ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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わたしの胸から“ネガティヴ”という 黒い文字を消去して

 四大魔法学校対抗試合、最後の試練が告知された。

 期末考査最終日の午後六時から競技開始となる。

 第一の試練から記事を掲載してきた『ザ・クィブラー』特別号もついに最終刊となった。日刊予言者新聞が次第に選手個人のスキャンダルに傾き、ついに連載がストップした為に事実上、報道を独占した形である。その晴々しいフィナーレについて、アザミは風変わりな中年の魔女から詰問を受けていた。

 女はドローレス・ジェーン・アンブリッジと名乗り、魔法省大臣の上級補佐官である事を告げた。自身の権力を最大限に活用せずにおられないバグマンの同類と見做し、アザミの目は冷ややかなモノになる。

 

「で、その上級補佐官のアンブリッジさんがオレみたいなただの学生に何のご用でしょう」

 

 肩書を敬いはしても立場は尊重はしない。

 不遜の気配を隠そうとしない露骨な態度に上級補佐官の作り笑いはますます粘性を増した。全身パステルピンクのコーディネートも相まってアザミの感性が拒否反応を示す。見ているだけで視力に障るような気がしてきた……自分の親族がこんな格好で授業参観に来たらもう死ぬしかなくなる。そのくらい酷いセンスだった。

 上級補佐官は「エヘン」と甘ったるい声でわざとらしく咳払いをし、「用と言う程の事ではありませんのよ? ただ、貴女の新聞で少し気になる点が幾つかありましたの」と作り声を操った。極端に目が近寄っているうえ少し飛び出し気味で瞬きも少ない。丸い輪郭も含めてガマガエルから小さな女の子の声がするようで、ひたすら気色が悪い。

 

「素人学生のお遊びですからね。そりゃあ日刊予言者新聞と比べられたらボロが出ますよ」

 

 分かりきった事を敢えて口にする。会話を途切れさせるような物言いに「そちらの話を聞くつもりはない」との含みを持たせて打ち返したが、上級補佐官はそれがどうしたと言わんばかりにアザミへ数歩近寄った。トゥシューズで爪先立ちするバレエダンサーのような歩法に、アザミは思わず昼食のブルガリア風サラダを吐き出しかけた。

 

「過度に卑屈な態度は感心しませんねミス・アオイ。コーネリウスも貴女の書いた記事には大変興味を持っていましたよ?」

 

「そうですか。そこそこ程度にウケるネタを書いたつもりでしたから、大臣のお気に召したようで安心しました」

 

 とにかく当たり障りなく、愛嬌も素っ気もないリアクションを心掛ける。上級補佐官はどうにか会話の主導権を握ろうと画策している。それは別に構わないのだが、とにかく一挙手一投足が気持ち悪い。電車で同じ車両に乗る事すら拒否したいくらいには嫌悪感が募る。

 さりとて相手は目上で、時間は放課後、何か良い口実が欲しい。ここで都合よくマクゴナガル教授が「変身術の実技の出来について話がある」とでも言って割って入ってくれればどれほど有難いか……しかし現実は虚しく、何故か生徒の一人すら歩いていない。

 

「ですが……私としては、もう少しミスター・ディゴリーの記事に分量を割いても良かったのではないかと、そう感じたのです。もちろんただの感想ですけれど」

 

「無難なヤツですから。アイツに食いつくのはボーバトンの上級生くらいですよ……クラムとポッターほど過去のインタビューでもウケは良くなかった」

 

「真実を報道するのがマスメディアのあるべき姿ではありませんか? 利益至上主義に走り読者の得るべき情報を制限したのでは本来の役目を果たしていると言えるでしょうか?」

 

「学生新聞ですよアレは。そんな高尚なモノじゃありません。四大魔法学校対抗試合の賑やかしになればそれで十分に大成功です……だからカルカロフ校長やマダム・マクシームも付き合って下さったワケで」

 

 教え子の士気を高める事にもなるし、何よりこれは学生間の国際交流という大義名分がある。打倒ホグワーツ、打倒ダンブルドアという野心とは別のところで、親善試合という看板を保つ必要性も理解していた。放課後茶会倶楽部の活動は両校にとっても都合が良かったのだ。あわよくばホグワーツ側の情報漏洩に期待出来るメリットもある。無論、アザミもその点には注意したつもりだが。

