クィディッチ・シーズンの開幕が迫る。
マクゴナガル教授の情熱はますます勢いを増す。
オープン戦のちょうど一週間前になると、グリフィンドールに宿題を出すのを辞めてしまった。練習に専念せよというのである。『厳格』『公正』を具現化した寮監であるが、ことクィディッチに関してはやや平静さを失う傾向が見られる……だが他の寮も似たり寄ったりの措置が講じられているから、実のところホグワーツでは季節の風物詩なのだ。
猛練習で火照った身体へ晩秋の薄ら寒い風が無遠慮に吹きつける。
ドラコ・マルフォイに率いられたスリザリン・チームは急ぎ足に城へ駆け込む。
練習と戦術の一切を担うのである。事実上のキャプテンとして権限を握っているものの、
ユニフォームから制服へ着替えても疲労の色が濃い。
当のキャプテンだけは汗の一滴どころか火照りもしない。
肉体的には屍であるから、これは当然だった。
しかし不気味だ。
女子選手たちを見送ったドラコは苦々しく言う。
「本気で優勝するつもりか」
振り返りもせず菫は「当然です」と返す。
「負けてどうするんです。勝たないと意味がないでしょう?」
「……ビーターはクラッブとゴイルを選ぶべきだった」
「バランス悪いでしょう。そこだけスタミナがあっても」
闇雲に相手へブラッジャーを撃ち込むだけで勝てるワケではない。
無論、ドラコも重々承知している。持久力と馬鹿力で抜きん出ようと、リーナ・クラーマーとミーシャ・タコヴシュカのコンビほど臨機応変に動けないと判断したのは正しい。問題は正論を正論として受け入れられないのがビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルなのだ。
「ロングボトムの件、アザミには感謝してる」
「なんであんな事を言ったんです。ネビルが怒るのも当然です」
妙なところで倫理観が真っ当だから言葉に詰まる。
「ネビルが怒ったのは私も驚きましたけど。そんな印象なかったのになあ」
入学以来『小肥りで迂闊な男子』というレッテルは継続中だ。
それを揶揄すれば庇う声はあっても否定する者はいないだろう。
あるいはグリフィンドールと交流があった菫ならば別の側面を見出しているかと思ったが、それとて受動的なものに過ぎなかったと思い出す。二年生当時はハリーたちのみならずパチル姉妹やシェーマス辺りとも話している場面を目にしたけれど……『継承者』と指を差された事を根に持っていると想像するのは容易だった。記憶しているのが己だけなので余計に腹立たしくなるのだ。
菫の関心がネビルへ向けられることはなかった。
一歩、二歩と華奢な身体が遠ざかっていく。
黒々とした大蛇を思わせる。ゆうらゆうらと黒髪が宙を這う。赤々とした校舎は日没とともに色彩を失い、インク壺から溢れ出るように廊下の奥から
「そうだ。言い忘れていました」
物憂げな目だけがまだ夕焼けの色を残していた。
「友達にする相手は、よく考えて選びなさい」
石で囲まれた廊下に声が反響する。
心臓に刃物が突き立てられる思いがした。
誰を指し示すのか明言はない。思い浮かぶ顔は数える程だった。菫の否定した友情が
――親友を失ったとき、自分には何も残らないのではないか
不意に過った想像。脳裏で反論を繰り返そうとも自己否定しきれないのは、自己の無意識の奥底に蓄積された実感があるからだ。
フンフンと鼻唄を鳴らしながら菫は校舎の奥へ去っていく。
――I see the gilrs wark by
――Dress in there summer clothes
――I have to turn my head
――Until my darkness goes
それは、聞き覚えのある『THE ROLLING STONES』の曲だった。
†
談話室へ戻るか悩むうち城を彷徨っていた。
夕食目当てに大広間へ赴くのも虚しい。
