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夜闇に沈むハイマツの丘。
昼間の出来事が嘘のように、ひっそりと静まり返っている。
砂利の音をさせて降り立った騎馬は、あまり飛行に慣れていないようだった。
「ここに来れば俺様に逢えると思ったか? 随分と安く見られたもんだ」
細い炎が周囲を照らして、赤い狼の姿になった。
「なんだ? やっぱり俺様に叶えて欲しい願いがあったのか?」
「はい」
馬から下りたそばかす娘は、唾を呑み込んで狼に向いた。
「昼間、言おうかどうか迷ったんです。でもナーガ様に聞かれたくなくて」
「何だ、そんなに恥ずかしいお願いか? ククク・・」
狼の半笑いはすぐ消えた。
娘がポケットから取り出した物を、目の高さに差し出したからだ。
「何の、マネ、だ」
「やっぱり、これその物に威力がある訳じゃないんですね」
そういうエノシラの掌の上には、以前羽根の子供に貰った小さな羽根が乗っていた。
「ふ・ざ・け・る・な!!」
狼の全身から炎が立ち昇った。
「あの、怒らないでください。ナーガ様にも誰にも言うつもりはないです。あたしが見た事」
「・・・・・・」
「だからその、ナーガ様とあの子供に、もう近寄らないで下さいませんか」
「俺様を脅迫しようってのか!」
「そうなります」
エノシラはそこで黙らされた。
一足飛びに飛んで来た狼の牙が、喉に息が掛かる距離まで迫ったからだ。
「勘違いするな! お前さんを物言わぬ物体にする方が手っ取り早いんだぞ!」
「すみません・・」
銀の眼を間近に見ながら、エノシラは素直に口を閉じた。
本当はもっと言いたい事があった。
ね、狼さん、ナーガ様の怪我、どうしてみんな身体の中心を外れていたんでしょう。
まるで本当に危ない所をわざと避けてくれたみたいに。
爪もかかっていなかったし、見た目は派手だけれどかすり傷ばかり。
折れた音は後ろ脚でハイマツの枝を踏んだ音。まんまと騙されちゃいました。
ね、狼さん、貴方、本当は何をやりたかったんです……?
「蒼の長の血筋の者とは切っても切れん腐れ縁がある。お前さんの脅迫には乗れないな」
「そうですか……」
「代わりに、契約無しで一回だけ願いを聞いてやる」
「本当ですか?」
エノシラの台詞は棒だった。まるでそう言われる事を予想していたかのように。
「気が変わらん内にさっさと言え」
「はい、言います」
***
朝の馬繋ぎ場に、ナーガと羽根の子供の姿があった。
いつもと違うのは、ナーガの腕と頭に包帯が巻かれている事、馬が大きな荷物を積んでいる事。
「おはようございます」
声に振り向いて、ナーガは目を見開いた。
懐かしい桃色の衣装が、そばかす娘を包んでそこにあった。
ただの布切れがヒトの形になるだけで、こんなにも違って見えるのか。
「着てくれたんですね、お似合いです」
「ちょっとキツイです、恥ずかしい、ダイエットしなくちゃ」
見ると子供が、衣装の両袖を引っ張っている。
「シンリィも見られて良かったな。これから山の母の所へ送って行くんです」
ナーガはなるべく感情を気取られないように、後ろを向いて馬の荷物をポンポンと叩きながら喋った。
「母はこの子の事を気に入っているし、僕も助かるし、執務室も助かるし……」
「シ・ン・リィ」
ナーガは驚いて振り向いた。
エノシラが子供の目を覗き込みながら、初めて名前を呼んでいた。
「シンリィ・ファ!」
呼ばれて子供は、両袖を掴んだまま、彼女の腰にギュッと抱き付いた。
・・・・・なぜだ??!!
