部屋中から降り注ぐ視線に背筋が総毛立つ。
高等尋問官執務室の真ん中で菫は縮こまった。
壁一面に飾られたアンティーク食器。そこへ描かれた猫が、動いている。しかも自分を凝視している。しかも壁紙までピンク一色……まともな感性ではない。
萎縮すると華奢な身体がより小さく見える。
背丈はアンブリッジとそう変わらない。同世代とは言わずもがな。同級生と比べても小柄で、しかも痩せている。デスクの向こうで椅子に腰掛けるアンブリッジとは対称的だった。黒を基調にした制服姿であるのを差し引いても、錯乱呪文で自分を十二歳の少女と勘違いしたガマガエルにしか見えないのである。
ピンク色のスーツにぶよぶよと水っぽい肥満体を押し込め、フリルで過剰に装飾したローブを羽織るのは如何なものか。そう若くないだろうに無理をしているようで憐憫すら覚える。
菫は知らないがこれでも魔法使いの考える『マグルらしい服装』としてはマシな部類である。
ドローレス・アンブリッジは手本を真似る才能に恵まれていた。
それは未成年者に対する接し方も然り。いっそ気味が悪いくらい不自然な猫撫で声も、相手にまったく興味を感じていない者同士、心理的な障壁とはならなかった。
「お時間いただいてありがとうございます、アンブリッジ高等尋問官」
椅子に座ったままで軽く頭を下げる。
やや遅れて長い黒髪がゆらりと垂れる。
角度と前髪によって視線から表情が遮られる。
儀礼的な所作だった。年始の挨拶回りの方がよほど疲れる。いくらお年玉のためとはいえ、慣れない振り袖にめいっぱいの愛想笑い。それを一日中ともなると疲れ果てて口から魂が抜け出る気がしたものだ。身体をちょっとだけ前に倒すくらい知れている。
厚化粧で入念にコーティングされたまん丸な顔面に作り笑いを貼りつけ、アンブリッジは白々しく「生徒の皆さんと真摯に向き合い、声に耳を傾けるのがワタクシの仕事ですのよ」と応じた。
ミルクティーへ足す砂糖までピンク色のせいで菫は胸焼けがした。
サンダーバードのレディ・ペネロープでももう少し自制していた気がする。
「スネイプ教授からお話は耳にしていますわ。クィディッチ・チームの再編成で、なにかトラブルが起きているそうですわね?」
「トラブル、というほどの事ではないんです。グラハム……七年生のグラハム・モンタギューが元はキャプテンだったんですが、あんな程度なら私がやった方がずっとマシだと思って」
「マシ、という言葉はとても曖昧で解釈の余地が広すぎます。ミスター・モンタギューの指導に対しどのような不満を感じたのか、詳しく聞かせてくださらない?」
「えっと、ラフ・プレーばっかりで上手下手の問題じゃないんです。サッカーで言ったら平気でほかの選手を殴ったり蹴ったりするような。普通の試合をしてなくって……」
しどろもどろに言葉をつなげる菫を冷たく観察する。
見た目だけでなく振る舞いや言葉遣いも実年齢より幼い。
マグル出身であるのに加え、中流家庭となるとそれが自然だろう。
いささかの短慮さはある。しかし短慮故に感情が先に立つ。
気難しい性分なのではなく我儘なだけだ。性根は単純、つまらない餌を与えればすぐに手懐けられる。
「マダム・フーチからも同様の意見がありました。従来のプレー・スタイルを継承したミスター・モンタギューを据え置くよりは、未経験者であってもスポーツ精神を備えた生徒が望ましい、と仰っています」
「姉さんは運動神経いいけど、いまは試験に集中したいらしくて。それに『勉強会』の世話もあって忙しいからやるならオマエがやれって言われたんです。未経験は同じだしそれもいいと思って……」
「教育令第二四号はあくまで休眠状態の学生団体や顧問の適切な管理下にあるべき課外活動を整理し、ホグワーツにおける魔法教育の効率化を促進するものです。法令上、私はスリザリンのチーム改革について関与すべき立場にはありませんの。その点をまずご理解いただきたいですわね」
ほとんど機械的に自身の立場を表明する姿に菫は面食らった。
こんな、まるで村役場の受けつけでもなければ聞かないような言い回しを、まさか学校で耳にするとは思いもしなかったのだ。ドローレス・アンブリッジの本性はこちらのように思えた。だから菫の中で彼女への心証は揺らがなかったけれど。
整理整頓されたデスクの上には一枚の羊皮紙が置かれている。
