とある屋上から始まった物語 作:GSAK
――はぁ。良い風景だ。
息を大きく一つ吐く。屋上から沈む太陽を見つめる午後六時。放課後の時間の使い方では最高に優雅な時間の使い方だろう。フェンス際に立ち、遠くの山々の間に沈む太陽を、夕日に照らされる町並みを、段々と長くなる影の長さをただただ見つめ、そしてそれぞれの色合いについて考える。太陽の発する赤とも橙とも黄ともとれず、しかしその全てを交じり合わせた様な色合いを、その紅によって染められたビル群の色合いを、紅に浮かぶ影法師の色を。その全てを感じ取り、脳内に浮かべる。
――面白い。本当にここから見る色は面白い。
色は刹那の内に変わる。一瞬の瞬きすら許されない。そして、一度その機を逃せば、同じ色は二度と拝めない。この高校に入学して早一年と幾何。これまで多くの風景をこの屋上から見てきた。
快晴があった。晴れがあった。曇りがあった。曇天があった。小雨があった。土砂降りは……流石にその時はここには来ていない。これまで多くの風景をここから見てきたが同じ色は一度たりともなかった。
一歩横に歩き、もともと用意していたキャンバスの前に立ち、フェンスの下のブロックに置いたパレットと筆を手に取る。
それ故に考える。
――この風景をこの白紙の世界に落とすとすればどんな色になるだろう。
絵の具箱から赤を取り出してみる。その序に白と黒と黄も取り出す。その間も一刻一刻色は移り変わる。色は動く。しかし、俺は動けない。そう、動かないではなく、動けない。自らには確実に書けないものの前で俺は何時も動くことが出来なかった。
いつの間にか手から赤の絵の具が落ちた。別に構わない。どうせ使うつもりもない。ただ、漠然と沈む太陽を眺める。人に感動を与える自然は翻訳できる、とは某名作の登場人物の言葉だと記憶している。自然は翻訳するとすべて人間に化けてしまうそうだ。例えば崇高、例えば偉大、そして例えば雄壮。なら、俺の眼前に見えるこの風景を翻訳すれば何という言葉が当てはまるだろうか。
雄大、荘厳、幽玄、崇高、飄然、絢爛……。
色々な形容詞が浮かんできては消えていく。そのどれもが当てはまる気がするし、そのどれもが当てはまらない気もする。色々と思考し、そして辞めた。有史から人類が作り出してきた形容詞がどれほどの数になるのか無知な俺では分からない。その量は那由他にもあの大蔵経にもインドのラーマ―ヤナともその量を競うかも知れない。でも、この幽玄で荘厳で尚且つ雄大でも絢爛でも崇高でもあるこの風景を現すのは無理だと思う。無難なところに落とすことは出来る。でも、この風景を落とすのはもったいない。凄いものはただ凄いものと見れば絵にもなれば句にも読まれる。まだまだ非力だが一介の画家としてこの風景を言葉に落とすのは勿体ない、それくらいのことはわかる。言葉に出来ないほどの素晴らしい光景ならば言葉にしなければいい。雄弁は銀、沈黙は金。そして沈黙は詩的だ。
――あぁ、やっぱりここはいい。こここそが理想郷だ。
夏目漱石は今や昔、その著書「草枕」にてこの世の真実を説いている。
『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』
そう、この世は住みにくい。この世に生まれてたった十数年の若者が何を言うかと思う人もいるだろう。しかし、俺にとって今のところこの言葉は真実だった。そもそも住みにくい住みやすいは個人の感情のものだ、他人にとやかく言われる筋合いはない。寧ろとやかく言われることも住みにくいと感じる要因になっている。
この世は住みにくい。しかし、この屋上はどうだろうか、ここには素晴らしい風景があり、俺が居る。これ以上もこれ以外もない。ここには人情がない、人付き合いがない、怒ったり、悲しんだり、騒いだり、泣いたり、苦しんだりする必要がない。まさに不人情の場所である。人情世界に飽き飽きした俺にとってはこれ以上の場所はない。まさにここは楽園である。極楽浄土にもユートピアにも、かの林檎の生る島にも劣らない楽園だ。楽園故に俺は絵を書かなくて済む。目の前に置かれたキャンバスもただのオブジェと思えばいい。
俺が風景を目に焼き付けているそんな時だった。
キィーという錆び付いた音を立てて扉が開けられた。
――誰だ?
