風に吹かれて、花開いたばかりの桜の花びらが散っていく。そんな刹那の美しさの風景を、共に見るはずだった友人の事を思い浮かべながら、雲一つない青空を見上げる。
結局、あの夜別れて以来、ミュアには会えていない。卒業式にも出てこず、後で聞いたら、一身上の都合により学校をやめることになったとシスター達から聞かされた。
「アヴァンシアさんのことは、もう忘れなさい。彼女は私たちとは別の世界に身を置く人間です」
なに、それ。別の世界って、なによそれ。
(……あたしのせい、なの?)
あたしがあの夜、ミュアを連れて学校になんて行かなければ──
自分の心情とは反対に、空が晴れ渡っているのが余計に悲しくなった。後悔しても、もう遅いけれども。
「……あら? シャノンちゃん?」
うつむき加減で石畳の橋を渡っていたら、声をかけられた。向こう側で微笑みを浮かべる中年の女性に、シャノンは見覚えがあった。
「あ……おばさま」
ミュアの母親だ。ということは、ここはミュアの家?
焼きたてのパンの美味しそうな匂いが、ふわりと漂ってくる。
「いま帰り? あら、でもお家ここらへんじゃないはずじゃ……?」
「あ、その……」
返答に困っていると、空気を読んでくれたのか、空腹を知らせる音が盛大に鳴った。いつもなら羞恥心でいっぱいになるところだが、今日ばかりは感謝した。
「き、急にミュアんとこのパンが食べたくなって!」
「まあ、そうだったの。ありがとう。シャノンちゃんにそう言ってもらえて。あの子も喜ぶわ」
ミュア・アヴァンシアの家はパン屋さんだ。順調にいけば、もしかしたら二代目になっていたかもしれない。
「ちょうど良かったわ。これからひと休みするところだったの。シャノンちゃん、良かったら上がっていって?」
「そ、それじゃあ、お言葉に甘えて……」
そして、若葉を思わせる緑色で塗装された『ベーカリー・サマンサ』の扉をくぐった。扉が閉まると、ドアに取り付けられた小型の鐘がカランコロンと馴染み深い音を立てた。
昼過ぎということもあり、店内に並べられたパンは、ほとんど売り切れ状態だった。
レジ横を通り過ぎて、家の奥に入っていく。リビングルームに着くと、座るように促された。
「いま、お茶を入れてくるから、くつろいでて」
「あ、はい」
ソファーに腰かけると、寝息を立てている先客に小さく声を掛け、背中を撫でる。
「久しぶり、サマンサ」
ピクリと耳を動かすと、瞼を開けて目をぱちくりさせた。ガラス玉みたいな真ん丸の青い瞳でシャノンを見上げて、抗議するように「にゃあ」と鳴き声を発する。
「ああ、ごめん! 起こしちゃって」
体を起こすと、首に下げられた金のチェーンと「s」がふたつ並んだ文字プレートがきらりと光る。お昼寝を邪魔されたサマンサは、ふいと顔をシャノンから逸らしてソファーを降りた。窓辺に移動して、レースのカーテンの向こうで再び背中を丸める。寝直すようだ。
「あちゃ~。ほんとサマンサは、ミュアにしか懐かないよね」
呆れ半分にぼやくと、ティーセットとパンをワゴンに載せてやってきたおばさまに笑われるのだった。
「見た目は天使なのに」
シャノンが言った天使というのは、比喩表現ではない。サマンサの背中には、確かに翼が生えていた。翼と言っても、その正体は皮膚の病気を患って出来た腫瘍のようなものだが。UMAとして語られる翼猫の正体なんて、病気や怪我の影響で奇形になったただの猫なのだ。
「そうね。あの子は本当にミュアが好きなのよ。ミュアも、あの子のことが大好きだった……」
教団にあの子だけでも連れていってもらったら良かったかもしれないと、少し表情を暗くさせて言った。
「『黒の教団』に……ですか?」
「ええ。さ、いただきましょ」
「は、はい。いただきます」
そういえば、ミュアの親父さんの姿を見ていないことに気付いた。まだ厨房にいるのだろうか。
「そういえば、おじさまはまだお仕事ですか?」
キョロキョロとリビングルームを見回すと、トーンダウンした声が答えた。
「……いま、少し寝込んでるの。やっぱり、少し落ち込んでいるみたいで……お医者様は過労だっておっしゃっているけれど……」
「え……」
「あの人ったら、やけになってパン作りまくっちゃって……ねえシャノンちゃん、お願いがあるのだけど」
クロワッサンを千切る手を止めたシャノンに、ミュアの母親は請うた。
「ミュアのことは、もう忘れて欲しいの」
「……え?」
「黒の教団の……室長を名乗る方から、電話が来てね。言われたの。『教団に所属することになった以上、例え家族であっても接触することは許されない』って──
それって、もうあの子のことは死んだか、もともといなかったように扱えってことでしょう?
