テーブルを囲んで全員が座るまで誰も一言も発さなかった。
血縁者に『死喰い人』を抱える者、親戚が魔法省に勤める者、家族の内に『不死鳥の騎士団』メンバーがいる者、それぞれの微妙な関係性を意識の外へ追いやるのは並外れた困難が伴う。
口火を切ったのは真っ赤な目を細める菫だった。
ホールとラウンジを隔てる木造の扉の方を凝視している。
「『透明マント』を手放せないほど寒くないでしょう」
冷たい声は囁く程度の声量にも関わらず室内の全員が聞き取れた。
強張った表情でマントを脱いだハリーの姿にどよめきが起こる。
当然、警戒心どころか敵愾心を隠そうともしないロンと、神経を張りつめたハーマイオニーもいる。薊は三人分の椅子を部屋の隅から運んだ。
アーニー・マクミランとアンソニー・ゴールドスタインがそれを手伝う。
ハリーがソファへ座るまでに何十分も経った気がしてならない。
階教授の注文したフィッシュ・アンド・チップスが運ばれてきて、ようやく薊が口を開く。
大皿に盛りつけられたフライの山は完全に無視した。
「バブリング教授は『勉強会』の、階先生は『自主訓練』の顧問をしてくださる」
バブリングはルージュを引いた唇の隙間から紫煙を吐き出した。
階教授も慣れた様子で脚を組みながら葉巻をふかしている。
煙草の香りは菫にとっても薊にとっても馴染み深い。実家に帰ればいつも誰かがプカプカとやっているからだ。
ただ、山吹や椿がよく吸うマールボロよりもずっと匂いが濃い。
シガレットと異なる独特の香気に包まれながら薊は空のマッチ箱を弄ぶ。
ハリーの左隣に座ったハーマイオニーが毅然として薊に対峙する。
「この会合も含めて、魔法省や
「『破れぬ誓い』でも結ぶか? そのくらいの覚悟はしてる」
さらりと言ってのける薊に対してドラコは怯んだ。
魔法契約の中でも高い拘束力を発揮する呪文だ。
何故か――――交わした誓約を違えれば命を失う、そうした呪いを負うからだ。『不死』という言葉に『不可能』という意味を与えた魔法族である、彼らの価値観とって死はとてつもなく重い。マグルのそれと比較してやや神経質なほど彼らは『死』を忌避する。
典型的な現代人である薊はその差異を見逃した。
彼女は典型的な現代人の肌感覚に従っている。
「冗談はよせ。父上は父上、僕は僕だ」
ハッキリと拒絶の意思を示したドラコへロンが鼻を膨らませる。
「当然さ。パパの七光りがなきゃ廊下も歩けない」
「おい、口論するためにわざわざ集ったんじゃねえぞ」
「いいや。『破れぬ誓い』がイヤだっていうなら『服従の呪文』にでも掛かって貰わなきゃ、マルフォイを信用するなんて出来るもんか」
ロンの主張が独りよがりでないのは薊も理解している。
仮にいままで認識していなくとも、無数の沈黙は消極的な同意だ。
「ではやりましょうか? ちょうど練習台が欲しかったところです」
黒檀の杖を抜き放った菫がさらりと言い放つ。
いくら本を読み返しても一回の練習にはずっと劣る。第三の試練で使ったきり練習もままならない状態なのが気懸かりだった。
ドラコだけでなくロンも目を見張った。その様子に菫は溜息をつく。
何年経とうともあの赤毛は信頼に値しない。ハリー・ポッターの親友であるというだけでドラコよりも利用価値がない……今のようにつまらない感情論を振り翳すだけの、つまらない男だ。ロンの理解し難いものを見る目に対し軽蔑の視線を返す。
「オレとしては、訓練のリーダーはグレンジャーかポッターに任せたいんだが」
「どうして僕にやらせようなんて考えるんだ。言い出したアザミがやればいいじゃないか」
「まともに戦った経験がないからだよ。喧嘩しかやったことがねえ」
