ソファに腰掛け必要の部屋を広々見渡す。
スプリングのおかげで座り心地がいい。好みの反発である。
浅すぎず、しかし足を伸ばすのにちょうどいい快適な深さだ。
ギラギラとした鋲で飾られたデニムパンツに、やはりメタリックな装飾が施された黒いレザーブーツ。仰々しい服装と裏腹に表情は穏やかそのもの。周囲の騒々しさなど素知らぬ顔で『上級ルーン文字翻訳法』のページをゆったりめくる。古代ルーン文字学に難しさを感じたことはなかったものの知識を増やすのは楽しみでもある。
じっとしながら雑音を意識の外へ追いやる。
何重にも声が重なって聞こえる。感情を剥き出しに言葉を吐く。
目で文字を追う。慣れ親しんだ漢字とルーンはよく似ている。何より面白いのはアルファベットの類型と思いきや独立した字義を持つこと。表意文字、という言葉を教えてくれたのも階黑羽だった。分厚く嵩張るばかりで肩凝りの原因になった漢字事典が、イギリス留学で役に立つとは予想だにしなかった。
隣では菫が珈琲を啜っている。カロー姉妹が用意した人参ブレッドはお気に召したのか、もうホールを三分の一ほど胃袋へ収めてしまった。フロスティング控え目なのがよかったらしい。それともブランデーが効いたのか……偏食のくせに舌は肥えているのが厄介だ。それを思えばカロー姉妹はよくもまあこのワガママについていける。
フローラとヘスティアは菫の後ろに控えている。
あまり口数の多い方ではない。菫はむしろよく喋る方だ。
ホグワーツでは寡黙に思われているのが、本当にショックだった。
ここにいる誰が悪いわけではない。
けれど。ふと、考え事をやめると脳裏に浮かんでしまうのだ。
「トロールにバレエを教えたバーナバスと、自分はどう違うのだろう」
正直、誰かに何かを教えるというのは経験がなかった。
勉強は個人で取り組むもの。その認識が邪魔をする。
何よりホグワーツの校風に馴染めない。それもこれも自分がユーモア欠乏症であるからだが、どうしてもボードゲームや悪戯道具といった周囲が興味を示す対象に心惹かれない……だから自然と共通の話題がなくなる。
まして予習復習どころか課題も後回しにするのが気になる。
なので、これはおそらく根本的に彼らと相容れないのだろう。
菫は何杯目かのブラックコーヒーを飲み干し、薊の読んでいる本を覗いた。
「これさ、どうやっても対応表を丸暗記するしかないよね」
身も蓋もない言いようだが、同感だった。
「そうじゃない? アルファベットの大文字小文字みたいな」
「だったらさ。みんな試験で苦戦してるのなんでだろ」
「知らない知らない。どうでもいいし」
「……それもそっか。姉ちゃんは今年の試験で何人落第すると思う?」
「それこそどうでもいい。私になんか関係あんの?」
「ない」
「でしょ」
菫はもう完全に学習会への意欲を失っている。ときどき顔を出すけれど、それも離れたテーブルで黙々と宿題に取り組んでいるだけだ。五年生で近寄ろうとする者はいない。皆から避けられ、皆を拒み、そんな調子なので下級生がときどき参加しても上級生に倣って距離を取っている。そして戦闘訓練の是非からドラコやカロー姉妹がいること、校則違反か否かまで論を戦わせる
誰に似たかはさておき、プライドは摩天楼の如く高い。
そして座学に関して薊よりずっと効率的だ。要領がいいのだ。
だから、要点だけ示す教え方が出来るハズだが、性格が邪魔をする。
おそらくこの先も熱心に取り組むのはハーマイオニーだけだろう。
若干の罪悪感とバカバカしいほどの無計画さが、溜息を生んだ。
本を開いたまま薊は「それはそうと」と前置きした。丸投げした手前、聞くのもどうかとは思った。しかし『戦争計画』を進めるうえで情報共有はしないと不味い。
