本音を言えば『ホッグズ・ヘッド』のイノシシステーキを食べたかった。
母校の学生寮で暮らしていたときはルームメイトの好意で
加熱したトマトが大嫌いな薊にとって、肉汁と塩胡椒、それに香草とバターで味つけするイギリス料理はけして不快ではなかった。
イタリアだったら三日で参っていただろう。
正直なところ今日はコカ・コーラの気分だったが無い物ねだりしても虚しい。
だったらペプシ・コーラがあるのかと言えばそんなワケがないのである。
予定時刻まであと十五分。『三本の箒』の一画はホグワーツの生徒で溢れている。
それでなくとも人気店なのだ。そこへ体力を持て余したうえ浮き足だった人間が押し寄せればそれはもう騒々しい。
行儀良く膝を揃えて座っている菫を見ればショートブレッドで珈琲を啜っている。
筋金入りの偏食家だ。自宅じゃ
「それ美味しいの?」
「別に。ただのビスケットだし」
「アタシのタルト、食べる?」
「いらない」
ウィーンでリンゴタルトにジャムタルトまで完食してよく言う。
漬け物があれば何合でも白米を詰め込める大飯ぐらいが、ここまでヘソを曲げる気持ちも、分からんでもない。ホグワーツの生徒は育ちが良すぎる。それは『幼稚』とか『世間知らず』と表裏一体であり、他者が生まれ育った環境や自分が慣れしたしんだのとは異なる世界に対してどこまでも鈍感だ。
薊はまだいい。言葉には言葉で、暴力には暴力で、即座に倍返し出来る。
だが菫は喧嘩の仕方を知らない。だからやり返していいときに我慢し、反撃すると決まってやり過ぎる。
「マジで来るのかなあアイツら。ま、どうでもいいけど」
「どうでもいいって……ハリーとドラコを人質にするんでしょ?」
「失敗する方が高い。成功したら大成功で万々歳なんだけどねえ。博打よコレ」
「あー、それはそっか。二人とも人望ないしね」
「ホンッッッとに人を見る目がない。眼鏡買えば?」
ダンブルドアの言葉を額面通り受け取るのは危険と承知している。
しかし「ハリーの味方になって支えて欲しい」と、敢えて逆鱗に触れる覚悟で菫に伝えた意図を考えると、校長はいま生徒一人に時間を割けるほど余裕がないのだ。だから失敗してもリスクの低いこの博打はけして悪い勝負ではない。むしろ『不死鳥の騎士団』の旗印とマルフォイ家の次期当主という二つの巨大な駒を、あってないに等しい評判と引き換えに手に入れられる……これほど都合のいいハナシがあるだろうか。
なのに首謀者の片割れがその事実を理解していない。
薊は背もたれにぐったり身体を委ねた。
ポーク・リブを頼むか否か悩んでいるうちチョウ・チャンとカロー姉妹が揃い、やや遅れてドラコが来た。三十分前から待っている薊と菫はすでに待ちくたびれて緊張の糸が緩むどころか切れていた。
各々、バタービールやフィッシュ・アンド・チップスを適当に注文した。
あまりの集まりの悪さにはドラコも二の句を告げないらしい。予想を遥かに下回る結果のせいで表情筋が弛緩し、高慢な嘲笑も不遜な顰め面も出来ないでいる。だがすぐに店内の騒がしさは勢いを増した。
額に汗を浮かべたネビル・ロングボトムがいの一番で飛び込んできた。
パーバティとパドマのパチル姉妹がその後ろからのんびり現れ、ディーン・トーマスとラベンダー・ブラウンもおっかなびっくりの顔で薊たちのいるテーブルを覗き込んだ。それからも説明会への参加者は次から次へとやって来る。グリフィンドールはもちろんレイブンクローとハッフルパフの生徒もいる。
次第に薊は人差し指の爪先でテーブルを叩き始めた。目に見えて苛立っている。
「時間厳守って言葉がイギリスにはねえのか! どうなってんだ!」
ざっと二十人は集っただろうか。みんな好き勝手に周りとお喋りをして、何重にもガヤガヤ声が響くおかげで薊が放った愚痴はほとんど掻き消されてしまっていた。
そんな様子をアンジェリーナ・ジョンソンがシニカルに笑いながら「アンタら姉妹の人望さ」と言い放つ。
「やかましい。こっちじゃ電車が五分遅延したら駅長は公開切腹ショーすんだよ」