「僕だって、戦いらしい戦いなんてない。キミは誤解してる……これまでに自分一人の力で何かを成し遂げたことなんてないんだ。いつも周りの人たちに助けてもらってきた。誰かに教えるとかそんな偉そうな真似が出来ると思ったことすらない」
そうは言っても周囲はハリーの意思に反してざわめき始めた。
少し離れたところで膝を揃えているダフネが「昨年度、あなたがどれだけ多くの困難を乗り越えたか知らないとでも思って?」と言ったときだけは得意げな顔にならないよう取り繕う必要があった。
「けどドラゴンのときは一人だったろ? 誰も助けなかった」
「本当にカッコよかったぜハリー。マジでイケてたよ」
こう言われると無碍にしてまで拒絶するのも悪い気がした。
「うん、まあ、それはね」
「夏休みには二匹の吸魂鬼を追い払ったんでしょう?」
「ええっと、うん。その通りだけど……君、もしかして法執行部部長のボーンズさんを知ってる?」
「アメリア・ボーンズは私の叔母よ。私、スーザン・ボーンズ」
大きな三つ編みを一本垂らした少女はそう名乗った。
吸魂鬼を追い払う方法は一つだけだ。ハリーが『守護霊の呪文』を使えることを知って、さらに騒がしくなった。
階教授まで興味深そうに眼を細めている。
いま見せてくれとせがまれる前にハリーは首を左右に振った。
「アレは土壇場だったからだ。そうしなきゃ従兄弟だけじゃなくって僕もやられてた」
「ですが、アズカバンの看守がいつまでも魔法省の下にいるとは限りません」
「警戒しなきゃいけないのは吸魂鬼の他にもいる。人狼や吸血鬼も
あのネビルが何故深刻な面持ちなのか菫は興味が湧かなかった。
「手伝えるところは手伝う。ただ『守護霊の呪文』に関してはポッター、オマエしかいないんだよ……というか菫もやりゃよかったんだ。サボり魔め」
「姉さんこそ参加すればよかったじゃないですか。私はなんともなかったからいいんです」
「ああそうかよ……ともかく、これで一つ決まりだ。場所は『必要の部屋』でいいだろ。便利だし。開催は最低でも週一回はやりたい。もちろんクィディッチの練習を避けつつになるが……そこは適宜に練習予定を確認して……クソ、スリザリンだけ調整が面倒じゃねえか」
次々と決定事項をメモ帳に書き留めていく薊のペンがついに止まった。
お世辞にもグラハム・モンタギューは
弱い者虐めを好む典型的な不良だ。目つきが悪く斜っぱな薊など可愛いもので、寮監が寮監だからほとんど処罰を受けたためしがない。
もし訓練に参加したとして真っ先に考えつくことは自分が主導権を握り、スリザリン以外の参加者を全員追い出すか、さもなければスネイプ教授への御注進だ。とてもじゃないが仲間として迎えたい人物ではない。
「いっそのことアザミがキャプテンをすれば?」
バタービールでなくギリーウォーターを片手に、ダフネは落ち着き払った様子で言った。
予想外の人物から予想外の提言が飛び出した。薊は目を見開いて「はあ!?」と声を荒げる。
「留学生だぞオレは。勉強会に訓練、試験、おまけにクィディッチまで抱えてられるか」
「案外悪くなさそうに思ったのだけど。忙しすぎるのも良くないわね」
「なら私がやります。そうすれば何かと連携しやすいでしょう」
「えっ……」
これもまた予想外の名乗りだった。
ダフネすら困惑の顔を隠せない。
薊だけは菫の内心を見透かしていた。自分がキャプテンになってしまえば、堂々とあの大浴場を利用できると考えているのだ。クィディッチの『ク』の字も知らないどころか箒で飛ぶのもさほど得意でない、運動不足が明らかな痩身でよくもまあ――そんな万感の思いを込めて睨みつけたが効果は薄かった。
ドラコはもはや苦言を呈する意欲が消え失せていた。
「……モンタギューよりはいくらかマシ、かな」