この身体は鮮血でなくては満たされぬ。いつか忘れ去るであろう人間の味覚を、一日でも長く引き留めたい一心から人間の食事を模倣する。
すべては未練だ。自覚するほどに虚しい。
寒々とした夜空の下を彷徨う。
もう半月もすれば冬になる。夜空も澄み切って綺麗だろう。
どうせ眺めるなら実家の縁側が良かった。
庭の花壇の手入れも、何年もおざなりになっている。ブーゲンビリアはこの夏も見事に咲いてくれたが……夏休みの一時しか世話してやれないのがもの悲しい。
庭弄りは好きだった。アブラムシなどの害虫に目を光らせ、土の湿り具合や歯の色合いに気を配る。薬草畑も昔ほどには儲からぬと祖父の代で縮小したという。銭を生めば人を雇えもするが実のならぬ木は重宝されぬのが商売である。某かの草木を
郷里で見知った顔はみな年老いている。どこへ行っても年輪の如く肌にしわを刻んだ者ばかりで、学生をやっている者の数はたかが知れる。
不意に底冷えする夜風が頬を撫でた。脳裏の情景と視界が混じり合っていた状態が切断される。現実へ引き戻された視界はガラス張りの温室棟へ迫っていた。薬草学の授業で何度も通った施設であるから目新しさはない。スプラウト教授が毎朝毎晩、懇切丁寧に世話をしている。扱っている植物がどれも外界では高値で取り引きされると生徒は知らぬように思う。
マンドレイクなど最たるものだ……大量生産には不向きである。土壌の相性から言えばブリテン島はむしろ好都合なのだが、あの
不通状態の回路に電気が通った――ほんの一瞬の閃きによる、天啓であった。
一九四三年当時の……まだ学生身分であったトム・マールヴォロ・リドルは、世間的に言えば美青年の類いだった。日記帳の記憶が見せた過去ではある。アレがどのような仕組みで稼働する魔法であるにせよ、ジニー・ウィーズリーの魂を食らって物質化しつつあったあの若きヴォルデモートは蛇顔ではなかった。少し野暮ったいが若い頃のデヴィッド・ボウイと同じ、
翻って現在の記憶を漁る。
真っ直ぐな鼻筋は抉れ、素っ気ない縦穴が並んでいる。肉厚の唇も萎んでしまっていた。豊かなダークブラウンの頭髪は一本たりとも残っていなかったし、どころか眉毛すら完全に禿げ上がっていた。極めつけに血色のいい肌も石膏を塗り固めたように色褪せていた。どんな魔法を使えばあそこまで変貌出来るのだろう……あの豹変ぶりも『分霊箱』の副作用なのだとすると、よほど心身に重大な負荷が生じる呪文の可能性もある……。
それも可能性の一つに過ぎない。
何重にも防護の術を施していただろう。
術同士の干渉が原因かもしれぬ。さらに言えば探求の代償とてあり得る。
あとで薊に報せておけばよい。
情報だけ共有して、まずは『分霊箱』の調査に専念するのだ。
堂々巡りに陥るまいと意識を現実へと引き戻す。
再び視界が正しく外界を認識したとき、温室のそばを見知った顔が徘徊していた。
「あの。何か捜し物ですか?」
しきりに三号温室の中を覗くエルフへ声を掛けた。
薊と一悶着あり、和解していまに至る。
スプラウト教授の裁定らしいが菫の知った事ではない。
紫色の
「イイとこに来たな。ちょっとあの中に入れてくんね?」
「構いませんけど……どうしたんですか?」
「ヤニが切れた」
ああ、と短い声が漏れた。実家も喫煙者が多い。まず祖父母から愛煙家であり、実の母もヘビースモーカーである。あの匂いに鼻が馴染んでしまっているから不快感を覚えた事がない。煙草を切らした状況がどれだけ喫煙者にとって深刻か、経験は一度もないながら家族の様子を知識として蓄えている。だから「助けてあげよう」という結論に到達したのだ。
温室の扉は施錠されていない。
ドアノブをひねればするりと開く。
「どうぞ」
「悪いな」
見たところ危険な植物はない。エルフは手際よくエチオピア産『萎び無花果』の若い葉を毟る。果汁は傷薬から胃薬、整腸剤、解熱剤から冷え症、神経痛、惚れ薬と様々の魔法薬の原材料として用いられる。しかし葉っぱに薬効はあったろうか。
