本話には京極夏彦著『魍魎の匣』のネタバレが複数あります。
未読並びに読書中の方につきましてはその点ご了承ください。(敬称略)
セオドールの医務室送りはちょっとした噂になった。
マダム・ポンフリーに看病された事実を揶揄する声もある。
魔法生物飼育学でユニコーンを怒らせたのだ。いやいや、魔法薬学で調合中の混乱薬を頭から被ったのだ。変身術にしくじって呪文が自分に掛かってしまったという……はじめは間抜けなヤツと失笑する風潮があった。ホグワーツではままある事故である。珍しくに欠ける。この手合の風評は迅速に拡散するが短期間で消費し尽くされ、みな忘れてしまう。
次第に風向きが変わり始めたのはセオドールの父、カンタンケラス・ノット三世が『死喰い人』であった事実が知れ渡るようになって、間もない頃合いだった。世間では未だ先の戦争の記憶が色濃い。どころか、悪夢が蘇りつつあるのを肌で感じる者も少なくない。中には「平和にあらず。二十年に満たぬ、小休止だ」と述べる人々もいるだろうが……彼らは総じて魔法省のバッシング・キャンペーンにより発言力を奪われて久しい。
いまや生徒の大多数がセオドールは菫の逆鱗に触れたのだと確信している。
現在に至るまで菫は自身の死について口を閉ざしたままである。
だが、アルバス・ダンブルドアの言葉を疑うなど、例外的な少数を除けばホグワーツにおいて探し出すことは困難を極める。
葵菫はヴォルデモート卿に殺された。闇の帝王が力を取り戻した。そしてアズカバン送りを免れた『死喰い人』の子供が、
ミステリは
謎を解明するには動機が必要となり、動機なくして説得力は発生し得ない。殺人事件は作劇のコストを軽減させる
読者の好奇心を煽る奇妙な状況。
それは
事象、これは容易い。セオドール・ノットが重傷を負った。程度はさておき丸二日で回復を遂げている。
後遺症は観測されていないから呪文や魔法薬が用いられた可能性は低い。除外して差し支えないであろう。こうして凶器の輪郭が浮かび上がる。
犯人と被害者については論じるまでもなく自明だ。
ホグワーツ城の何処かで行なわれた。それは覆せない事実であり、ホグワーツは構造的に無数の『死角』を抱える。
予測不可能な動機の解明にはノットの父親のプロフィールとダンブルドアの言葉が重要な示唆を与える。
ヴォルデモートの犠牲となった少女。
ヴォルデモートの忠臣を父に持つ子。
本来、すべての点と点は独立した存在であった。しかし不特定多数に憑いた虚妄は先入観という指向性を得、極めて類似した描写で語られるプロセスを経て、コミュニティにおける一つの共同幻想として受容された。
即ち――『神話』が形成されたのである。
この『神話』は客観的な真実と酷似している。
相違点らしい相違点は、暴力行為の主体には薊も含まれること。そして行為の隠蔽を立案、実行したのは菫であること。だがそれらはいくら焦点を当てたところで誰からも軽視される。本質として枝葉末節に過ぎない……
それらを真実たらしめる証拠は存在しない。
被害者の記憶がひどく断片的なためである。
切り札の喪失は唯一の解へ到達するための式に空白を生んだ。
証明不可能が証明されたのだ。
原則としてホグワーツにおいて『疑わしきは罰せず』を指針としており、薊と菫は限りなく『黒』に近い『グレー』でありながら無罪を勝ち取った。
極めて衝動的な行動による結果として、二人は反純血主義者のレッテルを貼られた。
純血主義を寮の理念に掲げるスリザリンとしては致命的な事態といえる。だがこの二人は純血を是とする思想に共鳴しておらず、それは以前から全校生徒の知るところである。
さて。カンタンケラスに対する宣戦布告は為された。
だが闇の帝王の陣営にあって、かの老翁は重ねた齢に比して低い席次に甘んじていた……カンタンケラス一世の定義した『聖なる二十八』においてノット家は没落していることを、アンブリッジはよく承知している。帝王に忠誠を誓った者たちの中でもマルフォイほど確固たる地位を有する者はなく、ロジエール、トラバース、セルウィン、カロー、ロウルといった『旧家』はただ家系図が長く古いだけである。
よって更なる栄達を望むならばマルフォイ家の庇護が要る。
薊と菫はノットとの決別後も、ドラコとの交友関係を維持していた。
派閥に属さない私的な結びつきが致命傷を防いだ。寮内非主流派でありながら、同じ非主流派のセオドールを攻撃した事実について弾劾を免れたのだ。