まず脳内で誰何する。まず在学生の可能性は少ないだろう。そもそも屋上は普段鍵が掛かっていて入れない。その事実は全校生徒全てが知っているはずだ。それに今までも生徒がここを訪れたことはなかった。次に教師の可能性だが、唯一ここに来る可能性のある教師は今日は出張で学校に来ていない。そうなると他の教師の可能性が出てくるが、それだと色々と面倒なことになりそうだ。
――どちらにしろ厄介ごとか……。
まぁ、どうせ俺が居ることはばれるんだ。声を掛けられるまではこの風景を霊台方寸のカメラに納めるとしよう。赤よりも黒が多くなった風景を見つめていたそんな時、
――え……。
それは秋の風に乗って聞こえてきた。戸惑いと焦りとそして驚愕に満ちた小さな声。それ音は確かに俺の耳に届いた。
しかし、その小さな呟きが聞こえてすぐに、更なる声が聞こえてきた。こちらはだいぶ違う音色だった。
「あ、あのー……屋上って入っていいんですか……?」
聞き慣れないソプラノの自信なさげな声。気になって振り返る。
そこには一人の少女がいた。見られたというより見飽きた制服はここ一年間毎日見た我が高の制服。歳の頃は俺と同じくらいだろう。特徴的なウサギの耳をあしらったリボンに癖のないショートヘア。丸い大きな目をぱちぱちさせた少女が申しなさげに立っていた。
――見たことのない生徒……ではないな。あの顔は……
夕日に照らされる少女の顔をじっくりとみる。大きなはっきりした目に、長いまつげ、それにふっくらとした唇。俺はこの少女を知っている。先日、こちらのクラスに転入してきた少女にそっくりだ。そっくりだが、どこか違う。先日俺のクラスに転入してきた奴はもっと気が強そうで、こんな動作をするような奴ではない。それにそもそもリボンの形も髪の長さも違う。そう言えばあいつは五つ……。
ここまで浮かんできた考えを無理やり投げ捨てる。
――まぁ、誰でもいいか。
何故ならここは理想郷。不人情を求めた一介の画家としてそれ以上は理想郷を壊しかねる毒であると判断したためだ。別に誰でもいい。彼女が誰であれここでは関係ない。幸い向こうも俺の事が分かってない無いようだ。これは僥倖だ。
「まぁ入っていいかと言われると公にはダメということになっている」
いい加減少女の問いかけに答えることとした。
「え!? ダメなんですか!?」
少女の驚愕の声が響く。何とも面白い反応をする少女だ。常人にあるような裏表がない。声色が顔色を顔色が表情を表している、そんな少女だ。今どき珍しい人間だ。
「あぁ、公式にはダメだな。校則違反だ」
「えぇぇぇぇ!! それってまずいのでは!?」
「あぁ、不味いな。教師にばれるともっと不味いから出来れば声を落としてほしい」
教師なんて一人しか来ないのだが、この少女に言ってもしょうがないため、からかいの意味も込めてそう言っておく。
「ど、どうしよう……転入して直ぐに停学とか皆になんて言えば……」
口を押させおろおろさせる少女。何とも人生生きにくそうな奴だと思う。裏を返せば人がいいとも取れるかも知れないが、ここまでくると人が良いよりも先に生きにくそうなやつだという感想が先に来る。俺ならば無理だ。彼女の様には死んでも生きれまい。
「何心配しなくてもいい。どうせここに教師は来ないよ」
「ほ、本当ですか!?」
「大丈夫だ。俺はここ一年間で一度も捕まってない」
俺の言葉を受けて少女は、「はぁ」と安堵のため息を漏らした。
「良かったです。心臓が止まるかと思いました」
「まぁ、屋上に出ることは原則禁止だし、あまり大っぴらに言いふらされるのは困るけど……」
いい加減落ちた絵の具を拾わないといけないと思い散らばった絵の具を一つ一つ拾い上げる。これは、赤。これは黄色。
「言いふらしませんよ! 皆んなにバレたら私だってマズイことになりそうですしっ! こう見えても私、口は堅いんですよ」
しっしっしっし、少女は今度はそう言って笑ってみせた。先程の安堵のため息から今度は笑顔。千変万化、まさに彼女の顔色はこの言葉が当てはまる。