「なんじゃそりゃ。野蛮すぎやしない? いつの時代のことなんだか」
「ジョークも通じねえ文明に言われたかないね。おい! もう始めんぞ!」
頭に血が昇って言動が支離滅裂気味だが、ほかに統率できる人間がいない。
ついには平手で年季の入ったテーブルを叩いて無理矢理に注目を集めようとする。
「あとから来たヤツ! すぐにカウンターへ行ってバタービールでもなんでも買ってこい! 自腹だからな!」
伝言ゲームで最後列にいる四年生、三年生まで指示が行き届いた。
どうにかこうにかプログラムは一歩前進したようだ。戻ってきたときには皆、鳩が豆鉄砲の機銃掃射で蹂躙されたかのような顔をしていた。おかげでどうにか数十人の大所帯が静まりかえった。問題はそれでも『三本の箒』がまだまだ騒がしいことこのうえない点だ。薊はそちらに構う事なく全員の視線を集めるため立ち上がった。
「五年生! オマエらは本当に運がいい! 今年の防衛術の教授は『大当たり』だよ!」
「片眼がひっきりなしに動いちゃいないからね。ペテン師かどうかはまだ分からないか」
「ザカリアス・スミス、またぞろそのドブ以下の薄汚ねえ口から反吐をブチ撒けてみろ。引き抜いた舌を親元へ送りつける」
いつもなら刀子のように薄く鋭い瞳が血走って見開かれた。
どこか田舎くさいアメリカ訛りでは怒気を中和しきれていない。
恐れ戦いたザカリアスは身を屈めたのか薊の視界から消えた。
「階教授は姉さんの恩師ですので……余計なことを言わないだけトロールのほうがアナタより万倍は賢いでしょうねスミス。また『ナメクジ』いっときます?」
「忠告はした……で、そう、防衛術だ。先生がホグワーツにいるのは今年度限りだ。オレたちが受けてる『試験対策』も今年度だけになる」
「来年も防衛術を担当してもらうようにアザミが説得すればいいじゃないか!」
「仕事はカンペキでも性格は相当ヤバいぞあの先生。オマエら知らないだけだかんな、だいたい今年で百歳と……えっと八十四ヶ月だっけ」
「冗談よしてよね、あんなにつやつやお肌の百七歳がいてたまるもんですか」
「間食をやめればニキビと体重をまとめて減らせるぞブラウン」
マイケル・コーナーとラベンダーの野次を容赦なく一蹴する。
「スイーツで太るのがそもそもおかしいのよ」
「ゴメン……急に英語が理解出来なくなった」
少女趣味丸出しな巨大リボンの下でラベンダーの顔が憮然とする
一昨年の反省からタータン柄はパレオに留め、ジャケットにあわせて黒革のパンツを選んだ薊とは服装の趣味が正反対である。
二人のコントにいくらか緊張感が和らいだ。
「ともかくだ。チョウは『現状』のままでは『悪化』すると考えて、『打開策』を提案してくれた。去年やった学生新聞の課外活動はまだ解散してない……だからその枠組みを再利用するカタチで『ホグワーツ生』による『自主的な勉強会』を主催しよう、という提案だ」
そこで薊はバトンをチョウ・チャンに譲った。まったくのアドリブである。もちろんスピーチ原稿などない。少なくとも、アンジェリーナ・ジョンソンの言葉を借りるなら『人望』こそが武器になる。自分や菫のように舌先で相手を丸め込み思うように操るよりもチョウは本音で訴えかけた方がより効果があると踏んでもいた。
この計画に賛同したのも「正しさ」に思い悩んだ末の結論だ。
各々が私利私欲を抱えているスリザリンの面々よりずっと純粋なのだ。
そこまで計算に含んで利用しようというのだから、やはり自分はチョウに言われた通り『腹黒』なのだろう……薊は瓶に残ったバタービールを飲み干した。
「防衛術の授業には問題がある。具体的に説明しなくっても、集ってくれたみんなは分かっていると思うけれど……来年以降に改善するなんて誰も信じてないでしょう? だって、ルーピン教授やムーディ教授みたいな『いい先生』がまた来てくれるとは限らないから」
基礎を徹底するという部分で階教授はクィリナス・クィレルの同類であった。
ただ教職として積み上げてきた経験が桁違いなだけで、本質的には『教科書主義』だ。
