ネビルの杖先から強烈な閃光が迸る。
雷撃が魔法仕掛けのブリキ人形を貫く。
胴体に描かれた円形の的に直撃した。
その証拠に等身大の闇の魔法使いを模した人形は、大袈裟に数回、右回りによろめいたあと地面へ倒れた。
静寂を歓声が引き裂く。大歓声である。『武装解除呪文』を完全習得した現実にネビル自身も驚いている。駆け寄った生徒が好き好きに祝福する様を菫だけ暖炉前に佇んで眺めていた。薊すら――周囲よりは数段落ち着いているが――祝辞を伝えに行った。
大きな輪の外で炎の熱に身体を温める。
だが心の底はいつまでも冷たいままだった。
ネビルの実力をみな軽んじていたのだ。だからたかだか基礎呪文の一つに一喜一憂し、あんな風に騒ぎ立てる。ピーター・ペティグリューも……彼がまだ学生で、ワームテールと呼ばれていた頃、かつて親友だった三人は――否。
ワームテールを取り囲む誰も彼もから軽んじられたのだろう。
十二人を呪文一つで瞬時に粉微塵に出来る実力者なのである。
どころか、学生の身でありながら独学で『動物もどき』になれる。
流され易いのに魔法族もマグルもないという事か。
絹漉し豆腐よりも芯がなく、ところてんのように掴み所に欠く。
これが自分の食糧である。
吸魂鬼たちの獲物である。
そう思うと情け無くて悲しくなった。
鬱々とした気持ちを慰めるように、暖炉の薪が燃えている。
泣きたくても涙が枯れてしまった。
残ったのは溜め息だけ。深々と吐き出しても、何も変わらない。寒さも虚しさも全てが重さを増したようにすら感じる。
手持ち無沙汰を誤魔化して火かき棒を取る。燃え尽きて白くなった薪を脇に除け、まだ新しい薪への風通しを良くしてやる。大喝采が落ち着く頃には解散時刻が迫りつつあった。アンブリッジによる恣意的な、つまりはスナイプ以上にスリザリンを擁護しグリフィンドールを敵視する方針を警戒して、ハリーは三十分前には必ず撤収を始める。
クリービー兄弟から順番に送り出されていく。
監督生の大半がアンブリッジに反発していようと用心すべきだ。密告者の影はそこかしこに潜み、絶え間なく隙を伺っている。ハリーの警戒心は高まっている。歓迎すべきであろうが、原動力がクィディッチを奪われた事への怒りだと分かっているので手放しに喜べないのが周囲の心情だった。
最後に残った
もしくは首謀者と言い換えてもいい。
含まれる意味合いに大きく隔たりはない。
感動の余韻に浸りながらロンが機嫌よく言った。
「次の呪文はどうする? 『浮遊呪文』とか『衝撃呪文』あたりの軽いところからがいいと思うんだけど、ハリーはどう思う?」
緊張した空気がたちまち弛緩する。どう声を掛けるべきか、みな言葉に悩んでいた。特にハリーと接点の少ない面々は安堵の顔すら浮かべるほどだった。
「ああ……うん、ロンの言う通り一年生で習う範囲からやるのが良さそうだ。上級生にとっては退屈かもしれないけど、これが復習の機会になるだろうから……いい案だ」
「だろ? 僕らはクィレルに教われたからまだいいけどさ、四年生なんていきなりあのロックハートだったからね。リカバリーが必要なんじゃないかってずっと思ってたんだ」
そう考えると
「ペテン師ですよ」
菫の素っ気ない答えが全てだった。
チョウでさえ弁護の余地を見出せない。
「酷かった。本当に酷かった」
「マジか……」
あらゆる感情を圧縮した声に薊も絶句する。
そんな人物と学生時代に親交があったバブリングはどうなるのだろう。
ペテン師どころか、当時の最優秀であってもおかしくないのだが。あの教授も謎が多い。
「しっかし、もっと人数を絞れば良かったな。この調子じゃどこかで漏れるぞ」
暖炉に近いソファへ腰掛けながら薊が自嘲する。
「ご心配なく。もし第三者にこの集会の事を話したら呪いが掛かる仕掛けになってるわ」
「へえ。名前に呪いでも掛けたのか? 条件付きって事は、相当キツいのになるだろ」
「もちろん一目で密告者だと分かるようにしてあるわ。エロイーズ・ミジョンのニキビより悲惨になる事は保証する」
ハーマイオニーは自信があるようだ。いま現在、参加者リストを管理しているのは彼女である。少なくとも徒に悪用する事はあるまい。ルームメイトたちも参加しているから軽率に漏洩するリスクも限りなく低い。薊が持つよりずっと安心出来る。
それでも参加者が多過ぎるという意見にはみな同感だった。