スリザリンのクィディッチ・チームを再結成する申請書だ。魔法省による所定の様式に従い、監督であるセブルス・スネイプの署名もある。どこをとっても瑕疵のない正式な書類をアンブリッジは敢えて現在まで保留したままにしていた。
「ミス・アオイ。貴方がいま仰ったことはどれもスネイプ教授の判断を『誤り』と批判するものです。もちろん、ホグワーツ魔法魔術学校の教授といえど一人の人間に変わりありません。ときには判断ミスも生じるでしょう。しかし高等尋問官である私へ訴える意味を、理解していますか?」
「誤りは断固として正さなければならない――新学期に高等尋問官が、あのときは査察官でしたっけ……そう仰ったのは忘れていません。敢闘至らず負けるのは覚悟のうえです。ですが不正を繰り返した挙げ句負けるのとは違うと思います」
計算する。ホグワーツは魔法省の権威を公然と非難するダンブルドアの牙城であり、教職員のみならず生徒の多くも
アンブリッジは入学以前から卒業後も一貫してあの野蛮な球技に無関心だったが、世間的には熱狂を呼ぶ伝統的スポーツなのだ。
少なくとも……大多数の生徒は『敢闘』を歓迎するだろう。
子供というのはどこまでも単純な生き物である。パンとサーカスで釣り上げられる衆愚は多い方がよい。
「寮の名誉、確かに道理は通っています。監督三名と寮対抗杯の審判も、非公式ではありますが『よい機会である』との見解で一致しています。ですが、選手全員を差し替えたのでは練習もままならないのではありませんか? 『敢闘』と称するにたるだけの努力を可能とするためにも
「ドラコが副キャプテンとして協力してくれるそうです。もちろんポジションまでそのままかは分かりませんが……選抜をしないといけないですし。彼よりもっと上手なシーカーがいるかもしれませんから」
「再編制後のヴィジョンまで形が整っているのでしたら、私としても『より大きな善のために』協力は惜しみません。では、この申請書は差し戻しとしましょう」
羽ペンまで念入りにピンク色の染料で様変わりしている。
趣味がよくないのでやめた方がいいように感じる。高等尋問官がたった一筆、『差し戻し』と書き加えるだけでスネイプは孤立を余儀なくされる。
すべて彼の積み重ねてきた不正と不義理の結果に過ぎず、顧みられることはない。
因果応報に憐憫を送ることはあっても同情する者がいるはずがなかった。
アンブリッジにとってスネイプは無数に並んだ
だから二人は合意に達することが出来た。
スネイプはいまこの瞬間、文字通り生贄とされたのだ。
魔法省の影響力に比例して高等尋問官の権限は高まっていく。
ホグワーツ高等尋問官という後ろ盾を得ることで菫は寮内で地位を確立できる。
互いに互いの利益を認めて共闘――あるいは共犯とも言い換えられる――関係を結んだ。
赤いインクで『差し戻し』とだけサインされた申請書を菫に見えるように示す。
もしスネイプがダンブルドアに直訴したとしても、アンブリッジはあくまで『生徒と教職員の声を広く聞き届けた』という大義名分を行使できる。
取り引き成立にアンブリッジのむくんだ丸顔が微笑んだ。
自分の得る利益が相手より勝っているという、絶対的な確信がそうさせた。
「新チームの活躍、楽しみにしていますわね。ミス・アオイ」
「期待してください。私なりですが最優の結果を目指します」
「最優……いい言葉ね。最良や最善よりもずっと素敵な響きがするわ」
「やるならテッペン、母に教わりました」
そんなことは一切ない。根も葉もない適当な相槌である。
魔法省もまた葵椿――葵菫の実母について詳細を把握している。
三十代後半、未婚、無職、魔法教育の記録なし……典型的な
葵菫の陰気な目つきが一瞬鋭くなった理由について、アンブリッジのセンサーは反応を示さないでいた。
二人が表面上は穏やかに言葉を交わすのは、以後これっきりとなる。
†
毎週放課後になると大広間に幾人かの生徒が集る。
寮の別に関わりなく開かれた勉強会の参加者たちだ。
一度は解散させられたものの、再申請はすんなり通った。
高等尋問官自身が後押ししたのだから拒む理由もない。
菫は五年生を相手に魔法薬学を教えていた。今週と来週の二回に分けて作る『
「混成液を熟成して、それからが本番ですから」
「このサラマンダーの血とかグリフォンの爪を入れる方?」
「そうです。本当に大変なのは来週分でしょう」
