葵菫はリトル・ハングルトン村で殺された――それは間違いない事実だ。
許されざる呪文の一つ『
ハリー・ポッターのように生き延びても、ヴォルデモートのように死を免れてもいない。
人間としての最期を遂げた末、
心臓の鼓動は止まっている。
流れる血は氷水のように冷たい。
身体からすべての熱を失った。
以前のように笑いもするし照れもする。
けれど生物としてはただの死体だ。
「死体が喋っている」
菫は自分をそんな風に評した。ほんの冗談である。
再会を喜んで抱き締められても、熱を吸いとられるばかり。
フラーは変わり果てた恋人の華奢な身体を抱き締め返した。
「痛いですよフラー。そろそろ骨が折れそうです」
「もう二度とスミレに会えないと思ったのよ。私の気持ちも知らないで」
ありったけの批難を籠めた抱擁に背骨が軋む。
いくら死んでいようと痛いものは痛い。喪服姿の恋人にときめきを隠せないながら、大怪我の予感に冷や汗が頬を伝う。
「ごめんなさい……でも、フラーは必ず来てくれると信じてました」
上目遣いの視線は蠱惑的にフラーを見詰める。
ほっそりとした、それでいて柔らかな身体が冷たい。
芯にあるべき温もりがなくなってしまっていた。
意外とくびれた腰へ手を回せばぴとりと寄り添ってくる。プライドの高さは天に届くほどなのに、この甘えん坊な性格のギャップがまた可愛らしい。
縁側に並んで腰掛けながら眺める月夜はこれ以上なく特別に思えた。
「もし、もしスミレが良ければだけど……貴女もフランスに来ない?」
深い紺色の夜空にぼんやりと輝く月を見上げながら、フラーは思い切って故郷で一緒に暮らさないか尋ねた。結果は振わなかったとはいえ炎のゴブレットに選ばれた四大魔法学校対抗試合の代表選手である。その実績だけでも就職先など引く手数多、こちらから探すまでもなくいくらでも舞い込んでくる。
その中にはボーバトン魔法アカデミーもある。
「マクシーム先生も貴女の転校を受け入れて下さるわ。あの変な魔法薬じゃない……ちゃんとした輸血液を手配するとも仰っていたわ。こう言っては何だけど、ホグワーツの誰もがスミレを避けてる。お祖父様のなさった事が理由なら、私だって母方の大叔父はゲラート・グリンデルバルドの信奉者だったわ」
「ご厚意を無碍にする形にはなってしまいますが、私にはホグワーツですべき事があるんです。死んでも死にきれないなんておかしな話ですけど……吸血鬼の身体は死んでるんですから。今までの
けして単純な理屈や表面的な感情ではない。これは己の名誉の問題であり個人ならぬ故人の尊厳の問題だと、スミレは申し出を断った。四年間、良いようにやらっれぱなしのままホグワーツを去ったのではただの哀れな小娘で終わりだ。そんな生易しい結末で終わらせるほど安いプライドならばフラーとクラムに勝利宣言をしたりはしない。
予想はしていた。
きっと、スミレは復讐のためイギリスに舞い戻るだろう。
出来るなら恋人の復讐を食い止めたいという思いがあったのだ。
だが自分が止まれない人間であるように、スミレも止まれない。
列車というより弾丸だ。一度放たれたら、目にも止まらぬ速さで一直線に飛翔する。
「全て片付けて、それから先の事を考えたいんです。ヴォルデモートが復活した状況では何年先になるか分かりませんが……待っていてくれますか?」
「私がシワだらけのお婆さんになっても、スミレなら一目で見つけられるわ」
ひんやりとした頬に掌の温もりを伝える。
この熱にずっと触れていてほしい菫は、そっと手を重ねた。
小さな冷たさに包まれる感覚が死を思い起こさせる。
もう、人間としては終わってしまったのだ。
「もし忘れているようなら、心臓に杭を突き刺して下さい。フラーの事を忘れた葵菫なんてただの残骸だから。そんな風になるくらいなら貴女の手で眠りたい」
「そんなに簡単にフラー・デラクールを忘れられると思って? 心配しなくても、すぐに記憶から抜け落ちてしまうような薄っぺらい女じゃないわ」
顔が赤らんでいなくとも目を見れば分かる。