「試合の方は大丈夫? メンバー揃った?」
「揃えた揃えた。ドラコがシーカーやらせろってゴネたけど」
「アイツって才能あるの? 怪我されたら面倒じゃん」
「けどアンブリッジと約束しちゃったし。だからキーパー」
「ディフェンスゥ!? 子分のが横幅あってマシじゃん」
「やだよ私スニッチ探しながらいちいち大声で指示出すの……」
進級どころか入学出来たのが摩訶不思議である。
文字の読み書きも頼りないというのは、嘲笑より心配が勝る。
もちろん選手として戦術を理解させるのも一苦労だ。菫がクラッブとゴイルを蹴ったのはごく当然で、結果的にドラコと二人には明確な待遇の差が生じた。上下関係と友情の入れ違いで成り立ってきたこれまでの関係性は変化していくだろう……それについて薊はまったく無関心だった。
けれどドラコを孤立させるメリットは大きい。
駒に感情は要らない。思考も要らない。選択も、行動も、すべてがプレイヤーの意思に基づかなくてはならない。
そうでなくてはゲームが崩壊してしまう。
問題は暖炉前にいるハリー・ポッターの方だ。
グリフィンドールを中心に大勢が集っている。ハッフルパフとレイブンクローも例外なくハリーのそばにいる。ドラコは真新しい『敵鏡』の置かれたテーブルへ腰掛ける。ダフネもまた膝を揃えてクッションに座ったままでいる。スリザリンだけが見事にバラバラの状態であった。
参加者全員が揃ったことを確かめ、ハリーが「それじゃあ、まず」と前置きした。
「えーと、僕たちが何から始めるべきか色々考えた。それで……」
言葉を慎重に選ぶゆっくりとした挨拶を、早速ハーマイオニーが遮った。
高々と挙手しているのに気づいたハリーは驚いているようだ。
「あー……どうしたんだい、ハーマイオニー」
「まずリーダーの選出をすべきだと思います」
「ハリーがリーダーよ。アザミもそう言ったわ」
真っ先にハンナ・アボットが反論した。呆れるような目つきにもハーマイオニーは構わず、毅然とした態度を貫いた。
「もちろんみんな納得していると思う。けれど実際に投票することで認識を再共有できるし、リーダーとして正式にハリーへ権限が付与されるのよ」
その説明にハンナは納得して頷いた。
ほかに異議申し立てはない。採決は満場一致だった。不確定要素であったスリザリンの全員も賛成の挙手をして、無事にリーダーの地位はひとつの瑕疵なく承認された。思わず顔が火照るハリーへまたハーマイオニーが冷や水を浴びせるように手を挙げた。
「今度はなに? まだ話し合うことがあるって?」
「ええ、この活動の名前が決まっていません」
指摘されてみんな思い出したようだった。
真っ先にアンジェリーナが声を張った。
「『反アンブリッジ戦線』がいい」
ケイティ・ベルとアリシア・スピネットも全力で拍手した。
反アンブリッジ戦線……ハリーも正直言ってかなり
「隠せよ。去年だってそうだったろうが」
「同感。私たちの目的を推測出来なくて、どこで口にしても大丈夫。そんな名前にすべきよ」
「それについてずっと考えていたのだけど」
呼応するようにチョウも手を挙げた。
大真面目な表情に対し、彼女の提案は困惑を招いた。
透き通る乳白色の肌は昂揚感でわずかに紅潮している。溢れんばかりの自信を隠そうともせず、彼女自身は考え得る限り最高の案を投じた。
「『コール・ポーター研究会』ってどう?」
芳しくないリアクションだった。「誰?」という声が散発的に聞こえる。アンソニー・ゴールドスタインは覚えるがあるようで懐かしそうに微笑んで言った。対称的にマイケル・コーナーは豊かに波打つ黒髪の毛先を弄びながら口を歪めた。
「祖父母の家で聞いたことがある。ジャズ・サークルは面白いな」
