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「それで、私、集落に戻ったんです」
関の小屋でカンテラのオレンジに照らされながら、フウリは一息着いた。
「ツバクロ様に風露の谷の運命を聞かされて、自分にとって何が本当に大切か気付いたんです」
「そう……」
ナーガもカンテラに照らされながら、静かに言った。
「父には分かっていたんですよ。貴女を引き取って面倒を見る事は出来るけれど、それは逆に貴女の可能性を摘み取る事になると」
「はい」
集落を出て雑多なモノを経験したら、多分二胡造りには戻れなかったろう。
例え戻っても、自分にとって元の風露の谷ではなくなっている。
二胡造りの端くれになった今のフウリになら十分理解出来た。
ナーガの繰(く)る分厚い名簿の父の頁は、その日の日付で途切れていた。
それからすぐ後に、草原を災厄が襲ったのだ。
ナーガが今日風露の谷を訪れたのは、中途になっていた工事の再開の目処が立った事を、老師に報告する為だった。蒼の里も、漸く普請に人数を割ける余裕が出来たのだ。
「ナーガさまぁ!」
家に帰した筈のフウヤが、ツタを滑って飛び込んで来た。
「ね、竹トンボ、上手く飛ばないの。昼間の番人さんがナーガさまに聞いてみろって」
「フウヤ、もう寝る時間でしょう」
「だって、ナーガさま、明日はいないんだもん」
「貸してごらん」
ナーガは古い竹トンボを受け取って、カンテラの熱に当てながら少し角度を変えた。
「こういうの、父が一杯教えてくれたな。修練所へ上がる前の、本当に小さい頃」
カンテラの灯りの室内を、竹トンボが真上にゆっくり飛び、フウヤが歓声を上げる。
そういえば、自分の子供時代だって風露の子供達に負けず劣らず狭い世界だった。
雪山の凍った神殿で母と妹と。それで自分を不幸だと思った事なんてなかった。
ふ……と、風もないのに、竹トンボが横に流れて小屋の奥へ飛んだ。
「あ」
フウリが小さく声を上げた。羽根が止まって落ちた所は、細長い包みの上だった。
昼間はなかった物だ。
「お姉ちゃん、これ、さっき持って来た奴?」
フウヤが竹トンボを拾いながら包みに触れようとした。
「フウヤ! お休みの時間はとっくに過ぎてるわよ!」
「はあい」
爆発寸前の姉の気配を察して、フウヤはとっととツタを滑って退散して行った。
残った二人。
罰悪そうなフウリの横をすり抜けて、ナーガは惹かれるように包みに近付いた。
「これ?」
「あの、あの……」
フウリは迷いながら小さい声で言った。
「私が初めてちゃんと仕上げた製品を、ツバクロ様が真っ先に注文するよって仰(おっしゃ)って下さっていて…… それで今日、子息様がいらしたと聞いて、仕舞っていたのを引っ張り出したんです。でも……」
「開けていいですか?」
返事も待たずにナーガは結び目に手を掛けた。
フウリはオロオロと言い訳をする。
「久し振りによく見ると、未熟な品で。それに貴方は馬頭琴を注文されたというし、そちらの方が……」
モスリンの柔らかい包みの中から姿を現したのは、柄が長目で少しバランスが悪いけれど、美しい曲線の二胡だった。
手足の長い父の身体に合わせようと、試行錯誤したのかもしれない。
弦の調節棒に、黒地にオレンジで、風を表す螺鈿模様が施されている。
父のストールと同じ色……
ナーガは黙ってその二胡を凝視した。
「恥ずかしいです、あちこち手が足りなくて……」
「これ、譲って下さいますか?」
慌てる娘の声を遮って、ナーガは続けた。
「父の持ち物は皆、焼かねばなりませんでした。形見が何もないのです。これこそ、父の遺した、立派な、大切な、形見です」
フウリは何かが溢れるのを抑えるように、両手を口に当てた。
「勿論、対価はお払いします」
「対価はもう頂きました。あの夜に」
「二胡って弾いた事がないんです」
帰り際、梯子の手前でナーガが照れ臭そうに振り向いた。
「ていうか、音楽のたしなみが全くないのです」
「聞く心もたしなみの内です。ナーガ様は十分にお持ちです」
カンテラを掲げながらフウリは、はにかみながら言った。
「あの、私で宜しければ、お教えしましょうか?」
「えっ?!」
「お忙しいのなら難しいですが、私が番人の日になら」
「……是非ともにお願いします」
蒼の妖精の騎馬は青い月を背景に舞い上がった。
天空にて真摯な手で造られた楽器は、野に降り、真摯な音を地に広げる。
その音はヒトの手により音楽に紡がれ、やがて幾百の安らぎを生み出す。