情報がどこから漏れるか分かったものではない。
とりわけザカリアス・スミスは、ドラコでさえ警戒心を抱かずにいられない相手だ。
「スミスは信用出来るのか? マクミランとフレッチリーの友人らしいが……放置しておくには不安が大きい」
「それじゃあ聖マンゴからロックハートを呼び戻して『忘却呪文』でもやってもらうって? バカな事言うなよマルフォイ。記憶がスッポリ抜けてたら誰だっておかしいと思うに決まってる」
「誰が『忘却呪文』を前提にしたんだウィーズリー。アレはそんな便利なモノじゃない、魔法省が専門職の忘却術師を拡充するのにどれほど心血を注いでいるか、知らないではないだろう。僕が提案したのはヤツを監視するならだな……」
「それこそ出来っこないだろう? ここにいるのは、つまり『ダンブルドア軍団』を計画したのは――
大きな咳払いが、ロンの長台詞を遮った。暖炉前でこちらに背を向ける菫が発したのだ。非公式名称としても『ダンブルドア』を冠する組織は嫌なようだ。薊もすぐさまフォローへ回る。
「ダンブルドア校長はそれでなくとも立場が悪いんだ。本人も預かり知らない違法な学生団体の関係者にするのは不味い。もし『ダンブルドア軍団』の名前が魔法省に知られたらどうなるか、考えてみろ」
理論的な言説で念入りに包装された感情論である。
建前である。だが建前として形を整えられた事で、ロンなりに反対意見を飲み込む事が出来た。
対立する意見をハーマイオニーが仲裁する。
もちろん平和的な議論によってである。
「ただ『アイツは怪しい』という理由だけで疑い始めたらキリがなくなるわ」
「毎回毎回『
同じく薊も冗談めかして賛成する。
グリフィンドールとスリザリン双方から同じ反対意見が出る。
それぞれ現実的な主張である。問題はロンとドラコの感情にある。
反純血主義によるスリザリンへの嫌悪感と、反マグル主義によるグリフィンドールへの不快感、これを常に妥協させなくてはならない。ハーマイオニーと薊にとって『防衛協会』での話し合いはいつだっておそろしく神経を磨り減らせる。
薊の発言の真意は参加者の特定個人を非難するものでなかった。
申し訳なさそうに――普段の苛立った表情からは想像出来ないが、実にしおらしく肩を落としているのだ――ハリーへ頭を下げた。
「ポッター、こないだは悪かった。悪気はあったよあの大渋滞だったし。けどまさかアンブリッジが出しゃばってくるとは思わなくて……本当にゴメン」
「あのキックで目が覚めたから気にしてないよ。誕生日プレゼントに興奮した『ビッグ・D』のパンチより数倍痛かったけどね」
「よっぽどチビなんだろダドリーが。でなきゃ説明がつかねえ」
「パパが言うには
「大正解だロン。僕が教授だったらグリフィンドールに百点だ」
声を挙げて笑い合う男子二人。女性陣とドラコは閉口する。
正方形の大きなクッションに沈みながらロンは爆笑している。
それを無視してハーマイオニーは薊とチョウへ話題を振った。
「エディ・カーマイケルが『バルッフィオの脳活性薬』を一瓶十二ガリオンで売ってるんだけど、アレって本物だと思う?」
「贋物に決まってるわ。あの魔法薬をちゃんと調合しようと思ったら十二ガリオンじゃ赤字になるもの。私、以前スネイプ教授の『魔法薬倶楽部』で試しに計算したらどれだけ薄く作っても小瓶一本で三十ガリオンは必要だった」
「学生の財布で量産出来るわけがねえよ。そりゃ間違いなく贋物だ。アレだろ、どうせ味も別モンの絵の具で着色した水道水だぜ」
「じゃあ今度見つけたら全部没収しないとね。彼、五年生をターゲットにフクロウ試験で九科目も『優』判定を取れたのはあの薬のおかげだって言って、必死に宣伝してるのよ……いまは誰も買ってないけどそのうち気の迷いで手を出す生徒が出て来そうで……」
「詐欺師の才能磨いてどうすんだろうな」
「珍しくないとは思うけれど。良くはないわね」
チョウの感想は溜息混じりだった。
良くないどころか、悪いだろう――薊は冷やかしにしか聞こえない呟きを圧し堪え、腕時計の時刻を確かめる。
お開きにするには良い時間である。
それにいい加減、空腹だった。
†
大粒のムール貝も、羊肉の骨付きステーキも、魅力を感じない。
豪華な晩餐を前にしてハリーの食欲は完全に萎えてしまっていた。
ダドリーだって旅先でこれ程の料理を食べた事はないだろう。
