ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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誰だ誰だ頭の中 呼びかける声は

 階教授の研究室は本棚で埋め尽くされていた。

 ホグワーツの図書室を移転させたのかと思う。

 あまりの蔵書量に圧倒されハリーは言葉が出ない。

 古本屋を始めないのにこんなに本は必要ない気がする。

 

「興味がありますか? マックス・ミュラーの『宗教学入門』は比較宗教学を語るうえで欠かせません。それとフレイザーも必須なのですよねえ。アレ、やたら膨大で読むのが大変なのに文化人類学の基礎中の基礎だから逃げられなくって」

 

「あの、すみません、そのミュラーとかフレイザーというのは誰なんですか」

 

「私の先達、というより『我々』の偉大なる師父ですよ。人類学にせよ宗教学にせよ『金枝篇』は大著でありますし、『アーリア神話』の源流の一人とはいえミュラーの生み出した西洋と非西洋の融合した世界観は無視できないものがあります」

 

 そういえばこの教授、元は学者だったのだ。

 黙っていれば美人なのだからそうすればいいのに。

 口を開くとたちまちおかしな女性である。

 御年107歳の老婆とは信じられない溌溂さだった。

 

「ともかくさあさあ、お掛けになってください。立ち話も嫌いじゃありませんけれど」

 

 言いながら自分もデスクチェアへ座った。

 年季の入った骨董品が嫌味なく似合う。

 教授のモノクロの色調が木目の色合いと調和する。

 口紅がなければ大昔の写真のようだ。おかっぱ髪も古臭い。

 

「さて何をするんでしたっけ。ああ、書き取りか。お茶でも飲みながら気楽にやりましょう」

 

 羊皮紙一巻きに羽ペンとインク瓶を用意し、教授は空のカップへ紅茶を注ぐ。

 低温でゆっくり煮染めたミルクティーの甘くまろやかな香りが部屋中へ広がる。

 

「お砂糖はどうします? 私は五杯入れるのですが」

 

「いえ、大丈夫です……」

 

「そうですか……多いと思ったでしょう」

 

 はい、とは口が裂けても言えなかった。

 得体が知れなさすぎる相手に警戒している。

 

「本当は紅茶ならペドロヒメネス樽かコニャック樽がいいんです。それに葉巻があれば……まったく教職に就くとやりたくなくても禁煙禁酒をさせられる」

 

 冗談はさておき――とても冗談には聞こえなかったが、当人はそのつもりらしい。

 ティースプーンに山盛りの砂糖をキッチリ五杯ブチ込んで教授はため息をついた。

 愛煙家で大の酒好きでおまけに甘党。そういう趣味なのだろうか。

 黒い羽ペンを示して教授は「どうも監査官に目を付けられましたね」と微笑んだ。

 この罰則自体、形式上は階教授が課しているものの、実際はアンブリッジの要望による。

 

「その羽ペン、いただきものでしてね。『生徒は万年筆で不慣れだから』とかなんとか、ああ、触らない方がいいですよ。闇の魔術が掛けられていますから」

 

「闇の魔術? ただの羽ペンですよねコレ。これを使ったら呪われでもするんですか」

 

「そう、素晴らしいのは外見上はただの羽ペンである点。ですが何も知らずに使うと自分の手に書いた文章が刻み込まれる。恐喝の道具としてはまさしく理想的な逸品です」

 

 教授は愉快そうに指先で羽ペンを弄んだ。

 宝物を手に入れた子供のように無邪気だった。

 

「ご心配なく、解析しようとしたら解呪しちゃいました。コレクションに加えようと思ったのですがね……ただの羽ペンですから差し上げますよ」

 

「いえ結構です。羽ペンを集めて棚に飾る趣味なんてありませんから」

 

「そうですか。じゃああとでアンブリッジ監査官にお返ししないと」

 

 そう言いながら教授は「イヤだなあ」と口を曲げた。

 

「こちらのファッションの流行りを知らないのですが、全身フリフリでピンク色というのは普通なんですか?」

 

 まともな大人でないからあんな格好なのだ。

 常識があったらそもそもファッジに従わない。

 

「それで、僕は何を書けばいいんですか。罰則を受けないといけないのでしょう」

 

「罰則を受けたいんですか? いまどきの子は変わっていますね」

 

「変わってるって、それじゃあ一体どうして……」

 

「お喋りがしたかっただけですよ」

 