小さく結ばれた口だけでも一目瞭然にときめいている。
ゆっくりと菫の身体を押し倒して覆いかぶさる。
「スミレの用意が出来たら、私はいつでも貴女の方に行くわ。大丈夫、一人になんてさせない。寂しい思いなんてさせない。スミレが一緒なら百年でも千年でも過ごせるもの」
しなやかな指先が白い肩紐に掛かる。首筋から鎖骨にかけてが白々とした月明かりを浴び、無抵抗な菫の黒く深い目がフラーを捕らえる。頬からすべるように指が胸元をなぞり、ヘソの下を撫でようとして、手首を掴まれる。
「私との関係は
挑発的な薄い微笑は悪戯好きな猫を思わせる。
最後の最後で手玉に取られてしまった。
いや、猫というのは玉を転がすのが好きな生き物だったか。
「それに貴女、明日には帰らないといけないんでしょう? ウチから空港は遠いですよ。夜更かししてる場合じゃないです」
雰囲気を台無しにする苦言にフラーまで身体が冷える思いがした。
一言も発しないまま用意された寝室へ向かうと菫が慌て始めた。
「ああっ待って待って、おやすみなさいのちゅーがまだで――」
我儘なうえあどけない様に毒気が抜けてしまう。
けれどまた引き返すのも癪で、フラーは僅かに振り返り、投げキッスだけ贈った。
たった一撃で床に突っ伏し悶える菫の単純さに苦笑しながら、客間の襖を閉めた。
†
恋人からの思いもしない一撃の余韻から解放され、菫は弱々しく姿勢を戻す。
どうしようもなく昂ぶったこの身体をどう鎮めればいいのだろう。
吸血鬼らしく血を吸えばいいのだろうか。それとも人間の時と同じでいいのだろうか。
性別はそのままとは言え、身体の構造は同じとは言え、種族が違ってしまった。
こんなとき周りに同類がいないのは不便だなと感じる。
捕食すればいくらでも増やせるけれど。まだ吸血行為を受け入れていないのだし。
全身がじんわりと疼く感覚がなかなか抜けず悶々とする。
ふう、と息を漏らす。危うくフラーに手を出されそうだった。
いまそんな関係にまで進んでしまったら、引き返せなくなる。
フローラとヘスティアもそうだし、双子の同い年でレイブンクロー生のルーナ・ラブグッドや、もう交際相手がいる点はさておき上級生のチョウ・チャンも気になるのだ。残る三年間で色んな経験をしてから総仕上げとしてフラーの手で自分の全てを塗り潰して欲しかった。出来る事ならパンジーの肌にも触れてみたいし……。
そこまで考えて爆発しそうなほど頭が真っ白になる。
瞼を閉じて三角形を描くように折り畳んだ脚を抱える。
端から見れば眠っているような姿勢で縁側にいると、微かに温かな手が肩へ触れた。
ほんのりと香るタールの匂いは母親のものだ。
「お母さんも起きてたの?」
「寝られない。目が覚めちゃって」
ワイシャツ一枚にデニムでフラフラと菫の隣に腰を下ろす。
だらしないとかはしたないとか、そんな感想が一切出て来ない。
自分みたいな野暮ったさと無縁の
目が覚めているという割りに表情は曖昧というか、ユルい。
「ヤだなあ夏休みって」
「……そう? 私、お母さんに会えるから大好きだよ」
「でも終わったら菫も薊も学校だし」
けして「寂しい」とは言わないまま、唇を尖らせる。
カッコイイ、けれど子供っぽいところもある。
気分屋な黒猫みたいだなといつも思う。着崩れた寝間着姿のまま抱きつく。
「ゴメンナサイ。死んじゃって」
「謝るなよ。菫は、菫は何もしてないんだぞ」
「でも、でも、いつか治ると思ったのに。元気になれるって」
声がみるみる上ずっていく。このまま胸が張り裂けて罪悪感が溢れそうだった。
「菫は何も悪くない。悪いのはみんな母さんだ。母親なのに、大人なのに、何も出来なかった。ただいい気になって応援するだけで……」
「お母さん、薬で入れ替わってた私と薊姉ちゃんのコト一目で分かってたじゃない。あれすごく嬉しかったんだよ、薬が切れるまで誰も気付いてなかったんだもん」
「あのくらい、母親なら誰でも分かるさ。死ぬ思いして生んだ娘のコトならなんでも分かるんだ。菫も…………菫は、どうだろうなあ」