「ジャズって……いったい誰が分かるのさ。冗談にしても下手だよ」
チョウはあまりのショックで表情を失った。
黒曜石を思わせる瞳がみるみる曇る。
その反応こそむしろ予想外で、誰も発言出来ずにいる。
沈黙が続く。
終わりの見えない静寂を破ってジニーが声を挙げた。
「『
「それは……本当に最高だよ。『ダンブルドア軍団』とも取れる、文句ナシだ」
真っ先にネビルが頷く。それに続く形でみんな『ダンブルドア軍団』を短縮しての『DA』を認めた。参加者の雰囲気を見てハーマイオニーが裁決のための挙手を求めた。今度も満場一致で決まる……そう思っていたが、ドラコは腕を組んだままである。どうにか保たれてきた穏やかな雰囲気が一変、いつ乱闘が起きてもおかしくない一触即発の状態に陥る。
ロンやディーンの指先はもう杖に触れている。
臨戦態勢の面々を無視してハリーがドラコへ尋ねた。
「何か意見があるなら言ってくれ。キミの寮と違って、ここには黙っていても伝わるような相手はいないんだ」
「表明するほどの意見なんてない。ああ、けれど僕の『姿勢』は明らかにしておかないとフェアではないね……」
値踏みする冷たい笑みにもハリーは微動だにしない。
すぐに視線は
今回は薊も驚いていたが、当の本人も悩んだ末に反対している。
スリザリンからの参加者五名のうち四人が『ダンブルドア軍団』の名称に反対。あまりにも露骨すぎる状況だ。
しかしドラコは落ち着き払って自身のスタンスを明かした。
「後出しにはなってしまったが、『全会一致』は絶対条件だ。少なくとも例の学生新聞はそうだったろう、ポッター。僕の要求はそれだけだよ」
「グルなんじゃないの。同じスリザリンなんだから、いくらでも口裏を合わせられるわ」
「マグルには愚か者の目印に巨大な髪飾りを使う風習でもあるのかブラウン。それで……だったらグリーングラスが賛成している理由について拝聴しようじゃないか」
「こっちに飛び火させないで……私個人に反対する理由がないだけよ。ダンブルドアでもディー博士でも、なんならドラコ、あなたでも。名前なんてなんでもいいわ」
心底腹立たしげにダフネは囁いた。いつだって彼女の声はか細く、些細な物音でも遮られそうなのに間違いなく聞き取れる。ハリーにはそればかりが不思議に思えてしまいドラコとダフネの距離感などそっちのけだった。
こうして『DA』に参加してくれているのなら細かいことなど気にならない。
正直、菫がダンブルドアを毛嫌いしていることは自然と納得出来た。根本的に相容れないどころかヴォルデモートと同じく
しかし放っておくには存在感が大きすぎる。
ハリー・ポッターが決まって騒ぎの中心にいるなら、葵菫は必ずハリー・ポッターの背後にいるのだ。
理解は出来ずとも知るべきだろう。今後のためにも。
「『ダンブルドア軍団』のどこに不満があるのか、聞いてもいいかい?」
「
どのみち『DA』であるのは同じだ。
本当に些末なことへ噛みついてくる。
嫌悪感を剥き出しにした表情を目にしたのはいつ以来だろう。四大魔法学校対抗試合でもここまで不快感を示したことはなかった気がする。以前は鬱々としているか困ったような微笑ばかりのイメージがある。記憶の引き出しを漁り、そういえば昨年はフラーがいたのだと思い出す。
結局、ダンブルドアが不服である理由は明かされなかった。
ハーマイオニーが改めて採決を取る。
「『
今度は菫もちゃんと手を挙げた。カロー姉妹の控えめな挙手を確かめ、ドラコもテーブルに座ったまま右手を挙げる。反対者なし、全会一致で可決された瞬間だった。どうにか空中分解は避けられた。重苦しい安堵感が鉛のように胃袋の底へ落ちてきた気がして、ハリーは堪らず唾を飲んだ。