教授自身も五年生の防衛術については『試験対策』と割り切ってしまっている。
わざわざ海外の魔法学校から教員を引っ張ってくるほど人材難の科目である。
もし魔法省がホグワーツの人事権に介入すれば、来年度は試験対策すら覚束なくなる。
「『先の事』を考えるならこうするのが一番いい。どこかで変えないといけないのなら、いま、私たちで変えたいと思った。大袈裟なことを言ったって私は今年で卒業してしまうけど……こうしてあと託せるみんながいるから。ホグワーツのために出来ることがあるなら、全力でやりたい」
そこまで言い終えたとき、カウンターの方で極めつけに派手な笑い声が爆ぜた。
チョウのほか何人かが立ち上がる。フレッドとジョージが長い首を伸ばすと、ウサギの毛皮で作られた所謂
まったく興味のない薊は「未成年だろ。だいたい味が分かる舌か」と嫌味を放った。
こんなに集中力がなくって大丈夫だろうかと内心不安で仕方がない。
やはり無作為に生徒を巻き込むのは失敗だったかも……自分で立てた計画への自信を失いはじめた薊の肩を、誰かが軽く叩いた。手を振り払う気力もなくガックリ項垂れる頭上から「こんな素敵な日曜日にどうしました?」と聞き慣れた声が降りかかる。
もはや顔を上げるまでもなく分かる。十年間、長期休暇を除けばほぼ毎日顔をつきあわせてきた相手の趣味嗜好など嫌でも把握出来てしまう。
「楽しそうですね先生。そんなに美味いんですか」
「おやおや、薊さんはとっくにご存知と思っていました。よければ一杯如何です?」
「あなたの教え子は未成年者だけですよ」
「そんな……美味しい
顔は相変わらず透明感のある白さだが、耳はイチゴジャムを塗ったように赤い。そんな教授は深く透き通る飴色のラム酒を一息に飲み干した。グラスになみなみ注がれた蒸留酒があっという間になくなる。またも魔法戦士たちはやんやと騒いだ。
菫は驚きのあまり言葉を発せずにいる。対して薊は面白くなさそうにプレートへ残ったチーズを囓った。
泥酔しているようで呂律はしっかりしているし笑みもどこか冷笑的だ。
破天荒ではあるが絶妙なバランス感覚で好き勝手する、変なところで器用さを発揮する。
「皆さん少食なんですね。このパブの料理はどれも素晴らしいですよ?」
「安くもないです。このあと駄菓子屋に行くヤツもいます」
「なんと勿体ない。折角です、ここは『勉強』ついでに私が……」
やはりちょっとダメ寄りかもしれない。酔い具合も、バランス感覚も。
アルコールで金銭感覚が吹き飛んでいる疑惑もある。影法師のようなシルエットはそのままカウンターへ引き返し、マダム・ロスメルタとしばらく話し込む。酒瓶とグラスを受け取りくるりと振り返って「奥のお座敷使えるそうですよ!」と薊たちのいるテーブルへ呼びかけた。
「キザハシ教授っていつもあんな感じなの?」
「オフはな。自分のやりたいコトが最優先だ」
呆気にとられるばかりの参加者を見渡す薊は眼力が復活していた。
主催者側になる六人は手荷物も少ない。遅刻してきた参加者はゾンコの悪戯道具やハニーデュークスの紙袋を抱え、ぞろぞろとラウンジへ移る。物珍しさにあちこち観察したり頬を赤らめて興奮するものの薊は冷めていた。
これが愉快な記憶であるハズがない。当然、眉間に深々とシワが刻まれる。
一方で階教授は年代物のシェリー酒の栓を開け放った。
ポン、と小気味よい軽快な音が室内に弾けた。
その様子を黙って眺めているのは、真っ赤なスーツにアイスブルーの瞳をしたバスシバ・バブリングだった。
グラスの中身を飲み干し階教授はニコニコ微笑んだ。
「意外に多く集りましたね。集客率を読み違えましたか?」
「はい。目算が甘かったです、十人そこらだと思ってました」
不思議なことに全員が座れるだけのスツールやソファが揃っている。
いそいそと葉巻の用意を始める教授をよそに薊は暖炉の前へ立った。
バブリングも勝手にパイプとウイスキーで一服を始める。
「予想してた三倍近いが仕方ねえ。説明会の『本題』に入ろう」
「『普通魔法レベル試験』の対策会ではない、ということですか?」
