左右から挟み込むように浮き彫りのレリーフが展示された回廊。
大英博物館第十号室。第六室から始まる古代アッシリア美術の最高峰である。
アッシュールバニパル王の獅子狩りを精巧に描写した傑作……らしい。
約二六〇〇年前の作品と言われても薊にはそのスゴさがピンと来ない。
いきなり「紀元前六〇〇年に何があった」なんて聞かれてもサッパリだ。
高松塚古墳が西暦七〇〇年代だから、まあ古いのだろうとは分かる。
美術品というのはどうにも薊の感性では「古い」「新しい」とか色彩の濃淡や明暗、線の太い細いという極めて表面的な部分を読み取るのが精一杯だった。わざわざ貴重なプライベートの時間を割いてくれた階教諭に申し訳ない気持ちだった。
当の本人は単眼鏡で食い入るようにレリーフを見入っている。
これではどっちが付き合っているのやら怪しい。マイペース過ぎる。
「面白いでしょう。コレ」
「そうなんですか?」
「全体を見ると奇妙に思いませんか? 同じ人物が並行して描かれています」
指摘されてみれば「確かに」と気付ける。上段、中段、下段のすべての彫刻に豊かな顎髭を蓄えた偉丈夫が登場する。服装をはじめ特徴からしてこの人物がアッシュールバニパル王であり、その後ろに控えている少し小柄な人々は従者だろうか。
「一枚の彫刻と思わず、マンガだと思いながら見てみるとよく分かります」
「マンガ……マンガ……」
枠で囲まれた
「絵巻物もそうです。コミック・ストリップとかバンデシネとか、現代風の『コマ割り』技法が発明される以前のマンガ的表現と言えば、なかなか面白くありませんか?」
「ああ、まあ、そう言われると確かに……? こんな大昔からあったんだな、とは」
「マンガというのは基本的に娯楽や風刺が主たるコンテンツです。ではこのレリーフはどうです? 現代人の感覚では難しいかもしれませんが」
「テレビもラジオもない時代ならエンタメなんじゃないですか」
「言い忘れていました。このレリーフは王の宮殿を飾っていたモノです」
「だったら違うのか。屏風絵とかと同じだったり?」
「さあ、どうでしょうね。ただ一つ断言できるのは、この狩りは慎重に計画された『儀式』という事だけです」
「どうでしょうねって、聞いたの先生じゃないですか」
少し苛立った調子で薊は階教諭を見上げた。
教え子の反発も気に留めず教諭は「専門家じゃありませんし」と言い放った。
「私の専門は東南アジアの先住民族文化ですよ。ではお詫びにヒント。次は王でなくライオンに注目して見るといいでしょう」
「ライオン? そんなのでどうして狩りが儀式だなんて……」
一言でアジアと表現しても『極東』と『オリエント』では棲息する動物も違うハズだ。
だったらライオンくらいいるだろうし、だいいち野生動物の狩りを計画的な儀式にするのはかなり無理があるように思えた。時間の制約もあるし天気だってそうだ。これだけの大人数で移動するならどうやったって行ける場所も限られてくる。悶々としながら助言通りライオンだけに注目してレリーフを追うと、すぐに気付いた。
「檻から飛び出してる」
四角い枠組み…・…檻から今まさにライオンが解き放たれた瞬間が描かれている。
「少なくとも本番までに捕らえたライオンでしょう。討ち取ったライオンに杯から液体を注いでいるのが見えますか?」
「ありました。いや、コレなんか人物増えてません?」
「ショーでもあるのですよ。アッシリアなら水かワインでしょう。演目としての『獅子狩り』ならその台の上の人物は観客でしょうね」
「コロッセオでやってるような? 王様が剣闘士ってヤバくないですか」