 罰則はただの口実ですよ……どこまでも自由気ままな教授だ。

 信頼できるか否かはさておき、嫌いなタイプではないように思えた。

 ミルクティーのおともにチョコレート・ケーキが振る舞われた。

 たっぷりのラム酒が香るちょっと大人な味わいだった。

 

「周囲の目など気にしないことです。愚か者に言葉を尽くすなど時間の浪費だ……賢者なりと驕るのは好ましくありませんが、賢者たろうと心掛けるのはむしろ大事ですよ」

 

「教授もご覧になったでしょう。六月の、あの最後の試練で何が起きたのか。解説席に座っていたじゃありませんか」

 

「ええ。忘れもしません、教え子が目の前で息絶えているというのは……経験がないではありませんが、慣れないものです。貴方とディゴリーくんの言葉が正しいのでしょうね」

 

「だったらどうして授業ではっきりとアンブリッジに言ってくださらなかったんですか。ダンブルドアの言う通りだ、ヴォルデモートが復活したんだって」

 

「私がとやかく言わずともいずれ真実は明らかになります。秘密とは須らく暴かれ、白日の下に晒される。世の摂理ですよ。幸福をもたらすか不幸を振りまくかはさておき」

 

「それまでバカみたいに口をつぐんで、じっと我慢していろって? 教授だってあんなにアンブリッジをバカにしていたのに、僕だけは白い目で見られるのに耐えないといけないんですか? 城中で囁き声が聞こえるような気分なんですよ!」

 

「放っておけばいいのですよ。真実から目を背けたところで、いつかは向き合うときが来るのです。ポッターくんが親切心で目覚めさせてあげる必要もないでしょう?」

 

 このくらい自己肯定感があれば何かと気楽だろう。

 ナルシストも極めたら何かしら成果があるのか。

 階教授はけろりとした顔で「愚か者たちの啓蒙なんて物好きな世話焼きに任せておけばよろしい」と言い放った。どんな人生を歩めばこんなに割り切った価値観を形成できるのか、気にならないではない。同じくらい知ったとき後悔するのだろうなという予感もあった。

 先にチョコレートケーキを食べ終えた教授が足を組みなおす。

 

「甘いものはいいですね。心が落ち着く」

 

 そう言われて、安らぎなど微塵も感じられずにいる。

 どこまでこの教授は神経を逆なですれば気が済むんだ。

 

「……血の気の多さは若さでしょうか」

 

 昆虫標本を見るような目でこちらを凝視してくる。

 毅然と視線を返してもなんのリアクションもなく、教授の顔には薄笑いが浮かんでいるだけだった。

 

 

 変身術の授業のあとハリーだけが教室に残るよう言われた。

 マクゴナガル教授の研究室は副校長の執務室も兼ねている。デスクの上には羊皮紙の書類が山のように積み重なり、棚という棚で専門書の背表紙がこちらを向く。こんなところにいて窒息しないか不思議だった。一年生のときクィディッチ・チームのシーカーに任命されたときとまったく変わっていないように思った。

 言われるがまま空いたソファへ座ると、教授はさらにタータンチェックの缶を開け、中のクッキーを食べるよう言った。何の変哲もないジンジャーブレッドだ。もちろんハリーは指示通りにクッキーを頬張った。それを見てようやくマクゴナガル教授は本題に入った。

 

「階教授はさておき、ドローレス・アンブリッジの前で悪目立ちする行動は慎まねばなりませんよポッター」

 

 さておかれた人物の方がよほど気になる。しかしマクゴナガル教授は反抗的な態度を咎めるのでなく、むしろ身を案じるように声の調子を落としてゆっくり語った。

 

「彼女が誰の指示でホグワーツへ送り込まれたのかよく考えなくては。不必要に刺激すれば必ず反撃されます。そうなればあなた個人や、あるいは寮の問題で済まなくなる」

 

「どういうこと――――」

 

「頭を働かせなさいポッター」

 

 今度はいつもの厳しい口調だった。

 

「罰則の件は階教授本人が教えてくださいました。危険な呪いが掛けられた羽ペンを使うよう仕向けて来たと……これは警告と受け取るべきです。ドローレス・アンブリッジの前では言動に最大限の注意を払わねばなりませんよ」

 

「僕、一つも嘘はつきませんでした」

 

「ポッター、いま我々が直面しているのは『どれだけ低姿勢を保てるか』という問題です。嘘か真かという次元ではないのです」

 

「そんなバカな!!」

 

