ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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 明朝、日の出とともにフラーは颯爽と屋敷を辞した。
 握り飯は下に馴染みがないだろうと菫はハムサンドを手作りした。サランラップで一つ一つ包み、折りたたみ式の弁当箱に詰めた、不格好な軽食だった。マヨネーズとマスタードを塗った薄切りトーストで厚切りのハムを挟んだだけである。それでもフラーはとても喜んでくれたし、昨夜のような事はなく、頬に別れのキスをしてくれた。
 
「本当に駅まで送らなくて大丈夫ですか? バス停までは遠いし、駅の案内板だって……」

「大丈夫よスミレ。お祖父様が駅まで車を手配して下さったの。あの古ぼけた駅まで着いてしまえば、後はどうにかなるわ」

 不安げな菫の目をじっと覗き込むダークブルーの瞳が微笑んだ。
 屋敷まで誰の道案内も受けずに来られたのだ。帰り道を心配する必要などない。
 つまりは交通の不便さを口実にして恋人と一秒でも長く一緒にいたいのだ。
 どこまでもいじらしい。唇を重ねたい衝動を押し殺す。
 
「お手紙、くださいね。私も毎日必ず書くから。お仕事忙しいでしょうけど……」

「もちろん。毎日、菫のことを想いながら一文字一文字に愛を籠めて書くわ」

「あ……あと、クリスマス休暇にはどこかでデートとか……日帰りでも行きたい……」

「そうね。パリもいいし、リヨンにボルドー、ニース、グラースも素敵なのよ」

「ハムサンドの感想も教えてくださいね。私、お料理するの初めてだから自信がなくて」

「ええ。きっと美味しいわ、だって菫が私を想って作ってくれたのだもの」

 我慢の限界だった。指で顎先を僅かに持ち上げ、唇を奪った。
 椿の目の前だからと抑えていた欲求を堪えきれなくなった。
 菫がリトル・ハングルトン村から帰って初めてだった。
 重なった唇も、絡みつかせる舌も、すべてが氷のようだ。
 肺活量の限界まで自分の体温を菫の身体に焼きつける。
 ずっとこうしていたいけれど、時間が許してくれない。あまりのもどかしさに身悶えする思いがした。

「またすぐに会えるわ。大丈夫、離ればなれはあっという間よ」

 余韻というには強烈すぎる刺激に全身を貫かれ、菫は硬直していた。
 
「浮気しないで、と言っても菫は女の子に誘惑されたら抗えないでしょうけれど。どんな時でも私のコト、忘れちゃイヤ」

 重ね焼きと言わんばかりにもう一度だけ軽く唇を重ね、今度こそフラーは玄関先を去った。流れるようなシルバーブロンドをたなびかせ、黒いヒールで門前まで続く石畳を踏みならし、振り返ることなく待機していたタクシーへ乗り込んだ。
 開け放たれた引き戸から早朝の澄んだ空気が菫の頬を撫でる。
 ふわりと黒髪が風に踊らる。淋しさを紛らわせようと小さな手を振った。
 その後ろで椿が「妬かせるなあ」と肩をすくめて見せた。

「恥ずかしすぎて爆発しそう……」

 行き場を失った感情に震える菫はそう言って俯いた。
 ギラギラした銀髪の()()()こと美紀子はあっけらかんとしている。

「マブいわスミレちゃんのカノジョ」

「イマドキ『マブい』とか通じねえよ」

 ケタケタと笑いあう母親たちの仲睦まじさも菫には羨ましい。
 なかなか悪態を付ける相手がいないから、余計に眩しい。
 椿は背伸びしてキスをねだり美紀子に「娘の前!」と叱られていた。
 冗談か本気か分からないけれど少し気持ちが軽くなってくれたのだろうか。
 母娘三人の笑い声が止むのを待って薊が眠気を噛み殺しながら現れる。
 寝間着用の甚平姿でのしのしと大股である。日課のトレーニング前でまだ完全に覚醒しきっておらず、珍しく表情に覇気がない。