「欺瞞だなフレッチリ-。ホスト全員の氏名が案内に記載されていたはずだ。僕の名前も、カローたちのものも。承知の上で参加したからには、本心で期待していたんだろう」
アーニー・マクミランに連れられて来たジャスティン・フィンチ=フレッチリーが真っ先に声をあげた。同じハッフルパフの友人に頼まれて、不本意ながら足を運んだだけなのだろう。もちろん彼が菫と薊に好感を抱いていようはずがなく、自身の将来や平和的破局に至ったアーニーの希望を考慮したことは明らかだ。
ドラコはその奥底に『現状』に対する不満があると指摘した。
チョウだけならばここまで参加者は来なかった。彼女は人望こそあるが邪念がなく、菫は対照的に人望こそ欠片も備えていないが、それを補って余りある――黒々とした妖気にも似た――邪念を誰もが認めているために仄暗い期待を抱かせる。なまじ性格が悪いとこのくらいしか信頼のされ方もなくなるのだ。
ジャスティンは指摘に対し反論を試みなかった。薊にはその潔さが好ましく、また網膜が焼けそうなほど眩しかった。
菫は赤々とした瞳を澱ませて口をつぐむジャスティンを観察した。
暗い視線は過去に受けた仕打ちを一つ一つ思い出しているようで、どこまでも陰湿に映る。
「私が何故吸血鬼になった理由について、魔法省の言葉を信じる方がいれば仰ってください」
天文学的な確率のもと発生した、偶発的な事故――菫の『死因』について魔法省は詳細な説明を拒んだ。日刊預言者新聞も足並みを揃えごく小さな見出しでたった一度だけ掲載したきり言及を避けている。ダンブルドアは年度末の宴で敢えて真実を三校の生徒たちに伝えたが……それとて断片的で限定的なものに留まる。
無論、アルバス・ダンブルドアの言葉を疑うホグワーツ生はいなかった。
腹の奥底から込み上げてくる不快感を菫は躊躇なく吐き出した。
「ああ、よかった。『磔の呪い』の練習台にしなくて済みました」
爛漫とした笑顔から放たれた悪意の底はとても暗かった。
冗談として受け流すには本心と表情の乖離が著しい。それほどに菫の目は不満げで、もし不用意に挙手するなり一歩前へ踏み出ていれば何をされていたか知れない。
敵愾心とはいかずとも親しみを感じさせない。
ずっと閉ざされてきた菫の本心を垣間見た気がした。
「……『勉強会』の本命は戦闘訓練だ。ポッターが夏休みに吸魂鬼に襲われたことを知らないヤツは?」
今度も名乗り出る者はいなかった。例え謀略によって仕組まれたものであれ裁判沙汰にまで発展した事件である。関わった人数は計り知れず、漏れる口の数はとてつもない。どのような形にせよ情報は『噂』として学校に広まっていた。
「試験に通ったって、いざってとき役に立たなきゃ意味がない…………」
そこまで話して言葉が詰まる。
薊の目線がしきりに動き始める。
今まで見たことのない反応に集まった全員が驚いた。
「…………オレもオマエらも、死ねば終わりだ。何も出来なくなる。ホグワーツの外にいるのは吸魂鬼だけじゃないぞ」
「魔法省はみなさんの将来など考えていない。だから、自衛手段を習得するためには自主訓練するしかありません」
「言ってることは分かる。もちろんキザハシ先生の授業は分かりやすいけど……僕らがいま教えて欲しいのは実戦の方だ。でもいまいる面子の中で防衛術の試験をパスした生徒はチョウとアンジェリーナだけじゃないか」
癖のある黒髪を肩まで伸ばしたマイケル・コーナーがそう言うと、あちこちで賛成の頷きがあった。生徒だけでやるには限界がある。いくら最上級生がいると言っても、チョウもアンジェリーナも放課後はキャプテンとしてクィディッチの練習を監督しなければならず、さらに授業の課題も五年生とは比べ物にならない。
「それは百も承知だ……だから、こうして――」
「もっと重要なことがある。『例のあの人』が返ってきたというのは本当なのかい? ちゃんとした証拠を見せてくれよ」
公衆の面前で恫喝された恥ずかしさを腹立たしさに組み換え、ザカリアスが噛みついた。教授たち二人は片や無関心に、片や興味深そうに、生徒たちのやり取りを観察している。