「その葉でどうするんですか?」
「乾燥させて、刻んで、巻くんだよ」
「へえ。
三番目の従兄……の交際相手がよく吸っている。
フィルターを軸に、薄いペーパーで刻んだ煙草葉をくるくると巻くのだ。面白くて眺めていた事が何度かある。
「吸った事はないです。親戚が好きで」
「大丈夫かソイツ。ピンクの象と二元論的哲学思考批判してねえ?」
「え、ピンクの……二元……何ですかそれ」
「モクやりすぎた魔法使いは決まって『爬虫類人との全面戦争が迫ってる』だの『超古代文明は宇宙人がいた痕跡』とか言うからな」
「それ酔っ払ってただけじゃないんですか」
蒼白い顔に困惑が浮かぶ。爬虫類人なんて言葉、初耳であった。
「アイツら煙草やるのが下手なんだ。上手くすれば空中浮遊してイイ感じなのに」
そう言えば一時期、テレビや雑誌で「修行すれば空中浮遊出来る」と主張する変な団体がいた記憶がある。胡座の姿勢で宙に浮かんでいるのだ。アレも魔法使いなのだろうとずっと思っていたが最近どうやら違うと分かった。魔法使いのようにおかしな連中はどこにでもいるらしい……エルフまでそうだとは予想外であった。
必要な分を揃え終わったエルフは「ありがとな」と言った。
乾いた声音もどことなく母親に似ているので、ますます胸が締め付けられる。
「いえ、このくらい何でもないので」
エルフは腰のポーチから陶器の瓶を取り出した。
ドアを開けただけだから、と言う菫へ投げ渡す。
「やるよ。貸し借りなしだかんな」
「また本探しを手伝って貰えた方が……」
「ヤダ。面倒クセえ」
彼女の手助けは二回で終わってしまった。
どういう経緯なのかはさておき。不思議な価値観である。
「自家製。ありがたく味わえ」
「あ、ありがとうございます……」
とりあえず礼を伝えておく。
用が済んだエルフは先に温室を出た。
夜闇の中にも金髪が光り輝いて見える。
物理とか科学の領域の外にいるのだ。妖精なのだから、それが当然だ。
しかし腰に手を当てて背筋を逸らせる様は人間臭い。
「あ~これでしばらくヒマせずに済むぜ」
「退屈なんですか?」
「たりめえだろ。ケンタウロス相手に貨幣経済の授業でもしろってか?」
「いるんですかケンタウロス」
そっちの方が驚きだった。ギリシャじゃなくてイギリスにいるのも衝撃的だ。
こんな寒いばかりの土地では凍え死にしないだろうか。
「ミノタウロスじゃねえんだぞ」
「そっちはいないんですね」
「いや昔はいた。駆除されたかんなアイツら」
「ああ……」
ミノタウロスの
焼き肉も脂のせいで量は入らないが、網の上で火炙りにされる肉を眺めるのは好きだ。
自分が取らなくても従兄たちがどんどん処理してくれるので助かる。
「このまま行けばもっとヒマになっちまう。ケンタウロスども、森から追い出されそうなんだよな」
アイツらを揶揄うのと煙草が唯一の楽しみなのだと言う。
「何かトラブルでもあったんですか? あの森、生徒は入りませんよね」
「役人が居住区どうこう言ってたな。暇なのか連中」
「いきなりですけど、仕方ないと思います」
「貴重な愉しみ奪うなよ。女神がキレるぞ」
「また戦争になりますからね。中立は嫌われますよ」
「飽きねえな」
肩を鳴らしながらエルフはさらりと流した。
種族が異なれば視点も異なるのだろう。
「オマエらが探してんのもその口か?」
瞳の透き通った若草色が菫を見詰める。
二年前なら「違う」と断言出来たが、正直分からない。『死なず』の探求は好奇心から始まった。いまやヴォルデモートの不死の絡繰りを暴く行為はそのまま彼との敵対を意味する。戦争に首を突っ込む気なのだからそれ自体は想定の範囲だが、果たして戦争の趨勢にどこまで与えるかなんて想像すら出来ない。
自然、答えは「分からない」という曖昧なものになった。
