突き刺さる無数の視線を薊はすべて無視して毅然と振る舞った。
どんな感情が籠められていようと自分には一切関わりがない。
言いたい事があるなら直に言え。そうでなければ墓まで持って行け。
こちらから尋ねてくれないかというバカげた考えばかり。あまりに甘い。甘すぎて胸焼けしそうだ。
雪印の『コーヒー牛乳』じゃあるまいし。
寮を問わず――寮という枠組みに無頓着なアウトロー気質の影響もあるだろう――隣同士で囁きあっては盗み見るようにチラリと覗く。スリザリンでも薊に対しては似たり寄ったりな雰囲気があった。強いて言えばいつも固まって行動している
薊は監督生という制度を知らないでいる。
なのでドラコとパンジーの胸元に輝くバッジを見て「またお揃いか」としか思えない。
カップルになると共通の装飾品を身に付けたがるのか。非常に不思議である。
答えを知りたいとは思わないあたりが如何にも薊らしいドライさだろう。
少し見渡せばミリセントはつまらなさそうな表情でブレーズ・ザビニと一緒にいる。ダフネに至っては誰とも口を利かず彫刻のように不動の姿勢を保つ。
寮への帰属意識が薄いせいでスリザリンの状況も不承知だった。
ダンブルドアの合図とともに豪勢な料理が現れても食欲が湧かない。
強いて言えば無口な方である。お喋りにも食事にも意識が向かず、苛立たしいほど緩慢に流れる時間に耐えて耐え、デザートまで食べ尽くされてようやく始まったダンブルドアからの挨拶にホッと胸を撫で下ろす。ここまで来ればもう少し。担任が教職員のテーブルにいる手前、早退紛いの振る舞いは自重していた。
新しい『闇の魔術に対する防衛術』教授として階黑羽が紹介される。
ダンブルドアに示されるとスレンダーな高身長が立ち上がった。
「マホウトコロで長く教鞭を振われてきたのみならず、世界各地の古代遺跡や秘境で学術調査を行なわれてきた行動派の学者でもあられる。キザハシ教授の探究心と行動力から皆が多くを学んでくれる事に期待しよう」
手を重ね丁寧にお辞儀する様は奥ゆかしい。
実際は好奇心の擬人化と言うべき変人である。とにかく興味関心が向くと突っ走ってしまう。
だがホグワーツの生徒は彼女の素性を知らない。
マシなのだ。まるっきりマトモでないなりに。
むしろ問題視すべきはもう一人の女性……薊はよく覚えている。
魔法省の役人で、絶賛迷走中なコーネリウス・ファッジ大臣の側近。とにかく少女趣味なピンクロリータが目に毒でしかない奇っ怪な婦人、ドローレス・ジェーン・アンブリッジだ。学生新聞に奇妙な言い掛かりをつけてきた『クソババア』と記憶していた。
校長曰く『魔法省教育改革準備委員会』の査察として赴任されたという。
つまるところ「ホグワーツの教育プログラムは魔法省の策定した基本方針を逸脱して余りあるうえ、教育水準も年々低下している……のではないか?」という疑念を晴すため発足した『改革を検討する』という目的も責任もよく分からない委員会のトップなのだそうだ。
魔法省によるホグワーツへの介入の橋頭堡と言えば話が早い。
アンブリッジ査察官の演説も無味乾燥として面白味は何もない。
初耳なのに聞き飽きたと錯覚させるほど定型的な言い回しと、形式的かつ抽象的で曖昧模糊としたビジョンに基づく空想論でもって、ダンブルドアに対するファッジの猜疑心をコーティングしているだけだ。
酔っ払いの戯言を
いつもなら全校生徒が沈黙してダンブルドアの言葉に耳を傾ける。
アンブリッジの退屈極まりない所信表明に集中力を発揮している生徒は少数派だった。生真面目な下級生はまだ何とかなっているが、これが上の学年になればなるほど「聞くに値しない」と即断して本を読んだり小声でお喋りしたり、好き勝手にしている。監督生ですらそんな態度である。アーニー・マクミランは瞬き一つせずアンブリッジの姿を目に焼きつけているが……彼の場合はむしろ責任感から視線を壇上に固定しているだけだ。
「話の内容なんて頭に入っちゃいないな……」
他人事ながら本当に損な性格だと思う。不憫に感じる程度の親しみはある。
それにしても、アンブリッジは本気なのだろうか。
教授たちはあからさまな宣戦布告に反発している。
