とある屋上から始まった物語 作:GSAK
――はぁ、いい天気だ。
息を一つ大きく吐き、グーッと一つ伸びをする。穏やかな風が頬を撫で、頭上には青空と申し分けない程度の鱗雲。降り注ぐ陽の光は暖かく、全身を包み抜ける風は心地いい。昨日はまでは既に九月だというのに太陽もほうもまだまだ夏休みを謳歌したいのか真夏日の様な猛暑が関東を襲っていたが、今日に限って言えばそんなことはなく穏やかな晩春のある一日だった。全てを忘却できそうな午後十二時三十分。俺は例にも漏れずに屋上にいた。
理由は特にない。何となくここに来たくなり、何となく足を運んだだけに過ぎない。
足を運んだのは偶然だが、ここにきて良かったと思う。九月に入ったとはいえ、まだまだ晩夏で寝暑い日が続き、屋上に来るのは放課後だと決めていたが、今日に限って言えば屋上も中々どうして過ごしやすい。耳を澄ませば風の抜ける音と、何処からか聞こえる笑い声。今日も今日とて平和である。
転落防止用のフェンス際に立ち校庭を見下ろせば数人の生徒がサッカーに興じていた。一人の男子生徒がボールを貰いそのまま敵陣に斬り込み、シュート。ゴールネットを揺らした。それに伴い盛り上がるチームメイトたち。よく見れば見知った顔がちらほらどうやら同じ学年の人間らしい。
別段にサッカーに恨みがあるわけではないが、サッカーをやるよりもこうして屋上からその風景を見下ろすのが好きだった。サッカーだけではない、野球でもバスケでも同じだ。これらのスポーツはやる以上勝ち負けが伴う。勝ち負けが伴うとはその結果でいちいち喜んだり悲しんだり、怒ったい嘆いたりしないといけないということだ。
たかが、昼休みのスポーツ位で何を言うのかと思う人もいるだろう。しかし、こういうのは規模の問題ではない。昼休みのスポーツとは言えそこに結果が伴う以上人情は避けられない。人情世界に飽き飽きした俺としてはこうして屋上から見下ろすくらいがちょうどいい。そうすれば間三尺も隔て画を見るのと同じ感覚で見ることが出来る。画中の人物が動くと見れば人情は起こらない。画中の人物はどうあがいても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出してこちらと衝突したり利害の交渉が起こると面倒になる。それが起こらないようにするためにもこの屋上と言う場所は有意義だ。
――さて何をするかな。
屋上に来たのはいいが何をするのかはまだ決めていない。どうせ来たのだ。今日はこのまま午後の授業はボイコットするつもりだ。どうせ出席日数には余裕がある。サボってもなにも言われまい。それに言われたところで行く気は無い。サボると決めたらサボるに限る。中途半端な気持ちで授業に言っても何も身につかない。幸いにも赤点を取るようなお気軽な頭脳は持ち合わせていないし、平常点が無くとも追試は避けられる。避けられなくても追試で合格する自信は余裕である。
屋上の隅にポツンと置かれた仮設倉庫の扉を開ける。キーと錆び付いた音を立てて扉は開いた。
――今度グリス塗っておかないとなぁ……。
そんなことを考えながら倉庫の中にあった断熱材使用のクッションと、本棚にある本を適当に二三取り出す。この倉庫はもともと屋上にて朽ち果てていたものを俺が修理補習したものだ。今では立派に物置としての役目に加え雨の日の退避場所になっていた。様々物を突っ込んであるために屋上での暇つぶしには事欠かないという訳だ。
適当なところにクッションを広げ、そこに寝転がる。キャンプ用の断熱材クッションはビニールシートよりは断然柔らかく寝心地も申し分ない。
――さて、のんびり読書でも洒落込みますかね。
そう思い、適当に取った本の題名を見る。そこには『トリストラムシャンディ』の文字。
――ほう、これは面白い本を引いたなぁ。
思わず笑みが零れた。そして、適当なページを開いた時だった。
急に屋上の扉が開けられた。
――ん?