いくら言葉を尽くしても結論はそこに終始するのだ。
「『分霊箱』なんて作ってもしょうがねえぞ」
「どうして?」
「アレ、不死の呪文じゃねえもん。オマエもう死なないだろ」
指摘されると、また現実に嫌気が差す。
「…………それは、まあ、吸血鬼ですし」
自分が怪物になった現実が忌まわしい。
このエルフは生まれながらに妖精だ。
人のように振る舞わずとも、それが正しい。
では自分はどちらになるのか。生まれは人間であったのに、こうして人でないモノへ転落した。いくら理性で本能を縛りつけたって食わねば死ぬのが自然である。だったらそのとき自分は大人しく飢え死にすればよいのか……犬であれなんであれ、人間は人間に害をなすモノを排除せずにおれぬ。家畜として奉仕するならよし。愛玩動物として侍るもよし。しかし害なすモノと認められれば、容赦しない。ただ生き永らえるためだけに人間の血が必要な自分も、そうならないとは限らない。
思い詰め、感情の凝縮されていく様をエルフはただ見ていた。
葛藤も苦悩もすべて人の営みである。
それはごく自然な、摂理に則った現象である。
救うという発想そのものが誤りなのだ。だからこの少女は誰にも救えぬ。自身ですら救えぬのならば、第三者が手を施すなど無意味だ。
森の奥深くから吹く風に二人の髪が弄ばれた。
目を伏せるうち、いやに長い風が止んだ。
両手に持った酒瓶へ目をやる。
栓抜きなどない。親指で力任せに押し込めた。
果実酒に木栓が落ちるのも構わぬ。
封印を解かれた瓶を唇に当て、中身を胃へ流し込む。
熟れた果実の甘さが鼻腔へ充満する。
同時に舌から喉粘膜へ流れ込み、焼けるような刺激ばかりが味覚に残る。腹の奥底で炎が灯る感覚を、全身で味わう。
口元の果実酒をローブで拭うと少し、現実から逃れられた気がした。
「オレにも一口くれ」
陶器の酒瓶が無抵抗にエルフの手へ渡る。
ちゃぷりと鳴らしつつ自家製の酒を呷った。
一口と言いながら二口、三口と遠慮を知らぬ。強い酒精を身体へ注ぎ込む。
息継ぎに瓶を下ろすと「ふう」と心地よい吐息を溢した。
「また欲しけりゃやるよ」
空になった小瓶をポーチへ押し込め、エルフは森へ去って行く。
真っ暗闇の中に輪郭だけで存在する『禁じられた森』を見下ろしながら、菫は小さく手を振った。
しばらく一人になりたい気持ちを慰めつつ城へ引き返す。
蝋燭の灯す照明が廊下を照らしている。こんなところにいては風邪を引く。吸血鬼が病気になるのかなんて知らないけれど、ともかく談話室へ戻るつもりで石造りの校舎へ進んだ。
まだ食事中の生徒ばかりで閑散としているはず。
暖炉前のテーブルで防衛術のレポート課題をしよう――そんな風に思った矢先、声がした。
「変わった知り合いだけど、あれ……誰」
消え入りそうな、けれど鼓膜を震わせる、囁き声。
伏し目がちな琥珀色の瞳を見開いたダフネ・グリーングラスが、廊下の真ん中に立っていた。
「姉さんの知り合い……私も詳しく知らなくて」
飲酒を見られてしまった。閲覧禁止室に入り浸っている事実よりずっと深刻に感じたのは、やはり菫がズレているせいだ。
エルフとの関係は誤魔化す余地もない。
裏取りをされても、事実その通りである。薊自身が説明を拒んだのだから菫には知りようがない事柄だった。ダフネは「そう」と頷く。あの妖精との関係について追求を免れたと安堵した菫へ、次の脅威が迫る。
「なんで『分霊箱』を探してるのか、教えてくれる?」
ダフネは忘却呪文の存在を知っている。
否、姿がなくとも、自分を監視する目があるだろう。
この場を誤魔化しても隠蔽しきれない……菫は杖を取らず、困ったように微笑んだ。
「ここは冷えます。もっと温かいところで」
談話室以上に安全な場所など二つに一つだ。
しかし、どちらにすべきか悩ましい。
煩悶する菫を余所にダフネはまばたき一つなく、仁王立ちを貫いた。