人生で経験した事のない美味しさだった。それは今も変わらない。
食欲不振の理由は分かっている。
原因は身体ではなく心にある。
シリウスの事が不安で不安で、とても食事を摂るような気分になれない。
コップの水を軽く舐めたきり大広間を飛び出してしまった。
ロンとハーマイオニーになんと言い訳したのか、今し方の事なのに記憶が曖昧だ。いま自分の目にいている光景が現実のホグワーツなのか不安感が見せる幻なのか、それさえ判断を付けられなくなっている。夢遊病を患っているような厭な浮遊感に苛まれる。
もしかするとこれは悪い夢なのだろうか。
ある瞬間、唐突に目覚めると
誕生日プレゼントに大興奮したダドリーが床板を踏み抜く勢いで跳びはねている。
山のように積み上げられた新品のオモチャ。何十個もある全てがダドリーのモノだ。
自分はプリベット通り四番地にいる間、一度だって、お下がりさえ貰えなかった。ダドリーが飽きてしまえばすぐに捨ててしまう。
遊ぶ暇があればペチュニアおばさんに言われるがまま食器を洗い、庭の手入れをし、用がなければあの階段下で息を潜めていなければならない。
散々味わった惨めさをまた突きつけられたハリー・ポッターにご満悦のバーノンおじさん。
打ちひしがれた姿に機嫌を良くしてまたダドリーの我儘を叶えてあげるのだ。
ようやく、ようやく、ホグワーツの外に居場所を見つけた気がした。もちろんウィーズリー家の誰もが家族のように迎えてくれるし、あの居心地の良さは他に替え難いと思っている。
だが、シリウスが正式に帰ったブラック邸でのひとときは全てに勝る特別な経験だった。
もし次の夏休みにあの屋敷へ戻ったときシリウスの姿が無かったらと思うと――
喉の焼ける痛さに気づいたのは、背中をさする
呼吸の乱れがゆっくりと鎮まる。
嘔吐で滲んだ涙が視界を歪めているのかと、眼鏡をずらそうと手を伸ばす。ない。外れてしまっている。慌ててローブの袖で目元を拭うものの世界の輪郭が崩れ、どこに何があるのか判別がつけられない。迂闊に動いて踏みつぶしてしまっては大事だ。『修復呪文』は習ったがあまり得意ではない…頼りなく床へ手を伸ばそうとしたハリーへ、手の主がそっと眼鏡を差し出してくれた。
礼も忘れてかけ直す。
ようやく世界に秩序が戻る。
右端から覗き込む顔は、ダフネのものだった。
「落ち着いた?」
キンキンと高くない、低く囁く声が耳に心地良い。
「ありがとう……もう、大丈夫」
ダフネは「そう」と短く言いつつ、杖を振る。『
しばらくハリーは立ち上がれずにいた。
色々な記憶が蘇って、金縛りにあった気分がした。
力なく屈した姿勢で両膝をついている。ダフネもやはり視線を合わせるため、石造りの床の上で膝を揃えている。
壁を支えにどうにか立ち上がるまで何分掛かっただろう。
まだ微かに肩で息をしているけれど、もう吐き気は収った。
スカートの裾を整えたあとダフネは静かに言った。
「夜風に当たりに行かない?」
日曜日に体調を崩した人間の言う事ではない。
だが、ハリーは何故か頷いていた。
その場を離れ天文塔へと向かう。その道中に会話はなかった。二人は肩を並べ、蝋燭の灯りで薄暗い廊下を歩く。
大きな天体望遠鏡が置かれた最上層に着く。
今夜は雲一つない。真っ白な月がよく見える。風も弱く、思っていたより寒さは軽い。
くすんだ亜麻色の髪を撫でながらダフネは「心配でしょうね」と呟いた。
他人事のようだったが、彼女にとっては他人の事なのだ。
そう思うと何故だか腹立たしさより淋しさが湧いてくる。
天体望遠鏡を動かす歯車に腰掛けながらダフネは月を見上げた。
蒼白い月光に照らされて、微かに眼を細める。
「クィディッチ、残念だわ。貴方のプレーを見られないなんて」
「僕が活躍したらスリザリンが負けるけれど、それでいいのかい?」
「試合結果は試合結果。エースの活躍はどのチームでも良いものよ」
「そうなんだ。ファルマス・ファルコンズが勝った時のロンはいつも不機嫌だけど」
「彼はキャノンズ以外が勝つなんて許せない手合じゃない?」
その割りにキャノンズが負けた時の辛辣さは群を抜いている。
応援しているのかいないのか、ハリーすらよく分からない。
「シェーマスよりはマシさ。僕はまだホグズミードには行ける。他の事に集中して、なんとか気持ちを紛らわせるしかない」
