週末になると吹き荒れた暴風雨はパッタリと静まった。
夏を思い出す晴々とした日射しもひどく冗談じみている。
窓を開けると心地よい初秋の風が教室に吹き込む。
新年度最初の『食事会』はそんな快晴の昼下がりに催された。
ドレスコードのない気楽な集まりである。参加する生徒はみな私服で古代ルーン文字学の教室を訪ねた。
七年生はチョウ・チャンのみで、ほかは六年生のアグネス・エグウとリンジー・タルボットがいるだけだった。アフリカ系の精悍な――女性に対しては不適切かもしれないが、アスリート然とした風貌を言い表すのにこれ以上なくマッチしていた――顔立ちのアグネスは、アーモンド形の黒い目に強烈な生命力を漲らせていた。リンジーは彫りの深いエキゾチックな顔立ちと裏腹に水墨画を思わせる儚げな雰囲気を纏う。
昨年はここにロジャー・ディビースもいた。
艶やかな黒髪の、端正な美青年である。彼は昨年度を以てホグワーツを卒業している。
薊と菫が教室に入ったとき三人は「『魔女の軟膏』のレシピについて」を議論していた。
「アザミもスミレもおはよう、昨日はよく眠れた?」
白襟にブルーのポロシャツを着たチョウが微笑む。
制服こそいかにも魔法使いだが、いざ私服となると
「おかげさまで毎日快眠だよ。イビキも聞こえねえし」
「ちょっと緊張してます。でもお腹は空くんですよね……」
「分かるなあその感覚。私も試合前はいつもそう」
アグネスは大きく頷いて同意を示した。サイズのあっていないダークパープルのワイシャツは長すぎる袖が手首を超えて掌を半分ほど覆っている。履き古したスラックスも余ったウエストをベルトで無理矢理に締めているのが分かる。彼女も彼女で衣服に対し無頓着で、薊はまた気合いの入りすぎた格好になったのが不服だった。
「交感神経の活性化は筋肉への血流を増幅させ、運動機能を向上させる。過度に血圧が上昇すれば当然、脳機能を阻害するが……身体をスポーツに最適化させるメリットは無視し難い」
難解な言い回しに菫は首を傾げる。アグネスの無防備な脇腹をリンジーが左肘で小突いた。
「相手に伝わる表現というものをいい加減に学んでください」
六年生両名によるコントへ薊が拍手を送る。当の二人は納得していないが、チョウはそんな様子を面白がっていた。
「それにしても『魔女の軟膏』なんて変わったネタだな。アレって本物なのか?」
しばらくクィディッチの話題で盛り上がったあと、薊は教室へ入ったとき耳にした議論を蒸し返した。野球とサッカーを大鍋でペースト状になるまで煮詰めた
「所謂マグルの側が認知しているレシピ通りに調合するならば幻覚を始め呼吸苦、嘔吐、目眩または酩酊感による平衡感覚の喪失、幻聴、血圧低下など複数の穏やかならざる作用を発揮するだろう。経皮摂取で致死量に達することはあるまいが……さしずめダウナー系
「ですが古い魔法薬に関する文献や論文を漁っても類似した薬効が確認出来ません。この人が指摘したとおり純然たる毒物なので当然と言えば当然ですが……では『魔女の軟膏』はいったいどこに起源があるのだろうか……と、退屈しのぎに話し合っていました」
「動物性油脂にケシ、ヒヨス、ベラドンナ、トリカブト、ドクニンジン、ドクムギ、チョウセンアサガオ、それにアサ……ですよね。どれも煎じ方によってはちゃんと薬効がありますけど、アレもコレもと混ぜていい植物じゃないですし。マンドレイクが加わることもあるんでしたっけ。泣き叫ばない方の」
「その通り。毒物というのは薬品以上に慎重かつ繊細な調合が要求される。まさしく芸術作品と称すべき代物だ……それも必殺の劇毒ともなれば副反応から容易に解明できない、あるいは誰に悟られることなく生理現象として処理されるべき秘密の存在でなくてはならないワケだが。しかしこの軟膏と来たら材料も分量も手順もいい加減でねェ。既存の魔法薬が変形したものではないと私は考えているワケさ」