 また一人でに癇癪玉が爆発した。

 どうしても感情の波を抑えきれない。

 声を張り上げて反論されてもマクゴナガル教授は落ち着いていた。

 聞き慣れた、いかにも厳格で几帳面さに溢れた声とは違う。ずっと穏やかで、ゆっくりとして、優しい雰囲気だった。

 

「感情を抑制することはけして容易くありません。ドローレス・アンブリッジは私とて(ハラワタ)が煮えくり返る思いがするのですから……貴方には堪え難いでしょう。ですがポッター、忍耐も戦い方の一つだと考えなさい」

 

「忍耐……? それが戦うコトになるんですか?」

 

「武器を手にとるのも、毅然と意見を主張することも、重要ではあります。しかし『沈黙』が最大の攻撃となる瞬間も存在するのです」

 

 それがどこまで正しいのか、ハリーには分からなかった。

 けれど不意にシリウスの事を思い出した。十二年もアズカバンの監獄に閉じ込められてきた彼の『戦い』は、まさしくマクゴナガル教授の言葉通りではないだろうか。期が熟すまで待つ……そういう見方をすれば賢い選択肢のように感じられる。

 どうにかハリーなりに噛み砕いて教授の伝えんとするところが理解できた。

 表情からそれを察してマクゴナガル教授もゆっくりと頷いた。

 

「ドローレス・アンブリッジが新学期の挨拶で言ったことをよく思い出しなさい」

 

「ええと、進歩のための進歩は断固として云々、ですか? 魔法省がホグワーツに干渉する……みたいな意味でよかったですよね……?」

 

 教授はたどたどしいハリーの言葉にフフンと感心を込めて鼻を鳴らした。

 どうやら今回の()()()()()()で合格点を認めてもらえたようだった。

 デスクの向こうから離れた教授が研究室の扉を開く前、ふと足を止めた。

 

「ともかく、あなたがハーマイオニー・グレンジャーの言葉に耳を傾けているようで一安心しました。それに以前よりいくらか()()()()()を身に着けたのも」

 

 今度こそ教授の言わんとするところが察せられず首をかしげる羽目になった。

 視野がどうこうと急に言われてもなんのことかサッパリだ。ソファに腰かけたままキョトンとした表情で見上げられ、マクゴナガル教授は少し呆れた様子で「さ、もうすぐ夕食が始まるころ合いです。急がなければ普通魔法レベル試験の対策時間がなくなりますよ」とかなりイヤな急かし方で部屋を出るよう促した。

 試験のことなどなるべく考えたくなかったというのに。

 夕食の気分を台無しにされてハリーはすっかり落ち込んだ。

 しかし長居してレポートの出来についてお小言を頂戴しては藪蛇なので、ここは好意に甘えさせてもらうのが賢い選択だと判断した。

 ハーマイオニーもロンもいないまま一人で廊下に出る。

 このまま大広間で二人を探すのが一番手っ取り早い。

 頭の中を色々な考えが巡り巡って、感情の居場所がなくなる。

 あまりに出来事が連続しすぎたのだ。

 自分の中で受け入れる前に次の事件が舞い込んでくる。

 来年度はもっと平和になればいいな、なんて甘っちょろい希望を抱いていた半年前の自分に「そんなワケがあるかこのバカ野郎」と言ってやりたい。だいたい夏休みだけでも毎年のように史上最悪を更新しているではないか。それでどうやって来年度を心穏やかに迎えられるっていうんだ……考えたってしようがないことまで腹立たしく感じてきたのに気づき、これは大至急で胃袋に夕食を詰め込まなければいけないと理解した。

 ピリピリと神経を尖らせたおかげだろうか。感覚が鋭くなっていた。あるいはただ神経質になっていただけか。ともかく曲がり角の向こうで言い争う女子生徒の声を拾ってしまった。

 ホグワーツで生徒の口論なんてそう珍しいことでもない。

 ハーマイオニーとロンなんて毎日やってるくらいだ。

 二人とも「原因は向こうだ」と言って譲らないだろう。

 無視できるならそうしたかったが、やりあっているのがダフネ・グリーングラスとミリセント・ブルストロードで、しかも鉢合わせした瞬間にダフネと目があってしまった。

 魔法でも掛けられたようにピタリと足が止まる。

 言い逃れの余地がない沈黙の()がいかにも意味深に感じられる。

 

「どうしてダフネとポッターが見つめあうワケ? ……こっちまで気まずくなるからやめてくれない?」

 

「どうして居心地悪くなるのか分からないけど、君の情緒はティースプーン一杯分より多いなんて驚きだ」

 

 ミリセントのシャープな眉毛が大きく吊り上がった。

 

