咲かせましょうか
小高い丘の上に構える古式ゆかしい日本風の大豪邸が葵家の屋敷である。
本邸こそ平屋に瓦屋根という古民家そのものだが、住民たちが『離れ』と呼ぶ別邸は西洋風であったり寺院風であったり、それぞれ異なる建築様式を有している。
新幹線の通らない在来ローカル鉄道に揺られ、数時間を経て終着駅に着けばそこからさらにバスを乗り継ぎ、ようやく最寄りのバス停で降車したときにはスミレとアザミを除く全員が息も絶え絶えであった。周囲を見渡せば水田が広がり、まばらに古びた民家が点在するばかり。商店はおろか自動販売機すらなく、当然ながら公衆電話など置いていようはずもない。猛烈な夕暮れの日射しに照りつけられながら迎えの車を待つこと十数分。ようやく屋敷へ辿り着いたとき、鴉と蛙の鳴き声が鼓膜にこびりついて離れなくなっていた。薄暗がりが空に広がるとともに蛙の大合唱は一層激しくなり静謐とはかけ離れた中、いよいよ本邸で上がったのだった。
「何もなくって恥ずかしいところですが…・…」
本当に何もないところで言うな、とアザミは心の内でボヤいた。
いくら社交辞令の挨拶と分かっていてもこの環境ではただの自虐だ。
各々履き物を脱ぎ、慣れない裸足で廊下を歩く。ひとまず客間へ一週間分の荷物を押し込め、冷房の効いた現代的な応接間でしっかり涼む。キンキンに冷えた麦茶と黒蜜寒天が人数分運ばれてくるとアザミはようやく実家へ帰ってきた気持ちがした。やはり夏はコレがないと味気ない。
「とりあえず、長旅お疲れさん」
「こんなに暑いなんて聞いてない……」
「今年はちょっとキツいですよね」
「毎年言ってるけどなソレ」
一口飲むと凍みて痛いくらい冷たい液体が胃へ流れ込む。
身体の内から外から蓄積した熱が祓われていくようだった。
パンジーたちは失礼にならない程度に部屋の中を見渡した。
蝋燭の一本もないのに昼間と同じくらい明るい。天井からぶら下がった四角いケースの中で、二重丸を描く筒状の物体が白い光を放っているのだ。それをスミレは入口近くの壁に手を翳しただけで起動させた。杖の一本も使うことなく真っ暗な部屋に光を灯し、誰が呪文を唱えるでもなく窓際の壁の高い位置に懸けられた、これも真っ白な四角い装置が独りでに冷たい風を送り込んでくる。
マグルの生活様式というのはまったく奇妙で摩訶不思議なものだった。
アーネストは母方の親戚の屋敷で見たことがあり、馴染み深い光景だった。
あまりにも二つの文化が乖離している。これでは相手を受け入れるのに時間が掛かるのも納得できる。何より驚くべきはアザミとスミレの衣服があまりに簡素すぎることだ。半袖のTシャツに膝下丈のゆったりしたパンツスタイル。良家の令嬢という印象からは想像もつかないラフな装いに動揺させられる。
もちろんイギリスと日本との距離を考えれば、礼儀作法や風習が違うのは当然だ。
しかし異性がこれほど大胆に素肌を露出しているという状況はアーネスト・マクミランの人生で一度たりとも経験したことがなかった。
スミレは素知らぬ風に寒天をつまんだ。とろりとした黒糖が下の上に広がり、よく冷えた寒天のほどよい弾力と瑞々しさがたまらなく美味しい。ここでようやくアーネストは「スミレは表情の変化に乏しい」というイメージを改めることができた。こんなに幸せそうな顔で
ただ、自分の恋人が味音痴というのは少しショックだった。
アザミは壁に掛かった時計を見て夕食まで何分あるか計算する。
これから全員を風呂に入れ着替えさせるだけの余裕はある。
アーネストは離れの浴室を使わせるとして……黙々と頭の中でシミュレーションを重ねるところへ、ふらりと着流し姿の男が現れる。まだ黒々とした髪を後ろへ撫でつけた精悍さの残る顔立ち。涼やかな切れ長の目。しかし首から下の身体はすっかり肉が削げ落ち、はだけた胸元から浮かび上がった肋骨が覗いた。
「アザミもスミレもいま帰ったとこか。東京で旅行でもしとるんかと思ったぞ」
「友達連れてくんだから真っ直ぐ帰るよ。祖父ちゃんこそいいの、地元の集会とか」
「構わん、ええんだあんなのは。儂なんぞビール注がれて音頭とったらお役御免よ」
砕けた調子で飄々とした『アザミとスミレの祖父』が何者か。即座に理解出来ない鈍い頭の持ち主は一人もいなかった。慌てて立ち上がった孫娘の友人たちを葵家の当主は「ええ、ええ」と座るように勧めた。
「トシ食うとすぐに膝が笑ってイカン。どれ、儂も失礼しようかね」
そう言いつつ歩く様は杖もなく
「紹介します。そちらからパンジー・パーキンソンさん、ミリセント・ブルストロードさん、ダフネ・グリーングラスさん、それにアーネスト・マクミランさん」
「で、この人が私らの祖父でウチのご隠居」
