自分はパンジー・パーキンソンを好いているのだろうか。
月夜の縁側でダフネに突き付けられた言葉が脳裏に木霊する。
いつも自信に満ち溢れて、堂々として、凜々しい雰囲気の美人。けれどときどき見せるあどけない表情がとても可愛らしい。いつもぼんやりとした自分にとって憧れの対象で、羨ましいという感情を向けているつもりだった。あの瞳に見つめられると心臓が高鳴るのは、あの唇に名前を呼ばれ血液が沸騰するのは、きっと
それでも朝が来れば腹は減る。
麦飯に味噌汁と炙っためざしを二匹。漬け物に
文句の付け所がない完璧な朝餉だ。
見栄えはさておき食べれば美味しい。腹持ちもいいし栄養もある。
午前中はシキミ翁と薬草畑を周りながら講義を受ける。
平易と言い難いながら、薬草学と魔法薬学のレポート課題に即した内容を語ってくれた。
堅苦しい勉強は午前中だけ。
一通り講義が終われば昼食に素麺を啜る。
麺つゆに刻みネギ、おろし生姜、せんぎり茗荷、白ごまに天かす、あとは梅干しのおにぎりをわんさか。
食後にはスミレとアザミの案内で屋敷を散策。本棚で埋め尽くされたスミレので読めるはずもない小説と睨めっこを繰り広げ、意外と整理整頓されていないアザミの部屋では軽音学部で身に付けたというギター演奏のテクニックを披露して貰った。ちなみにパンジー曰くアザミのエレキは「不思議な音色ねえ」らしく、ダフネの翻訳を挟まずとも「下手クソ」と理解出来るレベルなのだった。
他の部屋はさほど面白くもない。
というより空き部屋の方が多い。
三時のおやつに冷凍バナナを囓り、部活動やアルバイトを終えたアザミとスミレの従兄たちが返ってくる度に挨拶をして。みなイギリスから来た客人に好奇心を刺激されたようで。辿々しい英語能力を振り絞ったり、あるいはヤケクソにアバウトすぎる単語レベルのコミュニケーションを図ったり、少し笑える一幕があった。
夕方になると初日より幾らか人数を増しての晩餐が始まる。二日目は地元の中華料理店に注文した出前が並んだ。麻婆豆腐、焼き餃子、回鍋肉、青椒肉絲、海老焼売……メニューはごくありふれているが万人受けする味には違いない。幸い、昨日の大泥酔があって未成年にビールが振る舞われることはなかった。
その席でシキミ翁はアズカバンの脱獄騒動について切り出した。
「例の囚人一件な、ありゃ無事解決したのかい」
「はいお祖父様。アザミさんとスミレさんの活躍ですべて円満に」
その言葉にシキミ翁はニコリと笑う。
どこか蛇を彷彿とさせる表情だった。
「面白い言い回しだ。すべて円満とはまた、なかなか含みのある」
「事件は色々な出来事が複雑に絡み合っていたんです。どれも個々としては単純でしたけれど。そのせいで結ばれるべき点と点がつながりませんでした」
「しかしホグワーツにはあの男がいる。アルバス・ダンブルドアが。儂もよう知っとるぞ、千里眼でも持っとるんじゃあないかというくらい、この世のすべてを見通す魔法使いだ」
黒曜石を思わせる大きな瞳で真っ直ぐシキミ翁の微笑を見つめ返す。他に名乗りを挙げる者がおらずパンジーが一人で事件の発端から顛末までを話した。ダフネは口を挟もうにも睡眠不足から気力が湧かず、ミリセントはこのシキミ翁が殊の外にパンジーを気に入っていることを察して引き下がった。アーネストは緊張のあまり舌が硬直してしまっていた。
アザミは叱責を覚悟していた。何十と校則を破り、しかも祝いの品に贈られた『透明マント』を悪用して城を抜け出したのだから。パンジーもハッキリと名言こそしなかったが、マントの贈り主は他でも無いシキミ翁だ。気付かれるに決まっている。お小言くらい頂戴すればいいという意地悪だった。
だが当のお祖父様は至極満悦の顔だった。
「そうかそうか! あのマントは役に立ったか! なら贈った甲斐もあるわい!」
このリアクションは全員が予想していなかった。
とりわけパンジーはまったく意表を突かれた。
「アレをどんな風に使ってくれるかと楽しみにしとったんだ。いやまったく、期待を裏切られて笑いが止まらん!」
「校則とか色々やったことはいいのかよ」
「おう、ええぞ。真面目腐って行儀良くしとるよりか、少しやんちゃくらいのが年相応というものよ」
ダフネは
小さなガラスコップのビールを一口飲んでツバキが「それはそうとさ」と言った。
「スリザリンって寮の受け持ちはスネイプ先生なんだろう?」
