ホグワーツの城にも、校庭にも、深々と雪が降り積もっていた。
ハグリッドの森番小屋は粉砂糖を振りかけたジンジャーブレッドのようで、ボーバトンの青い馬車は雪化粧で氷のカボチャに見えた。ダームストラングの船窓は氷で曇り、帆やロープは真っ白な霜で覆われていた。御伽噺の世界に迷い込んだような景色を時計塔から眺め、スミレは右手に絡まったフラーの指の温もりを感じた。
「冬のボーバトンはここよりもっと素敵なの。あの景色をスミレにも……いいえ、スミレと一緒に見るのが今から楽しみ」
「楽しみが尽きませんね。それにはまず第二の試練を乗り越えなければ。今度ばかりは事故がないと良いですが」
「スミレは本当に真面目ね。マクシーム先生にあの森でドラゴンを見せていただいたとき、私が何を考えていたと思う?」
「『結膜炎の呪い』にするか『幻惑呪文』にするか、でしょうか」
「貴方とはじめてのデートはここにしよう」
人目を憚った事なんて一度もなかったけれど。この雪景色を前にして時計塔へ登ろうなんて生徒はホグワーツに一人もいなかった。足りない距離を背伸びして、届かない唇へ膝を屈め、二人はしばらく時間を忘れた。血管を駆け巡る衝動から逃れようとスミレはフラーの熱を貪り、スミレの悶えるような目に見つめられる感覚をフラーも心ゆくまで味わった。
全てが鎮まってからしばらくのち、スミレはようやくあの夜の事を思い出す。
「寿命が縮むかと思いましたよ。夜中に寮を抜け出して、心臓破りの森にドラゴンなんて」
「あんなに驚くとは思わなかったもの。とても可愛らしかったけれど、二回目はナシね」
「ええ、是非ともそうしてください」
腕を絡め合って寄り添いながら、スミレはフラーの瞳を覗き込む。
「一つ、お聞きしても?」
「指輪のサイズについて?」
「それも大事ですけれど。私のどこに惹かれたのか、気になって」
自分が世間的には美人の部類であると自覚はしている。
母親譲りの顔立ちなのだからそれは当然の事として。
アーネストに一目惚れされるまで、異性からも同性からも恋愛感情を向けられたことは一度として無かった。背丈はけして大きくない。身体も……育ったとはいえ、フラーをはじめボーバトンの生徒たちに比べればずっと見劣りする。果たして自分のどこに魅力を感じたのか、ずっと気懸かりだった。
「両手の指では足りないわ。スミレのも借りていいかしら」
「……恥ずかしいので、一番の理由だけでお願いします」
「招待状を受け取ったとき。貴女どう思った?」
「こんな時間に挑戦状なんて……と呆れました」
「ビックリしたのよ? 決闘するつもりだったでしょう」
スミレは『炎のゴブレットが認めた』という意味の重さを知らない。
あの仏蘭西女を叩きのめしてやる、と珍しく闘争心を発揮した。
だがフラーはそれこそが嬉しかったと言う。
「私の
それこそが自然の摂理であると言わんばかりに自画自賛を展開する。
恋人の自己肯定感の強さは惚れ惚れするが、これは嫌われるだろうな、とも思う。
寮内での致命的な孤立を避けようと自己主張を控えたスミレとは対称的だ。
絶対的な『自己』を確立していれば周囲の目など取るに足らない。
それはそれとして、着飾った姿だけしか知って貰えない淋しさも、あったのだろう。
ダイヤモンドの如く輝かしい才能も、黄金の如く心を惑わす美貌も、確かにフラー・デラクールの備える要素ではあるけれど。それらを剥ぎ取ったとき現れる等身大の自分へ触れてくれたスミレが「良い」のだと言う。
「それにスミレの『素顔』があまりに可愛らしくって。つい独り占めしたくなったの」
「……アレがファーストキスだったんですよ。予想外のシチュエーションです」
「私たちに
「それはもちろん。私も周りを驚かせるのは嫌いじゃありませんよ」
まずは今宵のダンス・パーティで見せつけてやろう――期待に胸を弾ませ、絡み合った指から伝わる体温の高まりが望むまま……。
†
午後八時。クリスマス・ダンス・パーティーの開始時刻になる。
大広間の門が開け放たれ、参加者のうち一般生徒から先に通される。