「私はお母さんのコトおばあちゃんにしてあげられないかな……男の人には全然ドキドキしないから。女の子じゃなきゃダメみたい」
「なら、無くはないと思うぞ。母さんだって女にしか興味ないけど妊娠出来たんだし」
愛娘の髪を撫でながら椿はさらりと打ち明けた。罪悪感と後ろめたさに視線を逸らす娘へ「気にしなくていい」と優しく慰め、自分も同じだからと秘密を共有した。
「そう……なの? お母さんも?」
「バレてると思ったんだけどな。意外とショック」
「だって私みたいに付き合ってる人いないでしょ」
「いるよ。なんならいま三人いるよ。ウチに居候してるアイツもそう」
「ええっ!? みーこさんと!?」
驚きの声の大きさにハッとし両手で口を塞ぐ菫。
子供っぽい仕草が抜けない様子に椿はホッとした。
ああ、死んでようやく自分の記憶している娘が帰ってきた。
「みーこも知ってるよ。もう付き合って……何年? 中二の時からだから、もう二十年か。そんなに昔か……」
「中学二年生って十四歳だよね? 二十年? そんなに?」
「うん。二十年。だから母さんが浮気性なの知ってて諦めてる」
「お、お母さん……浮気はダメだよ。みーこさんが可哀想だよ」
「いーのいーの。誰と付き合っても最後はアイツが一番
見透かすような笑みに菫は椿の腕の中で飛び上がる。
ビクンと痙攣するのが面白くって解放する気になれない。
「そ、そんなこと……フローラとヘスティアは、好き勝手されただけだし……」
「…………初体験まで似てるのは何なんだ。そういう宿命?」
「知らない……うう、お母さんとみーこさんが付き合ってるなんて知らなかったあ……二十年って、それじゃあお母さんがもう一人いるのと同じだよお……」
困り果てて両手で顔を覆ってしまった。こうして見ると小動物のような雰囲気があるけれど、友人たちの接し方からして、きっと学校では我儘な性格が前に出ているんだろう。甘やかしたつもりはないけれど……地元では大地主の孫娘という肩書きから遠慮され慣れているから、きっと周囲の無遠慮な態度が我慢出来ないに違いなかった。
自分に似て美人なのだから好きにすればいいと思う。
気に入った相手にはこんな風に可愛げも見せるのだし。
誰からも好かれる優等生よりずっとマトモだ。
ぷるぷると震えながら「みーこさんのコトどう呼べいいんだろう」と悩む菫に「ママでいいんじゃない?」と適当に返す。
「みーこ、ママ?」
「うん。ママ。本人も文句言わないって。な?」
ぺたりと座り込む音のした方へにやりと笑顔を向ける。
母親の視線が向く方へ菫も振り返り、また言葉を失う。
汗で湿った銀髪をゴムで束ねた女性と目が合った。
椿はニタニタと悪戯な笑みを隠そうともせず、立ち上がった。
自室へと歩き出し、すれ違い様、みーこの肩に自分のワイシャツを羽織らせた。
「じゃ、オレ寝るから。母娘水入らずで風呂でも入ってくれば?」
「待ってよお母さん。私心の準備が……! 二人きりなんて恥ずかしいよ!」
「ママってなに? え? スミレちゃんにどこまで話した?」
「全部。ウソ、付き合って二十年ってトコだけ」
じゃあアトはよろしくやれよ、とヒラヒラ手を振りながら椿は廊下の曲がり角の向こうへ消えていった。ワイシャツに短パンという奇妙な出で立ちのままへたり込む母親の妻へ、菫は恐る恐る「えっと、ママでいいですか?」と呼び掛ける。
泣き崩れる義理の母親に困惑しながら、そばへ寄って心配げに顔を覗き込んだ。
菫にしてみれば何故涙を流すのか分からない。ただ、これまで家族同然の仲だった相手が泣いているのが心配で堪らなかっただけである。
†
熱湯へ身体を沈めると身体の芯の寒さを忘れられる。
染髪料で変色させられたシルバーブロンドを愛でながら、菫は目の前で俯く女性へ微笑みかけた。いままで椿の学生時代の友人とばかり思っていた“みーこ”が二十年来の交際相手で、義理の母親と言える存在だったなんて思いもしなかった。驚きはあるが……むしろ家族が増えた嬉しさがずっと勝っている。
「いいのかなウチがママって……こんなテキトーなのが母親って……」
