―――ヒュ―――ィイイ―――
盛夏の緑萌え立つ三峰に、ヤンの指笛が谺(こだま)する。
「あっちだ!」
石弓を持った男達が、合図で知らされた方向へ走る。
逞しく盛り上がった体躯を持つ三峰の民は、下生え厳しい山中の急斜面を物ともしない。
四方から獲物を巻いて谷に追い詰めるのが、いつもの定石(セオリー)だ。
でも、最近はちょっと違う。
―――ビュン!―――
頭上高く風切り音がし、梢をしならせて、何かが飛ぶように移動する。
影だけが地上を走って行く。
「よし、いいぞ、フウヤ! 追い越せ!」
谷を渡って反対の山へ逃げようとする牡鹿の目前に、白い影が飛び降りた。
鹿はUターンはしない。大概、利き足側に直角に曲がる。
曲がった瞬間、待ち構えていたイフルートの弓が、鹿の急所を撃ち抜いた。
「凄い、また族長さんが一番矢だ!」
頬を上気させたフウヤが、イフルートに駆け寄った。
「フウヤ、まず、祈りだ」
「あ、はい」
男達は武器を下ろし、絶命させた鹿の前で、祝詞(のりと)を唱え頭を下げた。
三峰の者達は、獲物を集落へ運ぶ間、決して談笑したり自慢したりしない。
山から授かった命への礼儀だという。
「フウヤ、よくやったな」
石尾根で合流したヤンが小声で話し掛けた。
チビで細っこいフウヤが狩猟の役に立つとは誰も期待していなかった。
事実、山を走ると下生えに埋もれてあっという間に置いて行かれた。
「僕、高い所の木の枝を渡る方が得意なんだけどなあ」
「はは、まさか」
しかし、背の高い木にぶら下がって反動を付けて飛び渡って行くと、本当に早かった。
谷へ落っこちて行く形になるのにフウヤは怖がらず、獲物に向かって一直線に樹上を飛んで行けるのだ。
頭上から獲物を追い抜いて逃げ道を塞ぐのがフウヤの役割になった。
そして狩りの成功率がグンと上がった。
「今日は終いだ。早く帰れる。皆、家族の為に時間を使え」
イフルートが宣言をして、男達は和(なご)やかな顔になった。
狩りの成功率が上がったからって、三峰の民は獲物を余分に捕ったりはしない。
集落へ戻り、厄落としの祈りが終わって、やっと自由に喋れるようになった。
「ね、ヤン、イフルートの弓ったら凄いの。狙った所に吸い込まれるみたいに飛んで行くんだよ。まるで魔法!」
フウヤは狩猟に参加出来るのが嬉しくてしょうがないみたいだ。
どんな育ちをしたのかあまり語らないが、見る物聞く物何にでも感動して大騒ぎする。
「はいはいそうだな。それよりフウヤ、午後の時間どうする?」
ヤンが煮られた鹿の内蔵の碗を差し出しながら聞いた。
集落の歯の有る者全員の義務で、一口ずつ食す事で命を頂く業を分担する、という意味がある。
「勿論!」
フウヤはそれを素早くかき込んだ。
最初は苦手だったが、すっかり慣れたようだ。
「馬の練習をしよう! 僕、今日は東尾根を止まらず駆けられるようになるよ!」
連れ立って厩へ走る少年二人を、イフルートと側近の何人かが眺めていた。
「相変わらずだな、あの二人。そんなに乗馬は面白いかね?」
「養蚕の手伝いもきちんとやっているし、いいんじゃないか? 騎馬を上達するのは悪い事ではない」
「本当に出て行っちまうぞ」
「行きたくなったら行けばいいんだ」
イフルートも若い頃、外に出て何年も帰って来ない事があった。
だが黒の病がこの地を席巻した時、慌てて戻って来て、村を立て直すのに必死に尽力した。
どんな所にいても、故郷がある安らぎが自分を支えてくれているのだと気付いた時、彼は剣を弓に持ち代えて狩猟の民に戻った。
だから、若者はどんどん旅に出るべきだと思っているし、ちゃんと戻って来ると信じている。