「菫、祖父ちゃんが旅行に出掛けるから今すぐ荷造りしろって」

「え? 旅行なんて私何にも聞いてないんだけど……」

「言うの忘れてたんだって。飛行機の時間あるから急がないと」

「ヤダよこんな時間から。朝ご飯まだだし。誰か起してやってもらお」

 他力本願な態度だが、薊は指摘する余裕がないくらい眠かった。

「なら好きにすれば? アタシもそうする……もう面倒くさいなあ」

 突拍子もない樒の思いつき同然な振る舞いに椿の顔から笑みが消える。
 菫の前で一度も見せた事のない激怒の面を知るのは、美紀子だけだった。
 ゆらゆらと覚束ない足取りの恋人を落ち着かせようと肩を掴む。

「メシの用意しようぜ。ウチらでもトーストくらい焼けるだろ」

「いや今はいいわ。先にあのジジイんトコ行って来ねえと」

「スミレちゃんもアザミちゃんもお腹空かせてっから……な」

「食パン焦すのに二人もいらねえだろ。任せたみーこ」

 聞く耳持たない椿の様子に薊だけは異変を察知した。
 ちょっとタイミング悪かったかなあ、と鈍った頭で思いはしたが、それだけである。
 美紀子もそれほど賢い方ではない自覚があった。考えるより行動するタイプだ。
 追い詰められればどんな無茶に及ぶか分からないところがあった。
 今回もそう。怒り狂って我を忘れた椿を鎮める方法は、一つしか知らない。

「だから落ち着けってば。まだ時間あんだから――」

 なるべく穏やかな口調で諭しつつ、体格差を駆使して覆いかぶさるように抱き締めた。
 椿は微動だにしなくなる。
 タンクトップの薄い生地を一枚隔てて胸元に顔を埋めている。
 成人女性たちの醜態とも痴態とも言い難い何かを見せつけられ、寝ぼけた薊は鬱陶しそうに眉間へシワを寄せた。


努力 未来 a beautiful star

 運ばれてきたコーヒーのあまりの異様さに薊は目を見開く。

 白磁の眩しいカップへ向けるには極めて威圧的な眼光だった。

 十九世紀末、バイエルンで創業された老舗の名品である。好事家にしてみれば垂涎の陶磁器にも関わらず、薊は()()()()()に何の関心もない。

 

 ――どうしてコーヒーの上に生クリームがこんなに山盛り?

 

 愕然として言葉を失う従姉に菫は少し困り顔だった。

 

「姉ちゃん、もしかしてウィンナーコーヒー知らなかったの?」

 

「生クリームの下にシャウエッセンまで入ってんの……?」

 

「ウインナーってソーセージじゃないんだけどなあ」

 

「はあ? ソーセージもウインナーもフランクフルトも一緒でしょ」

 

「全然違うんだってば。分かんないなら言ってよ、私が聞いたのに」

 

 日本で『ウィーン風(ウィンナー)』の冠詞を与えられたホイップクリーム・オン・ザ・コーヒーを、発祥地であるウィーンでは『Einspänner(アインシュペンナー)』と呼称する。深煎りの強い苦みと砂糖たっぷりの生クリームが甘くなめらかな、スイーツのような一杯なのだが、薊はコーヒーにカフェイン以外の要素を必要と感じない主義だった。

 大人しくアイスコーヒーにしておけば良かったのに、と菫は知らん顔する事にした。

 バニラアイスとアプフェルシュトローデルを少しずつフォークにのせ、一緒に頬張る。

 ちゃんとミルクのコクやリンゴの甘酸っぱさは感じる。意外にも、吸血鬼になったから人間の食べ物を受けつけなくなった、というような変化はなかった。むしろ「何を口にしても満腹にならない」というだけであった。これはむしろ以前のような偏食が改善されたと言って良い。喉が乾くのも空腹感が消えないのも、血を吸っていないのだから、むしろ当然だろう。