 つまるところ。両校の校長たちも公認の「非公式な学生交流」という裏の顔を持つ、ただの遊びなのである。だから賑やかしとして広く支持を集められた現状は大成功と言って良いのだ。それを何故、この魔法省の役人はさも不備があると言いたげなのか。アザミには考える気力が残っていなかった。

 

「例え遊びであったとしても。そこにウソがあってはいけません」

 

「はあ。フラー・デラクールのインタビューは他の選手の四〜五倍はあったので記事にするときかなり削りましたけど、クラムのネタを水増ししてはいませんよ」

 

「では何故、ミスター・ディゴリーのお父様の事を記載しなかったのです? 魔法省の高官という大変に名誉ある地位に就いていらっしゃるコト、ご存知のハズですね?」

 

「プライベートの情報ですし、競技に関係あるかと言われると微妙でしょう。リータ・スキーターさんなら上手く文章化できるでしょうけど、私たちにそのスキルはありません」

 

 仮にセドリックの父親の事を書けば他の選手も同様に扱わなければならない。フラーは喜んで自慢するだろうが……ハリーの立ち場を考えれば流石に不味いのは分かる。ましてスミレの母親なんて元ヤンキーの女好きで浮気性の無職だ。何を書けばいいかまるで分からない。放送禁止用語のお祭り騒ぎになる。

 もっと分からないのは上級補佐官の意図だ。

 自分に何を言わせようとしているのだろう。

 それからも微妙に論点がズレつつ、何故か執拗に食い下がるアンブリッジに辟易させられる。アザミもいい加減我慢の限界に達したとき、底抜けに明るい「おーーーい!!」という声が玄関ホールへ響き渡った。アンブリッジは心底驚いたのか笑顔の仮面を剥ぎ取られ、爬虫類めいた両目を見開く。

 時計塔を擁する大扉の方から黒いシルエットが駆け寄ってくる。走るスピードはかなり遅い部類で、大きなキャリーケースを引き連れているのを差し引いても鈍足だった。二人の前まで来てようやく立ち止まったのは、黒いハイネックのワンピースに黒いボブカットという烏のような出立ちの女性である。

 ゼエゼエと息を切らしながら女性はアザミの手を握った。

 どうにか落ち着くと背筋を伸ばし居住いを正した。女性としてはかなり長身で、目は切れ長というには鋭すぎる。冷酷な印象を強める薄い唇もむしろよく似合う顔立ちだ。

 

「いやあ一年と少しぶりとは思えない感動ですね。アザミさんがホグワーツに留学してからというもの七組はまとめ役がいなくなって崩壊寸前ですよまったくいつ帰って来てくれるのかと心待ちにしているんですからねホント」

 

「速い速い速い。聞き取れねえ。というか先生、まだ夏休み前なのに仕事はどうしたんです」

 

「もちろん有給使ったに決まってるじゃないですか。アナタのお父さんから『教え子の晴れ舞台をご覧になりませんか』とお手紙に旅券が同封されてたんですよ、これはもう行くしかないでしょう。副担任の先生もいらっしゃるから私がいなくても仕事は回りますよ。ところでこちらホグワーツの先生ですか?」

 

 いま気付いたと言わんばかりに上級補佐官へペコリと御辞儀し、また機銃掃射の如く猛烈な勢いであれこれと話し始める。アンブリッジは奇妙奇天烈な怪人に狙いを付けられ、どうやって逃げようかとギョロついた目をしきりに動かしていた。アザミはなるべく関わりたくなかった。二人とも苦手なタイプである。

 

「いやあまさかホグワーツってこんなに自由な服装でも許されるんですね羨ましい私ファッションには学生時代からこだわりがあるんですが教職はなかなか制約が多くて涙を飲む場面も増えましたよ。ああ失礼しました、ワタクシ国立小笠原高等学校南硫黄島分校中等部三年七組の担任をしておりますキザハシという者でそちらのアオイさんの入学以来の担任なんですよ以後お見知り置きを。ちなみに担当科目は英語科と東洋呪術科になります先生はどちらの教科のご担当で……」

 

「その方は魔法省の職員です。ドローレス・ジェーン・アンブリッジ上級補佐官。ですよね」

 

「えっ、ええ、私はドロ――――」

 

「そーゆー大事なコトは先に教えてくれませんと旅先で赤っ恥じゃないですかヤダもう恥ずかしい」

 