「俺みたいに頭でっかちにならないで、遠くを見渡せる者になって欲しいな、あの二人には」
夕暮れ、二頭の騎馬が長い影を落として帰って来た。
フウヤはやたらニコニコしている。
「馬の世話は僕がやっとくから、早く届けて来な」
「うん、ヤン、ありがと!」
白い少年は泥の付いた布包みを大切に抱いて、厩を飛び出した。
家々には明かりが灯り、其処此処(そこここ)で機織りの音が響く。狩猟の民であると同時に、養蚕の民でもあるのだ。
フウヤの足元を目指したように、糸玉が転がってきた。集落に飼われるヤクの毛を紡いだ糸。
「また……」
玉から伸びる糸を辿って、静かな灯りの漏れる窓辺に行き着く。
「こんにちは」
糸玉を持って、そぉっと窓から覗いた。
「あっ!」
窓辺のベッドで、いつもは長い三つ編みの女性が静かに佇んでいるのだが、今日はその女性は身体を二つ折りに荒い息をしている。
「おばさん、どうしたの、大丈夫? おーい、誰かいませんか!」
フウヤが大声で呼んだが、家人は不在なようだ。
「もう!」
フウヤは窓を乗り越えた。
「どこが痛いの?」
背中をさすって声を掛けると、女性の息は穏やかになった。
「さすったら楽になる?」
女性が小刻みに頷くので、フウヤはひたすらさすり続けた。
「お前! ここで何をしている!」
怒鳴り声に飛び上がると、部屋の入り口に男性が仁王立ちしていた。太い眉がつり上がって見開かれた目は充血している。
「あ、あのあの、おばさん苦しそうだったから」
このヒトの家だったのか、近寄らなきゃよかった。狩りの時に見かけるヒトで、顔も怖いけれど声も大きくて、とにかく全部が怖かったのだ。
「苦しそう?」
男性はベッドにうずくまる女性に近付いた。
「また、胸か? 大丈夫か?」
「ええ……」
女性は目を閉じたまま細い声で答えた。
「もう治まったわ。カペラがずっと背中をさすってくれたの。優しい子……」
黙って唇を結ぶフウヤの肩に、男性が手を置いた。
「ああ、優しい子だな。まったく、また無理をして編み物などしているから」
女性の枕元には編みかけ毛糸の入ったカゴがある。
「だって、カペラのセーターが小さくなったから、ほどいて編み直そうと思って」
「そうだな、子供はすぐ大きくなる。さあもう寝なさい、おやすみ」
男性は木の椀に粉薬を溶いて、女性の頭を支えて飲ませた。
「おやすみなさい、あなた、おやすみ、カペラ」
フウヤは男性に肩を押さえられて、部屋を出た。
隣の玄関側にフウヤは初めて来たが、材料や工具が立て掛けられた広い工房になっていた。この男性は狩猟にも出るが、本業は職人らしい。
「あの……」
「ああ、あいつの世話を焼いてくれていたんだな。怒鳴ったりして悪かった」
「僕、カペラじゃない」
「分かっている」
男性は戸棚を開けて干した果物を取り出した。
「ヤンと食え」
「ありがと。ね、おばさん、病気なの?」
「お前は気に掛けなくともよい」
フウヤは不服そうに、「だって……」と俯(うつむ)いた。
「あいつに会うのは今日が初めてではないのか?」
「ここへ来た次の日に、窓から転がった糸玉を拾ってあげたの」
「そうか。最近はどの子供も見ない振りをしていたからな。お前もいちいち相手にしなくていいんだぞ」
それには答えず、フウヤは懐から泥の付いた包みを出した。
「何だ?」
「参(しん)。ヤンが教えてくれた」
包みの中は、太く曲がりくねった植物の根。
「あばさんにあげて。滋養にいい薬なんでしょ? さっき山で見付けたの」
男性は眉を下げて困った顔をした。
「有り難いが、しかし参は滅多に見付からない貴重品だ。ヤンの家で欲しがるのではないか?」