……私たち、思い出すのが辛いの」
目の前の人は、もう帰ってこない娘を想って涙ぐんでいた。
──ごめんなさい、突然こんなこと言って……
そう謝られたが、シャノンは責める気にはならなかった。血のつながった家族なのに、旅立つ子を待つことすら許されないなんて……そんなの、あんまりじゃないか。
目を伏せたシャノン。もう会うことは出来ない──悲しみに打ち震える二人の姿を、いつのまに起きていたのか、サマンサがじっと見つめていた。
そこに駆け寄ってきたのは、艶やかな毛並みの黒猫。首から下がる鈴が特徴的だ。窓辺で佇む白い猫に向かって「にゃあ」とひと鳴きする。その鳴き声は、『時間よ。行きましょう』という台詞であった。
答える代わりに、サマンサは音もなくひとりでに開いた窓から、外に飛び出していき、黒猫の後を追う。裏路地にサマンサが入っていくと、長い黒髪を一つに束ねた女性が立っていた。額には、
「さ、ゲートに入りなさい。江戸で主人がお待ちよ。あなたも会うのはずいぶん久しぶりでしょう?」
「……彼は創造主であって、わたくしの主人ではないわ。わたくしの主人は、飽くまでも彼女──ミュア様だけよ」
流暢な人語を介するサマンサ。その口調は、高貴な貴婦人を思わせた。
「ミュア・アヴァンシアか。主人は何故、あんな娘を気にかけるのか……」
「あら、嫉妬? ルル=ベル」
ふふ、と笑い声を漏らすサマンサ。ルル=ベルは鋭い眼差しを向けた。
「旦那様が決められたことよ。ミュア様に手を出したら、いくらノアでも許さないでしょうね」
そう言って強気にルル=ベルを睨み返した。
サマンサ・シルヴァは、彼女と出会った日の事を昨日のことのように覚えている。彼に創り出されたはいいものの、彼のお眼鏡にかなう少女に出会うのは、本当に長かった。しかも、その途中で14番目との殺し合いに巻き込まれ、離れ離れになってしまうし。下手したら今でもあのまま見世物小屋に居たかもしれない。
そんな自分を救ってくれたのも、やはりミュア・アヴァンシアだったのだが。
「だけど旦那様も、やっぱり人間よね。娘を欲しがるなんて」
それが、血がつながっていない赤の他人だとしても。
「……主人が決めた事なら、私は従うわ」
「あらそう。それなら良かったわ。でもね、エクソシストになったミュア様は──今や七千年の答えよ」
七千年の答え。果たして、それが意味するものとは。
「……急ぎましょ。ミュア・アヴァンシアはモスクワでアクマと交戦中。元帥を追って彼女も日本に向かっている」
「ああ、そうなの。それならわたくしはミュア様の所へ行くわ。そうすれば、自ずと旦那様がいらっしゃる江戸に着くもの」
「……まあいいわ。そう伝えておく」
「ありがとう。頼んだわ」
その先にあったのは、わずかに発光する不思議な石板のようなもの。それを『ゲート』と呼んだルル=ベルは、パズルピースのようなその奇妙なゲートに、足を踏み入れる。サマンサもそれに倣って、臆することなく飛び込んだ。
「方舟に乗るのも久々ね」
背中に煌めく銀翼を羽ばたかせながら──
†
現在、実家がそんなお通夜みたいな空気であることを知らないミュアはというと──
「ぶぇっくしょん!」
上空3000メートルで、乙女らしからぬ豪快なくしゃみをしていた。これには千年の恋も冷めること間違いない。
しかし悪いのは彼女ではなく環境だった。
「さ、寒ーい……」
高度三千メートル。おまけに極寒のロシアの空の上。12時間以上飛び続け、未だにイノセンスの発動を継続させている。身体はとうに冷え切っており、疲労も相まってこのままでは風邪をひいてしまいかねない。
(もうじき日も沈む。今日はもう下りて、どこかの宿で休もう。お腹も空いたし)
そう考えて、高度を下げていく。
雲を突き抜けてしばらくすると、夜の帳が下りてきているだけあって、街の灯りが見えてきた。かなりの大都市らしい。宿、空いてるといいなあ。
人目に付かないように路地に降り立ったのだが、子ども達に見つかってしまった。
「わ! 魔女!?」
「今ほうきで空飛んでたよねぇ!?」
「すっげえ!」
「あ、あはは。ね、君たち、この街にある宿の場所を教えてくれない?
お礼にチョコレートあげるから!」
チョコレートと聞いて、3人組の子ども達は目を輝かせると快く教えてくれた。
「モスクワはデケーから、宿もいっぱいあるぜ!」
「そこの角を曲がった先にもあるし、もう一本先の道にもあるよ~!」
「赤の広場の近くはオススメだよ! 大通りだし」
やんややんやと子ども達は我先にと言わんばかりに宿泊施設を挙げていく。
モスクワ。ここはモスクワなのか。これでもかなり飛ばしてきたのにな……日本まではまだまだ遠い。渡された資料を読みながら飛行するのは、やっぱり良くなかったか。
「う~ん、じゃあ、その赤の広場? とかいう所の宿まで案内してくれる?」
「いいよ~!」
三人の子ども達に囲まれて、石畳の道を歩いて行く。
「ねぇねぇ、魔女さんは何してるの?」
「え。えーとぉ……世界を守るために、悪い奴らと戦ってるの」
「正義の味方じゃん! すっげー!」
「悪い奴らってー?」
「うーん、そうだなぁ……「アタシみたいな奴の事かい? エクソシスト」……え」
曲がり角の先で待ち伏せていたのは、一人の貴婦人。だったが……
(こいつ……いま、エクソシストって──!)