気になって上体を起こし、音の方角を向く。
「あ、やっぱりいました」
そこにはリボンをうさ耳のように結んだ一人の少女がたっていた。
この屋上に来る人間は少ない。それもそうだろう。校則ではしっかりと屋上は出入り禁止と書かれているし、何せそもそも鍵が掛かっている。多くの生徒は屋上にこようとも思ったことがないはずだ。
そんな屋上に来る人間は去年まではたったの二人だった。一人は生徒、もう一人は教師。多分去年一年屋上を訪れた人間はこの二人だけだろう。
勿論、一人の生徒とは俺の事である。しかし、そんな屋上も今年の九月から訪れる人間が一人増えた。言うまでもないかもしれないがその増えた一人と言うのが目の前の彼女である。
ひょんなことで彼女が屋上に来た初日、俺は彼女はもうここには来ないと思っていた。今思い返してみても中々に酷なことを俺は彼女に言ったからだ。
――美しくない。
出会って数分もしない相手からこんなことを言われたのだ普通の人間なら俺のことを嫌悪して関わろうとしないはずだ。
しかし、彼女はその普通とは少しばかり違ったらしい。
次の日もここにやって来たと思えば急にこんなことを言ってきた。
――これからもここに来てもいいですか? ここに居ればきっと何かがつかめる筈なので。
俺としてはここに誰が来ようと構わない為適当に頷くと、彼女は急に笑顔になったと思ったら、何言わぬ顔で、さも当然にこう言い放った。
――良かったです。それと私は絶対に貴方に画を画いて貰いますからね!
それからというものこの屋上に時たま彼女はやってくるようになったという訳だ。
「ん? 昼休みに来るなんて珍しいな普段は放課後なのに。それに俺が居なかったら完全に無駄足だぞ」
何時もは放課後に来る彼女が昼休みにここに来ることが珍しく聞いてみる。それに昼休みは俺もいないことが多いので基本的に開いていない。開いて無ければ骨折り損のくたびれ儲けだ。
「いえ、何だか、屋上に来たい気分になったので……! それに貴方がここにいることは分かってました」
「ん……? そりゃどうしてだ。俺とお前は別に同じクラスでもないだろうに……ついでに言えば俺のクラスも知らんだろう」
俺は彼女に自身の情報を一切明かしていない。それは明かしたくないからではない。明かさなくても良いと思っているからだ。この屋上は理想郷だ。ここには風景がありただの人がいる。俺が居て彼女がいる。この屋上と言う世界はそれで完成されているのだ。そこに名前やら学年やら持って来ては俗になる人情が生まれる。人情が生まれてしまえばここは理想郷ではなくなるだろう。
「えぇ! ですので、全ての教室と全ての施設を回ってきました!」
やり遂げました!と笑う彼女の額には一陣の汗が滲んでいた。
「ちょっとまて、それってまさか……」
「そうです。そのまさかです。一年生から三年生まで全てのクラスを見て回り、その後学食、体育館、校庭と回りました! その全てに貴方がいないとなると、それはここ屋上にいるということですっ! どうです、見直しました?」
どやぁ、としたすまし顔でそう宣言する彼女に俺は言葉を一瞬失くした。よもや高校二年にもなってこんな生徒がいるとは俺の驚きの範疇を超えていたからだ。
「……それ俺と行き違いになっていたり、俺がトイレに行っていたらどうするつもりだ」
「へ……」
俺の言葉に彼女は刹那に固まり腕を組んでうーんと唸る。そしてたっぷりと数秒悩んだ後に、手をポンと叩き、
「そこに気付くとはもしかして、画家さんは天才では!?」
「……お前本当にウチの編入試験受かったのか?」
頭を押さえながらそう悪態をつく。別に俺は悪くない。悪いのは目の前にいる少女の頭である。
ウチの高校は所謂いいとも言えなければ悪いとも言えないと言ったような平均的な高校だ。トップはそれは凄い奴もいるが、下位にもこれまたすごい奴がいるような典型的な格差のある高校だと言ってもいい。
何せトップは全国模試でも一ケタに名前を連ねる奴らばかりだ。その分振れ幅も大きく下位のレベルの奴らは中学卒業したのか怪しい奴らまでいる。その結果、平均的に見れば”そこそこ”の高校というレベルで落ち着いている。
はっきり言って受かるだけなら難しくはない。しかし、目の前の少女はどうだろう。中学校卒業どころか中学校に入学出来たのかすら怪しい。いや、実際に彼女のテストの結果やらを見た訳ではないが、ここ数日話をしているだけで分かった。
間違いなく彼女は頭がご機嫌な人間だ。
「えへへへへ……。受かりましたよ。一応」
右手で後頭部を掻きながら罰が悪そうに彼女は笑う。
その反応で分かった。なるほど、どこの高校もよろしく”お上”が一枚噛んでいるらしい。
「その反応で何となく察したよ。他のやつらには言うなよ。色々ともめるぞ」
一応こんな高校でも必死になった受験してきている奴らがいるんだ。なるべく爆弾発言はしないほうが吉だろう。