参加者名簿のうえに設けられた空白。薊から手渡された羊皮紙の最上部へハーマイオニーが『正式名称、防衛協会あるいは略称DA』と書き加えた。
これでようやく活動を始められる。そう考えて気分を切り替える。
「それじゃあ練習を始めよう。色々考えたけど、最初に取り組むのは『
「おいおいハリー、いきなり冗談がキツいよ」
わざとらしく気の抜けた声でザカリアスが遮った。
腰に手を当てながら大袈裟に天井を仰ぎ見る。
「キミは『例のあの人』を前にしてその呪文が身を守るのに役立つって、本気でそう言うのかい?」
「この呪文が六月に僕とセドリックを救った」
誰も何も言えずにいる。ハリーはそのまま扉を指差した。
「この程度じゃ君にとってレベルが低いと思うなら、出ていっていい」
ザカリアスは沈黙を選んだ。
誰もが沈黙したままだった。
全員の視線が自分に集まるのはひどく不慣れだ。口がいやに渇く。強張った舌で二人一組を作るよう伝えるだけで、全身から水分が抜けていくような気がした。みんながハリーの指示通りに動くのも慣れない。しかもお喋り一つなくすぐに動くのだから、このままだとクリスマスが来るより先に自分がレーズンのようにシワまみれで縮こまりそうだ。
スリザリンはスリザリン同士で組むと思ったが、みんなバラバラに練習を始めたのは意外だった。
ドラコはアーニーと、カロー姉妹は――ハリーはどちらがフローラでどちらがヘスティアか、把握していない――それぞれジニーとルーナを練習相手に選んでいる。薊はハンナと散々に撃ち合っている。菫でさえ……彼女は同じ
「お手柔らかに」
ダフネが練習相手になったのは偶然だ。
翳った琥珀色の瞳はニコリともせず、ゆっくりと杖を構える。「エクスペリアームズ!」の叫び声が重なって聞こえる。
「三つ数えたら呪文を使おう、いくよ――」
一、ニ、三――合図と同時に放ったハリーの武装解除呪文が最初の成功だった。ダフネの杖は回転しながら宙を舞う。天井近くで何度か火花を散らしたあとまた落ちてきて、持ち主の手に戻った。上手く行ったと胸を撫で下ろすより周囲の騒ぎに驚かされた。
杖がそこかしこへ吹き飛んだ。狙いを逸れたり暴発した呪文のせいで本棚は倒れるし、クッションやソファが壊れて純白の羽毛が舞い散っている。
これは思っていたよりもずっと深刻な状況だ。基礎中の基礎をはじめの課題にしたのは正解だった。飛び交う呪文のほとんどがお粗末なものである。狙い通りに命中しても武装解除どころか相手をしかめさせられもしない。もう少しマシだとしても二、三歩ほど後ずさりさせるだけで杖は手の中に収ったままである。
しばらくダフネと練習したが彼女は器用にハリーが見せた――それだって、三年前にセドリックが『決闘クラブ』で披露したテクニックの真似である――技をそのままやり返した。
「肘がコツ、でいいのかしら」
「ああ……えっと、そう、肘だ。手首だとその……」
「狙いがブレやすい?」
咄嗟に繰り返し頷くハリーがおかしくて、ダフネは微笑んだ。
「生徒もだけど、先生もまだまだね」
「先生なんて……そんなの大袈裟だよ」
照れくさいのを誤魔化し笑顔を作る。お互いそれきり何も言えなくなったのも、きっと誰かの呪文が暴発したせいに違いない。時間が止まってしまったのかと思うほど張りつめた緊張感はあっという間に引き裂かれた。原因はクリービー兄弟の呪文が吹き飛ばした『自己防衛呪文学』だった。ハリーとダフネの鼻先をかすめて壁に激突したが、おかげで得体の知れない魔法が解けた。
「みんながどんな調子か見てくるよ。ダフネは……あー、ロンと、いやハーマイオニーと交互に練習してくれない?」
「ええ、その方がいいでしょうね。行ってらっしゃいハリー」
