ダフネ・グリーングラスの眼に感情が宿っている。
物静かで自制的、凪いだ印象ばかりの少女には珍しい。
謎めいた不死の絡繰り『分霊箱』がそれほど気になる。
膝を揃え背筋を伸ばす。これほど行儀のよいお嬢様が何故、深い領域にあるだろう闇の魔術を知っているのか。好奇心を刺激される。「知りたい」という感情を抱くことが稀である菫でさえ興味を惹かれてしまう。
薄い唇を微かに震わせるか細い声だった。
「どうして知ってるの」
問い質され、菫は嘘偽りなく答える。
「オーストリアを旅行したとき、祖父から」
グリンデルバルドへ語った経緯も、ハリーが『分霊箱』である事実も、伏せた。
敢えてダフネに告げるメリットが皆無である。
「ほんの好奇心です」
すべて本当だ。隠し事はあっても嘘はない。
「とても邪悪な……闇の魔術だとしても?」
「知る事と実践する事は違うと思います」
その言葉にダフネは少し安堵を覚えた。
まさか『忘却呪文』と『悪霊の火』に『分霊箱』まで習得するつもりかと、恐怖心すら抱いていたのだ。そうでないと分かり緊張が弛緩した。
菫は怒りがある一線を越えると
だが間もなく、安堵は消えた。窒息するような感覚に陥る。
自分は『分霊箱』の実態を知って、引き下がれなかった。
これまでの、反純血主義と反マグル主義の対立軸以上に苦しい。
「……あの呪文は、人を殺す。それでも知りたい?」
故意の殺人という論の是非に及ばぬ禁忌を犯す。
罪深さの故に術者の魂は引き裂かれ、分離した
極めて邪悪かつ冒涜的な性質を有する。ダフネはあの魔女のために知ってしまった。限りなく永遠に近しい存在となれるのならば、そう思ってしまったのだ。
だから出来れば――
「ええ。是非」
――やはりそうか。
耐えきれなかった。
一人で抱え込むには、重すぎた。
蓄積した感情が溶け出す。
「魂の一部を、何かに隠すの」
「このカップとか?」
秘密の会合に『必要の部屋』ほど相応しい場所はない。
暖炉のそばに設けられたテーブルとソファ。底冷えする十月下旬には嬉しい温もりである。部屋が用意してくれた安っぽい味のミルクティーとショートブレッドをつまみ、胃袋を軽く満たしてやった。菫は空のティーカップを示して尋ねた。ダフネは頷いて認める。
「魂を封じ込めるモノは何でもいい。カップでも、このソファでも。あなたでも」
「私?」
「理論上、呪文の対象は制限がない。人間だって……」
菫の中でようやく辻褄が合う。夏休み終盤、ヌルメンガードで聞いた「ハリーも『分霊箱』だ」という言葉の意味をいま理解出来た。切り離されたヴォルデモートの魂があるのなら二人の運命は一蓮托生、片方だけが存在する事はあり得ない。生存も破滅も不可分であるなら納得がいく。
菫は思考する。ダフネの存在は意識から消える。
ダンブルドアはどこまで知っているのだろう……闇の帝王を完全に葬るならばハリー・ポッターの死が不可欠となるが、全て把握した上であの態度ならば薄気味悪さすら覚える。
身震いする菫に気づいたダフネが頬を指でつまむ。
ひやりとする体温にもちもちとした感触。少し面白い。
「イタイイタイ」
「聞いてる?」
「聞いてませんでした」
脱線した話題は軌道修正される。
乱れたスカートを整え、ダフネは居住まいを正す。
暖炉に焚べられた薪が燃える。ゆらめく炎が二人の顔に投じる影は絶え間なく変化し、次々と異なる輪郭を描く。
「…………もし、もしも。仮の話として聞いて」
いやに念押しする。菫は深く考えず「はい」と応じた。
「もしスミレが『分霊箱』を作るとしたら……どうしてもそうせざるを得ない状況で、仕方なくやるとしたら……誰を選ぶ?」
「生贄に、ですか?」
緊張に汗が滲む。額からいつ滴り落ちるかと怯える。