 身体は怪物でも心はまだ人間のまま。

 吸血への忌避感まで消失してはいない。

 二人を唐突にオーストリアへ連れ去った張本人はと言えば、カイザーシュマーレンにブルーベリーソースをかけてご満悦だった。まったく呑気なモノである。有名な宮殿や教会を巡ったかと思えば路地裏の古本屋を冷やかしたり、孫娘たちを連れてのウィーン観光はどうにも意図が読めない。一週間もそんな調子なのできっと伝える気もないのだろう。

 樒は別に注文したエッグリキュールのアイスクリームをパンケーキに落とした。

 あまりの甘党ぶりに薊は胸焼けしそうになった。チーズクリームとか、もっとサッパリした味にすればいいのにと思ってしまう。

 

「そんなに甘いものばっかり、晩ご飯大丈夫なワケ? アタシらよりよっぽど食べてない?」

 

「分かっとらんなアザミ。甘いモンは別腹っつうだろ、こんくらいは食ったウチに入らん」

 

「昨日だって焼き豚でワイン一本開けてるのにさあ。お腹壊さないでよね」

 

「焼き豚、うんまあ焼き豚だがなあ。シュヴァイネ・ブラーテンつう洒落た呼び方せい」

 

「ローストポークなんだから焼き豚でいいでしょ。アタシはドイツ語分かんないんだし」

 

 真っ赤な王冠のようなイチゴタルトを切り分けつつ、薊は周囲に目を向ける。

 祖父に案内されるがまま入ったカフェーなので老舗なのかどうか分からない。ただ、観光客が多いように見える。ウィーンの地図を広げていたり、あるいはロシア風の巻き舌な訛りだったり、如何にも旅行中と言わんばかりに着飾っていたり、自分たちと同じく妙に浮いている。

 それなりに有名な喫茶店なのかもしれない。タルトはほどよく甘酸っぱくて、アインシュペンナーの濃厚な味と相性が良かった。

 真鍮の懐中時計を手に取った樒は「女子なのに風情のないヤツめ」と肩を揺らした。

 リンツァートルテが菫の前に置かれる。格子状の生地の下から鮮やかなレッドカラントのジャムがキラキラと輝いている。ちょっとした宝石箱のように綺麗で、フォークを入れるのが勿体ない気がした。

 味は意外と素朴で、アーモンドの香ばしさと酸味の強いジャム、それに固焼きの生地がどことなく貰い物のアソートによく入っているジャムクッキーを思い出させる。菫はアレが好きだった。数は少ないがそのくらいが丁度良い。分家の従姉妹たちがチョコチップクッキーを賭けてジャンケン勝負をしている横で、ジャムクッキーを独り占めしていたのだ。

 コーヒーとデザートで一服したあと、カフェーを出る。八月のウィーンはまだ日が高い。

 この次はどこへ連れて行かれるのか。楽しみなのやら不安なのやら、ドキドキする。

 

「次はちと離れたトコへ行くからな。夕飯はホテルで済ませるぞ」

 

 振り返った樒がそう言うと目の前に四頭立ての馬車が止まった。

 通行人の誰も気付いていないが、真っ黒な毛並みの天馬(ペガサス)が鮮血のように真っ赤な目で所在なさげにしている。車体もペガサスたちに負けず劣らず威圧的かつ重厚な黒色で、装飾品や取っ手は全て眩い黄金で出来ている。ひとりでにステップが降り、開かれた扉が乗り込むように促してくる。

 

「時間丁度だ。さ、オマエさんらから先に乗るといい」

 

「いやコレ、どういうコト? 魔法省に行くの?」

 

「質問はアト、さあ急げ急げ。超特急なんぞ儂はゴメンだぞ」

 

 突き飛ばされた勢いのまま薊と菫は客室へ転がり込んだ。

 床も天井も漆黒で、ソファだけが真紅のクッションだった。魔法の馬車とあって車内は見た目よりずっと広く、窮屈さは感じられない。誰が合図するでもなく扉が閉まると御者が鞭をくれる音がした。怒るような嘶きが響くとたちまち馬車は急加速し、車輪がアスファルトにぶつって火花を散らす。

 滑走路を飛び立つ飛行機のように馬車が浮き上がった。

 魔法使いでなければ認識できないらしく、空を見上げる者は一人もいない。

 唖然とする菫と薊の表情を見て樒は「してやったり」と大喜びで笑った。

 