「寮ごとに世話役の先生が付いてなさるんだったか? 近頃はどうも忘れっぽくなった」
「イヤですわお父さん、物忘れなんて若い頃からしょっちゅうじゃありませんか」
「お姉様の仰る通りスリザリンの寮監はセブルス・スネイプ教授ですわ」
「なんで自分トコの寮……監? の先生に話さなかったんだ」
最後の最後でバブリング教授を頼ったのが気になるようだった。
「パンジーが喋った通りだよ。スネイプ教授は特にルーピン教授やハリー・ポッターを敵視してて……あのときは理由まで分からなかったけど、とにかく仲裁をお願いするのはマズいってコトでバブリング教授に」
「新任のナントカ文字の先生な。副校長じゃダメだったのか」
「…………あの先生に洗いざらい話しても信じて貰えるか微妙な気がした。それに古代ルーン文字学の先生は私のこともスミレのこともよくしてくれてたし」
つう、とツバキの真っ黒な目が細まった。虫の居所が悪いときのスミレとそっくりで、歳の離れた姉妹にしては不気味なほど仕草が似ている。
「バスシバっつうのはアレだろう。ショウブの文通相手の。ホレ、覚えとらんかツバキ」
「どうだろ。いたっけそんな女」
ツバキはガラスコップに半分ほど残ったビールをグビりと飲み干した。そのまま焼き豚のテラテラとした香ばしいタレに目玉焼きをひたし、一口に頬張る。茶色いビール瓶を傾けてコップへ注ぐ動作は完全に身体に馴染んだものだった。
そんな様子に山吹婦人はコロコロと笑った。
山のように盛られた炒飯も、皿から溢れそうなほどの海老チリも、何人前か分からないくらいの唐揚げも見事に平らげたあと。みなで庭先から地元の花火大会を見物して眠りに就いた。打ち上げ花火それそのものは魔法使いにも馴染み深いけれど、火薬玉の一つ一つから慎重に慎重を重ねて作り上げ、それらを徹底的に計算して配置するのに費やされる時間と労力、そして打ち上げれば一瞬だけ夜空に浮かぶ美しい光の
翌朝は塩むすびに卵焼きとソーセージが並んだ。
この日も畑に出て毒性のある薬草はどの部位を特に注意すべきかについてや、魔法薬を煎じるときに刻むのが良いか潰すのがよいか、微に入り細を穿ってレクチャーを受けた。
昼食は色とりどりの漬け物と冷し茶漬けだった。
梅干し、野沢菜、お新香、浅漬け、糠漬け、それに辛子明太子まで。どれもこれもスミレの好物だった。いつまで食べるのだろうと心配になるくらいお茶漬けと漬け物を貪ったが、少食なのではなく偏食の大食らいだから本来はこんなものである。
昼下がりから大慌てで支度を始め、なんとか夕暮れ前に終わった浴衣の着付けに山吹婦人は大満足の表情だった。
「どうです! やっぱり縁日へ行くならこのくらいしないと!」
「母さん気合い入ってんなぁ。時間掛けまくりじゃん」
「もちろんです! 生まれ育った国は違えど女の子ですもの!」
パンジーもミリセントもダフネも、アーネストも生まれて初めての和装である。
キュッと締まった帯の感触とは裏腹に蒸し暑さの不快感を忘れる風通しが心地よい。
女子たちはみんなお互いに浴衣姿を披露し合って盛り上がっている。
「この
「それより見なさいよこのアーティスティックで斬新的な白いシルエットのリコリス!」
「あ、ネコ……ここにも」
相変わらずワイシャツとデニムのツバキがアーネストへ目線を送った。
流水の紋様が描かれた浴衣に身を包み、少し気恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「美男ってのはスゲえな。何着てもバッチリ似合う」
「お褒めいただきありがとうございます。こうした服装は経験がなくって」
「だろうな。アタシだってもう何年も着てないんだ」
「やはり現代的な格好がこちらでは主流なのですか?」
「その方が楽だもん。大変だろ、着る度に手伝いがいるのは」
そうなのか、と思ってしまった。マクミランの屋敷にも使用人はいるし、それはパーキンソンもブルストロードもグリーングラスも同様だ。アーネストも自宅では使用人に囲まれて生活している。それを世間の常識と考えたことはなかったけれど。マグルの価値観を先祖代々で魔法使いの一族から聞かされた意外性に驚きを禁じ得なかった。
「スミレなんてプレステやってんだぜ。アザミもアレでテレビっこだし」
「それは何というか……僕の想像力ではまったくイメージ出来ませんね」