「ローマのアレは純粋な娯楽ですがこちらは宗教的儀式ですよ。アッシリアの神話には有翼の獅子を弓矢で倒す英雄の話があります。時に人や家畜を襲う『野生の象徴』である肉食動物を、文明の指導者であり民の支配者かつ庇護者である王が征服するという物語を有した儀式だけでなく、英雄伝説の『再演』という宗教劇でもある」
鷹狩りのような王のスポーツも兼ねているでしょうし、もちろんローマの闘技場やスペインの闘牛と同じく大衆娯楽の側面もあるとは思いますよ――階教諭は淀みなく語り、薊はまるで授業中のような気分にさせられた。自分はいま観光中なのである。もう少し雰囲気というものを尊重して欲しい。
教諭は「美術なんて分からなくても楽しいでしょう」と微笑んだ。
術中に嵌められたようなものだ。「ええ、まあ」と無愛想に応じるのがせめてもの悪足掻きだった。
マイペースであっても周りを無視しないのがなお厄介だ。
嫌うに嫌えないというか。変に邪気がないから敬遠しづらい。
外見相応に落ち着いていたのはアッシリア美術の展示だけである。
第二十五号室のエジプト美術になると薊より興奮していた。
仏教芸術と古代エジプト美術の『女性的曲線美の類似性』についてずっと囁かれ、流石に鬱陶しさが勝ってしまう。
けれどこの変わり者に悪気はない。だから却って腹が立つ。
ルネサンス以前の身体的性差が曖昧な西洋絵画、流線形の人体表現に富む古代エジプト美術、そして性別という軛を超越した菩薩像の優美さを際限なく論じる。宗教と芸術という視点は聞いている分には面白いけれど、論のテーマを理解するのに必要な知識が不足している薊には「はあ」と適当な相槌しか打てなかった。
しばらくそんな調子でエキサイトした年齢不詳の担任とエジプト展示室を一階から二階へかけて順に巡り、第六十五号室でひとまず大英博物館の見学はタイムリミットを向かえた。
「ごきげんよう、マダム・キザハシ。ロンドン観光をお楽しみのところ大変失礼」
とても穏やかな、しかし明瞭な存在感を示す声が階教諭を呼び止める。
長く真っ白な髭と床を掃くようなゆったりしたローブ。魔法使いの出で立ちそのままにアルバス・ダンブルドアが半月型の眼鏡の奥で青い瞳を好奇心に輝かせていた。
「流石は元文化人類学教授じゃ。つい聞き入ってしまいましてな、ご挨拶せねばとは思うておったのじゃがついこんなに遅くなってしもうた」
「教え子の前でつい。どうも恥ずかしいですね。しかしご心配なく、忘却呪文はまったく使えませんので……どうぞ他言無用に願います」
「無論、心得ておりますぞ。レディは秘密が多い方がより美しいと言いますからな……願わくば是非とも若さの秘訣を教わりたいくらいじゃが、それはまたの機会としましょうぞ」
教諭はニヤりと笑ったがその真意は掴めない。
普段から何を考えているか分からない人物である。
ダンブルドアの視線は薊に移る。
心を見透かすような目が気に食わない。
「実のところ儂の目当ては君なのじゃミス・アオイ。どうしても新学期の前に会っておかねばならぬ事情があっての」
「存じています。もちろん、色々と。どちらへ伺えばよろしいでしょうか」
「流石の理解力じゃのう。『一を聞いて十を知る』とはまことにこの事じゃ。さて、ほどよく小腹が空く時間帯でもある、どこぞで軽食も摂りたいところじゃが……まずは聞き耳の立てられぬところへ行くとしようかの」
そう言って差し出された右腕の意味を薊は理解出来た。
ダンブルドアは『姿現し』でこの場を離れるつもりなのだ。
少なくとも最初に接触してきた時点で、行き先は二つに一つ。
身の安全を考えればこれ以上の条件はないだろう。
薊は促されるままダンブルドアの隣に立った。
「では先生、失礼します。また新学期に」
「ええ、また明日。最初の授業を楽しみにしていてください」