「うーん……選手も替わるなら、じゃない?」
ラフ・プレーで好き勝手に暴れられるのと、素人キャプテンの即席チーム。
どちらも複雑には変わりないが、前者への嫌悪感とスリザリンの現キャプテンに対する腹立たしさが僅かに勝った。菫のルールに対する無頓着さを誰よりもよく知る薊だけは苦虫を数百匹ほど噛み潰した顔をしたが、すぐに持ち直した。完全な気合いと根性である。
「勉強会については大広間を使う。訓練の日程はそのとき通知する……一応、課外活動とはなってるが参加不参加は自由だ。オレは放課後になったら毎日参加する」
「それこそどこか適当な空き教室で十分じゃないか。ナイショ話をするのにも都合がいいし、周りの目を気にしなくて済む。大広間なんかでやったらかえって目立つぜ」
「ナイショ話をしやすい環境に生徒が大勢集ってみろ、アンブリッジに警戒されるだろうが。大広間はオープンだし、名目は『自習』だ。しかも参加者が増えたってあそこなら困らない。それにな……隠し事をするときほど堂々とするもんだ」
ロンと薊のやりとりにフレッドとジョージが口笛を鳴らす。
「悪巧みの才能があるぜお嬢ちゃん、それも何かの本で習ったのかな」
「うるせえな。先生直伝だよ」
「リー、あのマダムと一度真剣にお付き合いしてみたらどうだ?」
「待ってくれよ。その話を蒸し返さないでくれ。後生だから」
「卒業後でないと流石に世間体がよろしくありませんしね」
面白がって階教授も悩ましげに溜め息を披露してみせる。
そんな演技に双子は大笑いするし、リー、ジョーダンは心底気まずそうに視線を泳がせる。
担任の悪趣味さについて薊はもう重々承知していた。
そちらには一切触れることなく鞄から羊皮紙を取り出す。
「この訓練会は言ってしまえば秘密結社だ。しかも反政府思想のな。もし魔法省の手先であるアンブリッジにバレれば退学処分もあり得る、つまるところ
淡々とした語り口とともに薊は羊皮紙を広げた。
誰もが意識しながら遠ざけていた懸念を言葉にした。
緊張感が走る参加者たちを一瞥して満面の笑みを浮かべる。
「さ、これから全員、一蓮托生だ」
真っ先に自分の名前を書き入れた薊から羊皮紙を受け取る。
菫は署名のほかに黒いインクで拇印も捺した。そのまま『リスト』は時計回りに手渡されていく。個々人の様子を観察していると、進んでサインする者とそうでない者に分かれていた。特にザカリアスはハンナから羊皮紙を受け取ろうとせず苦しげに呻いた。
「まあ……その、いつ集まるかは、アーニーが必ず教えてくれるさ」
抵抗感を抱いているのはザカリアスだけではなかった。
チョウといつも一緒にいる女子生徒も不服げな態度を示している。スーザン・ボーンズも悩んでいるようで、羊皮紙を受け取ってもしばらく躊躇ってからサインに応じた。意外なのはアーニー・マクミランが堂々とフルネームを記入したことだ。
「ああ、しまった……折角なら血判の方がよかったでしょうか」
「インクで十分ですよ。アーネストのお気持ちは伝わりましたから」
芝居掛かったアーニーへ菫は優しく微笑んだ。
ホグワーツでは滅多に目にすることのない表情だ。
交際が終わっても二人の仲は良好らしい。それを冷やかすようにニヤリと笑ったラベンダーへ、無視すればいいのに菫は即座に表情を切り替え
羊皮紙はぐるりと一巡しザカリアスも観念したのか小さい字でサインをした。
薊は羊皮紙を巻き直し紐でしっかり留める。
「みんな貴重な時間を割いてもらってありがとう」
立ち上がって深々と頭を下げる。本心がどうであろうといま重要なのは『行動した』という純粋な結果だ。その効力を理解しているのかいないのか薊は「オレは帰って昼寝する。じゃあな」と告げて足早にラウンジから出て行ってしまった。
