ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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この手に掴みたい あなたのその胸の中

 浮かべた微笑みがあまりに白々しい。

 そう感じるのは、彼女への印象が悪いせいか。

 葵菫はハリー・ポッターの理解の範疇の外にいる。

 防衛術の教室に呼び出された理由は一つ。ダンブルドアが率いる『不死鳥の騎士団』……ヴォルデモートに殺されて生き絶え、完全な吸血鬼として黄泉還った彼女が果たしてどちらの庇護を求めるか。言うまでもなく当然のように思えた。

 しかし菫は前置きなしに「勉強会へ来ませんか?」と言った。

 下手な作り笑いである。本心をひた隠しにする仮面だった。

 どこにでもいる普通の女の子みたいに振る舞っている。

 吸血鬼であることを差し引いても無理がある。内向的なようでいて、実際は怒り狂ったハンガリー・ホーンテールと同じくらい激しい気性の持ち主である。

 なのにさも理性と思慮を備えているように振る舞うから誤解させられる。

 いまも、昨年度に解散した『放課後茶会倶楽部』の再開をしようという。

 

「普通魔法レベル試験の勉強会を開くことになったんです。ちょうど去年動かしていた課外活動もありますし、チョウ……レイブンクローの彼女が発起人になってくれることになりました。私と姉さんは参加します」

 

 正気の沙汰とは到底思えないのが率直な感想である。

 昨年は三大魔法学校対抗試合のためにクイディッチが開催されなかった。

 だから猛練習に明け暮れずに済んだし、代表選手に選ばれた生徒は期末試験を免除される規定のおかげで時間の余裕があったのだ。

 今年とは条件が違っていることを失念しているではないか。

 あまりにも短絡的な計画を披露され、ハリーは呆れ果てるばかりだった。

 

「気は確かかい? 勉強会なんて……そんなコトしてるヒマがどこにあるんだ、こっちはクィディッチの練習だけでも大変なのに。課題だって山のように出てる。このうえ試験対策まで抱えていられないよ」

 

「ハリー……もし成績不振でホグワーツを退学になったらどうするつもりですか」

 

「マルフォイ坊やの召使いたちも留年してないんだ。そんなことをわざわざ心配するなんて、偽ムーディ(クラウチ•ジュニア)に錯乱の呪文でも掛けられたとしか思えないね」

 

 そこまで言い切って、ハリーは菫の表情の変化に気づいた。

 真っ白な仮面の下から現れた『嘲笑』が牙を剥く。

 華奢な身体からは想像もつかない怪力で首を掴む。

 シーカーの動体視力を振り切る速さで、ほとんど『コマ割(フレーム)』と呼べる合間の動作が抜け落ちているようにすら見える。

 硬質な爪の切っ先が首の血管を捕らえている。

 

「試しにまた死んでみますか? 大丈夫、またすぐにお友達と会えますよ」

 

 本当なら皮膚にかかっているはずの吐息が、ない。

 呼吸が止まっているのに菫の身体は目の前で動いている。

 小ぶりな唇が大きく歪んだ。笑っているのだ。

 爛々とした両目が真っ直ぐにハリーの瞳を捕らえる。

 このまま喉笛を噛み千切られてもおかしくない、そんな確信を抱かせる。人間というよりも野生の猛犬に近い雰囲気すら感じる。

 

「私は死後の世界なんて信じてませんが。吸血鬼になってしまったら、今度こそご両親に会えなくなりますね」

 

 犬歯を見せつける獰猛な笑顔だった。

 咄嗟にハリーの右手が杖へと伸びる。

 指先が杖に触れたのと菫が手首を掴んだのは同時だった。

 

「そんな()()()で私に勝てるとでも? 少し悪運の強いだけじゃありませんか」

 

 ゆっくりと握力が強まっていく。真綿のようにやさしく、しかし確実に首を締め上げられる。息苦しさを無視できなくなるのにあわせ右手首の骨が悲鳴を上げた。こちらは冗談のような怪力を容赦なく発揮している。左手で菫の右腕へ掴みかかったはいいが、鉄のように冷たいばかりでびくともしない。

 

「次の日曜日、ホグズミード村の……『三本の箒』? というお店で説明会を開きます。あなたも来なさい、そして勉強会に参加するように。グリフィンドールの知り合いにも声を掛けること。これはすべて命令です」

