ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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443で外れる炭酸水

 土曜日。補講、再試験を除けば授業はない。

 校風としてホグワーツは生徒の自主性に重きを置く。

 休日にいち早く活動を始める生徒は、トーナメント優勝に燃えるクィディッチ選手ばかりである。監督生たちですら平日よりも睡眠時間を確保したがる。現実と夢の狭間でまどろむ心地よさからは逃れられない。あたたかな泥濘に包まれるようなあの感触。この世で味わえる極上の快楽である。そんな誘惑を容易く振り切って、薊は起床後の日課を粛々とこなす。

 ルーティンはストレッチから始まる。

 血流を整え、関節と筋肉の柔軟性を回復するためだ。

 そのあとは適当にランニングをやって朝食前には完了。シャワー室で汗を洗い流して着替えを済ませたら大広間へ向かう。廊下を歩くのは薊一人だけだ。この時間帯はまだゴーストたちも静かにしているうえ、あの悪戯好きなピーブスもどこを漂っているのやら、ちらとさえ姿を見せない。静まりかえった古城は深海の底深くを這っている気分になる。

 大広間の扉は開け放たれている。

 校長の椅子は金銀で彩られた豪奢な拵えである。

 出入り口から最も遠く、左右で分断する中心線の直上にある。

 いくつも飾られた教育令を観察する。自動筆記羽ペンの使用禁止、校内持ち込み禁止品の改訂、ゾンコ悪戯専門店の購入禁止品、全課外活動の管理許可制、放課後の自由活動に関する規定……どれも薊の価値観においては常識の範疇に留まる。そこら中に人糞を撒き散らす爆弾やらレポート課題を不正に執筆する魔法仕掛けの羽ペンを、これまで正式に禁止していなかった方がよほどショッキングだ。

 ウィーズリー製品の購入・所持・使用を禁じた教育令もある。

 あの双子はいったい何をしているのだろう。

 監督生とかいう制度もさほど効果がないらしい。その程度で素行を改めさせられるなら、わざわざ教育令で名指しするまでもあるまいが。

 くつくつと笑う。

 自分はユーモア欠乏症だと思っていた。

 こんな風に晒し者になるくらいなら、マシだ。

 このまま朝食にすべきか考える。昼食のあとは菫と二人で制限図書を総当たりする予定がある。『分霊箱』について調べる時間を確保するのだ。就寝時間までに身支度を済ませたいからあまり長時間図書室に籠もりたくはない。

 あまり好ましくはないが朝食を抜いて図書室に行こう。

 許可証はまた改めて……事情を話し、菫には少し寄り道させてもらう。

 方針が決まったので大広間前を離れる。

 片手に大学ノートはじめ筆記用具一式を用意した鞄、もう片方の手はデニムパンツのポケットへ突っ込む。留学祝いの腕時計も右手首に巻いている。

 途中、渡り廊下を通る。ようやく空は薄暗がりを抜け青さを取り戻しつつある。ゆるゆると昇りはじめた太陽がいまさらになって中庭の芝生を照らす。細かな草のそこかしこに付着する朝露の騒がしげなきらめきが薊の目を細めさせた。視界の端から飛び込んできた光の群れに足を止め、またぞろ無神経な生徒が校則を省みず遊んでいるのかと呆れた。

 薊の感性は『太陽が昇った』『空が明るくなった』『朝露が光っている』という事実だけを認識し、無感動に『記憶する必要性なし』と機械的処理で片づけた。朝に陽が昇るのは当然である。陽が昇れば空が明るくもなろうし、朝露が太陽光を反射して輝いたのも単なる自然現象の一つである。霊的存在の意思は介在しない。なまじ魔法という科学とは隔絶した技術に慣れ親しんでいるために、彼女は信仰の源となる『神秘』を獲得し難い状態へ陥っていた。

 だから休日の早朝、まだほとんどの生徒が入眠中の時間帯、中庭の芝生の真ん中に()()()が佇んでいようと驚かなかった。

 

