「魂の状態を変化させる手段はいくつか存在します」
見渡す限り質素な調度品ばかりが並んでいる。安っぽい下宿のような部屋だ。
意識していないと部屋に染みついた紙巻き煙草の匂いで酔いそうになる。
蔵書の量は研究室の比ではなかった。本棚には古今東西の稀覯書や古書がずらりと収められ、防衛術教授はそのうちの一冊を広げてみせた。
赤い染料で変色させられた革製の書籍である。
「中でも
教授は白いチョークで黒板へ下向きの正三角形を描く。
そのすぐ側には『
「この呪文には興味深い特性が二つ存在します。一つは肉体を保護しない点です」
「魂だけを……それでは肉体が激しく損壊したとき、どうやって復活するのでしょうか」
羽ペンを走らせる手が止まる。
ダフネの問いに教授は微笑んだ。
肉体を徹底的に防護すれば魂の損傷まで懸念する必要はなくなる。
致命的ないし徹底的に肉体を破壊されたならその時点で破滅する。剥き出しの魂――生命と言い換えてもいい――だけでこの世に留まったとして、それはあまりに脆弱で無力な存在である。亡霊にすら劣る惨めな
復活を目論むなら当然、失った『外殻』を再構築しなければならない。
人体の創造は途方もない困難な試みである。
錬金術を囓ればイヤでも理解出来る。
だとすれば、この呪文は、本当に魂を『楔』によって繋ぎ止めるものなのだろうか?
「素晴らしい。私の言葉から最初の疑問に到達できたようですね。そう、私が興味を惹かれた第一の要素は『どのような意図のもとに発明された呪文なのか』という点です」
黒板に簡略化された人体が描かれる。ジンジャーブレッドの輪郭だけを写したような図の中心に『
「魂の飛散を防ぐ呪文がある。これは術者の肉体を保護するものではない。例えば『
前提条件は理解出来る。文献に記された効果と想定されるリスクが矛盾している。
「単一で運用する呪文でない可能性。大いにあります。その文献は未発表の草稿から一部を抜粋、編集された不完全な写本です。記述されていない、もう片方の呪文が抜け落ちていると想定すべきでしょう」
古い魔法にはままある。名称が誤って伝わっていたり、あるいは効果が不明となっていたり。教授の言うように二つ揃わなければ不完全な魔法のうち一つが失伝している場合も、当然あり得る。
「しかし私はその可能性を否定します。草稿は英語で記述され、中世ギリシャ語から翻訳されたものでした。それは間違いない。何故か。英語版の底本であるギリシャ語版を読んだからです。もちろん中世の猟写本に記載されている内容は呪文だけでも名称は独自に改編され、さらに落丁も多い。ですが問題の魔法はそれ単体で発明されたものです」
西暦一五八六年、ジョン・ディー博士著の英語版。同じく西暦九五〇年に神学者テオドラス・フィレタスがアラビア語原書から写した中世ギリシャ語版……また西暦一二二八年にデンマークの学士オーレ・ヴォームがギリシャ語版を翻訳した教会ラテン語版を調べても、それと思われる呪文はなかった。
教授はそれぞれをまた黒板へ記入していく。
つまるところ。階教授の仮定に対する反論材料は存在しない。
黒板に記された手描きの絵図をじっと見つめる。
肉体とその中にある魂。呪文は外傷により肉体が損傷したとき、魂が現世から離れてしまわないよう『楔』の役割を果たす。教授は思い出したように握り拳と杖を描き加えた。杖の先からはモヤモヤと煙が吹き出し、その中には『
「何か気になりますか?」
「…………違和感があります。けど、それが何か分からなくて」
「ほう。それはそれは」
黒目がちな瞳が細まる。そうでなくとも切れ長のアイラインが、羽ペンで引かれた黒インクの線に見える。
あるいはやわらかな筆先を滑らせる線画を思わせる。
見れば見るほど現実感に欠く風貌には違いなかった。
絵図はシンプルで見やすい。描き慣れているのが分かる。
言語化できない
魂は人体の中に存在している。
魔法使いの害意は杖から放たれた呪文に宿る。
分かりきったことだ。そこに異論はない。とりわけ闇の魔術は術者の抱える不の感情に依存する傾向が強い……昨年、第一の試練で菫が放った『悪霊の火』もそうだ。マッド・アイが授業で実践してみせた三つの『許されざる呪文』も同じく、呪文の難易度だけでなく対象への悪意が重要となる。
では、この図式はどうか? もちろん何かがおかしい。
「『楔』……? 教授、この単語はどういう意味でしょうか」
「格式張った表現です。『
「……呪文で無理矢理に魂を縛りつけるんですか」
「なんと素晴らしい。その通り、魂を『隠す』のです。どこに隠すか。なんでも構いません」
なんでも構わない。そう語った教授はテーブルに転がっていた羽ペンを手に取る。ほとんど黒に寄った深い緑色の羽が撫でながら「このペンでも問題はない。しかし……おそらく、想定される運用ではないでしょう」と微笑んだ。
