柔和な筆遣いによる『階黑羽』のサインが司書の目に留まる。
蔵書目録を整理中であったイルマ・ピンスは警戒心を露わにする。
提出された許可証を贋作であると考えたようだ。デスクの引き出しから取り出した
贋作であるとの証明を断念した瞬間の目は驚愕を物語っていた。
図書室は完全な沈黙による支配が行き届いている。
この厳格な司書……ホグワーツに遍く在る書物の
事務用の椅子から立ち上がった司書に促され、三人は後を追った。
整然と配置された書架により通路が形成される。
閲覧禁止室と呼ばれた区画は、鉄格子によって閉ざされている。
ありふれた外観の錠前に封じられた扉。その前にイルマ・ピンスが立つ。黒一色に染められた爪で錠前の彫刻を撫でると、無抵抗に封印が解かれた。
どれほど長く封印されていたのだろう。
壁紙と絨毯の変色が著しい。書架そのものが鎖で縛られ、あちら側から漏れ出た空気が無防備な足首へ舌を這わせる。
異界だ。いや、何も変わらぬ。この先も図書室に過ぎぬ。書架がある、書籍があり、閲覧者を待ち侘びているのだ。敷かれた法が異なるなどあり得ぬ。いくら己に言い聞かせてもパンジーの身体は忌避感を訴えて譲らぬ。だが薊たちは何らの感慨もなく踏み入ってしまう。置いて行かれると思い、まだ足は命令に背く。振り返った薊に「どうしたんだ」と声を掛けられ、どうもしていないとようやく気づく。
それで金縛りから脱せられた。
転がり込む勢いで二人へ近寄る。
再び三人組へ戻った背後で鉄格子が閉まる。
「え、ちょっと、これじゃあ……」
「入らせたくねえんだろ」
薊はさらりと言って先頭を行く。
いつも後ろにいる菫とは対称的だ。
あからさまに空気が重い。それはチェストに置かれた人魚の木乃伊であり、ゴブリンの皮膚で作られた仮面であり、ガラス製の標本瓶でたゆたうのは巨大なヒキガエルでなく、骨格が変形した人間の胎児であった。いくつかを薊は観察している。その背中越しに覗き込んでは飛び上がって、パンジーは小さく悲鳴を挙げた。
「なに、なにコレ、どうなってるの」
「ムトージ」
未知の言語が孕む音韻だ。十五年に及ぶ記録と合致しない。張り詰めた弦は過敏に震える。常であれば奏でることのない奇異な音色を放つ。だが、薊は些かなりに弦楽器の扱い方を心得ている。歯を軋ませるパンジーの肩へ手を回しながら喉の奥底から重低音を鳴らす。
「たまに生まれるんだよ。いまは『
「そ、それ、ウソじゃないの。スミレの怪談みたいに」
「違う。オチなんてない、ただの標本に期待し過ぎだ」
境界の向こう岸と触れた指先が脳を揺らす。
世界を認知する『脳』は檻だ。その内側にある『自己』が怯えるのだ。無辺へ融けて消えゆくのを拒み、輪郭を喪失したくないと泣く。ときにこの脳の
失笑を禁じ得ぬ。
こんなものは詭弁だ。
では何故ここにある? 生徒の目に留まらぬ、封印された空間に。
アレはまともではないのだ。狂った由緒のために歪みを獲て、歪みを保ち続けたことで呪いを帯びた。
隔離しなくてはならぬ。
相応しくない者の安寧のために
だが、きっとイルマ・ピンスはあらゆる生徒の立ち入りを想定しない。教授たちの皆が示し合わせ、おそらくダンブルドアも許容しているのだ。だから入室許可証に驚く。
この状況を鑑みれば当然だった。
あまりに危険すぎる。一人では精神が保つまい。
二つの脅威に薊は冷や汗をかいた。片方はこの狂った図書室だが、もう片方や菫が披露したという怪談である。
奥山家の『嗤う婦人画』を語ったのは記憶している。
アレは言うなれば
祖父はそうした品の預かりも受け持っている。
葵家の山は古くより聖域であった。人界の理から逸脱した品を封じるなら山中異界はまったく適う。