「イギリスの魔法省もこのくらい気を利かせてくれりゃ可愛げがあるんだがな」

 

「お祖父ちゃん私たちどこに連れてく気? 夏休み、まだ二週間もあるんだけど」

 

「バカ言え、コレも旅行のウチだ。安心しろアザミや。この調子ならすぐに着く」

 

「着くってどこに!? こんなの乗らなくたって、市内ならバスかタクシーで……!」

 

「タクシーの運ちゃんは『ヌルメンガードまで』つっても『ハァ?』で終わりだ」

 

「ねえねえ、ヌルメンガードってなに? どこのお城?」

 

「なんとまぁ……そっから話さにゃならんのか……」

 

 ガックリとずり落ちそうになる樒は、傍らに置かれたアイスペールからワインを引っこ抜く。よく冷やされた白ワインを慣れた手付きで開栓し、杖で呼び出したグラスへなみなみ注ぐ。甘く華やかな香りが車内に充満する。薊も菫もまだ白ワインは口にした事がなかったので興味が湧いた。

 

「ウィーンに戻ったら呑みよいのを見繕ってやろう。だから酒はホテルに帰ってからにせい……ったく、なんで儂の血縁は揃ってウワバミなんだか」

 

 ブツブツ言いつつ白ワインで舌を湿らせ、樒は孫娘たちに「ゲラート・グリンデルバルドについてどこまで知っとる」と尋ねた。菫は名前しか知らず、薊は『国際魔法使い機密保持法の撤廃に始まる革命』と『ダンブルドアに敗れ、現在はヌルメンガードに収監中』だけは承知していた。

 

「うん。何も知らんワケか。なら事の発端まで遡らねばならん」

 

「通り一遍は知ってるつもりなんだけど、それじゃダメなの?」

 

「本質的には知らんのと大差ない。良い良い、聞く楽しみに語る楽しみよ」

 

 スパークリングレモネードの瓶を二人にそれぞれ手渡し、樒は『事の発端』まで遡った。

 

「グリンデルバルドがいつ革命を志したかはさておき。ヤツはある伝説を『真実』だと信じ込み、ありもしない宝を探し求め、遠縁を頼りイギリスへ渡った。そこはゴドリックの谷と言ってな。まあグリフィンドール卿に所縁のある土地だと思え。そこである男子と親しくなった」

 

「分かった、ハリーのお父さんだ」

 

「何歳になんのそれ。せめてお祖父さんでしょ」

 

「近からずも遠からず。ソイツは若かりし日のアルバス・ダンブルドアだ。奇妙なコトにこの二人、よほどウマが合ったらしい。一緒に『宝探し』をする仲になって、意気投合するうちに革命の原型も出来上がった。だがダンブルドアの身内のゴタゴタが原因でグリンデルバルドと仲違いした……コレが最初の破綻だ」

 

「ハリーのお祖父ちゃん……確かにニアピン?」

 

「あー、家族いないんならそんなトコか」

 

 空飛ぶ馬車は少しも揺れることなく快適な乗り物だった。

 しかしあの離陸では着陸時がどうなるか想像もつかない。

 薊も菫もそんな事はすっかり忘れて祖父の語りに聞き入った。

 

「グリンデルバルドが軍隊を率いる、少し前のコトだ。ヤツは儂へ手紙を寄越した。『己の革命を支援しろ』という内容だった……投資するには博打だったから無視してやったんだが、ヤツの信奉者が押し掛けてきおって鬱陶しくなったんで『借款』だけ応じたんだ」

 

「シャッカン?」

 

「カネを借りるっつう意味だ。ま、そのあと結局アレコレと強請(タカ)られる羽目になって、出世払いと言う名のタダ払いに終わったんだが……儂はその縁でヤツとの窓口係までさせられてなあ。まったく面倒な仕事ばかり押付けられた。無論、役得もあったぞ。どうせ焦げつくのは見えてたんで、赤字を減らさにゃならんかったし」

 