手にした羽ペンをまたテーブルへ転がしてチョークを持ち直す。
「魔法には幾つかの面白い性質があります。とりわけ『魔法による殺人』は自然の摂理に背くとされます。この禁忌を犯したときどのような代償を支払うか、ご存じですか?」
知らない。知ろうと思ったこともない。いまも知りたくない。
このタイミングで禁忌と代償に触れる意味を、理解できてしまう。
なるほど闇の魔術に詳しいワケだ。マッド・アイは闇の魔法使いではなかったが、彼らに対峙するプロフェッショナルとして深く知識を有していた。
この日本人は違う。闇の魔術そのものの専門家であって防衛術に通じているわけではない……。
教授からの問いに首を左右に振って答える。
それだけの動作に酷く消耗させられる。
「魔法を用いて他者を殺めた場合、罪深さにより魂が引き裂かれます。『
そうして教授は英訳された古書、おそらくギリシャ語を無理矢理に訳したのであろう、奇異な響きの題を与えられた一冊を手に取った。慣れた手つきでページをめくる姿は好奇心に満ち溢れていた。
「『
古代の魔法『分霊箱』が抱える問題点は教授が指摘した通り。いくら魂が現世に留まろうと肉体が失われていては意味がない。
教授の興味は『発明者の意図』であり、そこにこそこの忌まわしい闇の魔術の本質があると語る。
「さて。例えば私がこの本を『分霊箱』にしたと仮定します。階黑羽を殺害するには、この肉体とそこに宿った魂だけでなく、この本も破壊しなくてはなりません。ミス・グリーングラス、貴女ならどんな方法を使いますか? 私は抵抗しない前提で構いませんよ」
「わ……わた、し、なら……その、何か、毒物を使って……」
「なるほど。私は間食が多い。屋敷しもべ妖精に毒入りケーキを手渡し、差し入れを頼めば確実に仕留められるでしょう。あるいは留守の隙に葉巻へ毒を仕込むとか……考えましたね」
空想とはいえ、自身の殺害計画を聞かされて教授は満足げだった。
それから期待に目を輝かせて『ネクロノミカン』を掲げ「これはどうしますか?」と尋ねた。ダフネは息を落ち着かせてからどうにか言葉を振り絞った。
「暖炉に……暖炉に放り込みます。燃やしてしまうのが一番いい」
「その判断は残念ながら不適当です。『分霊箱』を破壊するにはより古い魔法か毒でなければなりません……具体例としては『死の呪い』ですとか『悪霊の火』が望ましい」
「もっと簡単な方法はないんですね」
「はい。ありません。これこそが『分霊箱』最大の特徴です……依り代に発生する強固な不変性、絶対性。錆びず、朽ちず、あらゆる傷と変化を拒む。依り代である限り永遠の存在であり続けるのです」
「面白くはあります。ですが、聞いた限り不死の呪文とは……」
「おや。お気づきになりませんか?」
少し驚いたように細い目が開かれた。
顔が小さいだけでなく眼球も大きい。黒ずくめの出で立ちや整えられたボブカットのせいで毛並みの綺麗な黒猫を思わせる。これで瞳が金色だったら言い逃れの余地がない。
愛嬌はあるがそれ以上に変わり者だ。
ほかの教授たちが関わりを避けるのも頷ける。
「
両の掌を指先まで重ね合わせながら教授は微笑む。
「私の仮説が正しければ分霊箱とは、自分でない第三者を守護するための魔法。
だから、擬似的な不死を得るのにこれほど相応しい呪文はない。
とりわけ『愛し合う者』同士が相互を分霊箱としたとき、その護りは鉄壁と化す。
これも愛の極地の一つだと階黑羽は断言した。それは罪の共有であり、殺人という大きな代償を二度支払ってでも永遠を求めあったのだから、愛なくしては成立し得ないという。
どこまで見透かされていたのかと思い返す。
ただ沈黙し、顎先から汗の雫が滴り落ちる感覚だけがあった。
階黑羽は慈愛に満ちた表情を浮かべる。
自身の好奇心からか。教え子の覚悟へか。
何故いま笑んでいるのかは当人にしか知り得ない。
ネクロノミコンを閉じ、ゆっくりと唇を動かす。
モノクロな色調の中で異様に毒々しい赤色が、視線を誘引する。
「さて。ミス・グリーングラス、私からの質問は一つだけです――分霊箱を作る覚悟はありますか?」
5000字以内に収ったのは久々であります。
今回は「だから『分霊箱』ってなんだよ!!」というお話。
ハーポは公式だと『腐った』という冠詞なのですが、原語の『
ネクロノミコンの設定はクトゥルフ神話TRPGのルールブックとサプリメントから借用。オーレ・ヴォームは実在の人物で、クトゥルフではギリシャ語のオラウス・ウォルミウスのが通りがよいでしょう。和名の『死霊秘意書』は『死者の掟の書』を似非仏典風でやりました。ネクロノミカンというのは映画ネタです。ラヴクラフトが主人公のちょっと変わった一作、古いしチープですが見応え十分です。