送り出されて部屋の真ん中へ向かう。
幸い、練習すれば改善出来るレベルだ。
例えばアーニー・マクミランの杖の振り方。肩を軸に腕全体を使っているから隙が大きく、狙いもブレてしまう。もしくはネビルやチョウのようにウッカリ呪文を噛んでしまうのも、そこさえ注意すれば見違えるだろう。コリンとデニスは熱心すぎるあまり力を込めすぎているだけでセンスは悪くない。どころか動作に関しては惚れ惚れするほど完璧である。
あとは集中力がどこまで維持出来るかだ。
キザハシ教授がいう「呪文とは精神力の世界」というのも、間違いではない。
ジャスティンの立派な革靴は左右の紐が一体化してしまっている。しゃがんで元に戻そうと悪戦苦闘するそばではマイケル・コーナーの黒髪が見事なストレートヘアになってサラサラと揺れている。ラベンダーの大きなリボンは蝶のように飛んでいってしまった。
一度練習を止めさせようと「ストップ!」と叫んだが誰にも聞こえていない。
ホイッスルを用意しておけば、と思った。すると近くのテーブルの上に真っ赤なスポーツ用のホイッスルが現れた。手にとって思い切り吹いてやるとようやくみんな杖を降ろした。
「みんなよく出来てる」
「そうかな。改善の余地があると思うけど」
ザカリアスの減らず口は無視した。構う時間が惜しい。
「もう一度、落ち着いてやってみよう」
それからハリーは各グループを順に見て回った。
振るときは肘のスナップを意識する。常に相手を杖腕を目で捉える。呪文を唱えるときは速さよりも発音の正確さを。そして何より「杖を奪うこと」に集中して、余計な考え事はしないように。二回ずつアドバイスをすればどの参加者も格段によくなっている。はじめはテリー・ブートの前髪でボヤを起していたスーザン・ボーンズや、練習どころか呪文の発音を説かれていたネビルだって最終的に相手の杖を好きな方向へ吹き飛ばせるようになった。
しかし夕食の時間前には解散を宣言した。
「『教育令』で課外活動は十八時までに決まってる。そろそろお開きにしよう」
「次はいつやる? 来週なんて言わず、明日でもいいくらいだよ」
ディーンの言葉は心底嬉しかったが、アンジェリーナが「クィディッチのシーズンが近い。練習時間だって確保しないと」とすかさず言った。
「水曜日の放課後は? 二時間は確保出来ます」
「そこなら嵐の予報だったからちょうどいいわ。暴風じゃ練習出来ないし」
「うん、ベストタイミングだ。次の水曜日にまた十八時までやろう。次々回はそのとき話し合えばいい」
直近の日程はスムーズに決まった。
あとは管理人のフィルチに見つからず、大広間へ辿り着くだけだ。
パーカーのポケットから取り出した『忍びの地図』を開きフィルチの居場所を確かめる。幸い八階に教職員は誰もいない。ハリーは急いで参加者を少人数のグループに編成して、みんなバラバラの経路で送り出した。全員が無事に目的地へ着いたことを確かめようと部屋に残って地図の表示を見守っていると、ロンが「へえ」と声をあげた。
「この地図、スミレの方はダメなんだ」
驚いてハーマイオニーも地図を覗き込んだ。
「そんなハズないわ。だって『
「でもご覧よ。アザミとマルフォイはいるけど、スミレはいないぜ。通路に隠れたって逃げられっこないんだろう? 誤表示なんてあり得ないってハナシじゃないか」
「……透明マント。もしアザミかスミレがハリーと同じものを持っているとしたら?」
「あり得ない。ルーピンが言ってた、透明マントに隠れてもムダなんだ。この『必要の部屋』と『秘密の部屋』のほかは城のどこにいても分かる」
理屈ではあり得ないことが、また起きている。
そもそもこのタイミングで『秘密の部屋』へ行く理由は?