乾ききった拍手と硬い表情は「やれるものならやってみろ」という態度に見える。まして理事会もそうだ。彼らはみなホグワーツ卒業生で……そこまで考えが至って、ようやく気づいた。
ルシウス・マルフォイ理事長がいる。
ヴォルデモートの下に帰参した死喰い人だ。
なるほど、ホグワーツを撹乱するのに好都合か。間違ってもこんな露骨な工作員はいるはずがないのだし……だったらむしろ厄介に思っているかもしれない。これから『査察』の名目であらゆる手段を講じ介入してくるなら、ホグワーツは反アンブリッジを旗印に団結する可能性もある。
際限なく膨らんでいく仮定の想像を自ら打ち切った。
いくら対策を妄想したって自分はただの留学生である。
やるだけ無駄だと分かっているなら、すべきではない。
何人がアンブリッジの通達を理解しているか不安だ。
きっとハーマイオニーは完璧に意図を見抜いている……彼女は本当に賢い。何か問題があれば真っ先に立ち上がるだろう。そのとき巻き込まれないようなるべく目立たないようにしなければ……。
薊の決意は即座に覆される。ダンブルドアがお開きを宣言し、大広間のそこかしこでガタガタと生徒の立ち上がる音が聞こえた。
――ようやっとベッドで横になれる
全身から力の抜けるあまり項垂れてしまった。
おかげで不安にも
「これから夜だというのに、もう寝てしまうんですね」
衣擦れのようなクスクス笑いが低く低く、地を這う蛇さながらに大広間を駆け巡った。
数ヶ月、四大魔法学校対抗試合で落命したはずの菫がいた。
蒼白い顔色はそのままに鮮やかな血色の瞳を歪ませている。
「思い残しが多すぎて死にきれませんでした……どうぞ今年もよろしく」
衝撃と困惑と恐怖とで生徒の顔を染め上げる。
周りの反応を確かめて悦に浸っている。この距離なら顔に拳が届くのだが、喧嘩し慣れていない菫はなかなか気づかない。
さてどうしてやろうかと右手の指関節を鳴らし始める。
薊の制裁が放たれるより早く、パンジーの平手打ちが炸裂した。
「どうして一言も伝えてくれなかったの!!」
涙に揺らいだ声が張り裂けそうだった。
じわりと感情が菫の両目に滲んだ気がした。
屍が泣く事はない。死ねば二度と泣けない。
「もし貴女に怖がられたら、どうしようって……」
成長しても、人間から逸脱しても、菫の臆病さは変わらない。
その根底にある不信感はまだ誰も見抜いていなかった。
†
菫が黄泉還ったところで授業は滞りなく始まる。
五年生の時間割によるとキザハシ教授が先陣だった。
防衛術の教室はかれこれ五回目の模様替えとなる。
まったく未知数の教授である。生徒たちは緊張の面持ちで『闇の魔術に対する防衛術』の教室へ踏み入り、そしてあまりにも普通すぎる内装に拍子抜けした。人数分の机と椅子が並んでいるほかは参考書や専門書が詰め込まれた本棚がいくつかあるだけ。奇妙なのは真っ黒なタイトワンピースのキザハシ教授と、こちらも薄気味悪いピンクのスーツを着たアンブリッジ監査官だけだった。
この新教授がどのくらい厳しいのか、まだ未知数だ。
スリザリンとハッフルパフの生徒は用心して席に着いた。
全員が揃うと教授はゆらゆら立ち上がり、
「おはようございます。記念すべき初授業ですね」
と当たり障りのない挨拶をした。ハッフルパフの方から「おはようございます」と小さな声が返ってきた。教授は気に留める様子もなく黒板に名前を書き殴った。
「改めまして、キザハシ・クロハと言います。一年間どうぞよろしく」
スリザリンは品定めするような態度を崩さないでいる。
図々しく「お手並み拝見」という雰囲気を隠そうとしない。
教授はさっさと教科書を手にとって広げた。
「それでは教科書と筆記用具を出してください。杖はどちらでも構いませんよ。あろうとなかろうと同じです」
杖を使わない授業がどれほど退屈かは身に沁みている。
言われるがまま羊皮紙と羽ペンを鞄から引っ張り出す。
教科書に『防衛術の論理』が指定されていた時点で、予感はあった。あんな幼稚すぎる表紙だ。内容も実践から程遠い。記述だって初歩も初歩の理屈に過ぎない。
落胆する生徒を無視して教授の話は続いていく。
「皆さんのこれまでの授業内容については把握しています。特にこの二年間は実践重視の傾向が強いですね。当然、闇の魔術に対する防衛術ですから