「山の恵みは一番必要な者の所にって、教わった」
フウヤは参を作業台に置いた。
「じゃあ、おじゃましました」
「同情はあまりよくないんだ。ああいう心の病には」
後ろ姿に言われて、フウヤは振り向いた。
「僕、お母さん二人いるの。僕を生んでくれたお母さん、育ててくれたお母さん。でも二人とも、僕を必要にしてくれなかった。だから、僕でも必要にしてくれる『お母さん』も居るんだって分かったら、凄く凄く嬉しかった」
「………」
「おばさん、お大事にっ」
出て行こうとした子供の肩を抑えて引き留め、男性は戸棚の上から何かの包みを取り出した。
「やる」
フウヤは目をパチパチして、突き出された小さな鞘付きナイフの丁寧な彫り模様と、男性の武骨な表情とを見比べる。
「お前の手に丁度いいだろう。どうした、受け取れ」
「……カペラの、なの?」
「まだあいつの誕生日ではなかった。だから誰の物でもない」
「受け取れない」
「道具は使ってくれる者の元にあって欲しい」
「・・・・」
フウヤは礼を言って両手でナイフを受け取り、丁寧に胸にしまった。
手を振りながら駆け去る子供を、男性は見えなくなるまで見送った。
馬の世話を終えたヤンが、帰り道の四辻(よつつじ)で、木桶を下げたまま空を仰いでいる。
「ただいま、ヤン、渡して来れたよ」
「そう、何かあった? 神妙な顔して」
「ううん、それより、何を見ていたの?」
駆け寄ったフウヤは、ヤンと同じ方向を見上げた。
暮れかかる空を数頭の騎馬が横切って行く。
少年は瞳に憧れをたたえて、遠くの茜雲に消えるまでそれを目で追っている。
「ヤン、草の馬が好きなの?」
彼はハッと振り向いた。
「草の馬っていうの? フウヤ、知っているの?」
「そんなに詳しくは知らない……」
「そうか。たまに見かけるんだ。いいよな、あんな高い所を飛べて」
「そんなにいいモンじゃないよ……」
フウヤは聞こえない声でボソッと言った。
「蒼の一族ってヒト達なんでしょ? 知り合いになれたら、あの馬、貸してくれるかなぁ」
並んで家を目指しながら、ヤンは楽しそうに話を続けた。
「草の馬は蒼の妖精じゃなきゃ飛ばせられないよ。あのヒト達小さい時から『飛行術』ってのを習ってて、何年もかかってやっと免許皆伝なんだって。その他にも色々掟が厳しいらしいし」
「やっぱり詳しいじゃないか、フウヤ」
フウヤは慌てて口をつぐんだ。
「フウヤが元いた土地では交流があったの?」
「どうだったかな。この辺では交流は無いんでしょ?」
この話題を早く終わらせたいフウヤだったが、ヤンは思いがけない事を言った。
「ううん、僕が小さい時、一度だけ蒼の妖精が来たよ。母さんが言うには、僕の命の恩人なんだって」
「えっ?」
「知ってるだろ? 黒い病が蔓延した時、病に対抗する知識を教えに、この辺りを回ってくれた蒼の妖精の話」
フウヤはあまり知らない。風露の谷には、病その物がやって来なかったのだ。
「僕の弟達も亡くなって、母さんはピリピリして、毎日泣いて、たまに怒ってまた泣いて、亡霊みたいにガリガリに痩せて……あ―― あんまり思い出したくない」
「あのヒトも……」
「そんな時、一人の蒼の妖精が来てくれたんだ。風を通して日光を受け、水を沸かして不浄を遠ざけてって、そのヒトに教わった通りにやったら、病気が広がる勢いが弱まった。だから僕は生き残れたんだって」
ヤンはもう一度、空飛ぶ騎馬が飛び去った彼方を見つめた。
「カッコよかったよ、チラリとしか見ていないけれど。目の覚めるような翡翠色の羽根が、太陽に当たってキラキラしてた」