教育令第一号は自動筆記羽ペンの使用を全面禁止するものだった。
これには十分な妥当性がある。反発する教職員はもちろん皆無だった。
それからも第二号、第三号とさほど重要視するほどではない法令が通達された。
もしや魔法省はホグワーツへの対応を巡り意思統一をしていないのか? そんな疑念が教職員だけでなく上級生たちにまで広がり始めた矢先のことだった。
『
日刊予言者新聞も一面記事で大々的にこの新法令を取り扱っている。
紙面の通りに解釈するならば『ホグワーツにおける諸問題に関するドローレス・アンブリッジの報告を受け、魔法大臣は抜本的改革を決断した。本法令によりアンブリッジ女史は新設される初代高等尋問官の職位へ任ぜられる。今後も女史は教育改革の最前線でその辣腕を遺憾なく発揮するだろう』となる。
大臣下級補佐官のパーシー・ウィーズリー氏はまったく同じ内容でインタビューに応じた。
監査官の派遣は最後通牒であり踏み絵である。
しかしダンブルドアは頑なに主張を変えなかった。
どんなに愚鈍な頭脳の持ち主であっても『ファッジがホグワーツへの介入を本格化させるべく側近であるアンブリッジへ権力を付与した』と理解出来る。
これからホグワーツ魔法魔術学校の情勢は急速に悪化していく。
二度目の授業査察などはほんの序の口に過ぎない。あれは品定めだ。
ダンブルドアの権限を切り崩す糸口を探っているのだ。
そんな邪悪極まる人間性によるものなのか、高等尋問官の事務所は正気を失いそうになるほど強烈な少女趣味丸出しの内装だった。ローブと同じパステルピンクの壁紙とカーペット。愛くるしい猫が描かれたプレートが壁を埋め尽くすように飾りつけられている。
猫嫌いの人間は一分もあれば精神に致命傷を負うだろう。
アンブリッジとの『面談』をやり遂げたチョウは草臥れて見えた。
古代ルーン文字学の教室で集った面々はまずチョウを労った。
「お疲れさん、ホットチョコでも貰って来るか?」
「ありがとう……でもいま胸焼けしてて……」
「大丈夫なのか? 毒でも盛られたんじゃないだろうな」
「ミルクティーにお砂糖あんなに入れられたら誰でもこうなるよ……」
「キザハシ先生は山盛り五杯入れてますよ」
「あの人はタバコで舌ブッ壊れてるからノーカンだノーカン」
人肉だろうと丁寧に調理すれば完食するだろう。
味を尋ねれば「美味しかった」と述べるはずだ。
あるいは
「本当にアンブリッジを丸め込む必要あるんですか?」
「ある。教授たちは嵐が過ぎるのを待つ気だ」
ギルデロイ・ロックハートが防衛術教授としてハンサムな笑みと薄っぺらい戯言を振り撒いたとき、他の教授たちは不快感を示しつつも反撃に移ったのは事態が最終局面へ達してからだった。それだってほとんど意味のない行為だった。ホグワーツの閉校が不可避となってようやくロックハートが逃げ出すよう仕向けた。それだけである。
教授たちにとってあのロックハートですら職場の同僚だった。
仕事に私情を持ち込まない大人の対応だ。
かつての教え子という情が働いたのもあるかもしれない。
だがアンブリッジは情け容赦なくかつての古巣に牙を剥くだろう。
「アンブリッジは『法律』の威力を誰より理解してる。魔法省、というより高等尋問官を設置してようやくコーネリウス・ファッジが本格介入の意思を示してもまだ動かない。何故だと思う」
「具体的に命令されていないからですか?」
「違うな、まだ行動を正当化する『法律』がないからだ。教育令第23号はあくまでホグワーツ高等尋問官という職位を定めただけで、具体的な職務については定義していない」
「裏を返せば『法律』って武器さえ手元に届けばいくらでも攻撃を開始出来る。いくら魔法に精通してようが法解釈の分野じゃアンブリッジが格上だ、教授たちに勝ち目はない」
いまようやく理解が及んだのは菫だけだった。
ほかの主犯たちは程度の差こそあれ状況を把握出来ている。
「アンブリッジから身を守る必要はない。こっちから先に懐へ飛び込んでしまえば、手を下すには生半可な証拠では足りないからな。そして魔法省が、いいや、コーネリウス・ファッジが最も恐れているのは『ダンブルドアによる生徒への戦闘訓練』だ」