「フツーなんだよ二人とも。だからフツーの学校に行かせてやりたかった」
「その『普通』がかけ離れてしまっているとこの数日で思い知りました」
「遠いんだからそんなもんさ。行き来するのに何時間も掛かるんだ」
飄々とした笑みを口元に浮かべ、ツバキはポキポキと首を鳴らした。
掴み所がないというよりも掴み所を見せようとしない雰囲気がある。
「じゃ、折角だしこのまま縁日でも行くか?」
「もうツバキったら。そのために着て貰ったんじゃない」
「母さんのことだから趣味でやってんのかと思った」
山吹夫人はぷうっと頬を膨らませた。
見た目の若々しさよりずっと幼い印象を受ける。むしろツバキの方が落ち着いている分だけ大人びて見える。
しばらくスリザリンの女子三人が浴衣自慢を繰り広げ、ようやくスミレとアザミが着付けを済ませ居間へ戻ってきた。
「何でオレが『薊の花』なんだよ……」
「ふふ、綺麗な『菫の花』でしょう?」
黒地に派手な薊の花が一輪。
白地に咲き乱れる菫の花畑。
照れくさそうに目を伏せるアザミと、恥ずかしげに蕩けた目をしたスミレ。
アーネストは発せられる言葉をすべて忘れてしまった。長い髪を結い上げて露わになったうなじが眩しい。
集った視線から逃れるように袖で口元を隠すとさらに語彙が崩壊していった。
特別な衣装に特別な旅行、そして特別な感情が、体中を巡る血を燃え上がらせる。
縁日の会場は屋敷から少しばかり歩いたところにあった。広々とした空き地に屋台がひしめきあって、そこかしこから油と肉の香ばしい匂いが漂ってきたり、人々の賑やかな声が重なり合って聞こえてくる。ツバキは「父さんからの預かり物だ」と全員に巾着を手渡した。中からはチャリチャリとコインの音がしてズシリと重い。
「欲しいモンがあったらそれで払うんだ。慣れてるだろ」
そう言われて巾着の中身が日本の硬貨なのだと気づけた。
さらにもう一つ気づくことがあったのはミリセントだった。
「ツバキさんのお父様って、まさかシキミさん?」
「うん」
「ヤマブキさんとご夫婦でいらっしゃる」
「もちろん」
「どういうコトよ。私にも分かるように説明して」
「バカねアンタ。この人がスミレのお母様よ」
「すぐバレると思ったんだけどなあ」
カラカラと笑いながら青い缶のコーラを開ける。器用に片手だけでプルタブを開き、ゴクゴクと飲みながら混乱するみんなを眺めて面白がっている。こういうところはアザミのようでもあるし、笑った顔はスミレのようでもあるから、不思議な女性には違いなかった。
「じゃあ母さんこっちの面倒見るから、スミレその子と行ってきな」
有無を言わさずアーネストを押しつけられ、スミレは目を白黒させた。
「え? ええっ? なんで?」
「彼氏連れて来たの自分じゃん」
「えええっ?」
「そんじゃ行ってらっしゃい」
手を振って無理矢理に送り出されてしまった。正確にはツバキが女子三人を連れてさっさとその場を離れてしまったのだが、この上なく気まずいスミレと目のやり場のないアーネストだけが残される結果はどうあれ同じことだった。人混みの中へ躊躇うことなく踏み出そうとするアーネストの手をスミレが掴んだ。
「こうして行きましょう。迷子になっては大変です」
たった一言「そうだね」とか「ありがとう」と言うのも多大な労力を費やした。
顔中の筋肉がひどく強張っているのだ。掌に伝わるひやりと冷たい感触。スミレの小さな手に握りしめられているという意識が、ますます冷静になれという自己暗示ばかり強めて余計に判断力を奪っていった。
出店は何でも売っていた。ソース焼きそば、フランクフルト、タコ焼き、イカ焼きにリンゴ飴、チョコバナナ、かき氷、綿飴、おでん、サザエの壺焼きやホルモン焼きもあった。スミレは一つ一つアーネストに紹介していく。どれもこれも珍しいどころか初めて目にするものばかりでつい巾着の紐が緩みそうになる。
スミレは自分の分にラムネ瓶を買って、アーネストにも何か飲み物を勧めた。
「炭酸がお好きでしたらファンタもありますし、そうでなければバヤリースをどうぞ」
「その『ファンタ』とか『バヤリース』というのはどんな味がするのかな」
「前者がブドウ味、後者がオレンジ味です」
好奇心に負けたアーネストはブドウ風の炭酸ジュースに舌を痺れさせた。
儀式めいた作法でラムネ瓶の栓を開けるスミレもミステリアスで可愛らしい。