「なんで分かるのそんな事。グリンデルバルドが台頭したのって二十年代の初めじゃん」

 

「そらオマエ、アルバスの方が魔法使いとしてよほど格上だからだ。グリンデルバルドの強みは組織力と統率力だ。要は使()()()()()がバカほどいるから、同時に色んな計画を進められる。すると頭数で負けとったアルバスは後手に回るワケだな。それが逆転しちまえば勝敗は決まったも同然……いくら杖が一流でも術者が不相応ではイカン」

 

「で、最後は負けちゃった」

 

 綺麗に付けられたオチへ樒は頷いて返した。それで「ふうん」と菫は納得したが、薊はむしろ疑問点が増えるばかりだった。

 

「杖が一流でも術者が不相応じゃダメってどういうコト? 魔法使いと杖って普通は一生の縁なのに、裏切られたみたいな。しかも()()()()()()って言い方してない?」

 

「いいや杖は裏切っておらん。『ニワトコの杖』は常に最強の魔法使いへ忠誠を誓う。それが主たる者に必要不可欠な資格でな。忠誠が移ったのなら、それは即ち()()()()()()()()()()()()()と断じられたに過ぎん」

 

「そんな杖があるなんて聞いたコトない。どんな歴史書にも載ってなかった」

 

「歴史の本になんぞ載ってるもんかい。アザミや、落ち着いて考えてみい。歴史の教科書がたかが御伽噺なんぞに紙面を割くか? 『ニワトコの杖』はそういう伝説の類いだ」

 

「伝説って、グリンデルバルドの杖はそうだったんでしょ?」

 

「『死の秘宝』のうちで唯一、伝承通りの品だったっつうだけでな。アレは杖としちゃ欠陥品だぞ? そうだろうが、持ち主を手前の勝手で乗り換える道具なんぞ、誰が欲しがる」

 

 言われるまでもなく祖父の指摘通りだ。杖が勝手に持ち主を変えたのでは、魔法使いにとって大迷惑どころの話ではない。『最強である事を求める杖』なんてそれこそ教訓めいた御伽噺でもなければ受容はないだろう。『死の秘宝』とやらはよく知らないが「過ぎたるは及ばざるがごとし」という説話の類いに思えた。

 それはそうと、ここまで聞いても自分たちがヌルメンガードへ連行されている理由が見えて来ない。薊はいよいよ焦れったくなって樒へ問いを投げ掛けた。

 

「なんで私たちまでヌルメンガードに行かなきゃなんないの。親戚ってワケでもないのに」

 

「なあに。ヴォルデモートが帰って来た時勢に、可愛い孫娘をまたイギリスへ送るのは保護者としてかなり不安なのでな。アレに護衛を頼もうかと思って」

 

「アレってドレ?」

 

「青髭かよドレって。菫も鈍いなあ、グリンデルバルドの身柄を引き取るんだよ儂が。このまま借り逃げされるのも気に食わんしな。どうせ素寒貧なんだ、命懸けで働かせりゃ帳尻合わせくらいにはなるだろうよ」

 

「待って待って、ダンブルドア先生めちゃくちゃ怒らない?」

 

「そりゃアイツへの嫌がらせでもあるし。儂、アイツ、キライ」

 

「「子供か!!」」

 

 分霊箱を巡る取り引きを持ちかけ、足蹴にされた事を根に持っているのだが、孫娘たちは一切知らない。気まぐれで外交問題を引き起こそうとしている祖父に考え直すよう迫る。この旅行もグリンデルバルドの回収も、けして思い付きではないのだが、やはり気分屋な性格が影響しているのは当人も自覚している。あそこでビッグ・ディールを拒絶した代償なのだから、手痛い損失は必然でなく運命なのだ。

 全て不幸な星の下に生まれた悲劇に過ぎない。

 冷笑を浮かべる樒は、大騒ぎする孫娘たちの真っ直ぐさに微笑ましい思いがした。

 