薊も何度か祖父に連れられ詣でた。氷室家の『目隠し鬼の面』、深山家の『絹織物』、安蘭寺本尊『黒智爾観世音菩薩』……挙げればキリがない。預かり賃のほとんどは毎週の競馬に費やされているのだからこの噺は類型を与えるなら滑稽話である。
パンジーの震えが鎮まるのを待って階下へ移る。
収蔵物はなるべく見ずにする。閲覧禁止室とはいうものの閲覧用のテーブルと椅子は揃っており、薊は手荷物を適当なところへ置いた。中身は筆記用具である。もし貸し出しを申請すればダンブルドアの耳に入る。『分霊箱』の正体をひた隠しにする以上、妨害のリスクは最小限に留めなくてはなるまい。パンジーに知られるのは予想外だったが……どうにか誤魔化し通せばそれで済む。
「どの本を探すつもり?」
「分からん。どれだろ」
「バカだ、バカがいる。森の中からハ……葉を探すようなモンだぜ」
土曜日にも関わらず制服姿のエルフが嘲笑する。
新緑色の瞳をにんまり歪めて薊を指差した。
「ウルセえぞアホ。黙って手伝え」
「黙れってのは約束してねえんだよバカ」
「手脚動かせアホ。勤労の尊い汗を流しやがれ」
「神聖不可侵な森の美神は汗なんかかかねえぞバカ」
「こんな美神拝むのはベルゼブブくらいだろ」
「『糞山の王』だと言いやがったな!!」
「テメエん家に比べりゃテムズ川も清流だよ!!」
バカとアホの頭を平手で打つ。
「じゃあ聞かせて。見つけたいのはナニ?」
横目でエルフを睨みつける薊が呻く。
「『ホークラックス』って闇の魔術」
「総当たりでいい? 呪文の性質とかは?」
「分から……いや魂に関係ある」
魂と縁深い、闇の魔術。『
急いで捜索を始めたい気持ちを押し堪える。
しばしの沈黙を経てパンジーはゆっくりと瞼を開く。
「どんな魔法だろうと、スネイプ教授へ報告するわ」
後々を考えれば抵抗すべきである。秘密に触れたと知られたなら、ダンブルドアはますます自分と菫を監視する。この城には無数の目と耳があり、その全てがよく回る舌を備えているのだから。行動が筒抜けになるのは好ましくないが……まあ、そのときはそのときで考えるのが最善であろう。いま己一人するよりは持ち帰って菫の意見を聞くべきでもある。
よって薊の返答は「好きにしろ」と、投げやりな形に留まった。
両者が合意に達した。森の
それから何時間を費やす。
書籍という書籍を閲覧席へ運び、片っ端から開く。
文字通りありとあらゆる文献と学術書が積み上がる。
どれも数百年は経ているだろう稀覯書である。パンジーはとても目を通す気になれず、表紙を一瞥したあとエルフに丸投げする。
ルドヴィッヒ・ヴァン・プリン著『デ・ウェルミス・ミステリイス』
中世ラテン語から翻訳された『バヴァリア隠秘学教書』
ピガフェッタ著、挿絵はド・ブロイ兄弟の手になる『コンゴ王国記』
ロジャー・ベーコン著『
ほかにも様々の、金銭で取り引きしようのない稀少な書籍が広がる。中には原語のまま収蔵されているものもあり、そうなると薊はパンジーの助けを借りる。
「ドイツ語はあんまり……えーと、ウーナウスプリッヒェル・クルティン? 自信ないわ」
「一端保留だな。悪い、その右肘のそばにあるのをくれ」
下敷きを挟んだノートへボールペンで記録を付けながら、薊は顔を上げずにパンジーへ話し掛けた。ドイツ語の仰々しい表題を冠した書籍が重い。装丁は真っ黒なのだが、装飾品として金属を採用しているせいでほかに比べても重すぎる。どうにかそれを押し退けて言われた本へ手を伸ばす。
こちらは英語である。表紙には簡素な字体で『The Revelations of GLAAKI』とある。ローマ式表記で『Ⅺ』のナンバリングを付与されている。少なくとも十一巻から構成されているらしい。黙示録、というからにはキリスト教に関連すると思われた。