「恋愛経験がないミス・ブルストロードには理解できないでしょうね」

 

「話を逸らすんじゃないわよ、こんなときまで逃げ癖なんて情けないったら」

 

「冗談でしょう? 誰が逃げてるっていうのよ」

 

 ダフネの琥珀色の瞳は床を見ている。誰からも視線を逸らすダフネへ覆いかぶさるようにミリセントが立ちふさがり、逃げ道をふさいでいる。

 二人の口論の理由はなんとなくハリーにも察せられた。

 それをここで言及していいのかどうか、難しい。

 口をつぐんでいるハリーを睨みつけ、ミリセントは肩を怒らせながら去っていった。

 ポツンと残されたダフネはまだ俯いたままだった。

 表情豊かでないのはよく承知している。けれど彼女がいま悲しんでいるのは、手に取るように分かった。

 理解してもらえない辛さや寂しさは身に染みている。

 ダフネは瞼を閉じて重々しく口を開いた。

 

「スミレのことよ。ミリセントは何があったか知らないから……ダンブルドアの言葉を信じられないのでしょうね」

 

 スリザリンの生徒はどうしてダンブルドアへ不信感を抱くのだろう。

 ハリーにはとても理解できない感情だったが、そうか、あの純血主義者の巣窟では『ホグワーツの校長』という肩書が信頼に値しないらしい。

 哀れでもあるし不愉快でもあり何より不可解だった。

 そんなに知りたいなら本人に聞けばいいのに。妙に遠慮するのも不気味だった。

 

「いいのよ別に。今まで血縁でどうにかまとまっていたのが、バラバラになっただけだから」

 

「バラバラって、スミレは何も言ってないの? 口はきけるんだろう?」

 

「どうしても言いたくないんじゃない。私だってまだ話せてないから、本心は分からないけれど」

 

「話せてない? そんなの、談話室で捕まえればいいじゃないか」

 

「スミレが夜どうしてると思う? 談話室でフラーへの手紙を書いてるのだけど……いつも辛そうで、本当に悩んでるみたい。あの目を見てしまったら軽々しく聞けないわよ」

 

 それに普段はアザミ以外の誰とも関わらず、消灯時間になるまで寮へ戻っていないという。

 とても想像出来ない状態だった。以前ならパンジー・パーキンソンにベッタリで、どこへ行くにも誰かの後ろについて回っていたのに。それが他人を避けて、まるで逃げ隠れするようにしている。

 驚きを隠せないハリーにダフネは白い目を向けた。

 

「あなたって意外とスミレのことを知らないのね。図書室に篭ったり、一年生の頃から気ままにしてたわ。でも……まさか孤立を選ぶなんて思わなかった」

 

「スミレと話したことなんて数えるしかないよ。寮だって違うし」

 

「ならこれから増やしたっていいじゃない。誰にも聞かれたくないなら蛇語だってあるのだし、ちょうどいいでしょう?」

 

「ちょうどいいって、何が――――」

 

 何が()()()()()()のやらダフネは語らなかった。

 ただ、夕食のあとスミレを捕まえてちゃんと話そうとだけ言い、勝手に予定を決めたかと思えばそのままハリーと別れてしまった。

 廊下に取り残されたハリー・ポッターは言葉もなく呆然とする。

 ずっと避けてきたあの女子生徒と向き合うときが来たと思うと、それまで抱えていた空腹感が綺麗さっぱり消し飛んでしまう。

 

 

 誰もがスミレから距離を取るように廊下を歩く。

 魔法使いたちも死体が動くのは気味が悪いらしい。

 滑稽さよりも不愉快さが勝る。常識知らずがいきなり常識ある振る舞いをすると、却って腹が立つものだ。

 寮を示すローブの色に関りなくスミレへの態度は一致している。

 完全に孤立している状況ではじめて接触を試みる相手が現れた。

 それも捻りのない罵倒を浴びせるだけのつまらない輩である。

 大広間近くの階段前で、グリフィンドール生の集団から一人が肩で風を切りながら近寄って来た。六年生になるコーマック・マクラーゲンが正面に立ちはだかって声を張り上げる。筋骨隆々の屈強な体格を前にしてスミレはあまりに華奢で小柄だった。

 

「バケモノがいつまでホグワーツに居座るつもりだ?」

 

 マクラーゲンは勝ち誇るように眉を吊り上げる。

 端正な顔立ちには嫌悪感が充満している。

 スミレの表情筋は微動だにしないままだった。

 