 学校の中庭にエルフがいる――表面的で単調な、無味乾燥とした感想を抱いた。

 

 新雪のように白々とした肌。

 銀細工を思わせる繊細な髪。

 整った目鼻立ちはあらゆる芸術作品を陳腐化させる。

 長い耳は先端へかけて鋭く尖っていく。

 完璧なほどにエルフである。トールキンの『指輪物語』を読んだことはなくとも、単語から連想される『森に棲まう優美で静謐な妖精』としてのイメージそのものだ。

 いるところにはいるのか、と。そう思った。

 思えばクラスメートからして混血と先祖返りばかりだ。

 雪女や人魚といった妖怪変化の末裔、果ては犬神憑きに悪霊、ゾンビ、呪いの人形と同じ教室で十年間やってきた。イギリスの魔法学校にエルフがいるのはむしろ普通すぎるくらいだろう……吸血鬼だっているのだし。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()やら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()やら()()()()()()()()()()()でも現れてくれたなら、そのときは是が非でも直筆サインをねだるけれど。

 現実は、起こるべくして起こることしか起こらない。

 世の中に不思議なことなど何もないとは、誰の言葉だったか。

 記憶が格納された『匣』を漁るすらも惜しい。

 ともかく薊はこのエルフの存在を無視した。

 中華料理屋で餃子を待っているならまたハナシは変わる。しかしここはイギリスで、魔法界である。しかも彼女はホグワーツ魔法魔術学校の生徒である。

 だったら何を驚く事があろう。

 無感動に『記憶する必要性なし』と機械的処理で片づけた。

 いま優先すべきは図書室だ。『分霊箱』探しの時間が減ってしまう。それだけは困るので、薊は無言のままに立ち去った。

 まあ、土産話としては良いだろう。分家の従姉妹たちは面白がる。もし暇なときにまた会ったなら、話し掛けてみるか……そんな風に考えつつ先を急ぐ後頭部は、痛みが走った。

 

「いてっ」

 

 咄嗟に空の右手で痛んだ箇所を庇う。

 左右を見渡す……肉眼で認識出来る範囲には誰もいない。

 振り返る……やはり制服姿のエルフが一人だけ。

 まず呪文を疑った。しかし右足のそばに転がる小石が、投擲の可能性を強く主張した。ふと思い浮かんだ『透明マント』もまた否定的にならざるを得ない。アーガス・フィルチが不衛生極まる糞爆弾よりも忌み嫌い、持ち込み禁止リストの最上列へ記載するほどの品だ。薊とて全科目受講のため特例的に許可されているだけで、ハリー・ポッターもまた特別の事情があって黙認されている事は想像に難くない。やはり可能性として限りなく()()のだが……では犯人は?

 傍目には呆然として立ち尽くす薊の左耳を二つ目の小石が掠めた。

 

「無視すんじゃねえーっダボがーっ」

 

 口汚い罵声が聞こえた。

 ピーブスとは違う。彼の声は嗄れて甲高くいる。

 まして悪戯が成功したなら絶対に姿を見せる。衝動的な自己顕示欲であり、また悪戯仕掛け人としてのプライドもあろう……理解不可能ではあるけれどあのポルターガイストも一端の信念を備えているのだ。

 この一ヶ月と数週間で校内に敵が増えた。

 陰湿さは気に食わないが、仕方あるまい。ボロを出すまで待とう。

 痛みの引いた後頭部を適当に撫でる。

 無駄な時間だった、ますます急がなくては……気持ちを切り替えた薊の視界でエルフが動いた。

 右脚を軸にした一本立ち。スカートなどお構いなしに股関節の許す限り左脚を振り上げ、ほとんど縦一直線のシルエットが生まれた。

 後ろへめいいっぱい振り絞った右腕の先には握り拳。

 左腕は照準を合わせるためか真正面へ突き出され、あたかも首長竜が重心の均衡を保とうとするかのように地面と並行を維持している。

 