「……えーと??」
ノスリとホルズは上手く呑み込めなくて、三回聞き直した。
山へシンリィを送りに行った筈のナーガが、エノシラを伴って戻って来た。
ユーフィの桃色の衣装なんて着ているもんで、『ナーガの贈り物を受け取った』=『仲直りでラヴラヴ!』という図式を勝手に描いて、二人ちょっと浮かれたが、そうでもないみたいだ。
「あたし、シンリィ・ファの『お母さん』になります!」
「えーと、だから、それって、ナーガと所帯を持つ……って事……だよな?」
「いいえ!」
エノシラは、トンでもないですよねぇ! と、後ろで呆然と突っ立っているナーガに同意を求めた。
ナーガだって、さっき馬繋ぎ場でいきなりそんな事を言い出したそばかす娘に困惑している。
「叔母様みたいに通いで世話するんじゃなく、お母さんとしてずっと一緒に寝起きして暮らすんです」
「はあ……」
ノスリとホルズはナーガを伺い見た。また「カワセミ長は僕に託してくれたんです!」とか、この唐変木が意地を張りやしないかと。
しかし当のシンリィが、さっきからエノシラの腰にガッシリしがみ付いて離れないのだ。
***
「それでその娘はどんな願いを言ったのかしら?」
万年雪に覆われた山岳地帯。
頂上直下にやや突き出た棚があり、尖端に白いローブの女性が佇んでいた。
何故こんな険しい雪山に? という俗な疑問を吹き飛ばすほどの、当たり前然とした威厳がある。
「ケッ」
赤い狼は、凍った岩の上で、嫌そうに舌打ちした。今日の彼は、きめ細かい炎を静かに瞬かせ、普段の猛々しさはない。
「時間を戻してくれっとさ」
「あら難しそう、そんな事、貴方に出来るのですか?」
「出来る訳ねぇだろ、出来たら怖いわ。まあ、『地の記憶』を利用して、過去のひとつの地点に意識を飛ばしてやる事くらいは出来るわな。地面に刻まれた記憶を辿るだけだから、行ったって何も出来ない。ただボケッと眺めて帰って来るだけ。当たり前だが、歴史を変えられないのは、全ての術の理(ことわり)だ」
「それはそうですよね」
「そう説明したら、ちょっと考え込んでから、それでもいいって言いやがった」
少し風が吹いて、女性の白いローブをひるがえした。
「それで飛ばしてあげたのですか?」
言われなくても行先を知っている風な女性の態度に、狼はイライラした感じで後ろ脚で身体を掻いた。炎の体毛がチリチリ散って空中を焦がす。
「目の前の事に手出しも出来ねぇ、虚しくなるだけだってのにな」
「…………」
「まあ、約束だから送ってやった。後は知らねぇ」
「そう、ありがとう」
「俺様に礼を言うなって、何度言ったら覚える?」
静かに微笑む女性の背後には、見事な彫刻が施された白い氷の門柱がそそり立っている。
風の神を祀る神殿の玄関口だ。
頂上直下の山その物が掘り抜かれて巨大な神殿となっている。
いつ誰がどうやって造ったのかは、彼女も知らない。
「せっかく長の家系に新顔が登場したのに、つまらんガキでガッカリだったわ」
「いい加減諦めればいいのに……」
「諦めないね、草原に君臨する蒼の長様が欲望に支配されたら、俺様はいったいどんな姿になれるのか? 考えるだけでも身体の芯がゾクゾクしやがる」
「懲りないヒトですね、一度それで酷い目に遭った癖に」
「ああ、あの小娘な」
狼は忌々し気に、口を歪めた。
「兄貴が意外と頑固だったもんで、妹の方がフワフワして扱い易(やす)そうに見えたんだ」
「何て言われたんでしたっけ」
「思い出したくもねぇ。親の教育が悪すぎるんだ」
「うふふ・・あら、噂をすれば」
女性が何かに気付いて空を見上げた。
「思ったより早かったわ。ねえ、……あらら」
振り向くと、氷の溶けた足跡を残して、狼の姿は消えていた。
上空の高空気流から飛び出して、蒼の妖精の草の馬が姿を現す。