「リバチウス・ボラージの『上級魔法薬』で少しだけ言及されているけれど、コレは魔法薬調合に秀でた魔女がマグルを揶揄って伝えたまったくのデッチ上げだろう、とあったわ。毒物を体中に塗りたくって目を回している自称魔女たちを笑いものにしようって魂胆じゃないかって。それが一番あり得ると思うけど、リンジーは違うみたいよ?」
「マグルを愚弄するのであればもっと洗練された手段があるでしょう。この場合の洗練というのは品性やユーモアのことではなく、即効性に優れるという意味です。ボラージは生まれも育ちも魔法界ですから……無意識下で
「リンジーの価値観が世間一般における
「わざわざ貴女に補足を依頼した覚えはありません」
脇腹を警戒して身構えたアグネスの太股へリンジーの蹴りが炸裂する。
パアン、と肉が打たれる音に続き「ウワーァッ」の悲鳴が教室に響いた。
「実に鋭いキックじゃあないかリンジー。キミのツッコミと私のインテリジェンスとユーモア、即ちウィットに富んだジョークセンスがあれば来たるべき新世紀に相応しいコントとなるんじゃあないかい?」
「どうして、私が貴女とコントをしなくては?」
「露骨にイヤそうな顔してんな。オレは
器用に口の片端だけを歪めて笑う薊に言われ、チョウと菫も笑顔だと気づく。
ますますリンジーの表情は不機嫌に傾くが、非難の目は真っ直ぐアグネスへ向いた。
それで減らず口が止まるなら彼女も苦労しない。立て板に水で『魔女の軟膏』に関する考察を披露しながら友人と後輩の暇つぶしに付き合う。
「美肌クリームでもないのにどうしてこんなモノ作るんでしょうね」
「実は……なんてこともねェだろうな。野草を脂と一緒くたに混ぜただけだ」
「あるいは
「普段から魔女を自称していたってこと? だから、せめて再現出来るモノを自作した」
「仮説としては十分に在り得る。魔女詐欺を繰り返した末路、いかにもじゃあないか」
事実として魔法省に設置された『魔法事故惨事部』が挙げられた。
「全員がそうであるとは表現するのは不適切だろう。しかし魔法を行使しマグルに加害行為を働く者が絶えず一定数存在しているからこそ、敢えて法執行部から独立した
「前提が長すぎます。完結に」
「つれないじゃないか……親友からの要望に応えて要約すると、大多数のマグルにとって私たちは少なからず脅威であった。だからこそ不当な要求を強いるとき『自分は魔法が使える』という文句が効力を持ったわけだね。しかし魔女狩りの到来とともにそうした詐欺行為の常習犯は『では実証してみせよ』と迫られた……もし出来なければどうなるか、目に見えている。そこであの軟膏が役に立つ、ハズだった」
「いくら高純度に仕上がっても錯乱するだけの毒。空も飛べないし、杖を振ったってなにも起きっこない。そっか……魔法界にはほとんど記録がなくって、でもマグルの側にはいくつもあるのって裁判記録だ」
「素晴らしいよチョウ、まったくその通り! 軟膏の出来なんて誰にとっても無意味で無価値なのさ。コミュニティに不利益を与え続けた『魔女』が文字通り消えた。その結果こそが名もなき大勢にとっては全てだった」
マグルによる魔女狩りが純粋な魔法族のみならず集団にとっての外敵に対する抵抗でもあった……アグネスの歴史解釈に留学生二人は舌を巻く。
菫はただ上級生の学識に驚かされただけだ。薊はむしろ『社会』への関心の高さに言葉を失ったのだ。魔法界と非魔法界、二つは起源を同じくする姉妹であった。それがいつしか隔絶され、片方は記憶から抜け落ち、もう片方は奇異な文明を構築した
万雷の喝采を期待しながらひたすら沈黙が続く。
彼女の高説にすっかり慣れ親しんだチョウは感覚が麻痺していた。
痺れを切らしてふて腐れ始めたところへ、ようやく料理が届いた。
ワイシャツの袖を捲り上げたバブリングの後ろからルーナ・ラブグッドも続いた。白いカーディガンと紫のワンピースを重ね、ガラスのピッチャーは炭酸水の中でハーブと果物が浮き沈みを繰り返している。