「おい。邪魔すんなよ」
「コイツはやめとけ。後始末が面倒くせえ」
ピンと立てられた指の先で宙に浮かぶ黙示録。
争奪戦を懸念したパンジーは肩すかしを食らった。
すんなりエルフの制止を聞き入れたのだ。
そのまま別の本を手繰り寄せる。『
「アビゲイル・ウィリアムズ……」
ぼそりと声が漏れた。
「イルヴァーモニーの天文学者?」
珍しく反応を示したパンジーを怪訝な表情で見る。
「なんで知ってんだよ」
バカのくせに――直接の表現は避けられた。
すかさずパンジーは自信満々に口を開く。
「十七世紀の天文学者でもアビゲイル・ウィリアムズは間違いなく天才ね。生まれこそマグルではあるけど、伝説ではイゾルト・セイアの血を引くって……」
「イゾルト・セイア?」
「そこから話さなきゃいけないのね……まず、古い時代のアイルランドには女王モリガンがいて……」
「勘弁してくれ。何千年前のハナシなんだ」
文字列を追い掛ける。『分霊箱』という単語を執拗に探すのである。アイルランドの伝説など語られてもノイズであるから、キッパリと遮った。
「ヒマなんだけど?」
「なら読んで手伝え」
どこから手を付けるのかもすべて丸投げした。
指示が必要な程度ならこの先も頼らない。
いくら菫が好意を寄せていようと別問題だ。白状するなら期待は皆無だった。
狼狽えるだけ狼狽え、苦し紛れに選んだ一冊は酷く劣化が進行していた。そこかしこに変色の痕跡が見受けられ、長く湿気に曝されてきたことを物語る。羊皮紙も灰色掛かって見える。仄暗い水の底から引き揚げられた死体の皮膚を思わせ、恐る恐る触れた指先にじとりと湿った感触が伝わる。
今度は椅子ごと転んだ。
物音に薊の目が反応する。
テーブルの向こうから脚が二本伸びている。
白いハイソックスが眩しい。顔立ちだけなら『パルプ・フィクション』のユア・サーマンや『レオン』のナタリー・ポートマン並みだろうか。だがファッションセンスは出来の悪い『
ふと、ノートが両面埋まっているのに気づく。
手にした筆記用具を置いて一息つく。パンジーを仰天させたのは『Cthat Aquadingen』とあり、間違っても英語による表記ではなかった。軽く文章に目を通すとやはりドイツ語の羅列が地獄の底まで続いているのでそっと閉じる。ひとまず記憶に留めておき、また菫と来たときじっくり確かめるのが現状の最善手だろう。
それはそうと何故本が湿っているのかは詮索を控えた。
散々に書き殴ったメモは乱筆を極める。怒りも萎むほど達筆である担任と同じ言語を使っているとは思えない。しかし収穫はあった。
注目すべき単語をようやく見つけたのだ。
弱々しく起き上がったパンジーを眺め、いそいそと横たわった骨董品の椅子が起されるのを待った。助けて貰えると思っていたらしく不機嫌そうだ。薊は構わず「一つ聞いていいか」と声を掛けた。
タータン柄の赤いケープを羽織り直しながら、パンジーはまた椅子に座った。
「怪我ならないわ。ご心配なく」
「違う。『ネクロノミコン』って言葉、知らないか」
ツンとそっぽを向いたまま口を閉ざす。
それにしては落着きがなく、しきりに脚を組み直し、前髪を整え、ケープに触れる。
しかし薊の態度は冷たい。
構ってほしいパンジーを無視し、集中力の焦点を再び稀覯書へ固定した。
冗談でなく本気の鈍感さを目の当たりにしている。
似ていないとばかり思っていた菫と薊だが、こんなところで共通点に気づくとは思いもしなかった……知ったところで嬉しくも何ともないのが、尚のこと腹立たしい。
小ネタ祭り。