「お腹を膨らませるなら焼きそばとかタコ焼きですね。アーネストさんはキドニーパイ、お好きでしたっけ」
「クリスマス休暇にはいつも祖母の手作りを楽しみにしているんだ。少し香辛料を効かせるのが秘訣なのだそうだよ」
「でしたらホルモン焼きもお口にあうでしょうね」
そう言いつつラムネ瓶を傾ける。ホグワーツでの物静かな雰囲気からは想像できないが、遊び慣れているのが一目で分かった。
「アオイさんが気になる屋台はどれだい? そっちから先に回ろう」
「かき氷は最後で大丈夫です。ああ……シャーベットみたいなものですよ」
グイグイと手を引いて引かれて出店を巡る二人。
赤い提灯が無数に吊された下で人混みを縫うように歩く。
スピーカーが垂れ流すひび割れた祭り囃子と、少し焦げたフランクフルトを囓りながら、ツバキは薄笑いを浮かべていた。アザミは山盛りにも程がある焼きそばと格闘していた。すぐ目の前にある射的屋で遊ぶ三人を眺めつつツバキは呟く。
「スミレも彼氏が出来るようなトシかあ」
「もう十六歳になりますからね」
「遅いくらいだぞ。アタシは十四のときだった」
「ツバキさんモテたんですね」
然もありなんとは思う。堅物で気の短い自分の父親と比べるまでもなく、いつも悠然と構えてどこか儚げな雰囲気を漂わせる美女なんて、いくらでも男をその気にさせる。まして距離感さえ曖昧なこの佇まいでは錯覚するなという方が無理な相談だろう。
「モテたモテた。バレンタインにはチョコどっさりでさ、ホント困ったよ」
「渡すんじゃなくて貰う方だったんですか?」
「共学はフツーに女子から男子だろうけど、アタシ中高で女子校だもん」
「へー。そーゆーモンなんですか」
聞きたくない話を聞かされてしまった。身に覚えがないではないから余計にキツいものがある。自分もそういえば同性からチョコレートを受け取ることがなんどかあったけれど、そのときは「いまは女同士で贈りあうパターンもあるのか」と流行に疎いつもりでいた。アレはやはりそういう意味であったのだ。
知りたくなかった。叔母はそこから交際まで進んでいたなんて。
いよいよどうして結婚できたのやら想像もつかない。
「あの
「……………恋愛感情があるのかさえ分からないレベルですよ」
「ないない。それはない。アタシの娘だぞ」
「何を根拠にそんなこと……」
ますます焼きそばの減るペースが落ちていく。申し訳程度にキャベツが入っているだけで大量の青のりと紅ショウガでどうにかかき込める代物だ。そこへ流れるようなシルバーブロンドの女性が使い捨てのトレーへ焼き鳥をこれでもかと盛りつけて運んできた。
「おいツバキ、いつウチの出店にツラ出すんだよ!」
「っせェな。お守り中に食ったら酒欲しくなんだろ」
アザミは咄嗟に焼きそばを口へ押し込めることで会釈だけで済ませた。
モモ、ムネ、ズリ、ココロ、カワ、レバーが何本も載ったトレーを受け取りながらツバキは口を歪めた。高校時代の旧友相手にはガサツな一面を隠そうともしない。
「オメエの娘もうお守りなんてトシじゃねえだろ」
「違えよ、そのダチがいまウチに来てるっつうんだ」
「え、あの子イギリスのガッコじゃねえの?」
「だからイギリスのイイとこの子が来てんの」
「だったらオメーちゃんとアタシのコトも紹介しろよォ!」
「どう言やいいんだよ。高校時代のダチなんか向こうもメーワクだろ」
もう五年も居候していれば身内のようなものには違いないし、さりとて友人の母親の友人なんていきなり紹介されても困るのはその通りで。やたらとギトつく焼きそばの油もすっかり気にならなくなってきた。こんなことなら何か飲み物も買っておけば。後悔したときにはいつだって手遅れで、役に立つことなどなにもないのだった。
女性は鉢巻きを締め直してエプロンのポケットから缶チューハイを取り出した。
「オラ、差し入れ」
「酒ダメなんだって」
そこはキッチリ断るツバキ。ちょっと尊敬するモノがあった。
女性は「人の好意をよー」と不貞腐れながらフタを開け、中身を一口飲んだ。
まだレモンチューハイがほとんど残った缶をツバキへ押しつける。
「あとで返しに来いよ」
「いちいち面倒クセえな」
口振りは腹立たしげでも顔は苦笑いだった。
背中を見せながらヒラヒラと手を振り女性は雑踏に消える。
自分は何を見せられたのだろう。アザミは手を動かすのを完全に忘れている。
視線に気付いたツバキは目を逸らしたまま「スミレには言うなよ」と囁いた。