対する菫は自宅にいるときと大差ない、朴訥とした田舎娘の顔で「うーん」と腕を組んだ。あの寂れきった町、というより村に毛が生えた程度の土地で育った彼女の素顔だった。屋敷の外に
箱庭のような世界なのである。
箱入り娘というのも、あながち不適当ではないように思えた。
「まず生徒はダメですよね。学校も保護者に対して説明しないとですから。本気で真相究明に乗り出して来ます」
明らかに『嘆きのマートル』を意識している。
トム・リドルの失敗を踏まえ、慎重に殺人計画を練る。
「もし直接手を下さなくていいなら……誰か他の人を使いますね。どんな手を使うかは置いてくとして。呪文よりは魔法薬で洗脳してしまうのが一番いい。材料の調達さえクリアしてしまえばどうとでもなる」
張り巡らせる糸は重ねるだけ重ねる。どれだけ複雑怪奇な構造に見えようとすべての糸は中心に行き着く仕掛けだ。全ての事象は独立しているように見せかけ、真相へ辿り着こうとしても方向感覚の惑いによりいつまでも彷徨う事になる。そうして中心に陣取る菫だけが獲物の位置を把握出来る。後はそれぞれが藻掻き、惑い、力尽きて糸に絡め取られるのを待つのだ。
これでは蜘蛛の巣だ。
「余所者が一番いい。誰からも嫌われて、信頼されていない人」
蝶は羽が目立っていけない。
華やかな鱗粉を厭う、秘密主義の蜘蛛だ。
「アンブリッジなら、事故で処理出来る」
「魔法省の大物……ナンバーツーなのに?」
「事故でないとダンブルドアは立場が危うい」
菫はじっと暖炉の炎へ見入った。無機質な目の奥で薪が燃える。
「やるなら、生徒が使う手段ではダメです。ええと……何でしたっけ、犯罪道具屋さん?」
「ゾンコの悪戯専門店。全然違う」
「同じですよ。死人が出ないだけで。ともかくそこの道具は避ける。ロンのお兄さんたちの発明品もダメ。どうせ尋問で口を割る生徒が出る。信用出来ない生徒をリストアップして残らず『服従の呪文』で操り人形にするなんて、効率が悪すぎる」
姿勢を崩し、肘掛けの助けを借りて頬杖をつく。
他人への無関心と冷淡さもまた葵菫の一面である。
時折、多重人格を疑いたくなるほどに極端な二面性を示す。
ダフネ自身を含めた同級生の女子三人。寮は異なるが和解したアーニー・マクミラン。互いに惹かれあったフラー・デラクール。そして
知らぬ者にしてみれば豹変とも当てつけとも取れる。
だが彼女の中ではすべて一貫している。こうして架空の犯罪計画に興じるのも、ただミステリーやサスペンス好きとしての性質に依るのだろう。寝室でパンジーやミリセントが好奇心から読書中のところへ割って入るが、菫の愛読書はいつだって陰惨で、想像を絶するような猟奇的殺人事件が起きるのだ。そうでなければ宇宙人だの太古の邪神だの、荒唐無稽な世界観の怪奇小説である。
薊が一切興味を示さないのも分かる。悪趣味だ。
「手っ取り早くスリザリンの生徒にやらせるのが良いでしょうか。身内を犠牲にすまいという先入観を利用できますが、グリフィンドールに濡れ衣を着せるなんて誰でも考えつく……」
「そこまで本気で? アンブリッジに恨みでもあるの?」
「ありませんけど。でも、楽しくありませんか? 事件のトリックを考えるのがミステリで一番盛り上がるシーンじゃないですか」
「私、ミステリーやサスペンスにそこまで興味ない。小さい頃から旅行記や冒険記を読むのが好きで……」
「でしたら、ラヴクラフトの『家の中の絵』とか」
「それ。死人は出ないんでしょうね」
本気で敬遠されていると分かり菫は萎れた。
それまでの爛漫とした笑顔から急降下して落ち込まれると、当然の反応をとったつもりが申し訳なさを覚える。
「ダフネも興味本位じゃないですか……」