「もうとっくに大恥っスよ先生。いま来たトコなら校長室ですか? それとも職員室?」

 

「職員室って何だかソワソワしません?」

 

「教師がナニ言ってんスか……」

 

「精神年齢はアザミさんより下ですから」

 

 どこまで本気でどこまで惚けているのかまったく判断出来ない。予想外の闖入者ではあるが、アザミにとってはもう救世主そのものであった。アンブリッジ上級補佐官に「では失礼します」と一礼し、キザハシ担任を連れて玄関ホールを離れる。猛毒の煮凝りのようなアンブリッジから解放されて一安心、しばらく廊下を歩くうちキザハシ教諭は「てっきり面談中かと思いましたよ」と切り出した。

 

「それどういう意味ですか。魔法省に就職なんて自分、考えてませんよ」

 

「どうって事はないんですよ。あのホールみたいになってる辺り、人払いの結界が張られてたましたからね。なぁんだ違ったのか……見たことない呪文だったからつい珍しくて弄ってたら解けちゃってもうどうしようかと苦し紛れで」

 

「先生ホントに何やってんスか。つーかあのババア、マジで狙い撃ちしてやがったのか」

 

「おやおや。また誰かと喧嘩したんですか? アレッ……あの人、お役人ですよね?」

 

「自分が主催してた学生新聞がなんか気に食わないぽいスよ。ヒマなんでしょ」

 

「いいなあ仕事が少なくて。私もいまの七組が卒業したら魔法省に転職しようかな」

 

「テロじゃないスかそんなの。てかそーゆーハナシを生徒の前でするのダメでしょ」

 

 あと魔法省じゃ一年中スーツですよ、先生似合わないでしょ、とツッコミを上乗せしておいた。散々に振り回されてはいるがアザミも珍しく穏やかな気分になる。上品ぶって陰険な真似をされるよりは変人でも裏表のない相手と話している方がずっと気が楽だった。

 それはそうと担任の自由奔放さには呆れるしかないのだが。

 

 キザハシ教諭も「確かに私にスーツは似合いませんね」と笑った。

 

 

 最後の試練当日、代表選手は大広間の手前にある小部屋へ集められた。そこで来賓として招待された家族と挨拶する機会が設けられたのだ。マクゴナガル教授から朝食中にそう伝えられ、スミレはいったい誰が来るのだろうと不思議に思った。ともかく呼び出しを受けたのだから行くしかない。朝食もそこそこに切り上げ、大広間から玄関ホールを横切って、指定された部屋の扉を開く。

 セドリックの父親がいれば、フラーの母親がいて、クラムの両親に、シリウス・ブラックとリーマス・ルーピンがウィーズリー夫人と談笑している。

 ツバキは見知らぬ黒衣の女性と一緒に暖炉の前にいた。

 スミレに気付いた二人がスミレのそばまで来た。

 

「おはようございますスミレさん。それと、はじめまして」

 

 鋭利すぎるくらい切れ長の瞳が、ニコリと笑う。すると剣呑な表情がウソのように()()()()とした雰囲気へ変わった。

 

「アザミさんの担任をしています、キザハシといいます」

 

「あ、えっと、はじめましてキザハシ先生。あとおはようございます、従妹のスミレです」

 

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。ほーら笑顔笑顔」

 

 人差し指で唇の両端をグイッと押し上げる。

 美人が台無しでツバキもスミレも笑ってしまった。

 

「ホント面白い先生だろ? このヒト、学校でもこんなカンジなんだと」

 

「もうちょっと変顔します? レパートリーはまだありますよ?」

 

 ピエロのお面のような顔で言うものだから余計面白い。

 キザハシ教諭は「では残りはまたの機会に」と手を離した。

 スミレの右手をゆっくり自分の両手で包みながら、また微笑んだ。

 

「ようやくスミレさんに挨拶が出来ました。私、この日を楽しみにしていたんです」

 

「私に、ですか? すみません…・…私は先生のこと何も知らなくって……」

 

 少しばかり気まずい空気はフラーの登場で一変した。

 早口なデラクール夫人にツバキは圧倒され、途中から曖昧な微笑を浮かべてやり過ごそうと試みる。おまけにキザハシ教諭はフランス語に不案内で、スミレが通訳をしなければ母親たちの会話を理解出来ない有り様だった。そんな調子で昼食の席でもいかにボーバトンの食事が素晴らしいかと、ホグワーツで振る舞われるものがどれほど野暮ったいか熱弁を振った。