 

 異様な光を帯びた瞳が見開かれている。

 もの悲しげで伏し目がちな、記憶にある菫の目つきとは真逆だった。

 その目を覗き込むと人生から喜びが消えていく。

 ちょうど吸魂鬼に襲われたときと同じだ。この先の人生に絶望だけが満ちているような、希望だとか喜びだとか、明るいものを一つ残らず失ってしまった気分にさせられる。

 夏休み、プリベット通りで吸魂鬼に襲われた瞬間を思い出す。

 あのときハリーが死に物狂いで『守護霊の呪文』を使っていなければ、どうなっていたか。

 アスファルトの上で仰向けに横たわったダドリーの目が自分を見つめる。

 一度だって好ましく感じたことのない、あの小さすぎる黒い目からみるみる光が失われていく。吸魂鬼の餌食となる寸前だったのだ。アズカバンの看守などともっともらしく呼ばれる『怪物』から罪のない人間を一人助けた。命を救ったというのに、ダーズリーが恥知らずなのはもはや驚く気力も湧かないが、魔法省まで――!!

 全身を巡る血液が怒りによって沸騰しはじめた瞬間。

 菫はハリーの身体に覆いかぶさり、冷たい唇を耳のすぐそばへ運んだ。

 

「もちろん拒否して構いませんよ。行使する自由は奪えない……ですが自由には責任が伴う。可愛い可愛いダーリン・ダドリー(ボーイ・フレンド)がまた吸魂鬼に襲われるかもしれないことは、承知しておいてくださいね」

 

 地獄の底から漏れ聞こえてくるような声だった。

 菫の表情を直視するのが恐ろしくてたまらない。

 クスリ、クスリ、忍び笑いをこぼしながら吸血鬼は立ち上がる。

 心臓を思わせるほど真っ赤な夕日を背に負っている。

 逆光のおかげでいま菫がどんな顔をしているか、ハリーには確かめる術がない。

 なのに真っ黒な顔の中で両目だけがひときわグロテスクな()に輝く。

 

()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()

 

 明白な脅迫を突きつけられて、ハリーは激しく咽せ込んだ。

 堰き止められていた酸素が一気に肺へ流れ込んだからだ。

 身体を起こそうと床に手をつく。どうにか周囲の様子を確かめられたとき、菫は振り返ることなく教室を去ろうと扉に手を掛けていた。

 

「まったく……こんなに弱いのに、どうやってヴォルデモートをあそこまで弱らせたのやら」

 

 悩ましげな呟きとともに踊る黒髪。

 心躍るでもなく思案するでもない。ただの愚痴である。

 菫自身もハリー・ポッターのパーソナリティはほとんど知らないで過ごしてきたが、五年目にして大きな発見を得た。

 

 あの男子生徒は弱い。運動能力について特筆すべきものはなく、敏捷性と動体視力も同世代の男子の水準を超えるとは言えない。十五歳にしては華奢な身体つきの通り本調子から程遠いコンディション吸血鬼にはとても及ばない……特筆すべきは精神面の脆弱さだ。

 身体の弱点を責めるのは()()()()()()()()()とは異なる。

 心のささくれが痛むたび過敏に反応するだけで、彼は本質的に弱い。

 

 石造りの古めかしい城を歩いているうち高揚感が抜けていく。

 無機質な冷たさに囲まれていると心まで凍ってしまう気がする。

 この学校はどこまでも肌にあわない。畳敷きの部屋が待ち遠しい。

 特別、なにか思い入れがあるわけではない。しかし暮らし慣れた()というのは代えがたいものがある。

 なにより焦がれてしまうのはいま隣にいない『恋人』の笑顔だ。

 フラーのぬくもりが恋しいあまり、身が引き裂かれる思いがする。

 たった一歳離れているだけなのにここまで遠いなんて。気を紛らわせるように、あるいは恋人との記憶に浸り、フンフンと鼻歌を奏でる。

 

「……小粋だね、髪に飾った花も……」

 

 次の夏休みにはゆっくり泊まっていって欲しい。

 一緒に夏祭りに繰り出し、打ち上げ花火を見て、溺れてしまうからプールは怖いが水着を買いに行くのもいい。早朝には庭の花壇の手入れもできる。あのブーゲンビリアは色素の薄いフラーにきっとよく似合うだろう。想像しなくたって分かるのだ。シルバーブロンドの髪を結ったフラーを鮮やかな赤色がますます美しく飾る、その光景を脳裏に思い描けばふさぎ込みがちな気分もあっという間に晴れていった。