「どうして? 材料を刻んだりすり鉢で潰して、鍋に入れるだけじゃない」
「教授のことです。おそらく似たような色の、ニセモノを用意するハズです」
もしそうと知らず不適切な材料が混入している可能性もあるのだ。
ただの事故であれば個人の責任で済むが、もし悪意ある第三者によるものだったとしたら……そのときこそ最悪の結果もあり得る。
「例えばザクロジュースとか」
「そんなの誰でも見分けられるわ。色が濃い方よ」
「似てますよ。ただ、サラマンダーの血液は粘性があります」
そう言いながらテーブルに透明なガラスの小瓶を置く。
中身はただのザクロジュースだ。屋敷しもべ妖精に一言頼めばタンブラーでもピッチャーでも用意してくれる。
フタを開いてパチル姉妹にも香りを確かめさせる。
「最初に間違えそうなのはここ。あとは……爪を粉状にするとき、反時計回りにすりこぎを動かすこと」
「トレローニー教授は星の巡りに従った行動が運気をよくすると仰ってたわ」
「私は占い学を受けてないので……占星術はよく知りませんけど、時計回りは人間の視点、反時計回りは神の視点と言います。後者の方が魔法的にもパワーを引き出しやすいです」
「それだけ詳しいなら占い学、受ければよかったのに。マグル学なんかよりずっと楽しいんだから」
「楽だから選んだだけですよ。宿題もほとんど出ませんし、レポートの採点もビックリするくらい甘いそうなので」
「そんなの受けて何の役に立つのよ。あなた、スリザリンだけどマグル育ちなんでしょ?」
魔女として生きる選択肢なんてはじめから存在しなかった。
ホグワーツで学んだ者はみな誰しもが魔法界に残るのだろう。
けれど自分は違う。身体を元に戻す、それだけの目的で
パチル姉妹の集中力は完全に切れていた。羽ペンを持つ手は止まり、目は教科書から離れ、
口を開くと『強化薬』とは関わりのないお喋りばかり。こんな連中が試験に受かろうが落ちようが菫にとっては心底興味がない。すべて薊が二つ返事で「やる」と言ってくれたからで、そうでなければ勝手に落第すればいいと思う。
「雰囲気はマジメそうなんだけどなあ。スミレって意外とズボラなんだ」
「笑えないのに笑っていたら、そっちの方が怖くありませんか?」
「ないない。どんなときでも笑顔くらいの方がいいに決まってるじゃない」
「私は、ジョーカーを思い出してしまいます」
「ジョーカー? ああ、待って、言わないで。ディーンから聞いたことあるの」
「そうそう。誰だっけ……ティモシー・バーノン? ってマグルなのは知ってる」
ディーンと言われても菫には誰のことか分からなかった。
顔と名前が一致しない同級生の方がずっと多い。
正確にはティム・バートンであり彼は監督だ。1989年にジョーカーを演じたのは『カッコーの巣の上で』で主人公のマクマーフィー役を務めた名優、ジャック・ニコルスンである。因果応報とはいえ表情筋の異常で顔に笑顔を貼りつけたジャック・ネイピアは本当に怖かった。
いつかこの記憶も失われるのだろうか。
それは嫌だ。嫌だから、思い出を増やすことにした。
「こんな顔ですよ」
あの顔を再現してみるとパチル姉妹は座ったまま飛び上がった。
恐怖を与える表情はマグルでも魔法族でも関係ないらしい。
「
心からの笑顔はやはり気分がいい。
愛想笑いや作り笑いは疲れるばかりだ。
果たしてパチル姉妹は今し方教えたことを授業当日に覚えているだろうか。
そこまでは菫の責任ではない。必要なことは確かに教えた。教授の課す試練とその思惑、達成するための知識と手段。あとは本人次第だ。
飽き飽きして振り返ると薊の方には大勢の生徒が集っている。
どの科目を扱っているのかとても気になる。
勉強には身が入らない一方、野次馬の技術は並外れた姉妹が口を挟む。
「アザミって本当にスゴいと思うわ。選択科目を全部受けて、試験だってあのハーマイオニー相手にトップ争いじゃない。
「占い学と魔法生物飼育学でいつもどんな風にしてるか知ってる? あの『怪物的な怪物の本』を授業前に手懐けてたの、アザミだけだったのよ? どうやって調べたんだか……私はお気に入りのスニーカーが穴まみれ、パーバティだって新品の靴下をボロ切れにされたんだから」
「知りませんよ。どっちも受けてないの、ご存じでしょう? 私、蛇以外の動物は嫌いです」
「それは知ってる。スミレってもしかして犬とか猫もダメなの?」
