を退いて長い君に遅れを取るつもりはない」

 

 どこまでも傲慢に、冷徹に、魔女らしい厳粛さで言い放った。

 あまりの言われようにルーピンは思わず吹き出した。

 

「変わらないなお互いに。もちろん、君の方は良い意味でだよ」

 

「変わり者とはよく言われるがね。何故だか知らんが」

 

 今度こそみんな笑いを堪えきれなかった。ルーピンなどは腹を抱えながら大笑いした。当のバブリングだけは不服そうに「何がおかしい」と呟くが、おかしいものはおかしい。そのあとハリーたちはリーマスとバブリングの学生時代――と言っても、二人がホグワーツで共に過ごしたのは学生時代の一年と、教職員としての一年しかないのだが――の思い出話を聞いた。

 そのほとんどはジェームズとシリウスの武勇伝で、ときおりクィリナス・クィレルやギルデロイ・ロックハートの名前が出てくるという、あまりに奇妙な縁を感じるものであった。しばらく賑やかに過ごしているうちルーピンは腕時計へ目を遣った。

 ホグズミード駅への馬車が来る時間が迫っていた。

 

「すまないが、もう行かないと。列車に乗り遅れてしまう」

 

 見送りは不要。頑なにルーピンはそう言って旅行鞄を掴んだ。

 最後に『忍びの地図』をハリーへ手渡した。

 

「これは、もう私には必要ないものだ。先生ではなくなったから、君へ渡してしまっても心苦しいところはまったくない」

 

 第一、もし自分の息子はホグワーツの隠し通路を一つも知らずに卒業したと聞けば、プロングズはきっと大いに失望するだろう。パッドフットもムーニーも、きっとハリー・ポッターがホグズミードへ行けず城に留まっていると知れば喜んで迎えに行ったはずだ。

 ルーピンの言葉を噛みしめながらハリーは羊皮紙を受け取った。

 空っぽの水槽を肘で押し退け、みなと握手を交わし、ルーピンは研究室を去る。

 主のいなくなるとこれほど広い部屋だったのかと錯覚する。

 そこにいるべき者がいない。そんな欠落を部屋も感じ取っているように思えた。

 

「最後まで、偉大な男だったよアイツは」

 

 去り際、バブリングはそんなことを呟いた。

 

「一つ教えておく。憎しみの感情は魔法使いに絶大な力をもたらす。これは過去の賢人たちが立証してきた通りだ。しかし……『赦す』ことで生じる結果は、憎悪がもたらす力では引き起こせないことが多々ある」

 

「あのとき、シリウス・ブラックは十三年間抱き続けてきた憎悪と訣別した。怒りの炎に曝されたペティグリューを、彼は確かに救ったんだ。私は君の父上と一年しか交流していないが……リーマスも、シリウスも、そしてジェームズも。きっとあの男を許しただろう」

 

「そういう連中だった。嫉妬すら焼き尽くすほどの才能を突きつけながら、なおも憧れを禁じ得ないくらいに眩い人たちだった。それにその瞳、母上によく似ている。今でもよく覚えている…………本当に美しい女性だった」

 

 遠い過去に思いを馳せるアイスブルーの瞳は、氷の魔女のものでなく、ホグワーツの門をくぐったあの日の自分自身を思い起こさせた。微笑は間もなく引っ込み、教授はルーピンを追うように研究室を去る。扉の前にある踊り場から、ハリーは叫んだ。

 

「先生、待ってください。僕も――」

 

「ポッター! 先達としてアドバイスだ! 守護霊呪文に『記憶』は必要ない、ただ『幸福』な感情を想起させればそれでいい!」

 

 別れの言葉でなく餞別を贈ってやれ――そう言われた気がした。

 掴み所のない教授なりにルーピンとの別れを惜しんでいるのだ。

 だからせめて、とびきりの成果を見せるのがいいと。

 

「意外と粋なところもあるもんだ」

 

「あの人、面白い先生でしょう?」

 

「ハーマイオニーが自慢することかい?」

 

 微笑ましいやり取りを楽しみつつ、ハリーは杖を構える。

 脳裏に描くのは思いつく限り『幸せ』な記憶。それはけして現実でなく、虚妄、空想の光景であるけれど。両親が夢に見たはずのもので。シリウス・ブラックとリーマス・ルーピンもいつか訪れるものだと信じて疑うことのなかった『未来』を――

 

「『守護霊よ、来たれ(エクスペクト・パトローナム)』――!」

 

 胸の内に宿るほのかな温もりが腕へ流れる。それはやがて杖へと伝わり、ゆっくりと放たれる銀色の光へ。光は立派な角を供えた牡鹿(プロングス)へ変わり、跳びはねるようにしてハリーの周囲をぐるぐると駆け回る。

 しばらくして、牡鹿は誘われるように防衛術の教室を飛び出していったのだった。

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