「……はい。ダンブルドア先生、お願いします」
階教諭に見送られて薊はダンブルドアとともに姿を消す。
甲高い「バシン」という音が館内に響くが、周囲の誰も気付かない。
†
予想通り薊はダンブルドアとともにホグワーツの校長室へ着いた。
残る候補地が『不死鳥の騎士団』本部だっただけに安心感がある。
窒息しそうなほどの窮屈さから解放され、肺に酸素が満たされていく。
初めての『姿現し』によるテレポートはけして快適とは言い難かった。
軽く咳き込んだもののそれだけだった。
慣れれば問題なくなるだろう、というのが体感である。
「その様子ならあと一回二回で馴染めるじゃろう」
「恐縮です。そうそう乱用出来る呪文ではなさそうですが」
「高度な魔法じゃからのう。多くの魔法使いが敢えて箒や煙突飛行ネットワークを用いるのも、失敗した際のリスクが高すぎる故じゃ」
なるほど、と思いつつ「試験に受かっても軽率に使うのは避けよう」と自戒する。
便利になればなるほど事故時の被害が深刻化するのは魔法も科学も同じだ。
科学の方は事故を元に対策を講じ、同様の事故の発生率を抑制できる。「説明書の内容を理解出来る」前提さえクリアすれば誰でも扱えるのが科学の利点である。対して魔法はいくら理論を正確に把握しても、結局は個人の才能に大きく依存している。だから個人の性質や才能という覆し難い要素によって得手不得手が固定化されやすく、そのせいで容易く個人差が生じ、しかもこの隔たりを埋めるには並大抵の努力では足りない。
ホグワーツというイギリスどころか世界的に見ても高水準の教育機関でさえそうなのだ。
入学を許可されないレベルの魔法力しか持たない大多数の人々ではまず扱えまい。
けして標榜していなくとも結果的に実力至上主義社会である魔法界は、残酷過ぎる。
薊に具体的な将来のビジョンはない。ただ漫然と「実家を離れたい」という希望だけを抱いているレベルだが、しかし魔法なしではもう人並みの待遇を望めない以上、実家の縁に頼らざるを得なさそうな現状も認めている。
であればダンブルドアとの『交渉』はなるべく友好的になるべきでない。
結局は当主である祖父と、そのお気に入りである菫の意向が全てなのだから。
「ヴォルデモートが復活した現状はミス・アオイもよくよく承知しておる事じゃろう。本題へ入る前に、その前提をまず確認しても構わんかのう?」
「ハリー・ポッターとセドリック・ディゴリーの証言を疑う余地はありません。少なくとも虚言癖の持ち主ではないし、二名の目撃者がいる以上、単独の証言より信憑性は高い」
「実に正しい見解じゃ。では単刀直入に聞くとしようかの……君とスミレはどちらの陣営につくのかね?」
そら来た――なるべく緊張せず、冷静に。無理は承知で言い聞かせる。
あくまで自分のペースを保つ意図を示すため表情筋を総動員する。
「どちらの味方にもなりません。例えこの国が再び戦場になろうと、私は留学期間を終えればそれで引き揚げます」
「ヴォルデモートがみすみす許すと思うかね? 因縁ある男の血縁を手放すなどあり得ぬ。魔法省も同様じゃ。過去、二度も煮え湯を飲まされて三度目ともなれば座視はすまい」
「コーネリウス・ファッジにそれほどの度胸があるとは思えません。でなければキザハシ先生のような要注意人物をこんな情勢下でみすみす懐へ抱き込むような真似なんて……」
「彼女を招いたのはこの儂じゃ。防衛術教授の椅子を魔法省に渡すのは忍びないと思ってのう……儂やミス・アオイのように魔法教育こそ受けてはおらぬが、あのレディならば教育者として信頼出来る」
「人選ミスだ。あの人に限って信用してはいけない。キザハシ先生は超を幾つ重ねても足りない自己中心的な性格ですよ、アメリカで何をやらかしたかご存じのハズです」