代表選手とそのパートナーは控え室で待機していた。ビクトール・クラムはダークグレーの民族衣装の上から真紅のローブを羽織り、セドリックとハリーは格式ある黒の燕尾服をカッチリと着込んでいた。ダフネは薄化粧だけでも見違えるほど美人で、エメラルドグリーンのドレスの上から純白のボレロを羽織っている。
相変わらず口数は少ないが、ハリーは今だけはその方が有り難かった。
緊張で何も考えられないうえ下手に喋っていると口から胃が飛び出そうだ。
燃えるように赤いドレスと白い冬牡丹の髪飾りはチョウの美しさをますます引き立てているし、純銀で編んだようなホワイトシルバーのドレスはフラー・デラクールの為だけに存在するように思えた。フラーと和やかに談笑中のスミレは重厚感ある真っ黒な和服で、水彩画のヴァイオレットの花が咲いている。
クラムと一緒にいる女の子は見覚えがない。サファイアブルーのドレスにシニョンを編んだ姿は、ハリーの記憶にあるどのホグワーツとの生徒とも一致しなかった。
控え室の片隅でずっと黙っていたダフネがポツリと囁くように言った。
「……まさかハーマイオニーがクラムを射止めるとは」
「スニッチが『
自分でも言葉の意味がサッパリ分からなかった。それはダフネも同じで、「何ソレ」と困ったように苦笑いを見せた。
「ダフネ、僕にどこかおかしなところはない?」
「大丈夫。鼻はちゃんと顔の中心に座ってる」
そんな事は分かりきっているハズなのにハリーもおかしくなって笑った。
ダフネにいつもより緊張しているのか、慣れない冗談を言おうとしたらしい。
ハーマイオニーが真っ先に二人へ声を掛けた。クラムは程良くリラックスしているようだったが、やはり小さく会釈するだけで言葉を発する事はなかった。
「二人とも素敵な服ね。とてもよく似合ってる」
「ハーマイオニーこそ。素敵すぎて、一瞬気づけなかった」
「金のスニッチより可愛らしいドレスね」
それは一体どういう意味よ、と適切な反応を選びかねているハーマイオニーの隣でクラムはこれ以上ないくらい大きく頷いた。シーカーならではの褒め言葉らしい。そんな文化があるなんてダフネもハリーもいま初めて知った。
控え室の扉が開くといよいよ代表選手の入場が始まった。
拍手喝采を通路の両側から浴びつつ五組のペアが大広間の真ん中を進む。
クラムのファンたちはみんなハーマイオニーへの嫉妬と敗北感に激しく手を叩き、ハリーと腕を組んだダフネの姿にはドラコとパンジーも言葉を失っていた。
着物姿のスミレは一際に度肝を抜いたらしく、自信満々のフラーと交互に目で追う男子生徒が少なくない。ロンなんてハーマイオニーを見ればいいやらスミレに驚けばいいやらフラーに見蕩れればいいやら自分でも分からなくなって、ロミルダ・ベインに足を踏まれていた。
大広間の一番奥には審査員と来賓が揃っていて、みな魔法の氷で出来たテーブルを囲うように座っている。そこにクラウチ氏の姿はなく、彼の部下であるパーシー・ウィーズリーが上司にプロポーズでもされたような誇らしげな表情で行儀良くしていた。何より驚いたのはシリウスが来賓席でハリーにウインクした事だった。彼以上に礼服を着こなせる人間はこの世にいないと確信できる完璧さで、色の白い年齢不詳の女性と一緒に座っている。大輪の椿が咲いた和服のおかげでスミレの母親だと察せられた。
ハリーとダフネは迷うことなくシリウスのいる貴賓席に座った。
豊かな黒い髪を白いリボンで束ねた姿は本物の貴族のようにハンサムだ。
「よく似合ってるよハリー」
その一言があればこれ以上なく勇気が湧いてくる。みるみる緊張が解れていくのをハリーは全身で感じた。
スミレの母親はツバキと名乗り、第一の試練を突破したことを祝ってくれた。
「ドラゴンとの対決、感動しましたポッターさん。十四歳であの精神力と発想力があれば将来は約束されたも同然でしょう」
「無論ですマダム・カメリア。優勝杯を手にするのはこのハリーだと私は確信しています」
「スミレもあれで意地っぱりな子です。恋人が出来てますます舞い上がっているようですし」
我が子を自慢しあう保護者たちにハリーはむず痒さを覚えた。