二人乗りなので、いつもより丁寧に降下している感じだ。
氷を散らして着地した馬から、まず群青色の長い髪の男性が降り立った。
「お久し振りです、母上」
「ごきげんよう、ナーガ。今日はシンリィを連れてはいないのですね。残念だわ」
ナーガに支えられて後から下馬したそばかす娘が、身体をこわばらせた。
「あ……すみません、あたし……」
「無茶言わないで下さい。蒼の里でこの高さまで飛べるのは僕の馬しかいないんですよ。大人二人だってギリギリです」
「情けない子ね。貴方のお父様は平気で他の騎馬も引きつれて飛ばしていましたよ」
「父上の場合、馬もバケモノでしたから」
今その馬は、母と共にこの神殿で暮している。主に先立たれた草の馬は、大概ほどなく枯れてしまうのだが、たまに新たな主を得て寿命を延ばす馬もいる。
「それより母上、お言い付けどおり連れて来ましたよ」
ナーガはそう言って、娘の肩を掴んで押し出した。
「あう、は、はじめまし……」
ガチガチに緊張している娘を通り越して、女性はナーガに鋭い視線を向けた。
「貴方のお父様は、女性の紹介の仕方も教えてくれなかったのですか? やり直しなさい」
思い切り苦い顔をして、ナーガは娘の肩に手を置き直した。
「エノシラ嬢です。拝名はこの春。ノスリ長の祖父の兄の妻の方の系譜で……」
「もうよろしい」
女性はますます不機嫌になって息子の口上をぶった切った。エノシラは蒼白で気絶寸前だ。
そんなそばかす娘の正面に立って、女性は被っていたヴェールを肩に落とした。
たおやかな微笑みが現れる。
「初めまして、ナーガの母です。シンリィがお世話になっているんですってね。本当に感謝しています」
エノシラは唾を呑み込むしかなかった。
ヴェールの向こうの女性は、この世の者とは思えぬ美しさだった。真っ白な肌に空色の髪。
美しいなんて単純な言葉だけでは言い表せない、雪から生まれた女神様のよう。
「エノシラ、エ・ノ・シ・ラ」
黙っている娘に気を使って、ナーガが挨拶を促した。
しかしそれも母の勘に触ったようだ。
「ナーガ、貴方は神殿の居間に行ってお茶の支度をしていらっしゃい」
「あ、あたしが……」
「あら、お嬢さんは私(わたくし)といらして。そう、ナーガの子供時代の衣服が無駄に沢山あるのよ。シンリィに似合いそうな物を見立ててくださらない?」
女性はエノシラの手を優しく引いて、神殿を入って右の居室に誘(いざな)った。
ナーガはまた苦い顔をしながら、母の言い付け通りに左の居間に向かった。
古今東西、蒼の里の次期長をここまで石コロ扱い出来るのはあの女性(ヒト)ぐらいだ。
シンリィを初めてここに連れて来た時などもっと酷かった。とろけるような笑顔で孫に飛び付き撫でくりまわし、ナーガの存在に気付いたのなど、お茶のお代わりを入れ直した頃だった。
前回の訪問時、シンリィを世話してくれる女性が見付かったと報告したら、何故連れて来て紹介しないのかと滅茶苦茶怒られた。いや勘違いしないで下さい、あくまでお母さん役をやってくれているだけなんですと、何度も念を押したが、通じているかどうか……
「エノシラ、大丈夫かな。あのヒト思い込みが激しいから……」
衣服を選んでと連れて来たのに、女性は衣装箱を開けるのもそこそこに、部屋の真ん中の長椅子に毛皮を敷いてエノシラを促した。
「あの、すみません。あたしが出しゃばったせいで、お孫さんと暮らせる機会を」
「あら、いいんですよ」
女性は遠慮している娘の肩を抱いて、共に隣に座った。
「蒼の妖精の子供は、蒼の里で生きるべきです。そう思ってナーガとユーフィも送り出したのですから」
言いながら、白い指をエノシラの手に添えた。
「ユーフィの事……教えて下さいますか?」
「…………」
「行ったのでしょう? シンリィが生まれたあの朝に」