「みんな、逃げて!」
先行ワンキルされるのは御免だ。道端に荷物を放り出すと同時に、イノセンスを発動させた。
「え、でも!」
「アイツが……悪い奴らなの! さあ早く!」
蜘蛛の子を散らすように走り出した子ども達を庇うべく道に立ちはだかり、アクマの行く手を阻む。
すると、頭部を覆うボンネットを投げ捨てた婦人。その下から現れたのは、大量の蛇。髪の毛の代わりにそれが頭皮から生えて、蠢いていたのだ。もうそのまんまメデューサ。
「うっ──!」
無理! 生理的に無理! もうすでにビジュアルからしてレッドカードだ。
……でもまだギリギリセーフかもしれない。あの蛇が分裂して襲って来たらと思うと、想像しただけで鳥肌が立つ。
と思っていたら、蛇たちの両眼が赤く光った。
「!」
咄嗟に箒を逆さに持ち替えて、穂先を上にし地面に柄頭を突き立てる。
「
空中から集まってきた光が金色に輝き、ドームを形作った。箒の柄は茎となり、蕾から花が開いていくが如く防御壁を展開させてミュアを包み込む。直後に、蛇の瞳から一斉にビームが発射された。
間一髪防いだものの、バリアに弾かれたビームは乱反射して壁や地面に着弾する。ビームが当たった箇所はみるみるうちに石化していった。
「ビームに被弾したものを石に変える能力……どこまでメデューサなんだか」
防御形態を解くと、金色の花は花びらを散らせて光の粒子と消えていく。すぐ反撃に回れるように箒を前方に構えた。あれがおそらく、資料に書かれていたレベル2なのだろう。
固有の能力を有し、自我を与えられたアクマ。それがレベル2。
「黒い箒のイノセンスを持ったエクソシストぉ……お前だねぇ。ミュア・アヴァンシアってのは」
「!?」
(どうして)
「私のこと、知ってるの?」
「もちろんさぁ……この界隈じゃあ、すっかり有名人よぉ」
この界隈て。
「ぜひ伯爵さまにお会いさせて差し上げたいわァ……ああああああああ! でもおおおお!」
身体をくねらせていたかと思えば、突然、頭を掻きむしりながら狂気に満ちた叫び声を上げるアクマ。何こいつメンヘラかよ怖っ。てか絵面的にB級ホラー映画なんだけど。
「殺したい……殺したい殺したい殺したい殺したいィィィ!!!」
夥しい数の蛇に埋没しながらも隙間から覗く眼球が、ギョロリとこちらを向いた。
「殺 さ せ て ?」
──その瞬間、身体が硬直する。
(金縛り……!?)
石にされたみたいだ。実際に石化はされていないのに、動けない。焦りと恐怖がミュアの中で増大していく。
この蛇女のダークマターの能力は、石化ではなく魔眼だったのだ。
自らの考えが甘かった事に後悔する。蛇女は、頭部の蛇と同様に牙を向いて舌をチロチロ出しながら歩いてくる。金縛りのせいでヒッという声すら出ない。
絶体絶命のピンチ。だが、アクマとミュアの間に飛び込んできた影があった。
「シャアァァァ!!」
「な、なんだ!?」
翼を広げて全身の毛を逆立てる、そのペルシャ猫は……
「サマンサ!? って、あれ?」
ガクッと膝から崩れ落ちかけたのを、箒を杖代わりにして踏ん張る。
「金縛りが解けてる?」
「しまった!」
突如として現れた乱入者に気を取られた蛇女は、ミュアから視線を外してしまい、魔眼の拘束が解除されてしまったのだ。
もう一度金縛りをかけ直そうとしたのを、そうはさせるかと言わんばかりにサマンサが蛇女に飛びついて顔面を容赦なく引っ搔く。
「があああ!」
最大の武器である魔眼を潰された蛇女のアクマは、断末魔の声を上げた。そこに畳み掛けるように、青く発光する鎖が手足に巻き付いた。空間そのものに縫い付けるように縛り付けられる。
「
かーらーのー……
──
平面に浮かび上がるのは複雑な幾何学模様を描く魔法円。放たれたレーザー光線は、アクマを飲み込んで塵ひとつ残さず消滅させた。戦闘終了である。
「哀れなアクマに魂の救済をするために、僕と契約してそのふざけた幻想を月に代わってお仕置きよ!」
「ネタが大渋滞しているわ……」
「さぁ、お前の罪を数えろぉ! ──って、今ツッコんだの誰?」
「にゃあ~?」
ミュアが首を傾げるのを真似て、サマンサもまた頭を斜めに傾けるのだった。来たる日まで知らぬ存ぜぬを通すべく。