 間もなく馬車は墜落したのかという勢いで着陸、急停車した。

 シートベルトなしで身体が吹き飛ばなかったのは奇蹟的だった。

 黒衣の御者に礼を言いつつ降り立ったのは、何処とも知れぬ山々の頂きだった。

 切り立った山脈と渓谷ばかりが全方位に広がっている。

 真夏なだけあって流石に雪は積もっていないが、風が肌に冷たい。

 厳しい自然環境の中で唯一の人工物が異彩を放つ。

 朽ちる寸前で放置された、石造りの古城。半ば崖にせり出した建物は一際に立派な尖塔を有し、敷地は真新しい鉄格子で囲まれている。門の両脇には紅白の制服を着た衛兵が控えている。ローブは金色で、どことなく貴族趣味の雰囲気を感じさせる。

 樒は無遠慮に門へ近寄り、衛兵たちに一枚の羊皮紙を示す。

 

「借用書がある。コイツはまだ有効だ」

 

 言葉に魔法が籠められていたのだろうか。二人の衛兵は突き付けられた書類を精査する事もせず、無言のまま門を開け放った。あらかじめ通達されていたとしか思えない周到さに薊は冷や汗をかいた。ダンブルドアへの宣戦布告に付き合わされるのだから、コーヒーとタルトを吐かないだけでも上出来に思えた。菫はさっさと祖父のあとに続いて城へ入っていってしまう。

 いつになく重い足へ鞭打って薊も二人の背中を追いかけた。

 城内は長い年月を経て、亡骸のように静まりかえっている。

 調度品のほとんどは劣化して修復の余地がない。あるいはずっと以前に破壊され粉々に砕け散っているか、さもなければ焼け焦げたり溶けて崩れたり、壮絶な戦いの痕跡を伝えるためだけに存在を許されているようだった。

 

「ここは元々、グリンデルバルドが本拠地としていた城でな。反対派を監禁する牢獄でもあったんだが、昔はもっと綺麗だったそうだ。今じゃ幽霊も住みたがらんなこりゃあ……いや薊の先生はこういうの好きなんだったか?」

 

「うん。キザハシ先生、あんなに美人なのに城オタクでさ。休みになると色んなトコ巡って写真撮ってるの……変なヒトでしょ」

 

「変、変……だったなあ。リー・ジョーダンなんてバカのどこがいいんだろ」

 

「酒癖も男癖も終わっとるからなアイツ。昔っからだ」

 

「祖父ちゃんキザハシ先生のこと知らないでしょ」

 

「知ってる知ってる。儂が推薦状書いたんだあの子の」

 

  祖父が自分の人生に及ぼす影響について、薊は想像するのをやめた。きっと偶然に次ぐ偶然だ……全てが全て、葵樒の掌の上なんて、神様でもなければ不可能なのだから……そう考えてなるべく他愛のないやり取りに専念した。

 薊が半ば現実逃避するように祖父との雑談へ意識を振り向ける一方、菫は明らかな肉体の変化に気付き足取りが重くなっていった。フラーに呼び出され禁じられた森へ踏み入ったときも、第三の試練で迷宮を彷徨ったときも、すぐに体力が底を尽いた。けれどヌルメンガードの廃墟をいくら進んでも疲れていない。

 日頃から鍛えている薊に遅れず歩ける。

 これが努力の結晶なら喜ばしいが、現実は違う。ただ取り返しの付かない目に遭っただけだ。一度だって望んでいなかった。薊はときどき振り返って菫が遅れていないか気に掛けてくれるのに、自分はそんな気遣いをもうして貰えなくなってしまった。

 みるみる気分が落ち込んでいく。どれほど明るい話題になっても笑えない。

 こんな事なら、大人しく薊と同じ学校へ行けば良かったのだろうか……。

 いくら後悔しても手遅れなのは分かっている。けれどふとした拍子に後悔が浮かび上がってくる。

 きっと何もかも忘れてしまうくらい遠い未来になって、ようやく自分は後悔から解放されるのだ。

 そのとき自分が葵菫と呼べる存在でいられる自信はない。

 長い長い螺旋階段をのぼった先、独房らしき空き部屋の前を何度も通って辿り着いた尖塔の頂上に、一際粗末な牢屋があった。見張櫓も兼ねた展望台のちょうど真ん中に、固く閉ざされた鉄扉が見える。樒は菫と薊に近くへ寄るよう手招きした。