ツバキ婦人とダフネは既に面識があり、四年生になる前の夏休みにホームステイさせて貰ったことを話した。
「あれほど立派な薬草畑はイギリスでもそうありません。広さもそうですし、栽培されている品種もどれも稀少でしたし」
「シキミが聞けば喜ぶでしょうね。ただ、あまり本人の前では言わない方がよろしいですよ。嫁入りしないかとしつこいですから」
オーバーオールに厚手の手袋を嵌めて薬草の世話をしているダフネを想像し、危うく吹き出しそうになった。それを言うならフラーだってまったく似合っていない。むしろ泥と汗に不満を爆発させているだろう。ダフネはホームステイ中にツバキ夫人にからかわれたことを思いだし、こみ上げてくる笑いを堪えながら話した。
「ツバキおば様、はじめはスミレの姉君を名乗られたのよ。私たちみんなてっきりそうなんだと騙されちゃって。スミレもアザミも教えてくれないし」
「ちょっとしたジョークのつもりでしたけれど。つまらない悪戯が好きなのは両親に似てしまったのでしょうね」
「人生を豊かにする秘訣ですよマダム。ユーモアのない人生など、無味乾燥としている。私など学生時代、親友と数え切れないほど冗談を言い合ったものです」
「ええ、まったく、ブラックさんの仰る通り。人生は楽しんでこそ。愉快なジョークと美味しいお酒ほど人生に欠かせないものはありませんわ」
シリウスとツバキ婦人はすっかり意気投合している。
二人はハリーとダフネにメニューを手渡し、好きなものを頼むよう勧めた。
ウェイターの姿は見当たらない。テーブルの上には空の金色の皿が置かれている。
どうやって注文すればいいのかまったく分からず、顔を見合わせたあと他のテーブルへ目を向けるとショウブ博士とバブリングが堅苦しい雰囲気の中で「マスのソテー」と「チキン・カトレータ」と言った。すると皿の上に注文した料理が現れたのだ。
ハリーはパプリカと牛肉のグヤーシュ・シチューを、ダフネはサーモンとアボカドのノルウェー・サラダを選んだ。シリウスはバブリングが男性と一緒にいることに驚きを隠せず、ツバキ婦人が二人は学生時代に文通していたと説明した。教授の意外な交友関係を知って、ハリーはますますあの女性が謎めいた存在に思えてきた。
「ハリー、『三本の箒』はもちろん行ったと思うが『ホッグズ・ヘッド』はどうかね? 店は少しボロいしバーテンは無愛想だが、あそこのイノシシのステーキは格別だよ」
去年はバーノンおじさんが頑なに外出許可証にサインしてくれず、堂々とホグズミード村へ行けなかった。もしウッカリその事をバラしてしまったらきっとシリウスは激怒してプリベット通り四番地へ押し掛けるに決まっている。透明マントを使って、という部分は言わずに「バタービール、最高でした」と答えた。
「意外とシングル・モルトも面白い銘柄が多いんだが、そちらは卒業後の楽しみに取っておこう」
ホグズミード村のどこに何があるか、シリウスの頭の中には完璧な地図が存在していた。
ハリーはもちろんダフネもツバキ婦人もその話に聞き入った。スミレの母親と言うからさぞ食が細いのかとばかり思っていたが、婦人は数ポンドはありそうなコート・ド・ブッフを苦も無く完食してのけた。
間もなくフリットウィック教授率いる音楽隊により演奏が始まった。
そこにはルーナのほか双子のカロー姉妹もいて、見事に優雅なワルツの音色を奏でている。
ダフネに手を引くよう無言で促されてハリーはその通りエスコートの大役をこなした。
ダンスホールへ出るともう他に役目があるのかというくらい疲労感が押し寄せてきたが、ダフネはやはり言葉一つ発する事無くハリーの両手を掴み、片方を自分の腰へ回し、もう片方をしっかり握り締めた。
「落ち着いて。クァッフルよりずっと遅いでしょう」
そう言われると確かにその通りで、クルミ割り人形か白鳥の湖か定かでないスローテンポな音楽にあわせ、ダフネの指示する方の足を半歩ほど前に出したり、ときどきゆっくりとターンを挟めばそれで良かった。基本の動きに慣れてくると周囲の様子へ目を向ける余裕も出て来た。