「わ、分かってますよ! それくらい」
「で、今日は何の用で来たんだ? 俺を探していたんだろ」
「えーっと……」
彼女はここで少し言い澱んだ。幾何かの沈黙が場を支配した。
いつの間にかサッカーも終わったのかグランドから聞こえた声はもうしない。耳に入るのは頬を撫でる晩春の風と、どこから聞こえる鳥の鳴く音だけ。
そして、少しの沈黙の後、彼女はこう続けた。
「実は屋上に来たくて、貴方を探していたんです」
「なるほど」
彼女は俺の相槌を聞くと、ゆっくりと足を前に進め、フェンスにその細い指を絡めた。
「少しだけ考え事があって、それで一人になれる場所を探してました」
彼女は俺に背を向けたまま続けた。その表情は見えない。見えないが察することは出来る。彼女の顔は今この時、素の状態、ありのままの彼女の顔をしているだろう。それを俺に見せたくないは分かっている。だからこそ俺は何も言わない。
「ここには俺もいるぞ」
「いいんですよ。貴方は……。私なんかに興味ないでしょうし」
――あぁ、なるほど。そういうことか。
どうにも出会った当初から彼女のことを好きになれないと思ってたが、その理由が何となくわかった。
似ているのだ。どうしようもなく、嫌なほどに。
逃げ場のない悲しみを、抑えられない怒りを、叫びたいその嘆きを、投げ出したいほどの理不尽を、そんな感情の全てを仮面の下の隠し振る舞い続け、何時しか自分が誰だか分からなくなった。そんな人間が必要な場所を俺は知っている。
「なるほど、そういう事か……。なら一つ良いことを教えてやろう。こっちに来てみな」
そう言って彼女の背中に声を掛け屋上の入り口へと向かう。その間決して振り向かない。しかし、音から察するに彼女は怪訝ながらも俺の後ろを追ってきているようだ。
「何ですか?」
「ほれ、屋上の開け方を教えてやるよ」
「屋上の開け方?」
「そそ、屋上の開け方」
踊り場に入ってようやく俺は彼女を見た。そこにいつも通りの顔色の彼女がいた。仮面の被り方は一流なようだ。
「ウチの校舎は小奇麗しているが意外と年季が入っていてね。例えばこの屋上へ続く扉なんて言えば、コツさえあれば誰でも開けれるようになってんるんだよ」
――今の彼女に必要なものはきっと、誰にも気を使わずに泣ける場所……。
だってそれは―――――――。
「ありがとうございます。そんな秘密なことまで教えていただいて」
数分のレクチャーのち屋上に戻ってきた俺に対して彼女は深々と頭を下げた。
「別に気にしなくても。俺も屋上仲間という共犯がいい加減欲しかったしね」
そう軽口を言いながら、手をヒラヒラと振る。別に屋上の鍵の開け方を教えたのは彼女の為ではない。他ならぬ自分の為だ。
「それでも、私はお礼を……」
彼女がさらに頭を下げようとしたその時だった。
――キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが鳴り響いた。
「へっ!?」
その音に素っ頓狂な声を上げる少女。どうやら時間の感覚が無かったらしい。
「あ、ああのこの音って……」
「午後の授業の始まりのチャイムだな」
「そ、それって不味いのでは!?」
「まぁ、いく気の人間なら不味いだろうな」
「何で、貴方はそんなに余裕なんですか!?」
「何でって行く気が無いからな。この格好を見て見ろ」
今の俺の恰好はシートに寝そべり右手には単行本、靴も既に脱いで、寝ようと思えばいつでも寝れる格好だ。授業に出るつもりなんか欠片もない。
「行く気が無いって、サボっていいんですか!?」
「さぁ、それは人によるんじゃないか。俺は別にたまにならサボってもいいと思っているからこうやってサボってるわけだ」
授業に行くなら行った方がいいぞ、そう言って俺はもう話すことがないとばかりに単行本に視線を落とす。
「わ、分りました! で、では行って――」
「でも、俺は今日くらいは行かなくてもいいと思うぞ」
目線は本から離さずに少女の言葉を遮る。
「へ――」
「わざわざこんな偏狭な所に足を運んだ。何か理由があるんだろ。それに、授業を二三限行かなかったくらいで罰は当たらないよ」
「で、でも授業に出ないと、私馬鹿だから……」
「次の授業は何だ?」
「こ、国語ですけど……」
ペラペラと文字を目で追いながら少女へと言葉を返す。
「そうか、じゃあもしも、今日行かなかったとこで分からないことがあったが俺が教えてやるよ」
「へ……」
「だから、何か国語で分からないことがあったら責任もって俺が教えてやるって言ってんだよ」
この時の俺はまだ知らなかった。俺がこんな安請け合いをしたばかりあんなことになるなんて……。
「心配するな、こう見えて国語のテストは入学以来学年トップタイだぜ……」
そして少女は少しの間逡巡したのち、しっかりと首を縦に振るのだった。
こうしてある日の午後、しがない画家と、リボンの少女は屋上に静かに風に吹かれた。何とも世の中は平和だ。