 食事をする暇もないうちにマダム・マクシームへ挨拶しにツバキは拉致されてしまう。

 午後からの試験があるためほとんどの生徒が大広間を出て行く。

 スミレとキザハシ教諭だけが二人ポツンと取り残された。

 スモークサーモンのサンドウィッチを一皿まるまる完食し、教諭は「スゴいパワーでしたね」とデラクール母娘をそう評した。

 ピッチャーからグラスへレモンスカッシュを注ぎながら呟く。

 

「それにしても……あんなに舌が肥えていては町中華に行ったら倒れそうですよ」

 

「蕎麦屋さんもダメかもしれないです、立ち食いなんて入ったらどうなるんだろ」

 

「美味しいんですけどねえ立ち食い蕎麦。コロッケとかかき揚げとか色々ありますし」

 

「……家に帰るとき、いつも東京駅でかけそばを食べるのが楽しみなんです」 

 

「日常の味ですよねーかけそば。たまに啜るとホッとするというか……」

 

 好物の話題になってようやく緊張が解れた。

 かすかに緩んだ表情筋が笑顔を作った。

 

「ああ、ようやく笑ってくれた。どうも私の顔って威圧感があるみたいで」

 

 両手で頬をぐりぐりと圧しながら教諭は安堵の顔をした。

 黙っていればミステリアスな美女だが口を開くと愉快な人だ。

 ホグワーツではまずいないタイプである。

 

「それに背もあるでしょう? ちょっと出掛けたら目立つのなんのって。学生時代によく待ち合わせの目印にされたんですよ」

 

 紺色のセーラー服を着たキザハシ教諭が駅前ロータリーでムスッとしている光景を想像し、スミレはつい笑いを堪えきれなかった。あんまりにも制服が似合っていないのがおかしかった。黒ずくめ以外の格好がちっとも似合わない。

 

「流石に女子校で『電柱』なんて呼ばれることはありませんでしたよ。『エッフェル塔』とか『富士山』は何度かありましたけどね」

 

「もっとヒドいですよそれ。先生、そんなに背が高かったんですか?」

 

「十六歳になってすぐの時点で百七十センチありました。ノッポの家系なんですよウチ。兄貴たちもみーんな大柄でしたから。嫁いできた奥さんたちなんてしょっちゅう娘に間違えられて。酷いときは私の娘だと思われて、つい言っちゃいましたよ『私の方が歳下です!!』って」

 

 今度こそ声を出して笑ってしまった。シュワシュワと炭酸の弾けるスカッシュを一息に飲み干し、教諭はゆっくりと立ち上がった。あれだけ食べてもスレンダーな体型はまったく崩れていない。スコッチエッグとサーモンサンドはどこへ消えたのだろうか……。

 手首に巻き付けた腕時計を見、「そうですねえ」と溢した。

 

「まだ時間がありますし、よければお散歩しませんか?」

 

 最後の試練まで残すところ数時間ばかり。

 呪文の練習で根を詰めるのも少し悩ましい。

 緊張を和らげる方がいいかもしれない。スミレは「私でよければ」と頷いた。

 二人は大広間を出て校内を散策する。

 双眼鏡で離れたところから暴れ柳を観察したり、あるいはボーバトンの馬車やダームストラングの帆船、森番小屋と禁じられた森など城の外から案内する。キザハシ教諭は好奇心に目を輝かせて城の外観に見蕩れ、城の中では階段の手摺りに施された彫刻や柱と天井の様式に大喜びする。建築物オタクなのかインスタントカメラが無いことを本当に悔しがっている。

 

「しまったなあ。デジカメとはまで行かなくても使い捨てくらい持って来ておけば……」

 

「そんなに珍しいんですか? もう見飽きちゃって」

 

「城郭好きなんですよ。西洋建築かな。まあ、そうですね。日本の城よりは……この石の質感なんてどうです、重厚感がありますよ」

 

「冬は寒いし夏は暑いし。何にも良いことないですよ石の建物なんて。毎日暮らすならやっぱり畳敷きがいいなあ私」

 

「夢を見られるうちが花、ということですか。それは確かにスミレさんの言うとおりかもしれません……この城でどんな夢を見られるか、気にはなりますけど」

 