「どういうことです。生徒に自衛手段を教えるのは当然でしょう。『死の呪い』を受けたら普通は死にます。ハリーや私みたいにまた起き上がるわけじゃない」
どこまで冗談なのやら判断に困る。自虐を口にするほどユーモラスでも大らかでもないハズで、菫の本心は薊にすら分からなかった。
「マジか……どこから説明すりゃいいんだよ」
「どうしてコーネリウス・ファッジがああも過剰反応を示していると思う」
「?」
ドラコの発した問いが葵菫という少女の性質を浮き彫りにする。
ただ一人、菫だけコテンと首を傾げる。呆れる
育ってきた環境があまりに違いすぎる。ドラコやカロー姉妹のような貴族でもなければ、チョウのように家族が魔法省に勤めてもいない。貪欲に知識を吸収していく薊とも性格的にまったく異なる。
「『前の戦争』を知っているからよ。大臣になる前は魔法事故惨事部にいた……いまとは違って、ほとんど闇祓いと同じ部署だった時代に、副部長として
「あんな優柔不断が?」
「現状だけを見るとそう思っても仕方ないけど……」
先の戦争、あるいは
薊と菫も生まれてはいたが、遠い外国の出来事である。
テレビニュースで取り上げられるわけがない。
あの時代を辛うじて記憶しているのはこの中でチョウ・チャンだけだった。
「私もママや親戚から聞いたハナシがほとんどだけど、よく覚えてる。みんな口を揃えて『バーティ・クラウチ・シニアが失脚してよかった』って毎日言ってた」
「去年、病気で亡くなられたという?」
「…………そうね。国際魔法協力部部長に左遷された理由、なんだと思う?」
「汚職、とか? オカネ関係ぐらいしか想像がつきません」
「一人息子が『
よくあること、そう言った瞬間だけ、チョウは鋭くドラコへ視線を送った。
いつものおっとりとして穏やかな雰囲気とは正反対の、怒り狂う龍を思わせた。
真正面に座った菫はまったく気づかないままチョウの美貌に見入っている。
「婦人も、息子も、大法廷の床に跪いて懇願した。命令されたことだった……アズカバン送りにしないで欲しい……無罪に出来る証拠もあったけれど、クラウチ法執行部部長は『息子はいない』と言い渡して、アズカバンでの終身刑を科した」
「それは……とても正常というか、普通では」
「うん……そう、ある意味、公正だったとは思うわ。でも口実になった」
「口実? ただ仕事をしただけで?」
「『冷酷だ』って批判されたのよ。あ、ごめんなさい、裁判の話の前に戦争中のことを言うべきだったわ……まずクラウチ部長はね、闇の魔法使いに対しては『許されざる呪文』を無制限に使用していいという許可を出したの」
菫はマッド・アイがただ
「反対のしようがないわ。誰が『服従の呪文』で操られているのか、誰が脅迫されて渋々従っているのか、誰が自発的に『例のあの人』へ忠誠を誓ったのか、分からないのよ?」
午前中に世間話をした顔見知りが午後には殺人鬼へ変貌する、そんな時代だった。
誰もがホグワーツに入学できるわけではない。どころかホグワーツでの七年間を落第生として終える者も少なくない。その上で魔法省を進路に選ぶ生徒がどれほどいるだろう……対してヴォルデモートが臣下に求める資質は少ない。忠誠がなくとも利用価値があればマルフォイのように重用され、あるいはマクネアのように忠誠心さえあればいくらでも取り立てられる。
魔法省に与えられた選択肢はごくわずかなものだった。
なりふり構ってなどいられない。とにかくこの戦争に勝つ手段が求められた。
結果、予期せぬカタチで戦争が終わったばかりに、果てしなく混乱し、深く傷ついた社会だけが残った。
だからこそ多くの元『
「マッド・アイは生粋の武闘派よ。けれど、だからといって彼と対立するクラウチ・シニアが穏健派ってことにはならない。みんなもう『許されざる呪文』が飛び交う日常なんてまっぴら……だから、本当の意味で穏健派のファッジを大臣にしたかった」
「戦後に戦争屋はお役御免ってワケか。息子の件はその口実として渡りに船だった」
チョウはただ頷くだけだった。
「クラウチは必要とあらば即座に覚悟を決められる。だが平和な時代にゃ迷惑千万、無用の長物だ。その点ファッジは勇み足でバカをやったりはしないが……いざというとき覚悟を決められない。フン、権力の味でも覚えたか?」
「『権力』を恐れているのではありませんか、アザミ姉様」