「大人しく棺で眠ってればいいんだよ、死体なら死体らしくさ」

 

 薬室に弾丸が装填された状態で引き金を引けばどうなるか。

 だが魔法使いは『拳銃』というものをそもそも知らないでいる。

 どれほど賢い人間も知らないものには対処のしようがない。

 たかだか学生に求めるなど無理難題というものだろう。

 僅かな息苦しさに気づいたときには手遅れだった。

 

「こちらの世界は本当に不思議ですね。豚が人間の言葉を喋るなんて」

 

 もちろん菫の両手は空っぽのままだ。

 杖はポケットに突っ込まれている。

 しかし見えない『指』がマクラーゲンの首を絞める。

 

「豚は豚らしく飼育小屋で鳴いていればいいのに」

 

 ゆっくりと気道が狭まっていく。

 徐々に浅く短い呼吸へ変わる。

 赤い瞳が無感情にマクラーゲンを見上げる。

 

「なんで二本脚で立ってるんです」

 

 締め上げる力が強まると同時に床へ叩きつけられる。

 首を掴まれたままだったから頭を打たずにすんだ。

 しかし全身を何本もの『手』に押さえつけられ、動けない。

 野次馬は逃げるようにその場を離れていく。グリフィンドールの同級生たちは杖を抜くか迷い、互いに顔を見合わせ、菫の意識が自分たちに向くと蟻の子を散らすように走り出した。

 二人きりになってようやくマクラーゲンの拘束が解けた。

 咄嗟に尻餅をついた姿勢で後ずさりし、その勢いで杖を取り落とす。

 

「そんなに私が気に入らないなら()()で打ち負かしてみますか?」

 

 黒檀の杖を手にとって菫が言うと悲鳴が挙がった。

 タイヤに轢かれた野良犬のような哀れな声に聞こえた。

 まあ、精神構造はどちらも似たようなものだけれど。

 これで刃向かってくるなら腕の一本もヘシ折るつもりだった。

 杖を一振りすればそれだけでどんな怪我も治る。痛みだけで失敗から学べるほど賢いなら、好き好んで魔法使いになろうなんて思わない――菫が心の底から欲しかったものを自ら捨ててしまうような愚か者には繰り返し痛めつけない限り無駄だ。それが『躾け』というもの。言葉が通じないなら残された選択肢は鞭だけになる。

 しかし人間には牙がない。コーマック・マクラーゲンもない牙を剥くなんて真似は出来ず、ニコニコと笑顔で鋭い牙を覗かせる菫に背を向けた。慌てふためきながらも杖を広い、転びそうになりながら廊下の向こうへと逃げていく。

 最後には菫だけが残った。

 周りには誰もいない。孤独だけがそこにある。

 ホグワーツへ舞い戻ったのは自分の意思だ。こうなる予感はあった。

 後ろ指を指されるのだってこれが最初じゃない。

 スリザリンというだけで嫌われ、蛇と話せるというだけで嫌われ、生まれる前のことを理由に嫌われ、誰かに陥れられたらさらに嫌われ……そして怪物だからとまた嫌われた。何度も何度も繰り返されて感覚が麻痺してきそうだ。泣き方も忘れてしまった気がする。もう笑顔でいる方が気楽かもしれない。

 鏡もなにもない廊下の真ん中で両手の人差し指を頬へ押し当てる。

 力任せに指を押し上げて笑顔を作る。表情筋の硬さが指先に伝わってくる。

 練習しないとダメそうだ。少しどころかかなり筋が痛む。

 むにむにと両手で表情筋を揉みほぐしているうち薊が遅れて来た。

 

「……なにしてんの」

 

「みゃっひゃーじぇ」

 

「そう……そろそろ授業が終わり時間だし、行く?」

 

「うん。急ごう急ごう」

 

 菫はようやく自然に笑顔を浮かべられた。

 その様子に薊の眉間のシワもゆっくりと薄まる。

 夕食そっちのけで二人は大広間から離れる。

 けれどすぐに菫だけ立ち止まった。やや遅れて薊も振り返る。

 珍しく腕を組みながら菫が首をかしげる。

 

「で、どこ行くんだっけ」

 

「忘れんなや! キザハシ先生のトコだろ!」

 

 また眉間のシワが深くなる薊に菫は「ごめんごめん」と平謝りする。

 丁寧に整えたヘアスタイルを自分でかき乱しながら薊は「ったく」と愚痴る。

 そんな様子を見ながら菫はずっとニコニコと笑っていた。

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