「シキミという。アザミの言うとおり暇を持てあました隠居の身だ、そう畏まらんでくれ」
どのような大人物が現れるかと思えば気さくな初老である。笑ったときに口の両端がキュッと吊り上がるところや鋭い目つきはアザミによく似ている。シキミ翁は饒舌な人柄で、そこはアザミともスミレとも違っていた。シリウス・ブラック事件について興味津々とばかりに目を輝かせたが、思い出したように「土産話しとる場合じゃないわい」と膝を叩いた。
「ブリテンからこっち長旅で疲れたろう。今日はとみに暑かったしな。風呂の用意をさせてある、夕餉の前に汗を流すといい」
立ち上がる様も軽やかなもので、足音一つ立てず応接間を離れた。
入れ替わりに使用人たちがみなを浴室へと案内する。アーニーは女子たちと別に『離れ』へ連れられ、それぞれべたつく汗や崩れた化粧を洗い落とし身支度を整え直した。サッパリして再集合したらそのまま本邸の居間へ通される。畳敷きの広大な部屋に長いテーブルが一つ、人数分のチェアが置かれていた。
シキミ翁のほかに見知らぬ女性が二人。流水と金魚の描かれた着物姿の婦人と、ワイシャツに黒いデニムのボーイッシュな人物が腰掛けていた。先に和装の御婦人がお辞儀して挨拶した。
「初めまして。葵菫の母で山吹と申します」
アザミは立ちくらみがした。どうしてこう自分の親戚はとぼけるのが好きなのだ。
山吹婦人はシキミ翁よりさらに若々しく、肌つやといい髪の質といい三十代でも違和感なく通用するくらいだった。彼女は英語に不案内だったためスミレが通訳をしたが、母親という名乗りを訂正することなく紹介したので実は祖母だとは誰も気づけなかった。むしろカジュアルな出で立ちの女性の方が大人びて見えるくらいだ。
「スミレの姉のツバキでーす」
こちらも便乗するのでアザミの目眩は悪化した。
自分が重度のユーモア欠乏症なのだろうか?
化粧ッ気がなく散切りのショートヘア、すこし気怠げだが、こちらはスミレによく似た感情の読めない真っ黒な目である。言われてみればコーディネートも若い。姉という自己紹介をそのまま訳したスミレを信じてしまっても当然である。
全員が席につくと次々に料理が運ばれてきた。
それに切子細工のグラスが揃うと、日本酒が注がれる。
「では、遠く
乾杯の音頭を取ったシキミ翁に続きみなグラスを小さく持ち上げる。
スミレは慣れていないので一口舐めるだけにしたが、アザミはするすると清酒を飲み干す。空になったグラスへ二杯目が注がれる。アザミはけろりとした顔で二口目を嗜みながら豚バラの角煮をつまんだ。
パンジーもおそるおそる数滴分だけ味わい、口いっぱいに広がる熟した果実の甘みに目を丸くした。晩餐会で振る舞われる酒といえばワインばかりで渋いうえ酸っぱい味ばかりだったが、この透き通った一杯なら水のようにいけそうだ。香りは濃厚なのに後味はスキッとキレがあるからシェリー酒のように料理とケンカもしない。
「スミレ、いつもこんなに美味しいモノを飲んでるの?」
「そんなまさか。普段はお盆とお正月くらいですよ」
「まあまあ嗜んでるじゃないの…………」
ダフネは欧風とも中華とも異なる葵家の料理を眺めていた。
想像していた日本料理と違いすぎて、味の想像が難しい。
そんな様子を気遣ってかツバキ女史はときどきダフネの取り皿へ料理を載せてくれた。塩漬けにしたプラムの果肉とサメ軟骨の和え物は蒸し暑いこの季節に最適だった。
夜空の満月が庭先の池の水面に映る。思わず吐息が漏れる。
「夏って良い季節ですね」
「でしょう? 秋も秋で風情があるんだ」
「いつかまた、秋にお邪魔したいです」
そのときまで生きていられるか定かでないけれど。
グリーングラスの呪われた血がいつ牙を剥くやら。どうせならあと何年と分かるようにしてくれればよかったのに。
晩餐はそのあと山盛りの天ぷらと寿司が運ばれてきた。空ければ注がれる日本酒にどんどん酔わされて、デザートのかき氷を食べ終える頃にはベロベロに酔っ払ったパンジー・パーキンソンがくらくらと頭の軌道で円を描いていた。翌朝には薬草畑の見学が控えている。みんな早々に寝室へ送られたものの、ダフネは縁側に腰掛けて夜空を見上げていた。
イギリスと同じであるはずなのに、不思議と情緒を感じる。
人生初のホームステイで浮き足立っているとでもいうのか。
それにしても。早く寝ないといけないのは分かっているが、まさか枕があわないとは。自分の虚弱でなく繊細な一面を発見できたのは愉快だけれど、別にこんなタイミングでなくともと思う。
ああ、水が欲しい……そう思ったとき、背後で襖の開く音がした。
「はあ……やっと寝てくれた……」
白い肌を耳まで真っ赤にしたスミレだった。