ホグワーツ高等尋問官の権限を拡大するに当たり、魔法省と異なる後ろ盾を確保するならばマルフォイの名声は理想的だ。
コネクションを構築する足掛かりとして葵薊は利用価値がある。
だが信用に値しない。透明マントという稀少な魔法道具と、『忘却呪文』の名手である従妹を手札としているだけで、要注意リストの最上段に記録すべき生徒だ。ただ反抗的なだけのハリー・ポッターよりもずっとタチが悪い。
警戒心の薄さにはごく僅かなりに可愛げを感じないではない。
砂糖たっぷりのミルクティーを味わったあと、薊は「許可証を頂ければと思ったんです」と愛想笑いを振り撒いた。
「夕食のあと図書室で自習したくて。放課後は例の試験対策があるんで、時間を作るにはそこしかないんですよ」
「ミス・アオイの奉仕精神と学問に対する熱意に私、大変感銘を受けているのですよ? コーネリウスも報告書に目を通された際『これこそ学生の理想だ』と感心していました……ですが消灯時間前の自由時間に図書室の理由を禁止する規則はないのです」
つとめて柔和な、アンブリッジが思い描く『優しい大人』の規範に忠実なトーンで無理な要求であることを説く。禁止どころか制限すらない、校則と教育令の許容する範囲において自由が認められている。許可を与える行為は、免状によって保証された対象者の権利は普遍的なものでなく、特例的な措置であると宣言するのに等しい。
法は行動の規範であり指針だが、魔法界の風潮として自由を束縛される状況を忌避する傾向がある。
しかし薊はむしろ
「別に、自分も勝手にやっていいかなとは思いました。でも、いま上級生に目をつけられてて……セオドールの事故に巻き込まれただけなんですけどね」
無論、アンブリッジとて薊の潔白を信じてはいない。
だが罰則なしの裁定が下ったからにはそれこそが現実となる。
「言い方悪いですけど、魔除けのお守りです。昨日の今日でスネイプ先生に頼むの気まずいし。あとついでに
分かりやすい釣り針が目の前で揺れている。薊はホグワーツ高等尋問官のの権威を利用したがっている。コーネリウス・ファッジの全面的支持はもはや風前の灯火である。いまアンブリッジの掌中にある権力は不格好な張子の虎だ。所有者その人が自覚しているからこそ、張子の虎をあたかも本物の虎のように扱おうとする意図を知りたい。
だから真意を問いただした。
単刀直入、そのものずばりに。
「貴女の狙いはどこにあるの?」
冷淡の印象を与える唇が動く。
女子としては硬質の声が語る。
「ダンブルドアの打倒」
誇大妄想狂と言い切ってしまえる。未熟で世間知らずな学生が、突飛な発想力を正当化するために都合のいい世界観を作り上げ、それこそが現実だと勘違いしている。滑稽も過ぎればただ愚かなだけだ。ましてアンブリッジは子供嫌いである……ホグワーツで過ごした七年間が価値観の形成に多大な影響を及ぼしたことは、認めていた。
「ええ、是非またの機会に聞かせてちょうだい。想像力溢れる御伽噺に触れたくなる状況があれば、ですけれどね……」
失笑とともにアンブリッジは面談を打ち切った。
時間を浪費させられたとの認識すら、どうでもよくなるほどに落胆の度合いが大きい。この結果を予見できなかった自分の浅はかさこそ腹立たしい。魔法大臣に提出する報告書の作成を再開し、執務用の羽ペンを手に取る。インク壺に満ちる黒い液面へ金属製のペン先を立てた。
おそらく呆然としているだろう。薊の存在を意識の外へ追いやろうとして、唐突に割り込まれる。
「ファッジとダンブルドアのツーキル、やらなくていいのか」
瞬間、落雷に打たれる。神経と筋肉のすべてが硬直する。
大股の歩幅で高等尋問官のデスクへ歩み寄り、コーネリウス・ファッジの近影を飾った写真立てを乱雑に伏せた。
「ノットの親父がどうしてオレのところにバカ息子を寄越したと思う。菫はあれで計算高い。しかも…………半端な闇の魔法使いよりよほど力がある、ヴォルデモートの手下たちはみいんな新しい駒が欲しくて堪らないのさ」
ケタケタと笑いながら自白した。いまこのとき、薊がアンブリッジに聞かせるのは「表沙汰に出来ない」という絶対条件の下にある。
闇の陣営に関する内情と深く関わる事柄を大臣に報告すればどのような仕打ちが待っているか、魔法省高官として知り尽くしている。知り過ぎているほどだ。魔法不適正使用取締局を起点とするキャリアにおいて省内全体に不正が蔓延している状況を、何度も利用してきた。
そうして何十年と費やしやっとここまで来た。
最高権力はすぐ目の前にある。だがそこには、錯乱した小心者が居座っている。