 鉄扉には錠前どころか鍵穴もなく、ノブも何もない。再び開かれる事を想定しない、巨大な鉄板のような構造をしていた。樒は勝手知ったる我が家と言わんばかりに鉄板を押し開けた。

 曇天の弱々しい太陽光が牢獄へ射し込む。

 四方形の空間は屈辱的なほど粗雑で、あからさまに歪んだ造りをしている。眩暈がしそうなほど悪意に満ちた、その奥で痩せ細った囚人が真っ直ぐに樒を捉えた。翡翠色の瞳は衰弱し、微かに開いた唇の隙間は一本の歯も残されていない。伸びるがまま荒れ果てた白髪がばさりと囚人の顔に掛かった。

 

「ようゲラート、老けたなオメエ。昔は儂よりハンサムだったつうのに」

 

「私に今更何の用だ死神。燃え尽きる寸前の命をわざわざ刈り取りに来たか」

 

 挨拶に応じる声は嗄れているが覇気に満ちている。

 世紀の大犯罪者と名高い男はまだ枯れ果てていない。

 存在の密度が()となって空間を支配する。

 空気の震動を錯覚させるゲラート・グリンデルバルドの『力』を前に、樒は剽軽な態度を貫く。

 

「オマエさんにはこれからタダ働きして貰う。無一文の身じゃ他に返済のしようもねえだろう」

 

「我々の闘争を、低次元なマネーゲーム程度に考えていたのか。程度が知れる」

 

「節税脱税だけじゃねえ。洗浄もしたし中抜きもした。やれる事ァぜぇんぶやって大赤字だ、オイどうしてくれる」

 

 おそらく、こんな調子でヴォルデモートにも活動資金を貸し付けたのではないか――薊は直感した。だとすれば初対面の相手から恨まれるのは道理だ。信奉者として忠誠を誓うよりずっとタチが悪い。先見性のなさと同じ失敗を繰り返す迂闊さには厭気がする。

 グリンデルバルドは微細な表情の変化を目敏く見抜いた。

 

「唾棄すべき所業だ。それを声高に誇るなど……」

 

 恥知らず。その一言に傷を負う様子もなく、むしろ歯を見せて快活に笑んでみせる。

 

「イカサマをイカサマと見抜けん節穴が悪い。騙される方が悪いのだ」

 

「同じ言葉を孫娘にも掛けるのか? 十六歳の若さで吸血鬼とは、あまりに惨い」

 

「そう、あまりに惨い。儂がバラ撒いた因果の報いだ……何の罪もない母娘が償わされた」

 

「富と栄光は血によって連綿と次代へ受け継がれる。罪科もまた等しく血筋に刻み込まれる。知らぬ身ではあるまい」

 

「ようよう知っとるさ。血脈とともに生き永らえるモノはあまりに多い、否、死に損なうモノと言うべきだろうよ。それらに応報する資格がこの子にはある」

 

 手招きされ、薊と菫がグリンデルバルドの牢獄へ足を踏み入れる。

 石を積み上げただけの空間は窒息しそうなほど息苦しい。

 ここに五十年も幽閉されてきて、何故正気を保っているのか。二人にはとても理解が及ばない。

 

「ゲラート・グリンデルバルド、ヴォルデモートが舞い戻った事は知っていよう。ダンブルドアは今度こそヤツを殺すぞ」

 

 無論と言わんばかりにグリンデルバルドは沈黙した。

 

「その為にハリー・ポッターは死ぬ。アレは分霊箱だ。ヴォルデモートの破滅はハリー・ポッターの破滅と知って尚、ダンブルドアは止まらんぞ」

 

「極論するならば、例の少年はその生命になんら特別視すべき価値を持たない。無数にある『一』の一つに過ぎない。天秤は正確無比を保っている」

 

「正義の天秤などこの世にはない。欺瞞や虚飾は別にすればヒトの意思から生じる全ての理念が正義なのだ。それこそ無数にある『一』に過ぎん。然るに、菫の怒りもまた道理にかなった正義だ」