「その件は既に『MACUSA』と教授の間で手打ちが済んでおる。極めて行動力に富み、かつ探究心と学術的好奇心の旺盛な御仁である事は承知しておる。生徒にとり良き模範となると、儂はそう考えたのじゃ」
一九二〇年代から五〇年代にかけてのフィールドワークと、七〇年代に相次いで発表された階黑羽の論文がどれほどアメリカ魔法界に悪影響を与えたかは言うまでもない。闇の魔術に関する知識に関して言えばこれほど相応しい人選はあるまいが……その探究心は誰にも止められない。ヴォルデモートに便宜を図る可能性がないとは、断言出来ないほどに。
「じゃからこそ『教え子』というブレーキが必要になる。少なくとも魔法省とて座してはおらぬ、既に法改正で自ら口実を創造し、ホグワーツへの介入を始めておるしのう」
「魔法省の役人にあの先生を抑えられやしませんよ。半端な学歴と知識量じゃ鼻で嗤われるのが精々です。それに、私を引き込みたいのはキザハシ先生が理由じゃないでしょう」
「無論、他に幾つか些細な事情がある事は認めよう。しかし本命は嘘偽りなくあのレディについてじゃよ……幸いにも学校間の協定で教育連携プログラムがあっての、先方も儂の申し出を快諾して下さった」
「そりゃ嫌われてますし……他人に興味がないうえ職歴でも学歴でも別格ですから」
自分なりに大きく踏み込んだつもりだったが、軽々と躱された。
いくら知識として理論を知っていても実践するには経験が足りない。
失敗こそ学習の本質とはいえやはり手痛い。
ここで足掻けば足掻くほど挽回の余地が失われる。
むざむざ態勢の立て直しを許すほど甘い相手でもない。
ならばいっそ、ここで切り札を切ってしまえ。
薊はカツカツと床を二度、貧乏揺すりの要領で踏み鳴らす。それが
祖父から譲り受けた透明マントを脱ぎ去った菫が姿を現す。
にこやかな笑顔は明らかな恫喝の意図によるものだ。ギラつく真っ赤な瞳と鋭く伸びた牙、完全に吸血鬼と化した姿をダンブルドアへ突きつける。
「ご無沙汰していました校長先生。おかげさまで楽しい夏休みを過ごせましたよ」
「ごきげんようスミレ。ご家族とのオーストリア旅行を満喫出来たようで何よりじゃ」
菫は薊を庇うように黒髪をたなびかせて一歩前へ出る。
薊も交渉のバトンを菫に手渡す意味で一歩下がる。
校長のデスクの向こうで、ダンブルドアの目が輝いた。
「私がやろうとしているのはただの復讐です。私を殺したヴォルデモートと、ヴォルデモートに私を殺す機会を与えた先生への仕返しですよ。そんなにお祖父ちゃんが憎いのならもっと前にやる事をやれば良かったんだ」
「儂はスミレのお祖父様を憎んでなどおらぬよ、浅はかならぬ因縁がある事は重々承知しておるとも……じゃがそれは何もシキミ殿だけに限った事ではない。『信奉者』ならぬ『支援者』は世界中におったし、その多くが当時から現在に至るまで変わりない暮らしをしておるのじゃ」
「ずーっと昔から先生を嫌っている人が多い理由、分かる気がします。あからさまな秘密を隠し通そうとするその態度。誰だって腹が立つに決まってます……物事を深く考えたくない人たちにとっては判断材料が少なくて済むから助かるんでしょうけど」
「手厳しい限りじゃ。近頃はマクゴナガル先生の他に儂を諫めて下さる方がおらんでのう、その言葉は謹んで頂戴せねばならぬ」
「後悔しても遅いですよ。私はヴォルデモートもダンブルドア先生の事も憎い。だから素直に復讐する事にしました……ゲラート・グリンデルバルドはその第一歩だ」
「ヌルメンガードであの男と如何なる会話をしたのか、敢えて尋ねんでおくとしようかの。シキミ殿のなさる事じゃ、儂に聞かせようという思惑あっての問答に違いあるまい」