沸騰した怒りが臨界点を超えていた。
ザカリアスは薊の眼光に怯まない。露骨な不信感を隠そうともせず、濃いブランドヘアの毛先を指で弄びながら、薄笑いを浮かべる菫を顎をしゃくった。
「『例のあの人』が戻ってきたと主張するだけの理由があるんだろう? だったら僕たちに説明すべきだ。このセミナーにわざわざ来たんだ、そのくらいは知る権利がある」
「去年、ムーディ教授が実演なさったでしょう。『死の呪い』ですよ」
「『死の呪い』を受けたら吸血鬼になるなんて聞いたことがないね。キミだけが特別ってワケなのかい? そのタネを公表する方がよほど世のタメだと思うけど」
フローラとヘスティアが杖を抜くよりも菫は素早かった。
目にも止まらぬ――文字通り、吸魂鬼の凄まじい身体能力でザカリアスの真正面へ立ち塞がる。このまま呪文を放てばよほど巧者でなければ菫を撃ち抜いてしまう。
「好奇心旺盛ですねザカリアス・スミス。冒険趣味をお持ちとは存じませんでした」
「ダンブルドアが学年末に話したのは『例のあの人』が復活したことと、キミが『例のあの人』に殺されたこと。それにハリーとディゴリーがキミの遺体をホグワーツへ持ち帰ったことだけだ。ほかは詳しく話さなかった。キミがどんな風にして
挑発的な態度を崩さない皮肉屋を、菫は本気で殴った。
全身全霊の力を振り絞った握り拳を腹に叩き込む。
華奢な見た目の通りまともに鍛えた経験はないが、白昼であれ吸血鬼の肉体には違いない。筋骨隆々の巨漢から一撃と遜色ない威力が喧嘩慣れしていないザカリアスを撃ち抜いた。
「……はじめてあなたに会ったときこうすべきでした」
「やり過ぎだアオイ。相手は口だけだったぞ」
「優しい人間ばかりが世の中ではありませんよ」
ドラコの苦言をあしらいながら菫は「ふう」と拳を解いた。
「クズを黙らせるにはこれで十分です」
水溜りに浮かぶ野良犬の糞を見下ろす目つきだった。
ハッフルパフの誰も気遣う素振りさえ見せない。
旗色の不利を見て取ったザカリアスはそれきり口を閉ざす。
「ともかく、やるんだ。バブリング教授はすべて承知の上で引き続き顧問をしてくださるし、階教授も実践的な書籍を用意してくれる。それにだ……この『自主訓練』のリーダーとして、オレはハリーを推薦する」
「けど、マルフォイがいるじゃないか。カローだって身内に……アレクトとアミカスは『死喰い人』だ」
「父上はこの自主訓練についてご存知ない。もちろん、僕から伝えるつもりもない。勉強会の方は教材一式を用意してくださったが、それだけだ」
「マルフォイ家を信じるなんて無理だ」
最初、誰が言ったのか分からず薊は視線を泳がせた。
グリフィンドールとの目星はついている。しかし発言者はウィーズリーでもなければディーン・トーマスでも、リー・ジョーダンでもなかった。自ら前に歩み出てきたのはネビル・ロングボトムだった。
「ルシウス・マルフォイは『例のあの人』の手下で、ドラコの母親はあのベラトリックス・レストレンジの姉妹だ。ベラトリックスの夫はロドルファス、兄弟のラバスタンともどもアズカバンに収監された殺人鬼だ。そんな相手をどうやって信じればいいのか……僕には分からない」
「ロングボトム……お前の記憶力は何を留めておける? その調子では自分が何者だったかさえ忘れてしまうんじゃないか?」
わざとらしく肩をすくめながらドラコが嘲笑う。
ここで彼が口撃を止めるようなんてあり得ない。グリフィンドール生の何人かはいまにも殴りかかりそうな状態だった。事と次第によっては数人掛かりで袋叩きにしてやるという魂胆である。
「僕にとってアオイは同じスリザリンの友人だ。その程度のことすら忘れられるようなら、いよいよお前は救う価値すらないぞネビル・ロングボトム」
ドラコの表情を目にしてネビルは言葉を失う。
記憶にある、冷たく陰湿な薄ら笑いとは違った。
怒りの感情が籠もっている。どこにも吐き出せないものが、灰色がかったアイスブルーの瞳から滲んでいた。
限界まで張りつめた緊張感が断ち切られた瞬間だった。