「愚かさへの罰と言うならフィネガンへの制裁は軽すぎるわ。卒業まで毎週日曜日は廊下掃除でもいいくらい」
行儀良く膝を揃えて座るダフネは憤慨する。
肩を持たれて悪い気はしない。寮は違うがダフネとの思い出はどれも良い部類だった。ドラコやスミレと比べるまでもない。
こんな風にはっきり怒る事もあるのかとハリーは思った。
今まで抱いていたイメージとは掛け離れている。
こうして彼女と話していると胃袋がねじ曲がったような感覚が薄れていく。
身体の中の重力が戻っていく気がした。
「ハニーデュークスでめい一杯買い込んで、寝室に持ち帰ってやろうと思う。シェーマスだって日刊予言者新聞にお熱のママへおねだりすればクリスマスプレゼントで箱一杯に届くさ」
ダフネが軽く吹き出した。肩を揺らして笑っている。
「いいアイデアね。どんなのお菓子がいいかしら……なるべく日持ちして、すぐに食べきってしまわないのが面白いと思うのだけど」
「ああ。百味ビーンズは外せないし、あと砂糖漬けパイナップルとか、胡椒キャンディとか。蛙チョコレートも奮発して多めに買った方がいいかな?」
「蛙チョコレートはいいわね。みんなアレのブロマイドを熱心に集めているし、部屋にでも飾っておけば効果覿面よきっと」
すう、と肌を撫でる夜風の心地よさすら忘れる。
時間の流れをこの瞬間だけは忘れ去って、二人は笑い合った。
このまま一晩中こうしていられればどれだけ幸せだろう。
何もかも忘れ去って。
何もかも置き去って。
何もかも――捨て去って。
知らずに背負わされた、すべて。
けれど。
運命というモノは、きっとどこにもであるのだ。
どこにでもあって、全てを結びつける。
それはもしかして赤い糸、なのだろうか。
むしろハリーには蜘蛛の巣に思える。暗い森の奥深くに潜み、木々の合間に油断無く、隙間無く素を張り巡らせて
蛇よりも蜘蛛が怖いロンの気持ちが分かる。
蜘蛛は厭だ。気味が悪い。
アラゴグの姿がありありと脳裏に浮かぶ。
伝う汗のせいで夜風がさらに冷たい。
思わず表情が引き攣る。突然の異変に、ダフネが駆け寄った。
「ハリー、やっぱり具合が良くないのを無理していない? ダメよそんな事をしたら。悪くなる前によく休まないと。さあ、寮に、いえ貴方さえよければ、やっぱり静かな医務室で」
「僕は、どこも悪くない……あの夜つけられた傷はもう治ったんだ。痕だって残ってない、傷口は二晩で嘘みたいになくなった」
制服の袖をまくる。短剣で切り裂かれた腕が、何の変哲もなく月に照らされる。
死喰い人たちに刻まれた『闇の印』のように歪んだ痕跡どころか、傷があったという痕跡すら綺麗に消え去っている。それを見せながらハリーは言葉を吐き出した。
「両親がヴォルデモートに殺された瞬間を僕は覚えてる。吸魂鬼に近寄られたとき、声が聞こえたんだ。はじめは誰なのか分からなかったけど、ルーピン先生と守護霊の呪文を練習しているうちに死ぬ間際の父さんと母さんだって分かった。それなら夜眠っていると聞こえるアイツの囁き声も、前触れ無く額の傷が痛むのも、きっとあの夜の記憶だ」
説明出来ない事象を、過去の事象になぞらえ自己暗示の要領で呑み込もうとしている。
「心配してくれるのは嬉しいよ。でもダフネ、僕はご覧の通りどこも悪くないんだ。食欲がないのは……きっとクィディッチを取り上げられたせいだ。一年生の頃からやっていたし当然だよ」
微笑みも安堵も返っては来なかった。
ダフネ・グリーングラスの知らない表情が積み重なる。
いま目の前でハリー・ポッターへ向ける表情に、悲しみを覚えた。
「空元気かもしれない。けど、いま弱音を吐いたら、それこそアンブリッジに負けた事になる。それにダンブルドアやシリウスだって心配する。それだけは厭だ」
「私が心配するのも厭に思って」
これもまた知らない
何故、悲しみよりも別の感情が湧くのか分からない。
混乱のあまり停止した思考を振り切り、心が言葉を精製した。
「それは、どういう」
「貴方の辛そうな姿を見ているのは、私だって辛い」
「だからどうして、ダフネが?」
「ダフネ・グリーングラスがハリー・ポッターに親しみを持ってはいけないの?」
正解の有無が天から振ってきて欲しい。
だがそんな都合のいい、魔法のような展開は起こり得ない。
いつだって
答えを探さなくてはとパンクした思考を再始動する。
なんて慌ただしい。
もっと、この綺麗なカオを眺めていたいのに――