しかし何故、今更になってあの男を殺めたのじゃ……ダンブルドアは深く憂うように首を左右へ振る。仮初めであっても教え子の凶行を嘆く姿は真っ当な振る舞いに見える。菫はそんな態度を嘲笑うように笑い声を爆発させた。
ホグワーツに限ればかつての葵菫はそれほどに笑わない子供だった。
「
ケタケタと笑う様は本当に母親そっくりで、さらに言えば祖父譲りであった。
血は争えない。よく言えば悪戯好き、悪く言えば愉快犯。諧謔趣味のうえ衝動的。
どうしようもなく感情が先に来る性分なのだ。
ほんの一瞬、瞬きするよりも僅かな数拍の硬直だったが、薊の動体視力は確かに見た。
アルバス・ダンブルドアがポーカーフェイスを剥ぎ取られた瞬間がこの世界に存在した。
「アイツはもう私のモノだ。心も体も、記憶すら命令一つで好きに出来る。だって仕方ないじゃないですか。こんなご時世ですし。私だけじゃなく姉さんの為にも連れて行きなさいってお祖父ちゃんが言うんです。何ヶ月も血を吸わずにいたら、今度こそ死んでしまうからって」
「これまで、懸命に吸血の欲望に耐えてきたというのに、奪い尽くしてしもうたとは」
「半分であっても人間だったからですよ。もう完全な吸血鬼になってしまったら、それだけが食事になってしまうんです。私にも未練がありますから……もちろん復讐です。まずはグリンデルバルドの全てを奪いました。彼は私が許すまでずっと他人のまま。自分自身を忘れ、他人のフリをし続ける」
ポリジュース薬でもなければ服従の呪文でもない。
バーティ・クラウチ・ジュニアがマッドアイ・ムーディへ成り代わった手段はそのままに、吸血鬼という種族の特性とグリンデルバルドの能力を最大限に活用した悪戯だった。かつての恋人であり自ら決着させた宿命の相手、その存在の全てを命じるままに支配するという悪辣極まりない仕打ちである。
菫にとって明白な宣戦布告であり人質戦術でもあった。
どんな相手でも下僕にすれば自分の手駒に出来るのだと。
デモンストレーションを兼ねた思いつく限りの復讐だ。
「会いたいならいつでも会わせてあげます。もちろん、記憶も自由も返してあげた状態で。『不死鳥の騎士団』に欲しければどうぞ構いません。私にも参加しろと仰るなら喜んで加わります……ただし条件が一つだけ」
「拝聴しよう。無論、儂に与えられた権限の範疇を超えた要望は須く承諾しかねるがの」
「簡単な事ですよ先生。『分霊箱』に関する詳細な資料が欲しい。ゴデロットの本には呪文の名前しかなかったんです、あまりに邪悪なので記す事はしないと、そんな断りもありました。アレじゃどんな魔法かさっぱり分かりません」
「ゴデロットほど熟達した闇の魔法使いでさえ忌むべき邪法と断じたモノを、何故知ろうとするのじゃ。どれほど穢れた魔術であるか想像出来ぬ事はあるまい」
今度は菫が首を左右に振る番だった。
少し遅れて長い黒髪が揺れる。
身の丈ほどの大蛇を従えているようだ。
「私も知りたいんですよ。あのヴォルデモートがどうやって死の運命を退けたのか。ただの好奇心として……お祖父ちゃんが知っている以上、不死に関する呪文のハズなんです」
「グリンデルバルドの身柄と引き換えに、かの」
「ええ。取り引きとしてはお互い何の損失もないでしょう?」
「残念じゃが、あやつでは交渉材料にさえならぬ。アレはただの過去じゃ」
自分が優位な立場で交渉を進めている。その認識を覆された。
唖然として「え?」と言ってしまうあたり菫もまだまだ経験不足だ。
容易く形勢を逆転してのけたダンブルドアは毅然として対峙する。
如何に未成年であろうと挑戦者に対して手加減はしない。沈黙を保つ薊にも菫の劣勢はこれ以上なく明白に映った。