そこで魔法省が新たに策定した指導要領を参考にしたのだという。
アンブリッジ監査官が「当然です」と言わんばかりに大きく頷く。
教授の黒い目が教室全体を見渡している。その中に監査官はいないように思えた。
「率直に言ってお粗末なモノですけれどね……まあ普通魔法レベル試験の対策程度にはなると約束しましょう。よく知らないママで高度な防衛術を習得するよりはずっとマシです。理論を正確に理解する事で呪文の精度は格段に向上します。そうなれば危機的状況でより多くの選択肢を――」
「エヘン、エヘン」とアンブリッジ監査官がわざとらしく咳払いをした。
しかし教授は振り返りさえせず喋ろうとする。
眼中にないのは誰が見ても明らかだった。
生徒の前で無視された監査官の笑顔が引き攣った。
「キングズ・クロス駅から『ノース・シー・フィッシュ』へ向かう途中でレッドキャップに襲われたりはしないでしょうけれどね。しかし世の中は何が起こるか分からないモノです。もしかすると数十年後に『ザ・テン・ベルズ』の前で酔っ払った私と大喧嘩するかもしれない」
もちろんスリザリンは誰もジョークを理解出来なかった。
ハッフルパフばかりが両肩を震わせて忍び笑いをしている。
一番面白くないのはアンブリッジだろう。査察中にもかかわらず――魔法省による重要政策という看板を掲げているつもりだったところへ、歯牙にも掛けぬ態度を突きつけられた。自分に与えられた権力に平伏すどころか中指を立てたのも同然……小さな瞳なのに白目がやけに大きく見えてきたのは気のせいではない。
繰り返し「エヘン、エヘン」と甘ったるい咳をする。
今度はキザハシ教授も「ああ、失礼しました」と振り返った。
「喉の調子が悪いとはつゆほども思わず。そう言えば昨日も同じ咳をなさっていましたね。レモンのど飴でよければ如何です?」
「あらあら、ご心配には及びませんわキザハシ教授……先生のお心遣いだけ頂戴いたしますから、ええ」
今度はスリザリンからもクスクスと忍び笑いが聞こえた。
アンブリッジ監査官は見えも聞こえてもいないように振る舞った。
ボードに挟んだ羊皮紙へ羽ペンで何か書き込み、さらに尋ねる。
「いくつか質問してもよろしいかしら…・…ワタクシ、少し先生のお話に疑問がありますの」
「熱心なんですねアンブリッジさん。次回からは監査官の分の机と椅子も用意しておきましょう」
耐えきれなくて吹き出した生徒の事も当然無視した。
冷酷な微笑で正面に回り込まれても教授は平然としている。
身長差がありすぎるせいで女性コメディアンにしか見えない。
「先生、先ほど『魔法理論への理解を深めれば、危機的状況でより多くの選択肢を……』というような事を仰いましたけれど、その『危機的状況』というのは具体的にどのようなモノかお聞かせ願えませんかしら」
「言うまでもなく闇の魔法使いでは? 玄関先にいつ非友好的な来訪者が現れるのか分からないのですから、彼らの手段とそれらへの対抗策について知っておくべきでしょう。私だって自宅の玄関にセールスお断りのシールを貼っていますしね」
「あら……ごめんなさい、聞き間違えかもしれませんわね。私、まるでキザハシ教授が学校の外には悪意ある大人の魔法使いが闊歩していて、この子たちへ危害を加えようと企んでいると仰っているように聞こえましたの……ワタクシの単なる思い過ごしでしょうけれど」
「その通りですよ。恥ずかしながら生まれも育ちも平民なものですから、上流階級の言葉遣いにはまだ不慣れなようです。伝わりやすい表現ではなかったのかも知れません。もっと率直に言った方がよかったですか?」
ご理解いただけたようで安心しました――教授はにこやかに笑ってのけた。
どこまで本気で言っているのか、恐ろしくなるくらい無神経に過ぎる態度だ。
いよいよアンブリッジ監査官の忍耐力も限界に達した。度重なる侮辱のみならず公然と魔法省批判を口にしたのも許し難いモノがあった。
陰湿かつ粘着質な作り笑いの仮面を脱ぎ捨てると酷薄な魔女の顔が現れた。
まばたきしない小さな目が明確な批判の意思を以て教授の高身長を見上げる。