 悪夢です、とは言えなかった。

 相手も魔法学校の先生なのだ。

 それも従姉の担任である。気を使ってしまう。

 

「私はどこでも寝られるから石で歯はさておき川で枕くらいは出来そうです」

 

「漱石ですか? 坊ちゃんくらいしか読んだことないかも」

 

「アレも面白いですよねえ。わざわざ松山で天麩羅蕎麦だなんて」

 

「え、そこなんですか?」

 

 一本筋の通った東京育ちで不器用な坊ちゃんが、田舎の独特の距離感と人間関係に翻弄されるというハナシのはずだ。天麩羅蕎麦の下りといえば四杯も食べたところを生徒に見られ、翌日から「天麩羅先生」とバカにされるイヤなハナシの前振りであったように思う。

 だがキザハシ教諭は少しばかり見方が違うようだった。

 

「スミレさんはもし知らない土地に行って、最初に何を食べますか? 時間とオカネの心配はしなくて良いとして」

 

「うーん……やっぱりご当地の名物とか。揚げ物はあんまり得意ではないですけど、果物や海鮮ならチャレンジしたいです」

 

「でしょう? 地元で慣れ親しんだ料理を遠く離れた土地へ来てすぐに食べたりしませんよ。まずは郷土の味を知りたいじゃないですか。なのに坊ちゃんは迷わず蕎麦を食べた」

 

「よっぽど好きだったんじゃないでしょうか。拘りの強い人みたいですし」

 

「それもありますけど、何かあると赴任先を田舎田舎と下に見る性格でしょう? それでいきなり『東京蕎麦』を選ぶってことは、松山へ馴染む気がないんですよ、彼」

 

 なるほど、という納得感。ただ天麩羅蕎麦を四杯も食べたからバカにされたのではなく、松山に来てまで東京にいるかのように好き好んで蕎麦を食う偏屈者。『天麩羅先生』という黒板の文字はそういう意味があったのか。目から鱗が落ちる思いがした。

 キザハシ教諭はふと足を止めて振り返った。

 それまでの浮かれた様子はなく、冷静沈着にスミレを観察する。

 標本を見詰めるような無感情が教諭の表情を支配している。

 

「スミレさん、この学校のことあまり好きじゃないですよね」

 

 舌はもつれそうで役に立たない。

 静かに頷くと「でしょうね」の言葉が返ってきた。

 

「見れば分かります。食事に馴染めないのは辛いでしょう……」

 

 無感情のまま……いいや、何か違う。

 言葉の端々から滲むものの正体は、何だ。

 

「身体の事は聞いています。その上で、私から出来る事と言えば一つだけ」

 

 ス、と物音なく差し出された指の長い手。

 吸血鬼のように白い肌をした教諭は微笑んだ。

 

「夏休みに七組へ遊びに来ませんか。アザミさんも一緒に」

 

「お姉ちゃんと違って、名前だけなのに。お邪魔していいんですか?」

 

「もちろん。実を言うとクラスのみんなにイギリスへ行くと言ったら、スミレさんに渡して欲しいと預かったモノがありまして」

 

 教諭が思い出したように鞄から取り出したのは、一枚の色紙と茶封筒だった。

 

「そちらがスミレさん宛ての寄せ書きです。封筒の方は、お手紙と記念写真です」

 

 円形に並んだ、月並みな挨拶や()()()()を応援する言葉の数々。

 緑色の黒板前に整列した黒い詰め襟を着た男子生徒と紺色のセーラー服の女子生徒。十名ばかりが適当な順番で並び、その真ん中でアザミの肩に手を置くキザハシ教諭。留学前の送別会で最後に撮影した一枚だという。アザミは散々「しなくていい」「写真は嫌いだ」とゴネたのだろう、口をへの字に曲げ撮影者を睨み付けている。

 どの寄せ書きがどの生徒のものか教諭が一人一人教える。

 

「その男の子は霊媒体質で……そのポニーテールの子は幽霊なんですよ、もう死後数十年も経って……そちらのジャージの女の子は人魚の末裔、その金髪碧眼のお嬢さんは人形ですね」

 

 みな思い思いのポーズや表情で映っている。

 あまりにも眩しい青春の一枚に、スミレは羨ましいやら嬉しいやら、発するべき言葉がすべて喉の奥でつかえてしまうのだった。

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