 

「お前が微笑めば、すべてが上の空……男たちの心を奪うたびお前、綺麗になってくね……夏の罪は素敵すぎる……」

 

 知らず知らずのうちに歌詞を口ずさんでいた。

 ラッツ&スターの『(め)組のひと』だ。薊が一度、ベースを弾いてくれたことがあったものの下手だった。好きでやっているだけなのだから上達云々とは違うのだろう。

 思い出の曲といえる曲はそのくらいである。ラジオやテレビでときどき耳にするぐらいで、地元にはカラオケなんてないのだ。

 珍しく機嫌がよくってすっかり舞い上がっていた。

 菫自身も歌っていることに無自覚だった。階段ですれ違った下級生が目を丸くしているのに気づいてようやく察した。

 けれど恥ずかしさよりも楽しいひとときを邪魔された怒りが勝った。

 ニコニコと明るい笑顔がほんの一瞬で憤怒に染まる。

 

「なにが面白い! そんなに笑いたいなら鏡でも見ていろ!!」

 

 空気が震えるほどの声量を叩きつけられた一年生は飛び上がった。

 吸血鬼として有名な上級生から、いきなり怒鳴られたのである。

 血走った目に射竦められながらもつれる脚で必死に駆け出す。

 底冷えする廊下にぽつんと取り残された菫は歯軋りした。

 こんなに面白くない生活が丸々二年も残っているなんて拷問だ。一声も発さず漂っているだけアズカバンの吸魂鬼の方がよほど無害だ。

 薊はこんな風に舌打ちを堪えているのかと思うと、余計に腹が立つ。

 母が昼間から缶ビールを飲みたがる気持ちもなんとなく分かる。

 

 アルコールに酔えばこの不快感から逃げられる――そんな気がした。

 

 いくらか持ち直した気持ちがまた急降下していく。

 怒りを煮え滾らせるだけの気力すら奪われ、誰もいない空間に一人さびしく立ち尽くす。

 心臓が止まり、涙は枯れて、溜め息だけが残っていた。

 その溜め息もいくらこぼしたところで虚しいだけだ。

 ふと後ろを振り返ると長い長い廊下がどこまでも続き、また前を向けばちょうど気紛れな階段が動き出し道が途絶えたところだった。過去だけを抱えて永遠に死んだままの自分を突きつられたような気がする。

 よりによって吸血鬼だ……人狼ならば豹変するタイミングは決まっているし、あらかじめ薬を服用しておけば変身はしても狂気は抑えられる。しかし吸血鬼の衝動(コレ)は人狼が発症するような狂気(モノ)とは種類が異なる。純然たる食欲を抑えつけたならあとには干からび、餓死が待ち受けている。

 グリンデルバルドの血を吸ったとき身体の調子が良くなった。

 あの瞬間、身体を苛んできた脱力感がきれいに消え去った。

 やはり怖い。自分を毛嫌いする周囲の反応も理解できる。自分だってこんな怪物を好きになれないのだから、赤の他人が隠しきれない忌避感を抱くのはごく当然だ。

 ()()()()()()()()()()()が不自然なのだ。

 気づいてしまえば理解するのに要する時間はほんの一瞬だ。

 今度こそ溜息がこぼれた。人生とは理不尽と不条理の繰り返しだが、まさか死後さえままならないとは思いもしなかった。

 もう立っているのさえ億劫なほどの無気力に陥る。

 だらりと壁にもたれかかって虚ろな目に廊下を映す。

 五感も意識もすべてが停滞していく。完全に妨げたのは階段を降りてきたダフネだった。

 こちらは切羽詰まった表情で珍しく足早である。

 

「大丈夫なの。具合、どこか悪いの」

 

 不安げにも心配しているようにも見える目つきだ。

 鈍いながら「死後の無情を噛みしめていました」と言葉があり、やはりよくない状態らしいと判断した。

 

「下手な相槌でもいいなら、愚痴は聞くけれど」

 

「ご心配なく。解決策もないではないので」

 

「バジリスクを解き放つのはよしてよ」

 