「ダンブルドアに報告すべきよ。地図に間違いがないなら、スミレがまた何か企んでいるとしか思えないわ」
「この『DA』のことを説明するって? 校則違反をしましたって自己申告させる気かい?」
「シリウスにすべて話す。そうすればルーピンにも確実に伝わるし、ダンブルドアの耳にも入るはずだ」
後見人に対してはロンも反発はしなかった。少なくともハリーは保護者であるシリウスに事情を打ち明けるだけなのだ。それを咎めるのが筋違いであるのは正しい。そしてシリウス・ブラックは『不死鳥の騎士団』のメンバーでも重要な立場にあり、彼の報告であればダンブルドアも軽視しないだろう。形はどうあれダンブルドアへ情報が伝わるのであればハーマイオニーもそれ以上の主張を控えた。
ともかく自分たちも大広間へ急ぐのが先だ。
問題への対応策は決まった。留まる理由はどこにもない。
ハリーを先頭に『必要の部屋』から出ると目の前が真っ白になった。
カシャリという乾いた音のあとやや遅れて「あれ?」と気の抜けた声がする。
「三人でお茶会でも? 次は私も呼んでくださいね」
冗談とも本気とも取れる調子でそう言いつつ、キザハシ教授は使い捨てカメラのシャッターを切る。驚きのあまり開いた口がふさがらない。ハリー、ロン、ハーマイオニーの呆然とした様子などそっちのけで教授は写真撮影に夢中である。背伸びして天井近くの彫刻にピントをあわせたかと思えば、次は足下に近い壁の装飾を執拗に狙い始める。
不意打ちで焚かれたフラッシュに吹き飛んだ視界が回復しても衝撃が抜けない。
唐突すぎる。死角からいきなり殴りつけられたようなものだ。
三人と一人が校舎八階の突き当たりにいる状況は、不味い。少なくともこの教授は風紀に頓着しないが、こんなところをフィルチに見られでもすれば言い訳しようがない。どう断って逃げるかを考えるよりもフィルチ以上に厄介な相手が現れた。
「ポッター! それに……これはこれは、ミス・グレンジャーとミスター・ウィーズリーではないか。ふむ、拝察するに監督生の職責を果たす直前であったのだろう。その問題児めはどのような校則違反を企んでいたのかね?」
これからどのような罰則を科そうか、そんな陰険な愉しみにスネイプの歪んだ唇がますますねじ曲がっていく。グリフィンドールというだけで攻撃対象と見なす魔法薬学教授にとってこの三人組は不倶戴天の敵にも等しく、あらゆる口実を見逃さず減点と罰則を申し渡そうと目を光らせている。
真っ黒なローブを羽織ったスネイプに対し、キザハシ教授は「ただの観光ガイドですよ」と真っ赤な嘘を吐いた。
「観光? 校内でかね? はてさて、東洋の習俗について我が輩も疎いことは認めよう。しかしこのホグワーツで物見遊山に興じるなど酩酊しているにしても酷い冗談と……」
「西洋建築愛好家なんですよ。ミネルバ……ああ、副校長にはお話した覚えがあります。ただこの学校は広すぎましてね。見晴らしの良い廊下を教えて貰うついでに人気のない……写真撮影にうってつけのスポットはないかと思いまして。そうしたら丁度この八階廊下の突き当たりはどうかとたったいまシャッターを切っていたところです」
「それはまったく奇妙な話ですな。我が輩はいましがた、教育令違反の生徒集会が開かれていると告発があり真偽を確かめるべく向かってきたところだが、キミが規則に構わずその三名へ戦闘訓練を施していたのではないのかね?」