「この際ですから、一つハッキリさせておきましょう。現在、我が国ではごく一部の、社会情勢の混乱を企図する不届きな不穏分子が、ありもしない作り話を世間に流布し市民の安寧を脅かそうと企んでいます。彼ら反社会的、反体制的な勢力は口を揃えてこう言うのです……『例のあの人が、帰って来た』と。ですが、この数ヶ月間、そのような事実は一切確認されておらず、一連の風聞は完全な誤情報であるというのが魔法省としての公式な見解です」
教授は酷薄な表情を微動だにさせず「そうですか」と応じた。
「この城の外に、危険はなに一つ、存在しないのです。もちろん教室の中にも。権威ある有識者たちの適切な助言に従い、大臣が直接任命されたメンバーによって構成された委員会が慎重に検討を重ね、あらゆる危険性を排除した未成年魔法使いにとって考え得る限り最適化された教育方針のもとで今後、防衛術の授業は行なわれます。もちろん五年次は普通魔法レベル試験を前提としたカリキュラムであり、魔法省の検定を受けた教科書のみであっても十分に合格ラインへ到達可能である、というのが委員会の最終的な判断です」
退屈そうにグルグルと視線を走らせ、まったく監査官の言葉を聞いていない。
ひたすら無神経なのか意図的な挑発なのか……どちらにせよ異常ではある。
何人かは最後列にいる薊へ振り返ったが、薊は教科書を読んでいるフリをした。
「それでは遅くなりましたが、早速授業を始めるとしましょう。卒業した皆さんが不幸にも
ようやく浮かんだ教授の微笑にゾワリと背中が総毛立つ。
闇の魔法使いから標的にされたような、本能的な悪寒だった。
得体の知れない新教授は残る数十分をニコニコと機嫌良くしていた。
最後まで歯牙にも掛けられなかった監査官は恨めしげに全員を睨む。
結局、授業自体は一度も杖を使うことなく終わったのだけれど。
スリザリンは二限目にスネイプ教授の『魔法薬学』が控えている。
防衛術の教室まで薊と菫は肩を並べ、誰も寄せ付けようとしない。二人とも寮内の微妙な空気を察して敬遠しているようだった。
細かい霧雨が降っている。中庭にたむろする生徒の輪郭は不鮮明だ。
九月の冷たい風に吹かれても薊は平然として歩いた。
声を掛けてくる相手なんてまったくいない。ある意味、この方が自分にとっては気楽かもしれない……そんな風に思いながらもうすぐ教室に着くというところで、よく知っている顔に呼び止められた。確かめるまでもなく、曲がり方で待ち伏せしていたのはハリー・ポッターだった。
「アザミ、今いいかな……もちろんスミレも……」
「暇そうに見えるのか。もうすぐ授業だろうが」
「ただの伝言なんだ。さっきチョウに会って……彼女から」
「ならさっさと言え。急いでんだよこっちは」
「『放課後に、お茶をしませんか』って。それだけ」
視線は一瞬だけ菫へ向き、またすぐ薊へ戻った。
気に入らない態度だった。不満ありげな表情である。
チョウの意図はさておきハリーの思惑は見え透いている。
当事者として
「そうか。分かった」
返って来たのはたったの二言だけ。
形ばかりの礼すらなく、ハリーは余計に苛立つ。
「気に食わないならそう言え。オマエの都合なんざ知るか」
突き放すように吐き捨て、薊は魔法薬学の教室へ向かう。
そのまま扉を開いて薄暗がりの中へ消えていく。あとに続く菫の背中へ、ハリーは声を張り上げた。
「どうして知らん顔出来るんだ!!」
夏休み前から今日まで抱え込んできた感情の全て注ぎ込んだ。
ありったけの『本音』をぶつけられ、菫は立ち止まる。重苦しい沈黙に支配される中で時間が流れ、血色の瞳がハリーの姿を捕らえるきるまでに数分を要した。
「私と同じ目に遭えばいい……」
消え入りそうな声の湛える冷たさが全てだった。
いま彼女の中にあるのは復讐心だけだと察するに十分すぎた。
未練と言えば未練だろう。だがそれは怨霊と大差ない。
ただ吸血鬼としての肉体を持つだけだ。
地獄から還ってきたというより、地獄を創りに還ってきたというべきか。
だから、ハリー・ポッターの記憶する葵菫は、やはり死んだのだろう。
どれほどに望まれようと、桁違いの奇跡が起きようと、死者はけして蘇らない。
葵菫はあの共同墓地で殺され、まったく異なる存在へ生まれ変わった。
あの吸血鬼となった少女をどう呼べばいいか、ハリーにはまだ分からなかった。