「本当にこのためだけに来たの……?」
パドマ・パチルの呆れた声にパーバティも頷く。
おそらく誰もが同じことを考えたはずだ。
テリー・ブートやマイケル・コーナーも困惑したように後ろ姿を見送り、司会進行がいなくなった会合は自然と解散せざるを得なくなる。みんな連れ立ってゾロゾロとラウンジを出ていく。あとに残った階教授はにこやかに「皆さん興味津々でしたね」と言った。
チョウの目にはとてもそんな風には見えなかった。
ハリーがいると分かってホッとしたように感じたのは、間違いないだろう。
「そうでしょうか? 日刊予言者新聞の主張を疑っているのは確実でしょうけれど……」
「なるほど。まあ何でも構いません、私も出来る限り協力しますとも」
「いいんですか? 防衛術の教授が手を貸してくださるのは頼もしいですが、魔法省にバレたら大事になりますよ?」
「私を教授職から追放するにはホグワーツのみならず南硫黄島分校にも介入しなくてはなりません。だからこそ呼ばれたのでしょうね」
階黑羽はどこまでも無邪気に笑った。
酒に酔っているせいで余計あどけなく見える。
今もイタズラを仕掛けたばかりの子供そっくりだ。
薊は似なかったらしい。生真面目で堅物、恩師とは何から何まで正反対である。
防衛術教授は黙々とフィッシュ&チップスをつまみ始める。
結局、誰も手をつけようとしないでみんな店を出て行った。
手早く鞄の留め金を掛けたチョウは残った後輩たちに手を振り、外で待っている女友達を追いかけた。
菫も無表情に「私も用事は済みました」と立ち上がる。
ふらふらと覚束ない足取りをカロー姉妹が左右から支えた。
「私たちもご一緒しますわ姉様」
「ゆっくりお休みください姉様」
双子はドラコの存在を無視して菫とともに行ってしまった。
一人、スツールに腰掛けたままでいるドラコへ黒ずくめの教授が微笑んだ。
真っ白な頬にうっすら紅色がさしている。シェリーワインの甘く濃厚な香りを漂わせながら、フィッシュ&チップスを胃に詰め込んでいる。
胃の奥底から込み上げてくるものが喉につかえて仕方ない。
よほど表情が面白かったのかバブリングの口元が歪む。
空になったロックグラスへ容赦なくシェリーワインを注ぎながら階黑羽が尋ねる。
「そんなにショウブくんの御息女は
「冗談はよせ。昨年はじめて会った相手だぞ」
「でも文通してらして……してました、よね?」
「私はオマケだ。本命はパンドラの方だ」
「それは失敬。ところでカカオ欲しくなりません?」
もうもうとパイプの煙を吐きながらバブリングは頷いた。
この二人は間違いなく大人だが、背負うものがないのだ。
究極的に自分自身だけが世界の中に存在する。限りなく無敵に近い生き方だ。
だからこんな無謀な計画を知って、咎めるどころか後ろ盾になる。まともな大人のやることではない。狂気の沙汰と言っていい。
心のどこかで止めて欲しいと願っていた自分に気づかされる。
計画は本格的に動き始めてしまった。菫はもう以前のように周囲からの視線を気にしない、そして薊は離反者が出ることを想定して予防策を打つに決まっている。
明確な被害者がいて、狡猾な参謀役がいて、どちらにも足りない『人望』を補うためチョウとハリーを担ぎ上げた。では自分はいったい何のために……そこまで考えて、ドラコは終わりの見えない思考を無理矢理に打ち切った。
バタービールの瓶をそのままテーブルに置き去りにしたのは、そうしたかったからだ。
とてもじゃないがこんな気分で休日のホズミードを満喫など出来ない。
口の中に広がる苦々しいものを飲み込みも出来ず『三本の箒』を離れる。
温かく喧噪に満ちた空間へ背を向ける。視界は鈍色の雲に覆われ、どこまでも薄暗いまま広がっている。