「闇の帝王の帰還を魔法省が認めれば、即座に戦争ですわ」
「どういうことだ。その方が魔法省は有利なハズだろ」
「無制限かつ、無期限で、合法的に人殺しをする権限が手に入るとすれば?」
「当然だ……それの何が不味い?」
「みんながみんな、鉄の自制心を備えているわけじゃない」
菫の次は薊が限界を露呈させた。前者はただただ鈍感であるのに対し、後者はいささかシステマチックに過ぎる。感情の機微を度外視しすぎる節がある。
この状況に際して見れば、ファッジは世間が言うほどの無能ではない。
彼はクラウチ・シニアが備えていた冷酷さを欠いているだけだ。
伏し目がちなチョウの呟きがすべてだった。
墨も薊も『戦後』の生まれではある。だが二人にとって戦争はあまりに程遠く、テレビ画面や新聞記事の中で起きている出来事に留まってきた。現実から乖離してしまっているのだ。だから知識としてイギリス魔法界の暗黒時代を把握するのが精一杯。『当時』を知る人々の感情を共有するにはその下地となる経験が足りない。
そしてなにより、経験不足を補う想像力を二人揃って欠いている。
「……ともかく、時間が過ぎればどれだけ状況は悪くなる。特にアンブリッジはホグワーツの環境を目に見えて悪化させてる。病原菌みたいな魔女だよ。致命傷になる前にヤツの影響力を下げる必要がある」
もちろんドラコの知ったことではない。
全員が共有すべき認識の確認作業は終わった。
御題目の段階では手を取り合える。揚げ足は……まだ急ぐ必要がない。
現状、最大の懸念事項は「参加者が集るのか」という一点に尽きる。
こればかりはスリザリンという寮への心証があまりにも悪すぎた。
「楽しい楽しい悪企みに水を差すつもりはありませんけれど。首謀者の人数をあと少しばかり揃えずともよろしかったのでしょうか?」
「発起人のほとんどがスリザリンで後ろ盾は
「私たちがやろうとしてるのはあくまで『普通魔法レベル試験』を前提にした勉強会でしょ? 図書室にない最新の専門書を使って試験対策が出来るなら……経験者として断言する。みんな参加するわ。絶対に」
アンブリッジが提案した『推薦図書』はすべて教科書と大差ない価格ばかりである。しかし全科目揃えるとなると学生では難しい。保護者の経済力はピンからキリまで。さらに、どんなお人好しでもその家の子供の勉強へ投資するのは抵抗を覚える。
そこで出番となるのがルシウス・マルフォイだった。
十数冊の参考書代で息子にハリー・ポッターを監視させられる。
さらに中立派の旧家に対し、純血主義派閥がもたらす恩恵を『子供たちを通して』実感させられる。しかも勉強会はあくまで生徒主体だから庇護を受けられる対象で出自は問わない。とてもクリーンな慈善活動と言える。
関係者はみなそれぞれが最低限のメリットを得られる仕組みだ。
事情を知らない者にとってはどこまでも都合のいい企画に映る。
事情を知っていればこの秘密結社に参加しない理由がなくなる。
「なんと言いますか……悪どいですわね。アザミ姉様は」
「悪人とは申しませんけれど、悪党の素養は十分ですわ」
「私も同じことを思った。いつもこんな腹黒いコトばっかり考えてるの?」
全員の意見を踏まえて練り上げた計画だが、素案は薊が一人でまとめ上げた。カロー姉妹とチョウの感嘆と嘆息の入り混じった言いように薊はすぐさま反発した。
「あのな、オレ学級委員長してんの。よそのクラスから舐めた真似されたら面子丸潰れなワケ。まして問題児だらけなんだよ七組は。アイツらまとめるのがどれほど大変か……」
「まるでならず者の理屈だな」
ドラコの呟きが一際深く薊の心を抉った。
ガックリ項垂れたきり微動だにしなくなる。
まさに致命傷である。慌てたようにチョウがパンと手を叩いた。
「そ、それじゃあ勉強会の参加希望者を募集する張り紙は……寮の談話室でよかったんだっけ?」
「ええ。一応、寮監の先生方にも掲載許可をいただいて……出来ることなら宣伝までしてもらえれば幸いです」
「フリットウィック教授は喜んで協力してくださるわ。スプラウト教授もイヤとは仰らないはず。といよりスネイプ教授の説得も私がするの?」
「スリザリンは僕がやろう。父上とスネイプ教授は親しい間柄だ、その方向で切り出せば不許可にはならないさ」