「楽しげな議論に参加し損ねた。少々、手間を掛けすぎたか」
「バスシバが凝り性なのはいつものことだよ。夏休みだってローストビーフサンドだけで4時間もかけてたし」
「いたずらに急いだら味が落ちるじゃないか……」
バブリングの両手に支えられた大皿がテーブルへ移される。
透き通ったガラス食器に敷き詰められた氷。その上できらきらと輝くのは、薔薇のように盛りつけられた鮮魚の切り身だった。そして無数の小皿と黒々としたソース。
小鉢には雲丹、牡蠣、帆立がそれぞれ納まっている。
従姉妹二人にはとても馴染みがある。それまでの年相応に落ち着いた雰囲気を一変、キラキラと目を輝かせた。
「スゲエ、本物のお造りだ……信じられねえ」
「牡蠣にホタテに、雲丹もある。わあタイもだあ」
「生憎と養殖だが。生食はその方がいいだろう、とりわけ鯉は」
その言葉に上級生の三人は怯んだものの、しかしバブリングの『美食』に対する執念深さを思うと僅かに好奇心をくすぐられる。
生徒が適当な席につくと主催者の手でグラスへシトロンソーダが注がれていく。全員が着座し乾杯を済ませるとようやく食事会が始まる。
刺身文化をよく知る者にとっては意外な、そうでなければ斬新に過ぎるメニューである。
「今回は日本食を意識した。醤油、本山葵、それと練り辛子もある。カルパッチョソースも用意しておいた」
「教授、今日のためにこれ全部取り寄せたんですか」
「ああ。刺身には
悪戯っぽく微笑み返されたチョウは、スプーンで雲丹を一口救う。
とろりとした感触がカトラリーから伝わる。ほんの少しだけを口に含む。舌の熱で雲丹がとけ、みるみる輪郭を失っていく。たちまち生臭さとは縁遠い、濃密な『海』の風味が味覚と嗅覚へ押し寄せる。
その様子を見てバブリングも満足げな表情を見せた。
あの冷徹ささえ感じさせる鋼鉄の仮面が嘘のようだ。
リンジーは牡蠣にたっぷりとレモンを搾った。それをアグネスが興味深そうに観察している。
「…………食べないんですか」
「肉好きの君がそれほど気にいるとは思わなかったのでね」
「自宅ではあまり魚介類が出ないだけです」
「ほう、では一昨年にロブスターを四いや六……」
「機密保持法違反でアズカバンに送ってあげましょうか」
「おおコワいコワい。ほんの冗談じゃあないか!」
おどけながら自身もサーモンを醤油へひたす。
それから菫と薊を真似て少量の本山葵を添えた。
鮮やかなオレンジ色の切り身に明るい緑色の山葵がよく映える。
一口で頬張り、ゆっくりと咀嚼する。脂のとろける感触を鼻から抜ける山葵の清涼感にあふれる刺激が中和した。まだ舌に残った脂の残滓をシトロンソーダで流すとほのかにハーブが香った。
「このソース、なかなか美味しい……ほどよい塩気と奥深いコクがサーモンだけでなくペーストまで引き立てている」
「ソレ、アタシが擦ったんだ。反時計回りの動きは神秘の力が宿るから」
「占星術ではないね。なんの理論だろうか……陰陽術の瀉法と補法、いや違うな。エネルギーを込めるのならば右回りの補法だ」
「神道じゃねえの? アレだと神聖な方向は左だ。能楽でも南に面した舞台の左が上手になる」
「その『
「孔子が著わしたとされる易経十翼『説卦傳』に次のような文言がある。『離也者明也。萬物皆相見。南方之卦也。聖人南面而聽天下。嚮明而治』……この
自家製のソーダ水にアクアヴィットを注ぎながらバブリングがさらりと告げた。
ごく慣れた語り口で舌の
だがルーナは瞬きしないシルバーグレイの瞳を僅かに伏せた。
「ママは『宇宙の生命は左回転している』って言ってた」
「宇宙……ですか? いったいそれは……」
突拍子のない
アグネスはルーナの観察に努めようと目を見開いた。薄暗い
真っ黒な前髪の隙間からひとつ、丸い輪郭の目が真っ直ぐにルーナへ向く。
「『宇宙の生命』というのは変わっていますね。『夜空』ではなく、『宇宙』ですか」