「そうかい。そりゃ安心だな」
「にっしっしっし、大船に乗った気持ちでいてくれて結構ですよっ!」
――何かがおかしい。
彼女の顔を見ながら考える。いつもならこんなコロコロと表情を変える人間に出会ったのなら、俺はまず第一に絵の勉強が出来ると喜ぶはずだ。しかし、彼女の千変万化な顔色を見てもその気が一切起こらない。
――ただ”書く気が起こらない”。
それが気にかかる。美しいものは書くに限る。目の前の少女は十分に美人の部類に入るだろう。いくら世間に疎い俺だとは言え、少女が世間一般では美人だと言われるくらいに整っていることは分かる。絵の題材にはもってこいだ。
しかし、露とも指先が動かない。夕日に照らされ「にしし」と笑う彼女をキャンバスに塗抹することがどうにもできない。
「そうか、それはよかった。なら安心だ」
美しいものを否が応でも美しくせんと焦るとき美しさはかえってこの度を減ずるように、答えの出ない問題にいやがおでも答えを出そうと焦った時、答えはかえって何も出ない。どうせ喉元まで出かかっている違和感だ。何もせずともこの少女と話しているだけで勝手に応えは出るだろう。
それくらには俺は”画家”であるつもりだ。
「えぇえぇ! 安心してください! この私口が固いことには定評がありますので!」
――確かに彼女の口は硬いだろうな。
自分で彼女のセリフに違和感を感じ無かったことを自分自身で不思議に思う。可笑しい。彼女のような思っていることが顔色に直ぐにでる人間が口が堅いなんてありえない。
そんなことは小学生でも分かるだろう。しかし、俺は彼女の言葉をすんなりと受け入れた。理性ではなく”画家”としての本能が彼女の言葉を真だと断定した。
「それは本当に助かるな。何せ屋上を出禁になったら少々困るんでね」
「そう言えば、絵を書かれていたみたいですけど、お邪魔してしまいましたかね?」
少女は俺の手元とその背後にある真っ白なキャンバスを交互に見比べながら言う。
「いや、別に問題ないよ。どうせ、今日は画を書く気は無かったしね。それよりも惜しかったね。もう少しはやく来たなら絶景が見れたのに」
そう言って背後を見ずに指さす。先ほどと比べて黒の割合が随分と多くなった。日没間際、というよりももう夜の帳の幕が降りかけている。これはこれで面白い風景なのだろうが、流石に燃えるような夕日には劣るだろう。
「えー、もしかして夕日ですか! くぅー残念です! もう少し早く来ておけばよかった! この私一生の不覚です」
俺の横を通り過ぎ、フェンスの傍に立ちピョンピョンと跳ねる少女。その顔には残念だったなぁという感情が浮かんでいた。
「そう言えば、貴方は絵をかかれるんですよね?」
「まぁ、趣味の範囲内だけどね」
「じゃあ、私を書いてみてくださいよ! 今度是非!」
何気ない世間話のように少女はそう言った。
面と言われと言うのになぜかまだ画く気が起こらない。全くもって筆を持って彼女をキャンバスに塗抹する未来が見えない。絵の題材にはもってこいの少女の筈なのに、何故か画く気が起こらない。
しかし、やはり違和感がある。どこかが可笑しい。こういう違和感がある時にすることはただ一つだ。彼女の目を見つめる。目は口程に物を言う。人間にはどうしても隠せない部分がある。それがつまり目だ。
屋上から街を見つめる彼女の目を見た時、全てが分かった。
――なんだ、そんなことか。
彼女を描こうと露とも思えなかった違和感は単純にして明快なものだった。それは画の題材にしてもっとも大きな問題だ。
前にもいったが美しすぎるものは画けない。画かないではなく画けない。そこに我が技量では画けないといった意味がある。
しかし、彼女は画こうという気概が起きない。画けないの逆で画かない。思ったがことが真逆ならその原因も真逆の物。
つまり彼女は――
「――――美しくない」
胸裏に浮かんだ言葉は勝手に言葉になり音になった。