「ではそういうことで。お手数ですが、よろしくお願いします」
各自の役割分担を確かめ、会合はお開きとなった。
ヤクザ者呼ばわりされた薊のショックは深刻だ。
いつも不快なら不快、愉快なら愉快とハッキリ意思表示をしてきた彼女が、両手で顔を覆ってしまっている。菫は予想だにしない落ち込みように慌てふためきながらどうにか慰めようと奮闘していた。残る女性陣は敢えて一言も発しなかったが、突き刺さるような視線にドラコは思わず目線を逸らしてしまった。
「冗談だよ。いちいち凹んでられるほど楽な学校生活送ってねえ」
「あんなにいいお友達なのに? 姉さんが嫌ってるだけじゃないの?」
「ウルセえ。問題児学級だつってんだろ、いまそのハナシはいいんだ」
まだ見ぬクライスメイトに興味津々の菫を振り切り、薊は脚を組み直した。
「この計画の肝はポッターだ。アイツがいないと始まらねえ……またぞろ放課後に校舎をフラフラされちゃ困る」
「フラフラというかクイディッチの練習に打ち込むと思うけれど」
「それはそれで困る。前に試合中、事故って大怪我したんだろ? なるべく『隙』がない状態にしたい」
「けれどそれじゃあクイディッチ・シーズンが始まったとき十分なポテンシャルを発揮できないじゃない」
「それがおかしいんだよ。成績が特別いいワケでもねえ、まして試験の重要性に気づいてもないのに部活なんかやってる場合か」
薊の言葉にチョウはつい首を傾げてしまった。
天才シーカーがクイディッチの練習に励むのは、ホグワーツでは常識なのだ。
どころか薊の理屈は『母校』でさえ通用するか甚だ疑問がある。
彼女にとって軽音楽は暇つぶしの趣味に過ぎない。
だからいくら演奏したってエレキギターの腕は向上しない。
対するクイディッチは魔法使いにとって世界最高のエンターテインメントで、これに勝る娯楽は地球のどこを探しても存在しないと誰もが断言するであろうスポーツだ。
遊ぶ前に勉強しろという意見は真っ当である。なのに、これがクイディッチとなるとチョウさえ困惑する。
断絶を目の当たりにして菫は相互理解の難しさを再認識させられた。
ただ現実に存在すると知っただけで、そこから先には無関心だった。
頬杖をついた薊は眉間に深い深いシワを寄せた。
いつだって考え事をしている。何かに苛立ったり悩んでいる方がぼんやりしているよりずっと気楽なのだ。切れ長の目はいつも周囲を観察しているから、知らなくていいことや気づかなくていいことを見つけてしまう。
「……ポッターを『勉強会』に引き込むカギがスミレだなんてなァ」
「え? なんで私?」
「バカ! 気づくだろイヤでも! 去年からだぞ!?」
「去年からってなにが!?」
「グリーングラスと付き合ってんじゃん! ポッター!」
「ええっ!?」
「ウソだろ!?」
ドラコすら額に手を当てる始末である。
つまるところ、葵菫にとってダフネ・グリーングラスとはパンジー・パーキンソンの
問題は、当事者である菫がそのことを自覚出来ているかどうかだ。
目を白黒させる薊はほっそりした従妹の両肩を弱々しく掴んだ。
「頼むぞホント……同室つってもオレじゃ筋違いなんだから」
「え、ええ……なんで私がそんな……やりづらいよ……」
心の底からイヤそうに菫の口が「への字」に歪んだ。
「それにしてもダフネとハリーが……なんでだろ」
「マジでしっかりしてくれ。ダンスパーティも! 第二の試練も! あったろ!」
「それだけで? 別に私は関係ないからいいけど。ダフネって、意外と趣味悪いんだ」
「おい。いまの、絶対にグリーングラス本人の前で言うなよ。絶対だぞ!」
「言わないよそんなこと。いくら本当でも言っちゃダメだって分かってるし」
無自覚にこれだけ言ってのけるのは希有な才能かもしれない。
とても褒められたものではないが、ただ気弱なだけよりマシだ。
内向的な
薔薇にはトゲ……そう思ったチョウはすぐに考えを改めた。
猛毒で知られるトリカブトとて咲かせた花は愛らしい。
彼女の本質は深い青紫色の花ではなく、ごく少量でも死に至らしめる毒である。
そうと知って花も根も愛でるというのは並みの勇気ではない。
この場にいないあの銀色の魔女を思い返すと畏敬の念すら浮かぶ。
ゴブレットに選ばれるだけの素養は、彼女も確かに備わっていたのだ。