自らの意思で掴み取った地位でもないのに。
ほんの偶然からこぼれ落ちてきた果実に味をしめた。あの美味しい林檎がまた目の前に降ってくると信じて木に縋りついている。
本気で果実を独占したいのなら頂上を目指すしかない。
「さあ、どうする――オレならアンタが望むモノをすべて与えてやる」
人間の心とは不思議である。どれほど理性的に振る舞い、欲望をひた隠そうとも誘惑に耐えられない。人間は脳によって思考し、脳によって様々の活動を可能とする。言語コミュニケーション能力の発展なくして文明社会は成り立たない。それゆえ、しばしば人間はこの惑星で最も高次元の思考能力を獲得したと唱える声もあるほどに。
論の是非についてはさておく。この脳と称される部位は肉体という有機的な『匣』に格納されたいち器官だ。マグルの医学者たちはこの臓物こそかつて『魂』や『心』と呼ばれたモノを生み出す存在であり、これこそが肉体を統括する最高司令部と見做す。
ならば人間とは脳そのものであるのか。
脳がその機能を維持している限り人間は人間足り得るのか。
ユリナウェスは「健全な精神は健全な肉体に宿るべし」と神に祈るよう説いた。道徳的精神の充足を訴えたローマの言葉は、ジョン・ロックの引用によってより唯物的でマグル的な『近代医学と生物学』の理念へと転じる。
肉体と精神は基本的に不可分である。
身体機能が停止すれば魂は次のステージへ移行する。
真っ当な精神状態ならば敢えてそれを拒否しない。かつて現世に存在した者の残響として留まる道を選び、
さて、肉体の定義を変えればどのような世界が生まれるだろう。
脳だけが人間を人間たらしめるならば骨も肉も神経も、すべてはただの『匣』に過ぎない。ならばこの『匣』が有機的であろうと無機的であろうと健全な精神が維持されている限りは人間と認定される。
だが……脳はその構造上、神経の伝達した情報を記録・保管する司書のような存在でもある。
ならば脳は完全に独立してはおらず、神経に隷属する事になる。
興味深い逆転現象が発生した。
脳は精神という現象を司る唯一無二の肉体であり、従来の定義による肉体とは脳を格納する代替可能な『匣』である。だがこの脳は主体的に機能する臓物ではない。むしろ神経に隷従せざるを得ない極めて受動的な性質を有する。脳は人間という存在に対し主たる地位を有しながら、ある視野に立つと肉体なしにその機能を果たし得ないのだ
よって『匣』が機械装置の類いへ完全に置換され、生物学において一般的に『肉体』とされる要素を残らず喪失したとき、脳は自らを覆う機械装置を主とすることとなる。
――――健全な精神もまた脳の引き起こす現象であるならば、機械装置である『匣』から送り込まれます情報によって脳が生み出す現象とは、人間のそれと同じであろうか。
もっと言えば脳を覆う『匣』は物理的である必要性すらない。
外界と自己を隔て、輪郭を形作る。ならば欲望もまた『匣』となる。
この欲望が送り込む情報に対し、脳が
いまアンブリッジの精神――人格とも呼称可能な現象を出力している脳は、いったいどの『匣』の中にあるのだろう。
そればかりが気になって仕方がない。
†
菫が読書家であるのはとうに知っている。濫読家の域に近い。漫画だろうと小説だろうと、安っぽい週刊誌にまで目を通す。好奇心が刺激されはする。だが悲しいかな、パンジーもミリセントもダフネも、日本語能力とは無縁である。だからときどき粗筋だけ聞く程度だった。ファッションや音楽よりミステリ小説やサスペンス映画が好きなのは、個人の趣味ならばとやかく言うのが野暮である。
しかし最近は少し様子がおかしい。照明のそばで本を読み耽るのはいつも通りだ。
薊を頼ろうとしたが耳栓とアイマスクを装着して就寝していた。
着古したジャージ姿の菫へもたれかかって、パンジーは「またそれ?」と尋ねた。
「とても面白くて。示唆的と言いますか」
「そんなに分厚くてよく疲れないわね。終盤になったら、序盤のこと忘れちゃいそう」
「これは二作目ですけど、デビュー作から最高でしたよ」
「ふうん? なんてタイトルか教えなさいよ」
「いま読んでいるのは『魍魎の匣』です。魍魎というのは古代中国に由来が……」
「やーめーて。こんな時間に魔法生物飼育学みたいなハナシをされたら、変な夢見ちゃうわ」
おどけた調子で「ヤダヤダ」とボヤく。
愛用のスリッパに素足を突っ込む。もう十分もすれば消灯時間だ。寝室の照明が落ちる。ナイトケアを済ませたのだから眠ってしまえばいいのに、パンジーは菫のそばへ寄った。