「私の説明を疑うのは構いませんが、このフロアにある全教室をひとつひとつ検分して教育令違反の証拠を見つけようというのは……非効率的だと思いますよ?」
老獪、と表現していいのかどうか困る。スネイプの威圧的な振る舞いにもキザハシ教授はどこ吹く風でとぼけた顔をする。なまじ若々しすぎるのだ。二〇代でも通用するだろう美貌のせいでつい年齢差を忘れそうになるけれど、いざ口論になると相当の場数を踏んでいるのが分かる。どこまでも実態が掴めないのは東洋人の性質なのだろうかと疑いたくなる。
違反の証拠を要求され、スネイプは唯一の攻撃手段を封じられた。
キザハシ教授はすかさずハーマイオニーの両肩へ手を置いた。
「いやあ、しかしそろそろ良い時間です。これ以上連れ回しては本当に違反してしまいますね……名残は尽きませんが、続きはまたの機会にしましょう。では失礼しますねスネイプ教授」
促されるまま三人はキザハシ教授とともに『バカのナーナバス』のタペストリー前から離れていく。取り残されたスネイプは憎悪の籠もった視線を背中へ放ってくる。堂々と受け流せるのはいい気分だったが、それよりも不安なのはこの防衛術教授そのものだ。八階から七階、七階から六階へと下りていく途中でロンが口を開いた。
「いつからあそこに!? どうやって隠れていたんです!?」
「秘密です。もしかすると、図書室に答えがあるかもしれませんよ」
教授はロンの大声をコロコロと笑ってあしらった。
「サークル名は決まりました?」
「『防衛協会』です。省略して『DA』に」
次はハーマイオニーが答えた。どんな反応を示すかと思っていたが、一言「そうですか」と無愛想に返されるに留まった。もう少し本音を探ろうと情報を出して揺さぶりをかける。
「本当は『ダンブルドア軍団』にするつもりだったんです。でも、スミレがどうしてもイヤだと言うのでもっと無難な案に……」
「好都合です。ダンブルドア校長は無関係なのですし、下手に飛び火させるのは好ましくない……ところで薊さんは賛成したのですか?」
「いいえ。彼女なりに考えがあったみたいです、詳しくは聞けなかったのでどんな理屈なのかは分かりませんが」
「そうですか。となるとスミレさんは単純な理由だったのですね」
教え子の態度を教えられて、教授は変わらず淡々としている。
切り揃えられた前髪の下で鋭利な黒目は無感情なままだ。
それきり黙って何か考え込んでいるらしい。氷を思わせる雰囲気のせいで三人ともずっと話し掛けられないままだった。その間にハリーはずっと考えていた……この教授がはじめて他人に関心を示したことについてだ。薊が教え子になって十年になるという。自分とダーズリーが共有した十年は拷問そのものだったけれど、もしかすると普通は赤の他人であっても情が移るのかもしれない。
親子の関係とは違うのだろう。けれど、教え子の振るまいが気になるものなのだ。
長い年月によって結ばれた絆を知らないハリーは薊が羨ましかった。
いつか自分もそうした縁を知ることは分かっている。
だが、目の前でありありと見せつけられると、やはり嫉妬してしまう。
チョウの口走った『コール・ポーター研究会』は作家・殊能将之の長編ミステリ『美濃牛』の主人公、石動戯作が大ファンのジャズ作曲家です。京極夏彦の百鬼夜行シリーズを思わせながら迷探偵が名探偵をする奇妙なノリでユーモラスな内容になっています。
世代的にもあんまりジャズに馴染みがない中、祖父母の世代にファンタビのゴールドスタイン姉妹がいるアンソニーは「なんか聞いたことあるわ」という反応をしました。