 針金のように細められたダフネの目は「コイツならやりかねない」と物語っている。

 前科があるからこそ警戒されているのだが、菫はそれを冗談と受け取りコロコロと笑った。

 

「いいですねソレ。石像美術館にでもしましょうか」

 

 感性が致命的にズレている……自分如きの手には負えないと再認識する。

 

「これからどちらに? よければ私も――」

 

「アナタと従姉さんの『先生』のところよ」

 

「今週は防衛術のレポート課題、ありませんよね」

 

 階教授は過去の防衛術担当と比較して宿題が少ない。

 座学に偏った授業であることを差し引いても生徒にとってはありがたく、しかも美人で、風紀について大らかなのだから赴任して数週間でもう人気を集めている。

 そして今週末、というより明明後日は日曜日である。ホグズミード行きの当日である。

 この措置に胸を撫で下ろし、あるいは大喜びした生徒は少なくない。

 菫の疑問にダフネは首を左右に振った。

 

「個人的なことでね。面白くもないハナシをしに行くだけよ」

 

 遠回しに同伴を断られた菫は「そうですか」とすぐに興味を失った。

 正直すぎるというかあまりに裏表がなさすぎる。清々しいくらいに本音でいられるのがダフネには羨ましく、「じゃあ」の一言を振り絞るのが精一杯だった。

 足音を立てず猫のように歩く同級生を見送る。

 こういうときマクゴナガル教授が寮監なら、いくらか助かったろうに。

 

「スネイプ先生がダメなだけか」

 

 別にスプラウト教授やフリットウィック教授でも差し支えはなく、セブルス・スネイプだけがハズレであると気がつく。それは当然として、階教授もあのマイペースな性格では悩みを打ち明ける相手としてどうかと思うが……。

 

「そうだ。ダフネも誘わなきゃいけないんだ」

 

 後ろ姿を見送ってから記憶が蘇る。薊の計画では、先にダフネを確保してからハリーを『勉強会』へと引き込む算段となっていた。それではまたぞろ赤毛の落ち零れに邪魔されると思い直接仕掛けたのだ。順序は逆になってしまったものの、とりあえず『両方』揃っていれば結果的には同じカタチと言い張れる。

 そこまで考えて、菫はついさっき出て来た防衛術の教室へ引き返す。

 嬉々としてハリーの首を締め上げ恐喝したことは完全に忘れている。

 

 

 階黑羽にとって『若さの秘訣』は秘密とは言い難い。

 ダフネ・グリーングラスもそれはよくよく承知している。

 研究室へ通されて真っ先に目についたのは夥しい量の書籍だった。

 床やテーブルの上でいくつも紙製の摩天楼が聳える大都会(メトロポリタン)の様相を呈し、整理整頓とは無縁の環境だった。その中でもデスクとチェアの一式だけは本格的で、来客用のソファもなかなか年季が入っていた。

 進められるがままに座る。立ったままではいずれ疲れてしまう。

 

「相談というのは何でしたか。『著書』はいま手元にないのですがね」

 

「教授が半世紀前に研究なさっていたことではありません」

 

「は、半世紀前なんて言われると実年齢を思い出して辛いものが……」

 

「肉体を永続的に保護する術を、私に教えてくださいませんか」

 

「ほう。つまりは『弟子入り』したい、と?」

 

 昆虫にも似た無機質な眼光がダフネを捉える。

 目の前にある存在を徹底的に観察する目だ。

 教授は物音一つなく向かいあう形でソファに腰掛けた。

 

「どこまで知っているのです。私の魔法について」

 

「1951年にイギリス=エジプト共同統治領スーダンで()()()をされましたね。古王朝、第三王朝時代の封印された僻墓で教授が見えた知識、それが欲しい」

 

「よくご存知です。魔法省のみならず『MACUSA』の情報規制も回避したとは、なかなかに貪欲ですね……手間も時間も並大抵のものではなかったでしょう」

 

「大人の権力に甘えられるのは子供の特権ですので」

 

「なるほど。それはごもっとも」

 

 頷きながら――無意識にやってしまう程度に手癖となっているのだろう――空の右手の人差し指と中指でシガレットを挟む仕草をした。筋金入りの愛煙家でもこうはなるまい。

 

「一つ訂正させてもらいますが、私がエジプトで見出したのは『生命』を防御する魔法です。肉体そのものではない。まあ、限りなく同義ではあるのですがね」

 