 

「この私に守護者たれと? 世捨て人となって久しい老人だ。この期に及んで世の善悪と在るべき姿を論じるつもりはない」

 

「勘違いして貰っては困るな。儂は言ったハズだ、()()()()()()()()()と。オマエには儂の代わりに菫と薊の護衛をさせる。拒否権などあり得んぞ、十年そこらで何万ガリオンくれてやったと思っている」

 

 愛用の杖を抜いた祖父に薊が「待った」を掛ける。

 

「こんなトコで魔法なんて使ったら不味いって! 閉じ込められでもしたら……」

 

「心配は不要だフロイライン。この監獄に警備の魔法は一切施されていない」

 

 落ち着き払ったグリンデルバルドの声に薊は動揺する。

 今世紀においてヴォルデモートが台頭するまで『最悪の魔法使い』と恐れられてきた男が、何の警報装置も仕掛けられていない文字通りの廃虚へ押し込められていた。あり得ない、その言葉が無意識に口からこぼれ落ちた。

 

「私という存在は既に過去となって久しい。アルバス・ダンブルドアの宿敵、あるいは熱狂的革命家としての『ゲラート・グリンデルバルド』へ信奉を表明し、古い様式を模倣する者たちでさえ、私の実像にはまったく価値を認めていない」

 

「この男はただ贖罪の為だけに自らを罰している。誰からも必要とされず、世界から忘れ去られ、ただ朽ちていく結果を求めてここにいる――――愚かな事だ」

 

 杖の一振りで骨と皮だけになったグリンデルバルドの身体が縛り上げられた。

 黒々とした縄が手脚の自由を奪い取り、襤褸切れ同然の衣服と相まって正視に耐えない姿となる。

 無抵抗の囚人から薊は目を逸らした。罪人にも尊厳があるはずで、辱められる姿を見るのが辛すぎた。

 

「『服従の呪文』はムーディ、いやクラウチ・ジュニアから習ったろうが、アレは連続して使用する類いではない。短期間に繰り返し呪文を掛けると却って抵抗力を引き揚げる結果になる。より効率的で現状に相応しい手段が一つだけある……菫、こっちへおいで」

 

 無警戒に祖父の元へ歩み寄る菫。きょとんとして痩身を見上げる孫娘へ、樒の笑顔が注がれる。

 

「その身体になって一ヶ月半、ずっと絶食というワケにもいくまい。血は不味かろうが魔法力は一級品だ……グリンデルバルドならばいい練習台になる」

 

「え……でも、私、血なんて呑みたくない……なんでそんなコトしなきゃいけないの?」

 

「そのまま行けばもう一ヶ月で身体が動かなくなる。吸血鬼としての『死』だ。アレの血を奪えば数年は保つだろう……自裁を焦る事はあるまい。未練もあるのではないか?」

 

「未練……未練、未練は、あるけど。でも、まだ心の準備が、なんにも」

 

 唐突に『捕食』するよう告げられた菫は恐怖で震え始める。

 覚悟も心構えもないまま怪物の真似をしろと言われ、それまで本能を封じ込めてきた理性が悲鳴を挙げる。いくら無視しても抗いがたい食欲が、獲物を目の前にしてついに枷を引き千切ろうとしている。衝動が全身を駆け巡ろうとしても心はまだ人間のままだった。相反する感情にこのまま引き裂かれ、いっそ事切れてしまいたい菫の手を、薊が思い切り握り締めた。

 振り絞った声が震えている理由は一目で分かった。

 

「一緒に学校行こう。それで一緒に遊ぼう。一緒に寝て、一緒に笑って、一緒に家へ帰ろう。絶対に菫のコト置いていかないから……お願いだから、もう置いてかないで」

 

 両目に浮かんだ涙が手の甲へ滴る。

 その熱さに皮膚が焼ける思いがした。

 ずっと焦がれてきた『一口目』は苦く、濃く、しかし奥底に仄かな甘さと芳醇な香りの隠れた、不思議な味がした。

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