日本酒で酔いつぶれたパンジーの介抱からようやく自由になったらしい。
「お疲れ様。すごいでしょう、あの酒癖」
「知らなかった……あんなに強烈だなんて」
「御両親がいたら自制心が働くんだけどね。今日は美味しいお料理ばかりだったから」
「楽しんで貰えたならよかったです」
フラフラと覚束ない足取りでスミレはダフネの隣に座った。
ショートパンツの裾から伸びる真っ白な素足をぷらぷらと揺らす。
「心臓が爆発しそうでした。理性が危うかった」
自分で台詞の意味をよく考えて欲しいものだ。
「牙、伸びてるよ」
「だ、だって、あんなにうなじが綺麗で……」
「薬あるんでしょう? ちゃんと飲みなよ」
淡い水色の鎮静剤で吸血衝動を抑制していることはダフネも知っている。
入学した当初は毎日のように服用していた鎮静剤も、最近は月に一度か二度で済むくらいまで落ち着いてきている。
真夜中という時間帯に加え満月で高められた魔力の影響もあるだろう。
不本意とはいえ歴とした生理現象なのだから適切に処理するしかないのだ。
「もう少し。あと少しだけ、この余韻に浸りたいんです」
「つい興奮して私の首筋に噛みついたりしないでね」
「またまたご冗談を。女性の吸血鬼が襲うのは男性だけですよ」
「なら真っ直ぐアーネストのところへ行けばいいのに。彼、包容力はある方よ」
本能が猛烈に生き血を欲して自分の元へ現れた。
語るに落ちるとはこのことだろう。ダフネは真っ直ぐにスミレを見据えた。
「スミレはパンジーのことが好きなんでしょう」
「綺麗な子だな、とは思います。でもそれは憧れであって」
「じゃあ聞き方を変える。パンジーはお嬢様らしい?」
「それは、あまり……姉さんほどではないですけど」
「そう。お嬢様らしくない。それじゃあ私たち純血一族の社会では
負けん気が強く、行動的。常に主導権を握っていたい。逆にスミレのような他人を利用する狡猾さや、アザミのようにコッソリ計画を推し進めるのは苦手。思慮深さに欠け、自己主張が強い。そうした個性は貴族の世界では許容されない。そんな個性の持ち主であるパンジー・パーキンソンの交際相手は、よりによってイギリスで最も貴族的な男の息子だ。交際が進展する前にマルフォイ氏が介入するのは目に見えている。
「勝ち目はある。奪っちゃいなよ。スミレは我儘なんだから」
「そんな、女同士で、奪うとかそういうのは……」
「上流階級では少数派。でも魔法使いにとってはありふれたコト」
「違うんです。日本で同性っていうのは、とても、珍しくて」
あれも異文化、それも異文化、ならばこれも異文化。
魔法使いとマグルの分化が『無い』ならばそれが自然だ。
予想外の、しかし予想して然るべき壁に、ダフネは怯む。
「どうすればいいんでしょう。本当に私がパンジーを好きだったとして」
「あれだけ学校で好き勝手しておいて気にするようなことか!」
あまりの自覚のなさについ声を荒げてしまった。
すぐにトーンを落としながらも、ぐいとスミレに詰め寄る。
「自分の気持ちに気付いてあげなよ。それはスミレにしか出来ないこと」
「気付いてしまったら、引き返せない。ダフネにはなんの責任も……」
「いいよ。責任取って、私も吸血鬼になってあげる」
「なろうと思ってなれるワケじゃ――」
「だからスミレに私の血を全部あげる」
踏み出せないと言うのなら、こっちから踏み込んでやる。
ダフネはスミレの頭を抱きかかえるように腕を回し、牙が皮膚を食い破る寸前まで抱きしめる。熱い吐息を肌に感じながら耳元へ囁きかける。
「グリーングラスは代々短命の血筋。私もあと何年生きられるか分からない。だから、死ぬ恐怖に怯えるよりも、死ねない恐怖の方がずっといい。もしスミレがパンジーを奪わないなら、私が貴女を奪う。貴女に私を奪わせる」
少し大胆すぎたか。感情の赴くままに突き進んで、ふと我に返る。
ペタペタという足音が急速に理性を呼び戻す。このままでは誤解を招くのではと焦りを覚えたが、寝間着姿のアーニーは「ふぅん……あれ?」と完全に寝ぼけていた。
「芝居の練習中に失礼。僕の客間はどこだったか、道に迷って……」
「……広すぎますからね。ご案内しましょう」
目元に浮かんだ涙を腕で拭き取りながら、スミレは逃げるようにその場を去った。
再び静寂に包まれる縁側でダフネは自分の両手をじっと見つめる。
いつもなるべく一歩下がって、何事にも深入りを避けてきた。そんな自分がどうしてあそこまでスミレを焚きつけたのか。二年生のとき味わう羽目になった恐怖への意趣返しか。それとも普段のとぼけた言動に振り回されてきた腹いせか。考えを巡らせてみるが、最もあり得そうな説はやはり一つだけだった。
望まぬ失恋に涙する幼馴染みを見たくなかったのだ。