「適当なのはみんなそうですよ。薊姉ちゃんだってよくコタツで寝てるし」
「……ツバキとの馴れそめもメチャクチャなんだよ。ホント意味わかんなくって」
二人の馴れそめに菫は興味津々だった。どんな風に恋人になったのか知りたい。身を乗り出して「教えて教えて」とせがまれ、みーこは頬を赤くしながら、二十年前の学生時代を振り返った。
「一年生のときウチが女好きだって女子グループにバレて、嫌われてたワケ。虐められてたのね。で、そのまま二年生になってツバキと同じクラスになったとき、アイツがその女子グループのリーダーに目ェ付けられたの」
当時十四歳の母親を想像しても、今とあまり変わらなかった。
もう少し細くて背が低くて、セーラー服にローファーというだけだ。
何なら今でも十分着こなせそうな気がする。これは贔屓目かもしれない。
「ショウブくんも昔は相当だって聞いてたけどツバキなんてもっとよ。趣味がケンカだもん。バカみたいに強いし、見境ないし、上手くセンコーに隠れてやるし」
「お母さんが? そんな、不良っていうか、ヤンキー?」
「だからウチもビックリした。スミレちゃんもアザミちゃんも学校でほとんどケンカしないんでしょ? ツバキなんかケンカして学食でゴハン済ませてまたケンカしにガッコに来てたんだから」
だから弟よりずっと丸くなった、と言うのである。信じられない。
「ソイツらも不良でさ。でもツバキがボコボコにして、ウチからパクった教科書とかバイト代とか色々、取り返してくれて。そんときに『オメーくれー美人なら誰でもヤキモチ焼くわ』って言うから……」
「言うから?」
「『オマエは焼かないの?』って聞いたら『いや、死ぬまで付き合いたい』って」
「それだけ?」
色気の欠片もない。潔すぎるくらいに清々しい告白だった。
みーこも恩人への義理ではなく、中性的で謎めいた雰囲気に一目惚れしたのだという。
そのまま空き教室で初体験を済ませてしまったと聞かされ、菫はもうのぼせたのかと思うくらい頭がフラフラした。あまりに自由すぎる。こんなに長身でスタイルの良い美人と、という羨ましさもある。奔放さに呆れるあまり言葉が出なかった。
「ホント変わったヤツだけど、アイツのおかげで救われた気がした。浮気はされっけど」
そう言って大きく身体を伸ばす。重力に引かれた胸が少し持ち上がる。
ぐったりと投げ出された長い腕に指先を触れさせる。もうもうと湯気の立ちこめる中にいて、けして熱を帯びる事のない身体にみーこは「スゴい冷え症? 大丈夫?」と不安げに尋ねる。
そのまま掴んだ義母の手を胸に押し当てる。
伝わってくるはずの鼓動がないと気付き、飛び上がる。
「マジでヤバいって。心臓、コレ……!」
「私、もう死んでるんです。イギリスで吸血鬼になったんです。もうずっとこのまま……生きていないけど死にきってもいない、おかしな身体になっちゃったんです」
「キューケツキって、んな、ハロウィンじゃないんだから……」
動揺するみーこの長い指を咥え、皮膚に牙を当てる。
以前は発作的に伸びた犬歯も今では自在に格納できる。
人間離れした鋭利すぎる二本の歯が現実を物語った。
「ハロウィンの仮装ならいいなと思うけど。心臓はもう動かないし、身体はずっと冷たいし、誰かに触れたらそれだけで火傷しそう……」
未知の世界に引きずり込まれた衝撃に視線が揺れる。
身体はみるみる茹だっていくのに意識は凍りつく。
「ママには私の全部を知っていて欲しいから……お母さんがずっと調子悪くしてるの、気付いてたでしょう? アレは私のせい。私が、死んじゃったから。お母さんを置いて行っちゃったから」
大粒の涙を零しす菫の告白を、受け止めきれない。
唐突に常識から乖離した非日常へ突き落とされ、理解が追い付かない。
恋人の代わりに乳母として育てた娘が泣いている。
それだけは振り絞ったアタマを総動員して把握出来た。
他にどうしようもなく、母親譲りのほっそりした身体を抱き締め、初めて会った二十年前と瓜二つの長い黒髪をずっと撫でてやるだけだった。