例え生ける屍だろうと友達は友達だ。突き放す理由はない。
これまでだって読書中だろうと遠慮なく話し掛けていた。
いつだって菫は穏やかな表情で付き合ってくれた。
菫が好むのはどれも珍妙な物語ばかりだ。必ず登場人物の誰かが死ぬ。理由はいつも違う。
難解な記号が無数に整列した見開きへ目を落とす。
やはり読めない。
平仮名と片仮名が各五十種ずつ。そこに数千種類の漢字が加わり、微細な字列の異なりによって発音と含有される意味が変化し、更に前後の文脈次第でも変形するなんてとても学びきれる自信がない。母国語の複雑さに比べれば古代ルーン文字など楽勝だろう。
「セオドールのバカになに言われたの」
読めない本を読みながら言った。
菫の視線は動かないでいる。
「私を、クリスマス・パーティーに呼びたい、と」
「それでアザミが怒ったワケ」
先に薊が怒ってくれたから落ち着けた。
もし二人きりだったら。
きっと。いや。絶対に殺していたと思う。
命乞いをされたとき直感した。自分は、命乞いなどさせて貰えなかったのだ。
脳の記憶野に格納された
視界を埋め尽くす、緑色の閃光。たったそれだけだった。あんなにも呆気ないのだ。『死』という現象は。
自分の結末の味気なさを思い出すと手が震えた。
甘く香る
柔らかなクッションスツールの上にいる。身体の位置は低い。そんな状態にある菫を、パンジーが後ろから抱きしめた。
右耳にあたかな吐息が触れる。
「それ、どんな事件が起きるの」
「……中学生の女の子が、列車に撥ねられるんです」
夜の駅でホームから突き落とされた。全身真っ黒な、恐ろしい男によって。撥ねられて、少女は酷い怪我を負った。
病院では保って幾ばくの命と宣告される。
少女の
中には演算装置のような白衣の男がいた。
この施設は、厳密には病院ではなかった。怪我や病気を治療するにも関わらず。退院する者はなく、ときどき思い出したように搬送されてくる。
そして幾日かのち、切断された少女の片腕が見つかる。
「バラバラ殺人、ってヤツ?
「フランケンシュタインですね。アレ、誕生日に買って貰ったんですよ」
ツバキは相変わらずよく分からない。そこも含め、母娘で似ている。
「匣へ『モウリョウ』を祓い封じる、霊能力者。新進気鋭の青年幻想小説家。連続少女殺人事件。病床から跡形もなく消えた、始まりの女の子。女子中学生誘拐事件の捜査中に起きた新たな殺人。青年作家が新たに描こうとした『匣の中の少女』」
「その黒い男が犯人。当りでしょ」
「しまった。先に『姑獲鳥の夏』を読まなきゃダメです」
「
「ふふ。読めば分かります」
形のよい、つんと目尻の吊り上がったアーモンド様の輪郭が細まる。
「読めない。犯人、さっさと教えなさい」
「いやあ……京極先生のだけは出来ません。英訳版が出るのを待ってください」
「そのときにはもうシワまみれよ。私、待ちたくない」
愛嬌たっぷりに甘える声。
囁かれ、返す言葉も融けきった。
弱々しく「うう」と喉奥で鳴る。
ますます腕が絡みつく。ジャージとパジャマの布地が擦れあう。パンジーの唇が、菫の頬の間近へ迫る。
二人の影が重なろうとした瞬間――消灯時間が訪れた。
視界を遮る真っ暗闇。するりと離れていくパンジーはあっけらかんと「じゃ、おやすみ」と言って自分のベッドへもぐった。
金縛りから解き放たれて狼狽える。
周囲を見渡せば、ミリセントとダフネもとっくに寝ていた。
休もう。そう思い『魍魎の匣』を閉じる。
柚木加菜子は夜を好んだ。それは薄々と、姉を名乗る肉親……柚木陽子の本当の輪郭を知ってしまったからだった。
不協和音。
それは柚木陽子と、雨宮典匡と、増岡典匡、美馬坂幸四郎、柴田耀弘。様々の思惑を抱えた大人たち各々のエゴイズムの衝突して鳴り響くノイズである。
逃れようとして得た友人、楠本頼子もまた近しい境遇にあった。
だが彼女は『魍魎』に憑かれてしまう。自己の輪郭を失い、曖昧模糊とした存在へと変じていく。そんな頼子に久保竣公はまったく新たな輪郭を。『匣』を与える。そのせいで加菜子へ羽化する未来を夢は終わる。四肢を失う苦痛に悶えながら息絶えた、楠木頼子の無惨な遺体だけが産み落とされた。
こんなに斬新な演出があるだろうか。
匣から逃れようとした加菜子は、輪郭の蕩けた頼子により匣へ囚われる。
囚われる。
囚われる。
四方形――囲い込む。ハコである。箱。筺。匣。
この物語はたった一文字
菫はあまり物語に感情移入せず読書をする。