観客のほとんどはクラムとフラーに注目していて、あの無骨で無愛想な猫背姿が嘘のように華々しいスターの姿を取り戻していた。スミレは雪の妖精か冬の女王を思わせるフラーに赤面して爆発寸前の状態だった。一曲目、二曲目と演奏が終わり、三曲目が始まると観客も続々とダンスフロアへ出て来た。
ホグワーツもボーバトンもダームストラングもみんなワルツにあわせて踊り始める。
黒い詰め襟姿のドラコは教会の牧師のようだったし、パンジーの淡いピンク色ドレスはフリルたっぷりなのに妙に似合っている。
ダフネはお気に入りの曲が流れると目を閉じてうっとりしているようだった。
想像していたよりずっと苦痛じゃないな、というのが正直な感想である。
それは面白いペアを見つけると必ずダフネが教えてくれるのも大きい。
「ミリセントめ、ロジャー・ディビースはやり過ぎよ」
「ロジャー・ディビースってあの? 監督生で主席でキャプテンの?」
「どうやって口説き落としたんだか。得意のヘッドロック?」
「きっと要領がいいんだよ。ロジャーはショートカットが得意だから」
「あんなに大きいスニッチじゃすぐに試合が終わるわ」
笑い声が出そうなほど辛辣にダフネは幼馴染みを斬った。
四年生と七年生で年齢差はあるが、体格で言えばミリセントが少し小柄な程度。黒にゴールドの刺繍が入ったドレスも相まって見た目にはお似合いのペアだ。それにしてもどんな魔法を使って成立させたのかは謎めいている。
学生音楽隊の演奏が終わると『妖女シスターズ』と交代するまでしばし休憩が挟まった。
入口近くに置かれたテーブルでバタービールの栓を抜きながら、ダフネは疲れた様子で適当な椅子へ腰掛けた。
その隣ではハリーへ熱っぽい視線を送るロミルダと、草臥れた表情のロンが並んでいた。
「やあロン、楽しんでる?」
「お陰様で。ドブネズミをゴブレットに変えるよりは愉快だね」
フルーツパンチを氷のゴブレットでグビグビやっているロンは、夫婦生活に疲れた果てたサラリーマンのような哀愁が漂っている。ハリーはもしやビールでも入っているのではと思って容器を覗き込んだがアルコールの香りはしてこなかった。
「ハーマイオニーのヤツ化けてくれたよな」
「それ本人の前で言うのはやめなさいよ」
「言うモンか。磔の呪文の練習台になる予定もないし」
「スミレのお姉さんは見た? シリウスと踊ってた」
「へぇ、あの人がそうなんだ。何歳なんだろ。全然分からないや」
繰り返されるドッキリにあっさりロンは引っ掛かった。
肩を揺すって笑うダフネに首を傾げ、もう踊り疲れたと靴紐を解き始める。
実際、あり得ないと分かっていても二十代ですら信憑性がある。
「驚いたって言えばハリーもだ。まさかグリーングラスと組むなんてさ」
「それはまあ、最初から狙ってたし」
思いもしない一言にハリーとロンが目を見開いたのと同時。
再び大広間の扉が重々しく開かれた。その音にダンスホール中の視線が集る。
一番近くにいた四人も何だろうと振り返って、ロンの手からゴブレットが滑り落ちる。
逆光を背負いながら現れたフラー・デラクールとアオイ・スミレ。
代表選手の入場時に身に付けていた衣装から、まったくお揃いの『夜に降る雪と、ヴァイオレットの花』を描いた振り袖へ着替えてダンスホールへ舞い戻ったのだ。
奇妙な幾何学模様を重ね合わせたイヤリングまで付けて。
三角形の中に収まった円と、それを等分する中心線。ハリーはもちろんのこと、ダフネもロンも紋章が意味するところは知らなかった。
「なんだい君たち。結婚報告でもするの?」
呆然としながら冗談を忘れないロンにフラーが微笑んだ。
スミレは恥ずかしそうに袖で顔を隠した。耳はさっきより真っ赤だ。
言葉は不要だった。ロンは危うく椅子から滑り落ちそうになる。
その仲睦まじさと美しさに大喝采が湧く中、ハリーは一つだけ異なる視線に気付いた。
ダンスホールの注目を一瞬で攫ったことに鼻を高くするフラーと、照れるあまりその背後へ逃げ込むスミレ。そんな二人を見るビクトール・クラムの表情はどこか険しく、グラスを持つ手は微かに震えて見えるのだった。