「そう? でも流れ星が隕石だってコトくらいみんな知ってるよ。宇宙がどこにあるかだって、知らない方が珍しいと思うけど」
「現代では、ですよ。地球外生命体という言葉が魔法界に浸透したのはほんの数十年前の出来事で……アビゲイル・ウィリアムズの『星の坩堝』は当時ほとんど奇説の類いで、見向きもされませんでしたから」
「『月霊キノコ』って可愛くて面白いのに。あの挿絵、大きなポスターにしてアタシの部屋に飾りたかったな」
「私は目にしたことがありませんが。古代にも他天体の住民という意味で宇宙人の存在を示す文章はありますが、それらの世界観は地上の延長線に過ぎません。既存の神々と結びつけられた、遠い異邦の同胞として……ですがウェルズが描いたような我々と精神的、文化的に隔絶された
「あの、それが数十年前って、いくらなんでも最近すぎるように思います……」
「グリンデルバルドの提唱した革命に、何故多くの信奉者が集ったか、という問題です。あの時代は私たちが目にするよりもずっと魔法界はマグルを嫌っていた……少なくともマグル文化の流入に対しては強い忌避感を示すのが一般的な社会でした」
純血至上主義でマグル出身者を軽んじるスリザリンでも、音楽は受容された。
異文化のすべてを拒絶するほどに強固なアレルギー反応は一度もない。
菫が部屋にいくら小説を持ち込もうと誰も気に留めなかったのも同様だ。
それでも五年間で『寛容』とは言い難い排他性を感じることがままあった。数十年前、グリンデルバルドがまだ若々しくあった頃は
想像を絶する。言葉を失うほどにおぞましい世界である。
幸いというべきか、顔色は既に青ざめている。冷や汗も枯れてしまった。
「……ですから。『宇宙』という言葉に『生命』という言葉が接続するなんて、珍しいな、と感じた。それだけです」
「バスシバは聞いたコトないの? ママの口癖の意味」
「……いいや、私は知らない。パンドラとよく天文学の議論を交わしていたのはクィリナスだった」
「クィリナス? クィレル教授と面識があるんですか?」
「ああ。アレは私の同窓だ……パンドラは上級生だったが、私にとっては親友だ」
思いがけない情報に――菫と薊は二年前に聞いていたから今回は驚かなかった――チョウのみならずアグネスとリンジーもフォークが止まる。
生徒三人の反応にバブリングは僅かながら目を逸らした。
その先では薄い眉のせいでますます印象的な、ルーナの目がギラついて見えた。
「……意外かな」
「だってバスシバ、社交性がないモン」
いよいよ視線が彷徨い始めた主催者は苦しまぎれにソーダを胃へ流し込む。
黙々とサーモンをカルパッチョソースで食べていた薊が、見かねて割って入った。
「さっきから気になってたんだが、流石に教師を呼び捨てってのはいいのか?」
自分自身でも十年来の縁になる階黑羽を呼び捨てにはしない。
まして母親の友人とはいえ、生徒としてはほんの四年の関係である。
堅苦しいと言われればそれまでだがずっと違和感を覚えていた。
上級生からの追究にもルーナは夢遊病を思わせる蕩けた表情のままだった。
「ダンブルドアに聞いたら、私服のときはいいんだって。名付け親だし。プライベートのときは好きにしていいって言ってたモン」
少しだけ語気が強まって聞こえたのは拗ねているせいか。
表情の変化に乏しいと感情の起伏を読み取るのに苦労する。
けれど、いまの薊にはどのみちそんな余裕はない。驚きのあまり呑み込んだ唾で咽せ、激しく咳き込んでいる。
菫も慌てて従姉妹の背中をさするのに必死である。
レイブンクローの三人はむしろ衝撃が少ない。薄々察していたのか、あるいはルーナから聞いたことがあったのか、平然としている。
苦しげな咳の声ばかりが響く中でルーナとバブリングはゆっくり顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。