「森の女神サマに()()()ブッコくんじゃねェーっ」

 

 静謐の中に囀る湧き水――心の奥底に蓄積した『澱』を清める声音が、信じ難いほど品性に欠いた暴言を届けた。

 

「はあ?」

 

 理解の範疇を時速三二〇キロメートルで飛び越えた。

 今度こそ呆然とする薊のちょうど眉間へ、三発目の小石が的中する。

 丁寧に鞄を床へ置いてクラウチング・スタートの姿勢へ移行。何事か騒ぎ立てているバカの位置を再確認、右脚の筋肉をスプリング代わりに地面を蹴り抜く。

 渾身の加速力を殺すまいと最高速度に到達した瞬間、走り幅跳び。

 ちょうど第二関節を直撃させるコースで放たれる拳――理想的な軌道で左頬へめり込めば、歯列の感触が指から骨へ伝導した。

 

 横軸回転で吹き飛ぶエルフは視界に入らなかった。

 

 斜めの対角線を形成するように脚を開く。

 

 膝関節を利用して着地時のエネルギーを全身で受け止める。激しく痛む眉間へ手をやると、出血はなかった。

 怪我を免れた幸運にひとまず安堵する。

 それよりも不快だったのは顔面へストレートパンチを放ったとき、右手にエルフの唾液が掛かったことだった。

 生温かくぬめった感触が本当に気持ち悪い。

 

「ブッ飛ばすぞテメエ」

 

 反射的に吐き捨てた一言が不適切だと気づく。

 気づいたところで、相手には聞こえていない。

 泡を吹いて横たわるエルフをどうするか。それこそが緊急の問題である。薊が落胆したのは、この厄介極まる問題へ対処せざるを得ないため予定が狂ったからである。

 

 

 純銀のナイフを弾性豊かな薄皮へ走らせる。

 皿の中心にずんぐりとした腸詰肉が鎮座する。

 切れ込みが入る。黒っぽい挽肉が露となった。オートミールの白い粒が主張する甲斐あって砂利混じりの泥にそっくりだ。じわりと滲む肉汁がなければますます食欲を失っていたと思う。混ぜ固めて加熱されたモノであるからコレもプディングの一種であろう。突き詰めれば腸詰肉なのだ。オーストリアの白ソーセージも皮を剥がして中身だけを食するから、特異性は感じられない。

 フォークの先へ挽肉を載せる。

 滴る肉汁とともに口へ運ぶ。こってりとした脂を香味野菜とハーブが整える。内臓特有の生臭さは気にならない。これは血抜きと鮮度の兼ね合いもあるから屋敷しもべ妖精の調理技術のみで完結させては不整合が生じる。風味は内臓料理として美味しいと言える。一方、食感は筆舌に尽くし難い。心臓(ハツ)肺腑(フワ)と弾力に肝臓(レバー)の粘性が噛めば噛むほど感じられる。

 薊はひたすら沈黙した。

 不味いと評したら嘘になる。

 しかし手放しで絶賛も難しい。

 様々の感想を整えては破棄し、本音を漏らした。

 

「タバスコ欲しい」

 

 タバスコの酸味と辛さがあれば……。

 だが悲しいかな、菫を除いて賛意はなかった。

 

()()()も良いと思いますよ」

 

「そっちか。このカラシをつけて食うと、また美味ェからな」

 

「ああ〜……そんなにつけたら目に毒だよ」

 

「ナニ言ってるんだい菫、腸詰なんてなァな、腸詰にカラシつけるんじゃなくてカラシに()()()()腸詰つけるくらいが美味ェんだ」

 

 また映画か小説のコントをやっていると周りも察した。

 

「またキョーゴク・ナツヒコ? 大ファンじゃない」

 