「可愛いとは思いません。今まで飼ったこともありませんし」
「入学のときに『猫、鼠、梟、ヒキガエルのいずれかを飼うこと』ってあったのに飼ってないのあなただけだものね」
「連れ帰るのが大変なんですよ。それにウチはペット禁止ですし」
双子の世話をやめて自分のレポート課題を始める。
パーバティとパドマも驚いて顔を見合わせた。
「冗談でしょ? 蛇がいるじゃない、イチゴって名前の白い大蛇が」
「ザクロです。間違えないでください」
「あー……そのザクロはオッケーなの?」
「私の家は昔から蛇神様を祀っていて……あの、この話以前もしませんでした?」
「「はじめて聞いた」」
呆れたと言わんばかりにまた顔を見合わせる。
その態度が気に入らず菫の眉間にシワが寄る。
「私たち、こうして話すの今日がはじめてなんですけど」
「そうですか。忘れっぽいみたいですね、人の顔とか名前とか」
パチル姉妹といえば五年生の中では――学年を問わなくなると、当然チョウ・チャンが加わってくる――かなりの美人で有名なのだが、菫は色白がタイプらしい。名前が示す通りインド系の二人にはまったく関心が湧かない。
そうでなくとも信頼どころか微塵も好感を抱いていない相手だ。
どちらがパドマでどちらがパーバティか見分けがついていなかった。
「アザミとそれでよく喧嘩しないよね」
「なんで姉さんと喧嘩しなきゃいけないんです」
「……いいお姉さんなんだから、大事にしなよ」
「あなたに言われなくても知ってます」
会話がどんどん噛み合わなくなる。菫は変身術のレポートに集中している。
もちろんパチル姉妹も勉強のことなんて忘れてお喋りに夢中だった。
「羨ましいわけじゃないけど、フラー・デラクールとよく付き合えたわね」
「似た者同士だからって……ねぇ? ほんと不思議だわスミレって」
「不思議なのはそちらの理解力が足りないだけでしょう」
「理解っていうならスミレこそ、私たちの区別ついてるの?」
「無理を言わないでください。今日はじめてちゃんと話したんじゃないですか」
会話をすればするだけ神経がすり減る思いがした。
ここまで遠慮がないのでは一緒にいるだけで疲れる。
魔法薬学の手っ取り早い勉強法を教わるよりも、薊の愚痴と軽口を絶え間なく聞かされながらでも別の科目をした方がいい気分になる。
けして魔法薬学も得意とは言えない。いつも試験はギリギリで合格してきた。
それでも菫と三人きりでいるのはかなり辛い。
アイコンタクトを必要としない程度に息が詰まる。
「私たち、変身術もやりたいから向こうのテーブルに行くね」
「『強化薬』の注意点は忘れないようにするわ。ありがとう」
一応であっても礼を伝えた相手に菫は冷淡だった。
「来週まで記憶が保つといいですね」
完全な捨て台詞の嫌味に今度こそ姉妹はそっぽを向いた。
薊とハーマイオニーが仕切っているテーブルへ向かってしまった。
菫はまったく無関心に羊皮紙へ向き合う。何も大真面目にやらなくてもいいのに。
ふと『アプローチを間違えたかな』と思い至ったものの状況は完全に手遅れである。分霊箱の一件では揉めたけれどもう少しグリンデルバルドを頼った方がよかったかもしれない。
羽ペンを走らせる手が止まる。
アンブリッジは、果たして騙されてくれるだろうか。
クィディッチはあくまで戦闘訓練の調整用でしかなかった。
それを余計な貸しまで作る羽目になった。今後、何か要求をされたとき断りづらい。
「誰も彼も、人の迷惑を考えず……」
苛立ちを愚痴に変えて吐き出しても虚しいばかりだ。
人生すらままならないのに、どうして他人が思い通りとなるだろうか。
そう思えば『服従の呪文』を扱えるのは極めて大きな意味を持つ。
いつでも使い捨ての手駒を用意出来るのだ。それも即席で。どのみち繰り返し呪文を掛けたり、長期的に支配するためのものではない。その意味で相手はなるべく人望のない嫌われ者が望ましいが……そんな人間、スリザリンには掃いて捨てるほどいる。
いよいよ都合のいいことである。
これまで、パンジーとカロー姉妹がいるほかにスリザリンのメリットを感じなかった。
ただ帽子に勝手に決められたというだけで迫害同然の扱いを受けたのだ。
それがいまやスリザリンの寮内から薊と二人、ホグワーツを支配しようとしている。
終わってしまった
この感情はけして不愉快ではなかった――むしろ、なかなかに面白くある。