「――え」
その音は少女に届いたのか大きな目がこちらを向いた。その瞳には動揺。
ようやく素が出たようだ。
「君はもっと自分を出すべきだよ」
思えば違和感は初めからあった。彼女が屋上を訪れた時に初めて放った言葉はしっかりと俺の耳に届いていた。
秋風にのって聞こえてきた、たった一言の「え……」というつぶやき。そこには彼女の本音がしっかりと詰まっていた。しかし、実際に彼女と顔を見合わせて話をしてみるとどうだろうか、確かに彼女はコロコロと表情を変えていた。しかし、その実彼女は何も本音では話していなかった。
なまじ初めの言葉に心が入っていたばっかりに後の言葉は全て中身がスカスカの言葉に成り下がっていた。それで美しいはずがない。
常に芝居をやっているようなものだ。自分の振る舞いや言動、動作、日常における動作の全てを演技で行っている。
今は昔夏目漱石はその著書の中でこう書いている。
『普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家の中で常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。あんなのを美的生活とでも云うのだろう』
この少女も似たようなものだ。だがしかし、彼女の場合は決定的に違うところがある。
――彼女は決して“始め”から”自然天然”に芝居をしているわけではなく、何時の間にか本人も分からぬまま“芝居”をするようになった。
つまり彼女は、自らの本当の気持ちを隠したいと思い芝居を始め、いつしか本当の気持ちの出し方が分からなくなったのだろう。
そんな少女を書いたところで画の修行どころか、紙と絵の具の無駄である。
――はぁ。
とため息をついた時だった。
「あの、それってどういう事ですか?」
少女がおずおずと言った様子で聞いてきた。顔は動揺の色、しかし目の奥には確かな恐怖心。
その時になったやり過ぎたと後悔した。初対面の少女に向かって言うべ言葉ではないと遅まきながら気付いた。きっと、この屋上と言う理想郷が俺の口を軽くしたのだろう。普段の俺なら何も言わずその内心で見切りをつけ、歯牙にもかけなかった。
「いや、そのままの意味だよ。分かってるだろう。キミなら」
自然天然芝居ではなく、元は人工的に芝居をやっていた彼女なら分かるはずだ。
そしてこれ以上話すことはないとばかりに道具を片づけキャンバスを回収する。
少女は語る言葉を探し、俺は語る言葉を持たず、そのまま少しの時間の後、帰る準備が整った。空はすっかり暗くなっていた。絵画道具を肩に担ぎながら最後に立ち尽くす少女に言葉を投げかける。
「 かの文豪夏目漱石は草枕似てこう言っている。『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』ってね。ただえさえ住みにくい世の中なんだから自分を押し殺すのはほどほどにね」
「…………」
何も言わない少女とすれ違う。
「あぁ、そうだ。絵の話だけど。もしも俺が君のことを画きたいと思えるようになったら幾らでも書くよ。それと屋上だけど鍵は掛けずにそのままでいいから。後、下校時刻までには帰りなよ。教師に見つかったら色々と面倒だぞ」
それだけ言い残し振り返らず帰路につく。
「…………」
返事は無論なかった。
その帰り道星空を見上げながら悪態をつく。
――あぁ、やっちまったなぁ。まぁいいか、もう彼女とは会う事ないだろうし。
小さな呟きは夜風に乗って何処か遠くに消えていった。
そう、俺と彼女の物語は、物語の始まりに相応しい秋という季節に、これまた物語の始まりには相応しい高校の屋上から、物語の始まりには相応しくない最悪のファーストコンタクトから始まった。
――絶対に貴方に私の絵を画いて貰うんですからねっ!
「驚いたもう来ないと思っていたんだがな」
もう来ないと思っていた再会は意外と早く訪れるのかも知れない。