違う。そうではないと、言うべきなのだが。唇が重い。
視線を逸らした先ではやはり暖炉の炎が燃えていた。
「……一緒にしないで」
振り絞った声が吐き捨てられる。
これが薊相手なら、すぐに本音を悟ってくれただろう。彼女は聡い。あるいは感覚が近いから共感してくれる。
菫とは真逆だ。
「でも、ダフネも作り方は知らないのでしょう?」
「もちろん。知ってたらとっくに」
きょとん――そんな表現が、これ以上なく似合う。
物憂げな目をぱっちりと開いて視線をダフネへ向ける。
「『分霊箱』、作るつもりなんですか?」
もちろん尋ねられるのは予想していた。
「私個人のためじゃない。妹のため」
「妹?」
「身体が弱いの。ホグワーツじゃなくて、家庭学習中」
アストリアという名前の、二つ離れた妹だという。
生まれついて病弱なため両親も泣く泣く入学を避けた。
「私はまだ丈夫な方だったから。けど、あの子は……」
ホグワーツへ入学すれば自動的に寮生活となる。
医務室はあるが万全ではない。慣れない学校生活は間違いなく体調に障る。そのせいでほぼ終日を病床で過ごすなら、いっそ
アストリアは屋敷の外を知らぬまま十三歳を迎えた。
移ろいゆく季節とは窓の向こうに広がる景色の変遷でしかなく、日々口にする料理とその材料により区別され、吹き抜ける風の感触や夏の日射し、降り積もる雪の冷たさを知らないでいる。
己の無力さに耐えられない。罪悪感すら抱く。
「私には幼馴染がいる。いまどう思われているかは知らないけれど……でも、本当に一人ぼっちじゃあない。アストリアは文通相手の顔も知らない。会ったこともない友達はみんなホグワーツに通って、学校生活の事を報せてくるの」
姉として側にいるどころか、自分自身すらホグワーツに通っている。
「クリスマスや夏休みで実家に帰るとね。アストリアは学校での話をして欲しいってせがむのよ。見ず知らずの世界の事を知りたいって……あの子だって本当なら通えたはず。もう少し、あとほんの少し、身体が丈夫だったら友達と出会えたはず」
なだらかな口調が揺らぎ始める。
目に見えてダフネは平静を欠いていた。
「代われるものなら代わりたい。あんまりにも辛い……私とあの子が逆だったならどれだけ良かったか。ワガママ一つ言わず静かに暮らして、みんなが困るのを分かってるから我慢してるの。いくら言ったって許されるのに、我慢ばかり覚えて……」
これほどダフネが感情を露わにしたのは菫の記憶にない。
ほとんどの場合、押し殺した上で胸の奥に仕舞い込んでいる。
それが泣き崩れそうなほど動揺を見せている。
「もし私の寿命が一年や二年縮む程度でアストリアがホグワーツへ通えるなら、それでもいいと思ったの。クィディッチが出来なくたって、ホグズミードへ行けなくたって、一日ずっと家の中にいるのに比べればずっと幸せだから」
せめて仮初めでもいい。
不老不死の業が欲しかった。
このホグワーツで最も不死に近い階黑羽に縋った。防衛術教授は「否」と断じたという。自らが修めた秘術ではダフネが望む結果を得られぬ、だがあの大鴉は一つの抜け道を示した。それが『分霊箱』であったのだ。
「これも
菫はもう瞬きすら忘れてしまっていた。
「私が『分霊箱』を作ろうとしたら、あなた……止める?」
固く握り締められた拳が白く変色する。
小刻みに震える両手を素知らぬ風に、ダフネは視線を上げた。
視線が重なる。死者の目というのは虚のようである。底なしの虚が無限に光を吸い込む。
開ききった瞳孔の奥底には何も見えない。
不可視の領域でどのような処理が行なわれたのか知れぬ。
「ダフネさえ良ければ、お手伝いさせてください」
穏やかそのものな声音で優しく応じられた。
ただ、握り拳を包み込む手が体温を奪い去った。