 ムール貝の白ワイン蒸しを摘みながらパンジーが呆れる。

 菫はすっかり『京極夏彦』に魅了され、やたらと分厚い、鈍器じみた小説を何度も何度も読み返しているのだ。その執着はまさか呪いでも掛けられているのかと疑いたくなるほどで、地元の本屋に立ち寄ったとき購入したと聞かされようやく安堵した。だが薊は不機嫌そうにしかめ面となった。

 

「京極夏彦じゃねえ。座頭市だよ、勝慎太郎の」

 

「今度は誰なのザトーイチとかカツシンタロとか……」

 

 また知らないマグルの登場である。薊は菫ほど自分の趣味について饒舌でなく、有名な俳優とその役名である事だけ明かした。

 実を言うと京極夏彦はファンどころか苦手な作家で、菫に勧められてなんとか『姑獲鳥の夏』は読んだものの続く『魍魎の匣』は猟奇的(グロテスク)な場面が多過ぎて断念した。それきりあの作家はダメになってしまったのだ。読者の関心を惹くにしても、ミステリジャンルの作家たちは作法とであると言わんばかりに陰惨なストーリーを好むのか……。

 ハギスを食べ終えた薊はカットオレンジで口直しをする。

 菫はこのあとクィディッチの練習が控えている。興味がなさそうだった割りに猛練習を厭わない理由は察しがつく。負けず嫌いなのだ。勝負事になるとムキになる。

 スーファミの『スーパーマリオカート』もクィディッチも同じなのはどうかと思うが。

 手を抜くよりは万倍マシである。

 

「姉さんはこのあと図書室ですか?」

 

「ああ。今朝はゴタゴタして行けなかった」

 

「何かあったんですか?」

 

 まあ、ちょっと――言葉を濁して切り抜けようとする。

 大した問題ではなかったのだと菫も詮索せずに流した。

 だが。パンジーはニコニコと愉快げに白葡萄のジュースを呷った。

 

「妖精を殴って気絶させたの。信じられる?」

 

「言うなよ。先に手ェ出して来たのはあっちだ」

 

「当然じゃない妖精なんだから」

 

 顔面右ストレートが炸裂するまでの経緯を語り聞かせるつもりはない。

 弁明の余地なく時間の無駄である。面白がるのはパンジーだけで、わざわざ彼女を喜ばせるのも不本意だった。

 

「スプラウト教授から減点された。それで仕舞いだ」

 

 自分でも呆れるようなオチがついた。

 

「どこ行くのよ。練習、見学しないつもり?」

 

「見たってルールが分からねえよ」

 

 興味がないと言い切られてパンジーは戸惑う。

 セオドールの件があったばかりで、また暴力沙汰だ。

 はじめは「薊の目があるから」と思って安心していた。ミリセントに指摘されて「もしや」と思ったが、最近の菫はクィディッチに集中しているらしい。談話室の暖炉前でうたた寝していなければ大広間で自習しているか、そうでなければ図書室に籠もって黴臭そうな文献と戦っている。

 不安の矛先はいまや薊に向いていた。

 表情にこそ出さないが、菫の考えることは分かりやすい。

 対してこの喧嘩早い従姉はというと謎めいている。本心がどこにあるのか分からないのだ。

 

「調べ物、私も手伝うわ」

 

「好きにしろ。閲覧制限図書だぞ」

 

 拒絶されると予想していたら裏切られた。

 閲覧制限、となると許可証を得たのか。それとも自慢の『透明マント』で忍び込むつもりか。校則違反をすると宣言したのなら制止すべきだが、薊はそこについて明言しなかった。

 結局はついて行くしかないのである。

 残ったムール貝を葡萄ジュースで流し込む。

 待つ素振りもなしにスリザリンのテーブルから離れる薊を、パンジーは小走りに追いかけた。

 二人が慌ただしくする様を無表情に見送る。

 豚胃袋のローマ風煮(トリッパ・アッラ・ロマーナ)を頬張りながら、いなくなったあとも出入り口をじっと見詰めていた。

 

 

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