 テーブルに散乱した羊皮紙の束を一つ掴み、広げる。

 羽ペンと黒インクの壺を探しにデスクまで向かいまた戻ってきた。

 

「あの魔法は()()()では役に立ちません。何故かといえば、魔法使いの医療技術には臓器移植に必要とされる『外科』の観念が存在しないからです」

 

「臓器を、なんと仰ったのですか。移植? 手作業?」

 

「『外科手術』ですよ。鉗子(メス)という極薄刃の小刀で人体を切開し、手を加えたい箇所へ措置を講じる。こちらの世界では杖と薬で概ね解決してしまいますからねぇ……おそらくですが、紀元前の時代に存在した外科手術の技法が失われているのではありませんか?」

 

「教授はそれで、不滅の身体を……?」

 

「まさか。あれは不滅などではありません、ただ外的要因、つまりは病気や外傷あるいは毒物のほか魔法による死を回避するだけです。肉体が粉微塵になるような状況は想定していませんよ」

 

「でしたら。でしたらチベットの方なのですか。1938年にキザハシ教授は確かにチベットへ行かれたはずです」

 

 身を乗り出すどころか半ば腰を浮かしてダフネは食いつく。

 珍しく声に熱がある。気怠げな表情はそこになく、鬼気迫る面持ちで目の前の魔女に秘密を共有するよう縋る。

 そんな生徒の様子さえ淡々として観察し分析する教授は、第一印象の冷酷さが誤りでなかったと納得するに足りた。

 

「あちらで得た知識も不死とは違います。ただ魔法力を底上げするだけの単純なものでしてね。儀式は非常に高度ですよ? まずチベット語に精通していなければなりませんし、専用の宝具も揃えなくてはなりません。それに何よりあの呪文は……ふむ。もっと要望に近い呪文もないではありません。気になりますか?」

 

「あるのでしたら、是非」

 

「…………なるほど、なるほど。結構。弟子入りの件はひとまず後日に試験をしましょう。今すぐでなければならない事情があるなら、拝聴しますが」

 

 すう、と階黑羽の両目が細まる。たったそれだけの動作で心の奥底まで見透かされるようで、脊椎から全身の抹消へと嫌な緊張感が走る。神経へ電流を流されたのにも似た感覚に襲われたダフネは、ただ「いえ……」というごく短い一言を発するのが精一杯だった。この異様な重圧を放っているのが教師だと思うと目眩すら覚える。

 重力に誘われるまま後ろのソファへ身体を沈める。運動不足とはいうまい。

 日頃から教室の移動で身体は酷使しているはずなのだから。

 披露困憊したダフネが脱力しきっているのもお構いなしに教授は銀盆を運んでくる。

 

「手作りのチョコレートファッジがあるのですか、如何です?」

 

「え……遠慮します。食が細いので……」

 

「そうですか。美味しいんですけどね」

 

 興味なさげに教授はぱくりと一枚、口へ放り込む。

 同じタイミングで研究室の扉を誰かがコンコンと、二度叩く。

 

「階先生、いらっしゃいますか?」

 

「どうぞどうぞ。ご遠慮なく」

 

 扉をわずかに開けた隙間から菫が顔を覗かせる。

 膝下まで伸びる黒々とした髪がさらりと流れた。

 血の気のない肌と真っ赤な瞳を別にすれば、年相応にあどけない。

 

「先生、勉強会のことで打ち合わせって……」

 

 言い終わる前にダフネと菫の目があった。

 琥珀色の瞳にはいつもの倦怠感が戻っていた。

 

「いたんですか。ならちょうど良かった」

 

「ちょうど良いって何が。また何か企んでるんじゃ……」

 

「ええ。そうです、ハリーも巻き込んじゃいました」

 

「ま、巻き込むって、どういうつもりで」

 

 反射的にダフネは立ち上がった。

 ハリー・ポッターの名前は絶大な威力を発揮した。

 自分にとっては価値がなくっても他の人間にとってはそうでない。『服従呪文とその悪用法』は本当に有用な本だ。何もかもあの古い書籍に載っている通りである。

 これなら万事上手く行くだろう。もっとよく読み込んで、理解しなければ。

 無意識のうちに菫の口の両端が吊り上がっていく。

 僅かに空いた隙間からちらりと覗く長い犬歯、あるいは牙が、彼女の本性に思えた。

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