「儂の要求は二つあるが、これもそう難しいものではない。一つはハリー・ポッターへ危害を加えぬ事……曖昧に聞こえるかも知れぬが、『秘密の部屋』の二の舞は儂としても阻止したいでの。もう一つはルシウス・マルフォイからのあらゆる誘いを固辞する事。あやつは『失点』を取り戻そうと君を自陣に引き込み、ヴォルデモートへの忠誠心とする腹積もりじゃ。これは不要な諍いに巻き込まれぬ為の予防策と思ってくれればよい」
「何故、私がハリーへ危害を加えると? 彼はどうあっても死ぬ運命だ」
「そこまで承知しておるのなら、ではもう少し踏み込んだ要望にせねばなるまい……そうじゃのう、ハリーの味方として支えてあげてはくれぬか。あの子はいま精神的に追い詰められておるのじゃ。そうした状況ではより多くの仲間が必要になる」
「何故私が。どうして私がアナタのお気に入りを支えなければ。そんな事はご自分ですればいい、少し慰めの言葉を掛けてあげればそれで片付くのに。その手間すら惜しいと?」
「如何にも。率直に言って儂はいま生涯で最も多忙を極めておる。現状でさえ手が足りぬと感じる瞬間が日に日に増えている始末じゃよ。全ては次の戦争でより迅速に勝利する為じゃ……大義などとは言わぬが、しかし重要な責務には違いない。これを疎かにする事だけはどうしても許される。ハリーにはせめて、僅かでも心穏やかであって欲しいという儂の願いじゃ」
「だったら!! どうして生前の私にそうしてくれなかったんです!!」
「傲慢の誹りは甘んじて受けよう。目先の問題にかまけ、スミレの苦しみを知ろうともせなんだ。一度たりとも顧みようとさえしなかった。儂は皆が言うほどに心優しくもなければ、偉大な人間でもない……そう望まれておる事を知って、ただ皆の理想を演じるだけの道化じゃよ」
真夏のある日、祖父の語った言葉を薊は噛みしめる。
――誰も菫を救えなかった……フラー・デラクールとの出会いだけが、唯一の救いだった
芯まで深く凍りついた心を融かしたのはホグワーツでなく。
半ば通り魔めいた、同病相憐れむと言うべき一目惚れである。
どれほど足掻いても手を差し伸べて貰えなかった自分へ、手を差し伸べろという。
ハリー・ポッターは精神的に追い詰められている。肉体は完全に健やかで、ヴォルデモートの復活という事件に心の均衡が揺らいでいるという。その程度の理由でどこまでも手厚くされる。ただ両親を殺されたという、それだけの理由で……あの時代ならごくありふれた出来事なのに。
翻って自分は一度として顧みられなかった。
人間の理性と怪物の本能に苛まれていただけ。その程度の存在だったらしい。
以前から菫は激昂すると魔法が暴走しやすかった。
それが完全な吸血鬼となってさらに悪化した。
調度品が次々に捻れ、砕け、破壊される。
燭台が飴細工のように歪む。積み上げられた書籍の山は相次いで崩落する。堅牢なキャビネットは軋むあまりに亀裂が走った。
歴代の校長たちの肖像画が振動の激しさに悲鳴を挙げる。
菫の絶叫はそれら全てを消し去るほどの声量だった。
「お断りする!! 私がハリー・ポッターを助ける事は、金輪際、ない!!」
ダンブルドアと菫による交渉は薊の眼前で決裂した。
八つ当たりだけはすまいと菫はなるべく声を潜め「先に寝室へ行きます」とだけ告げ、校長室の扉を蹴破った。ポツンと残された薊はこれから向かえる新学期を思い、暗澹たる気持ちのあまりガックリと肩を落とした。
のたうちまわる怒りに蹂躙され尽くした跡地で、ポツリと、
「大人げないですよダンブルドア先生」
自分でも驚くほどに力ない声で呟いた。
彼の心中など知る由もないけれど。
ともかく言わずにいられなかったのだ。